穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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満洲移民五十万 ―第二次日露戦への備え―


 児玉源太郎の訓示を見つけた。


 あるいはその草稿か。


 満洲鉄道会社創立委員長として、同社の使命――大袈裟に言えばレゾンデートルとは何か、杭でも叩き込むような力強さで定義づけたものである。


 蓋し味わう価値がある。

 

 

Gentaro Kodama 2

Wikipediaより、児玉源太郎

 


日露の戦争は満洲の一戦によって了局すべきに非ず、第二の戦は果して何れの時に来るか、勝算未だ立たずんば自重して時を待つべく、仮令再戦して勝を得ざるも、猶前後の余地を留むべく、」

 


 のっけからして凄まじい。


 冒頭部分だけでもう、陸軍がロシアの復讐を――第二次日露戦争を、どれほど差し迫った危機として捉え、恐れていたかが窺える。


 原田指月だけではなかったのだ。


 あの陸軍尉官が大正二年、『遺恨十年 日露未来戦』で明かした通り、帝政ロシアは捲土重来の野心に燃えて極東軍の増強を年々着々進め続けた。時至らばまるで堰を切るように、満鮮一帯を兵馬の濁流で押し流すべく、集積に余念がなかったのである。


 実際問題、欧州情勢があのように――バルカンの火薬庫が天をも焦がす大爆発を来さなければ、代わりに極東の大地に於いていくさの火の手が上がっただろう。


 そうならずに済んだのは、日本にとって幸運だったか、不運だったか。


 際どいところだ、容易に判定つけかねる。

 

 

(亡命後のヴィルヘルム二世)

 


 児玉訓示の続きを追うと、

 


「要するに我が満洲に於て常に主を以て客を制し、佚を以て労を待つの地歩を占めざるべからず」

 


 以佚待労――孫子からの引用が見える。


 明治大帝も愛読なされた春秋時代兵法書


 ああ、やはり。やはり児玉も学んでいたか。


 そりゃあそうだ。鴨緑江渡河作戦が成功するなり、直ちにイギリス東インド会社の事績調査に奔走しだした、あれほどマメな人物が、紐解いてないわけがない。


 最古にして最高とも謳われる、あの戦争の手引書を――。

 


「その然るを得る所以の計は、
  第一 鉄道の経営
  第二 炭坑開発
  第三 移民
  第四 牧畜諸業の施設
 にして就中移民を以てその要務と為さざるべからず。今鉄道の経営に依り十年を出でざるに五十万の国民を満洲に移入することを得ば露国倔強なりと雖、慢に我と戦端を啓くことを得ず、和戦緩急の制令は居然として我手中に落ちん

 

 

Mantetsu Honsha

Wikipediaより、南満州鉄道本社)

 


 平和というのは――少なくとも「屈辱」の二文字を伴わない平和というのは――互いが互いの首筋に、ひたひたと白刃を添えている状態でこそ成立するのだ。


 とある海軍少将は、これを「抜かぬ太刀の功名」と呼んだ。「日本刀は容易に抜くべきものではない。抜くべき時は、それこそ最後の時だ。本来なら抜かず仕舞にせねばならぬ。使はずして使った以上の効果を現はさねばならぬ。之を日本では昔から『抜かぬ太刀の功名』といって居る。一国の軍備も全く之と同じだ」と。


 橋亭主人「軍備はむろん装飾である、但し美術的に於いてでなく、威力的に於いて装飾である」も発想の軸は同一だろう。


 多門二郎「軍人こそ平和論者の第一人者なるべし」とて、あるいは含めて良いやもしれず、――要するに当時の軍人に珍しからぬ思考であった。


 児玉の狙いも煎じ詰めればこの一点に尽きている。


 軍事力の均衡こそが平和を生むと、そう信じていたようだった。

 

 

 


 もちろん水面下では絶えず睨み合いが継続するが、なあに、どうせ人間世界など、最善の状態に置かれていてもあまり喜ばしいものではないのだ。人類皆兄弟、神話の代から兄弟間で殺し合いをやっている。どこの歴史も血塗れだ。人間をあまり買いかぶり、過度に理想化した場合、大抵地獄の門が開く。「殺したいけど、殺ればこっちも破滅する。だから実行に移せない」。このあたりで妥協して、満足するのが吉だろう。

 


「今若し第二満洲戦の軍備二十億を要すとせんに戦期緩締年間の我満洲経営費をして之が利息に準ぜしめば、平和維持の費も亦廉なりと言ふべし」

 


 もちろん上に掲げた四つの施策を実現するには、大蔵省の役人どもがこぞって発狂するような、途方もない予算を要すに違いない。


 が、第二次日露戦争が起きてしまった場合の出費は、それに幾層倍するか、見当もつかぬ域である。


 それを防げると思えば安いものだと、児玉はそのような論を用いる。


 そろばん勘定の心配までやってくれる軍人は、素敵に頼もしいものだ。


 しかし児玉は満鉄の誕生――明治三十九年十一月二十六日を待たずして、同年七月二十三日、脳溢血で急に現世を離れてしまった。


 彼がぶちあげた雄大な構想――満洲移民五十万」は十年どころか二十年経っても実現されず。昭和五年段階でさえ、あのあたりに住んでいた日本人の合計は二十万を超えるか超えないかに過ぎなかった。


 更に打ち割って覗いてみれば、その二十万人も過半数が満鉄社員とその家族、ないし官庁の吏員らで、残ったぶんも大地に根を下ろさない商工業者がほとんどを占め、肝心要の農業移民に至っては、総体のほんの三分でしかない、なんともお寒い有り様だった。

 

 

満洲移民村の主婦)

 


 満洲移民が五十万を超えるのは、昭和十年、満洲国をでっちあげて以後であり。


 満鉄設立からほぼ三十年目のことだった。

 

 

 

 

 


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