穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

赤い国へと、血は流れ


 日本人が死亡した。


 遠い異境の地に於いて、政変に巻き込まれた所為だ。


 政変とは、すなわちロシア二月革命ペトログラードで流された血に、大和民族の赤色も、いくらか混じっていたわけだ。

 

 

Patrol of the February revolution

Wikipediaより、二月革命

 


 その死に様は陰鬱に彩られている。彼は駐在武官でも、大使館の職員にもあらずして、全然一個の商売人の身であった。


 純然たる民間人にも拘らず、居てはならない空間に、あってはならない一刹那、身を置いてしまったばっかりに、頭を砕かれ、むごったらしい屍を晒す破目になってしまった。


 不運としかいいようがない、その男の名は牧瀬豊彦


 現地に於ける高田商会の主任であった。

 

 

Takata shokai

Wikipediaより、高田商会本店)

 


 この件につき、東京日日新聞ペトログラード特派員、布施勝治記者報じて曰く、

 


「革命は三月八日に始まり十六日に終る、其間軍隊及市民の死傷僅に二千人内外に過ぎず誠に手軽き革命と可申候、唯其中に一人の邦人(高田商会員牧瀬豊彦氏)あり、ダムダム弾の一撃に頭蓋を打砕かれ無残の最期を遂げしは遺憾千万の事に候

 


 わずか・・・と。


 わずか・・・とのたまうか。


 二千人の犠牲者を「わずか」と一蹴し去るのか。


 現代ならば大炎上に値する、致命的な失言だ。マスメディアの生命倫理が疑われるに違いない。布施のために弁護するなら、彼の神経系統は、折から続く欧州大戦の惨禍によってだいぶ麻痺していたのであろう。大量殺戮の報告に、あまり多く触れ過ぎたのだ。そうであって欲しいと願う。

 

 

 


 日本人の目の玉は、存外多いものである。


『時事新報』も、当時の露都に通信員を置いていた。播磨楢吉そう・・である。彼の呈した報道は、もう少し解像度が高い。

 


「十二日朝私の宿所の周囲に当って唯事ならぬ銃声と騒動が頻りに聞えた、私は取るものも取敢えず外に飛び出した、私の宿の直ぐ前は兵営である、街上に出て見ると多数の軍隊が鬨の声を揚げて空中に向って頻りに発砲してゐる、市民は手を揮って軍隊を迎へる、何事ぞと問へば軍隊が反旗を翻して上官を惨殺し労働者に呼応したのだといふ…(中略)…正午過ぎ工廠の硝子窓を狙って発射した者があるが丁度此時期商用の為めに同廠に来て士官と話してゐた高田商会代理人牧瀬豊彦氏は何事ならんと窓から外を覗いた、露国将校も同じく覗いた、叛軍では露国将校の顔を狙って発射したが誤って其弾は牧瀬氏の頭部を打砕いた、牧瀬氏は眼もあてられない無惨な最期を遂げた

 


 銃弾は貫く相手を選ばない。


 弾道は国旗に忖度してくれぬ。


 物理法則――冷たい方程式だけが、唯一彼らを支配する。


 要するに牧瀬豊彦は、とばっちりを喰い死んだ。

 

 

 


「こんな馬鹿な話があるか」


 と、遺族は叫んで許される。


 実際問題、どうなのだろう、この一件に関連し、日本政府は何かしら抗議を行ったのであろうか?


 まあ、よしんば激怒しようとも、革命直後の混沌とせるロシアの政治事情では、いったい何処に苦情の尻を持ち込んだらいいのやら、責任者は誰なのか、とんと見当がつかなかったやも知れないが。


「革命ほど悲壮なものはあるまい、赤い革命旗そのものが既に残忍を現はしてゐる、或る警部は革命党の為めに火炙りにされた、そして革命党員は其警部の妻子を引摺り出して其亭主たり父たる人が無惨にも火炙りにされる面前にひき据ゑて悶死する有様を見せつけたといふ、又某将官は革命軍から先づ手足を切断されて嬲殺しにされたといふことである、野性蛮風も極まれりといふべしだ」――播磨楢吉に俟つまでもなく、革命など、起きぬに越したことはない。

 

 

 

 

 

 

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ