奥平謙輔が実権者として佐渡ヶ島に乗り込んだのは、明治元年十一月のことだった。
翌年八月には職を
だがしかし、と言うべきか。斯く短期にも拘らず、佐渡ヶ島が負わされた傷痕たるや重大で、まこと瞠若に値する、戦慄すべきものがある。
折から高まりつつあった廃仏の
後年『東京日日新聞』所属の記者が該地を訪れ、物したルポルタージュに曰く、
「…佐渡国は元来仏寺の多き地なりしが、維新のころ奥平謙輔が権判事たる時、堂塔は無用の長物にして到底人民の厄介ものなりとて、由緒不分明なる分は悉皆取潰し、釣鐘をはじめ仏具の銅器類は残らず天保銭に鋳替しにぞ」
云々と、その惨禍の一端を、朧気ながら窺い知れるものである。
明治元年、佐渡ヶ島の領内に散在せし寺院の数は、実に五百三十九箇所にも上ったという。
それが廃仏毀釈を経た後は、八十箇所まで減少していた。五分の一以下である。激減といって差し支えはないだろう。全部が全部、奥平の仕業でないとはしても、その責任の大半は、やはり帰せられなければならない筈だ。
仰せ、あまりにむごすぎまする、どうかお慈悲を、お情けを――と、涙ながらに訴えかける坊主頭の行列へ、
「此廃合を違背し少しも苦情を説ものあらば
――国を根こそぎ建て替えんとする御一新の大業に際会しておきながら、実行者たる俺さまの、ひいては政府の意向に背く
――かかる不逞な坊主どもには天竺なり
こういう意味のセリフを浴びせたからには、もう、明らかに。
やがて奥平謙輔は前原一誠らと共に萩の乱を引き起こし、事破れて刑死する。
(Wikipediaより、奥平謙輔)
――それにつけても、鐘や仏具を無用なりと鋳潰して、有用有価な銅銭へと転生せしめた、この部分。
ひどい既視感に見舞われる。まるで大東亜戦争中期以後、金属回収令下に於ける情景が、七十年ほど早く来たかのようではないか。
鐘というのはまったくどうして、事あるごとに真っ先に、槍玉に挙げられてしまうのだろう。
日本に限った話ではない。第一次世界大戦中にもロシア人がやっている。ドイツに対する嫌がらせのため、貴重な資源を万が一にも渡さぬように、教会含めて公私を問わず自国内の施設へと、あらかじめ掠奪を行って、色々回収しておいたのだ。
(「回収」済みの鐘の数々)
嫌がらせというよりも、焦土作戦と見た方が相応しいのやもしれぬ。
「一般に、勝利をしめた敵が、戦争遂行のために役立てるかも知れぬと考えられるあらゆる兵器および軍需品を破壊することにかけては、ロシア軍は徹底的であった」
と、歯ぎしりの音が聞こえてきそうな述懐を自伝の中でやったのは、誰あろうパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥だった。
とても正気の沙汰ではないが、まあロシアではよくあることだ。
(大奈翁のありがたいお言葉)
空の鐘楼に吹く風は、さぞ冷たかったことだろう。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓