穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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北清役夜話


 類焼の危険は常にある。


 大陸に戦雲みなぎれば、その影響は間髪入れず島国日本に波及せずにはいられない。


 アヘン戦争がいい例だ。あれで日本の知識層らは外夷のおそるべきを知り、危機意識を過剰なまでに膨れあがらせ爆裂させて半狂乱の態をなし、ところ構わず騒ぎまくった挙句の果てが幕末の動乱に繋がった。

 

 

会津若松城

 


 弧を描くように隣接している地理的事情のしからしむるところであって、もはや必然、宿命の観すら伴うと、そう説く手合いも多かろう。


 ――北清事変が突発すると、ほどなくして広島宇品の港には、身体のどこかに穴が開いたり、あるいはいっそ砲撃で手なり脚なりを吹き飛ばされた紅毛碧眼の兵士らが、続々陸揚げされだした。


 同一陣営――八ヵ国連合に肩を並べる仲ゆえに。


「扶清滅洋」を掛け声に、国際法もヘチマもあったもんじゃなく、官民問わず手当たり次第、盲滅法な排外テロに余念のない義和団と、彼らの騒ぎに促がされ、落花狼藉なんでもありのボーナスタイムを満喫すべく立ち上がった暴民ら。


 この連中に水をぶっかけ、騒ぎを鎮静させるため、諸国は手を組むことにした。


 どうせ目的は一致している、力を合わすに如くはない、楽に終わるなら願ったり――。


 なんと麗しい国際協調の姿であろう。そして雄々しくも誕生したのだ、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・オーストリア・イタリア・日本の計八ヵ国から構成される、近代国家の連合が。

 

 

Troops of the Eight nations alliance 1900

Wikipediaより、八ヵ国連合)

 


 そのの中では列国同士、作戦の円滑な遂行を期し、さまざまな融通を利かせ合ったとされている。ことに我らが大日本帝国に至っては、負傷した他国の兵隊の、治療・援助をも買って出ていたわけだった。


 およそ新参者らしい気負い込みだといっていい。


 広島予備病院が、もっぱら受け入れ先だった。


 芳賀栄次郎なぞもまた、この時期当該施設にて、てんてこ舞いの多忙さで立ち働いたひとりであった。


 左様、芳賀栄次郎。


 会津藩士の血を引く医師だ。

 

 

福島市街)

 


 幼少期、藩が戊辰の役に焼け、ために生じた名状し難い混乱により、一家離散の憂き目に遭った「悲愴の人」でありながら、そこから身を立て、努力して、ついには東大医学科を最優等で卒業するなど、数多偉功を重ね続けた鬼のような秀才である。


 伝説がある。


 仰々しいこの語句が少しも不釣り合いでないほどに、英気凛々、颯爽とした芳賀栄次郎の面影を伝える逸聞が。


 雑誌『太陽』最初の主筆坪谷善四郎が記録者である。


 明治三十四年の書、『北清観戦記』にソレは掲載されている。


 以下抜粋を試みる。

 


…清国公使館附ヴィタール氏の如きは、夫人と娘と附添ひ来りて看護するなど戦中には珍しき負傷者にて、天津の戦争中銃丸を其胸部に受け、日本に来りしときは内部に弾丸を留め、傷口は既に癒えたる後にて、我が軍医は其弾丸を抜き取らんと欲するも、彼は最初日本人の技倆を疑ひ容易に応ぜず、時に芳賀医学博士は断じて五分時間に抜き取るべしと保證しゝかば、彼も初めて意動き、之に応じしに、実際は僅かに四分時間にて抜き取り、疵口をも洗浄して手術を終りたれば、彼は頗る満足し、爾後口を極めて芳賀博士の技術を賞讃し、具に其情を本国大統領に報告し、又凡そ同国軍隊中の傷病者は盡く日本に委托し、夫人等と共に十二分の満足を以て平癒の後に天津に帰りたり。

 


 胸部に埋まった弾丸を、ものの四分、二四〇秒以内にて摘出し去る――。


 職人技だ。それも相当、極まっている。ブラック・ジャックはここに居たかと、膝を叩いて驚嘆せずにはいられない。

 

 

Haga Eijiro

Wikipediaより、芳賀栄次郎)

 


「日本人なぞに俺の身体を任せられるか」


 と、人種的偏見を剥き出しにしていた白人が、オペの前後でまったく人変わりしたようになり、


「フランス兵で負傷したのは是非々々日本で診てもらえ」


 一八〇度主張を変える部分を含め、どうにもそういう・・・・感が増す。


「凡そ同国軍隊中の傷病者は盡く日本に委托し」――ヴィタール氏のこの判断に添う如く、やがて広島予備病院にはベトナム人の傷兵までもがやってくるに至っては、いよいよ噺のようである。


 フランス領インドシナといって、あの辺は当時、ごっそり植民地化されていた。

 

 

Map of French Indochina expansion

Wikipediaより、フランス領インドシナ

 


 本国の繁栄を図るため、原住民に過酷な苦役が強いられたのは言うまでもない。


 夢に見たこともないような異境の戦地をわけもわからず引き回されて、弾に当たって死にかけるのも、そうした「苦役」の一環だったようである。


 以下、再度、坪谷善四郎の筆を借りると、

 


…憫むべきは属国の兵なり、仏国の負傷兵中に一の安南土人なる、黒人あり、我が予備病院にては何れも仏国の兵士なる故、他の兵士と同様に待遇するに、彼の士官は之を制止し、彼れは優待するに及ばずと云ふて之を拒み、其待遇は全く牛馬と同一にして氏名さへ無く、番号を附けて之を呼ぶなり、其兵はまた言語全く不通にて、仏語も解せず、支那語も解せざる故、到着の当初は取扱に最も困難を感じしも、慣るゝに従ひ手真似にて応対し、僅かに意思を通ずるに至れり。

 


 これこそ本場・本式の差別の味であったろう。


 あまりに純度が高すぎる。濃厚好きの関東者の舌さえも、ひとたまりもなく攣りそうだ。この光景に居合わせた日本人の全員が、前途の多難を予感して、心ひそかに戦慄したに違いない。


 19世紀の圧倒的な現実が、そこに横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

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