穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

歴史

斬奸状見物録

今日も大気が濡れている。 こう、来る日も来る日も湿度が高いと段々やりきれなくなってくる。水っ気が脳味噌にまで浸潤し、頭蓋の中で白っぽくふやけてしまった心地がするのだ。 夜半、耳を聾する風の音で寝入りが妨げられたこともあり、どうにも集中力が低…

検疫小話 ―最後の長崎奉行の記憶―

前回、前々回と検疫について触れてきた。 折角だからもう少しだけ、この話を広げてみたい。 安政年間のコレラ大流行を目の当たりにして、よほど肝を冷やしたのだろう。わが国に於ける検疫の歴史――海外から来航する船舶への防疫措置に関しては、実のところ明…

尾崎行雄遭難記・後編 ―前代未聞の入国景色―

尾崎行雄がロンドンから本国の知人に向けて書き送った手紙の中に、次のような一節がある。 拝啓光陰人を待たず、無遠慮にサッサッと馳せ行き候は驚入申候。小生東京を放遂せられ尋て欧米漫遊の途に上れるも、既に一年の旧夢と相成候、夜深人定まるの後ち静か…

尾崎行雄遭難記・前編 ―痘瘡・チフス・大嵐―

『尾崎行雄全集 第三巻』を入手した。 目下、これに収められているところの『欧米漫遊記』を読み進めているのだが、これがまた活劇のように面白い。 なにせ、初っ端から咢堂の船が沈むのだ。 順を追って話すとしよう。 平素の言動――東京を火の海にする、とい…

続・明治鉄道物語 ―鉄路を支えた木について―

日本に鉄道ブームが起きたのは、明治の中ごろに於いてであった。 撮ったり乗ったりする方ではない。敷設事業が、流行りに流行りまくったのだ。 その嚆矢は、日本鉄道会社が務めた。東京と青森を鉄道で繋ぐ――世にもきらびやかな大目標をぶちあげて、明治十四…

ポーツマス条約うらばなし

ロシアからウィッテが来ると聞いたとき。合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは知己である金子堅太郎に向かって、 「日本からは伊藤博文を出すべきだ」 と忠告したとのことである。 幾度となく内閣総理大臣を務め上げ、現在でもなお枢密院議長という立場に納…

日本の暗号、5000フラン

日本の機密はよく漏れる。まるで老朽化した水道管さながらのダダ漏れぶりだ。中でも暗号に至っては、まるで破られるために存在しているような向きすらあろう。 大東亜戦争でも、ワシントン会議でも、日露戦争の時点に於いてもそうだった。一握りの高官しか知…

安政の大獄前夜譚 ―腥風―

その日(・・・)に先立ち、堀田正睦以下幕府側の面々は乾坤一擲の大勝負に出た。 もはや通常のやり口では条約勅許の一件を引き出すことは不可能と断じ、思い切って極論をぶつことにしたのだ。 具体的には、ここで条約を拒否しようものならたちまち戦争、国…

安政の大獄前夜譚 ―九条関白の変節―

結果から先に言ってしまえば、堀田正睦は敗北する。 必死の周旋もとうとう実を結ばずに、林大学頭と同様、空手で京を去らねばならない破目になる。 しかしながらそこに至るまでの道筋は、決して平坦なものでなく、紆余曲折、起伏重畳せしものだった。 ある時…

安政の大獄前夜譚 ―京の魔窟化―

幕府が如何に上方を軽視しきっていたかについては、勅許もまだ得ていないのに、いそいそと条約調印の日取りを決めてしまっていたという、この一事からでもよくわかる。 彼らにしてみれば、それは規定事項以外のなにものでもなかったのだ。 ――長袖者流ふぜい…

安政の大獄前夜譚 ―安政か、「闇政」か―

タウンゼント・ハリスがアメリカ合衆国を代表し、江戸城本丸表向の大広間で徳川家定と対面したのは安政四年十月二十一日のことである。 それに先立ち、幕府要路の人々は、この一件が内(・)に齎す衝撃度合いを考慮して、なんとかそれを最低限に押し止めんと…

安政の大獄前夜譚 ―アロー戦争が日米修好通商条約に与えた影響―

黒船来航から安政の大獄に至るまで、歴史の経過を指でなぞるようにたどってゆくと、つい直弼への同情心が押さえ難く湧いてくる。なるほどこれは、弾圧したくもなるわけだ、と。 それほどまでに京都に巣食う公卿衆と、彼らを使嗾し、煽動した志士どもは、無遠…

実験動物物語 ―ウサギ、梅毒、狂犬病―

梅毒の研究には、主にウサギが充てられた。 むろん、実験動物としてである。それもただ病原体を射ち込んだだけではうまく感染しないから、態々睾丸に注射する。 想像するだに血の気の引くような話だが、それでもまだ狂犬病の実験に使われるよりかはマシだろ…

迷信百科 ―祈祷と疫病―

わが 大八洲(おおやしま)に天然痘が入って来たのは、未だ物部だの蘇我だのが権力闘争に明け暮れていた飛鳥時代。仏教の伝来と、ほぼ重なるとされている。 この病を罹患した人間の苦しみというのは筆にも舌にも尽くし難い、一種惨烈なものがある。人が、生…

膵臓小話

胃の裏側に横たわるカズノコみたような形の臓器を、杉田玄白以下蘭学者たちはまず初め、「大機里爾(だいキリール)」と銘打った。 機里爾とは、すなわちKlier。オランダ語で「腺」を意味する言葉である。 この器官の主要目的がアルカリ性消化液の分泌と、血…

映画浄化十字軍 ―ヘイズ・コード成立奇譚―

自由の国とは言い条、アメリカでは時として、とんでもなく馬鹿げた規制が罷り通るものらしい。 悪名高き禁酒法のあの時代、大激動に見舞われたのは独り酒精関連でなく、映画業界も同様だった。「映画浄化十字軍」なる大仰な名前の運動が、ローマ・カトリック…

現人神スチンネス ―「Das walte Hugo」―

知れば知るほど、こんな人間が現実に存在し得るのか、と、驚きを通り越して呆れが募る。 Hugo Stinnes。 一連のアルファベットの日本語表記は、スチンネスだのスティルネルだの、はたまたシュティネスだのいろいろあって、煩雑なことこの上ない。差し当たり…

家康公と東郷元帥・後編 ―猛火を防いだ物惜しみ癖―

吝嗇――物惜しみする心の強さも、東郷は家康に劣らなかった。 たとえば菓子や果物の類を贈られたとする。受け取った東郷、箱を捨てないのはもちろんのこと、その箱を覆っていた包み紙や、あまつリボンの一本までをも、破らないよう注意深く取り外し、皴をのば…

家康公と東郷元帥・前編 ―不自由を常と思へば不足なし―

反応に困る光景だった。 当家――海江田邸に長年仕えるお抱え車夫の松吉が、眉間のしわ(・・)も深々と、ひどくむっつりした表情で、水を飲むでも物を喰うでもないくせに台所に蟠踞して、周囲の空気を沈ませているのだ。 発見者は異様な感に打たれたが、かと…

東郷元帥と烈女たち ―乃木静子と東郷益子―

東郷平八郎が乃木希典を第三軍司令部に訪問したのは、明治三十七年十二月十九日のことだった。 このとき、旅順要塞は未だ陥落していない。 が、港湾内のロシア艦隊。こちらの方はほぼほぼ海の藻屑と化しきって、長く続いた攻囲戦にもどうやら一定の目処は立…

ロシア人の侮日感情 ―「日本人を皆殺しにせよ」―

開戦前の当地に於ける侮日感情の激しさときたら、そりゃもう箸にも棒にもかからない、度を逸しきったものだった。 ロシア人たちは体格の有利を笠に着て「極東の猿」を嘲笑い、 「あのような矮躯から、どうして十分な気力体力が絞り出せるか」「コサック騎兵…

裏側から見た日露戦争 ―ドイツ通信員の記録より―

帝政ドイツの通信員、マックス・ベールマンは呆然とした表情で、ハルピンの街頭に突っ立っていた。これは真(まこと)に、戦時下に於ける光景か。 市内は到る処遊戯歓楽に耽り、二ヶ所の劇場は孰れも喜劇を演じて居り、舞踏場は孰れも醜業婦に充たされ、倶楽…

ロシアンセーブル物語 ―シベリア開発を支えた毛皮―

黒貂(くろてん)こそは、実にシベリアを象徴する野生獣でなければならない。 ロシア人の東進にかける熱情は、屡々「本能の域」と評された。「不可避的傾向」とみずから告白したこともある。なるほど僅か100年前後の短期間中にウラル以東の無限に等しいあの…

鎖と笞の土地 ―シベリア鉄道建設哀史―

シベリア鉄道着工当初。―― ユーラシア大陸を東西にぶちぬくと言っても過言ではない、この人類史的大事業を遂げるにあたってロシア政府は、囚人の使用を最低限にとどめるべく努力した。それよりも、なるたけヨーロッパロシアに犇(ひし)めいている労働者を動…

近江商人とユダヤ人

どことなく、近江商人に似ているように思われた。 遡ること一世紀半前、夢を抱いてアメリカに渡ったユダヤ人たちの姿が、である。 新大陸にたどり着いたこの人々がいの一番にやることは、およそ相場が決まっていた。 先着の同民族からわずかばかりの資本を借…

不遇をかこつ日本人 ―ボルネオと満洲の事例から―

西ボルネオの港町、ポンティアナックが未だオランダの統治下にあった頃のこと。やがては赤道直下の諸都市群中、最大規模に膨れ上がるインドネシアのこの街も、第二次世界大戦以前に於いては人口せいぜい三万程度の一植民地に過ぎなかった。 (ポンティアナッ…

鮎川義介、危機一髪 ―日比谷焼打ち事件の火の粉―

歴史を揺るがす大事件に、なにかと際会しがちな人物だ。 鮎川義介のことである。 日比谷が焼けた現場にも、この人はいた。最前列で見物していた。 ポーツマス条約の内容が報道されてからこっち、 ――こんな馬鹿な条件があるか、屈辱もまた甚だしい。 ――十万の…

エピキュリアンなみやこびとたち ―石田幸太郎の観察―

もし仮に、時の法則を誤魔化して、百年前の日本人を現代(いま)に連れてこられたとして。 東京の街並みを見せたところで、これがかつての江戸であると合点し得る人物は、おそらく一人も居はすまい。 それほどまでにこの関東平野の新興都市は変化しすぎた。…

露鷲英獅の具体例 ―房総半島狼藉の顛末―

対外姿勢の軟弱を倒幕の重大な口実として成立した明治政府は、しかしその初期に於いて明らかに、旧幕府よりも外圧に対して弱腰だった。 その理由の詮索は、ひとまず措こう。 眺めたいのは具体的な例である。大は堺事件から、小はこんなものまである。「露鷲…

「桜田門外の変」始末 ―井伊直弼、死なせてもらえず―

封建の時代、貴人はたとえ死んだとしても、容易に死に(・・)切らせて(・・・・)はもらえない。 処世上の便宜のために、公式にはなお生きているものとして扱われる事例が屡々あるのだ。もっとも顕著な例としては、太閤秀吉が該当しよう。 慶長三年八月十…