穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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治乱興亡、限りなし


 ギリシャは「勝ち組」のはずだった。


 第一次世界大戦で、彼らはちゃんとつくべき側についていた。連合国に属したのである。おかげで戦後のお楽しみ、パンケーキ領土カッテング分割にもあずかれた。オスマントルコを喰い荒らし、アナトリア沿岸に地歩を占め、諸々併せてメガリイデアの実現に、大きく資するはずだった。

 

 

ParisPeace-Venizelos-Map

Wikipediaより、講和会議でギリシャが主張した領土)

 


 ところが、である。


 英雄の崛起が彼らの理想ユメを、木っ端微塵に砕いてしまった。


 ムスタファ・ケマル・アタテュルク


 救国の軍人にして改革の旗手。維新志士に擬するなら、高杉晋作大久保利通を一身に兼ねたような者。九分九厘決定していた形勢を、彼がひっくり返してしまった。


トルコは大戦に敗れながらも、之に依って利益を得た唯一の国である。アラビア、シリア、メソポタミアオスマン帝国の厄介な荷物であったが、今は一切の荷物を振り落として純粋の民族国家を小アジアに樹てた」。――芦田均をして斯く言わしめた逆転劇の実現は、ムスタファ・ケマルの存在なくして到底不可能だったろう。

 

 

Atatürk Kemal

Wikipediaより、ムスタファ・ケマル

 


 まさに蓋世の傑物である。


 が、そうであるだけ、天国から地獄へと、いっぺんに叩き落とされた――いいようにやられたギリシャの側からしてみれば、これほど面憎い相手というのも他にない。


 彼らにとってムスタファ・ケマル・アタテュルクとは、もはや同じ人類種では有り得なかった。


 世界を混沌に陥れる目的で、悪魔がほとんど寝る間も惜しんで、丹精込めて拵えた、七頭十角みたような貪欲極まる怪物としか看做せなかったようである。


 これは決して、筆者の勝手な誇張ではない。


 当時のアテネの支配者からしそう・・なのだ。


 そのころ現にギリシャを歩いた邦人に、煙山専太郎の名があった。


 如何なるツテを用いたものか。早稲田大学で教鞭を執るこの人は、一九二三年一月半ば、滞在中のアテネにて、「黒騎士」ニコラオス・プラスティラスの寓居を訪ね、とっくりじっくり時事を語り合っている。

 

 

昭和初頭の早稲田大学

Wikipediaより、昭和初頭の早稲田大学

 


 煙山の紀行文、『再生の欧米を歩く』から当該部分を抜粋するに、

 


「プラスティラスは、眇たるアナトリア出征士官の一人である。一九二二年九月トルコ軍に追まくられてスミルナ対岸のヒオスの島に落ち延びたが、此無惨なる敗北を憤るの情に堪へず、こゝで陸海軍の同志を語らひ、政府の責任を問ふて革命の旗を掲げ、終にアテネを乗っ取った男である。(中略)一月の中旬、余はパレンシア街の端、シャン・ド・マルスの練兵場の側にある彼の居を訪うた。一時間にあまる会談はかなり多岐で、彼は最近の革命に付き、又政府の内外に於ける多難なる地位に付て説明を試みた後、文明の敵たるトルコを膺懲すべく日本の出兵を乞ひたいものだとまでも激言した」

 


 滾る憎しみ、憤怒の気焔が否が応でも読み取れる。


 それも致し方なしだろう。


 ムスタファ・ケマルにぶちのめされたツケとして、ギリシャ人らはあまりに多くを支払わされた。住民交換に名を借りた民族浄化もその一環だ。小アジアに居住していたギリシャ人らはすべからく身の置き所を失って、ギリシャ本土へ追放される憂き目に遭った。


 ここは我らの国である、余所者、えびす・・・、異端の徒輩、侵略者どもは出ていきやがれというわけだ。


 最終的にその数は、二百万にも上ったという。


「純粋の民族国家を小アジアに樹て」るため、削り取るべき贅肉だった。

 

 

イスタンブール、アヤ・ソフィア大聖堂を望む)

 


 ほうほうの態で逃げ帰ったギリシャとて、安息の地には程遠い。彼らすべての面倒をみてやるだけのリソースが、そもこの国には無かったのである。相当数の人々が、ごく順当に難民へと落ちぶれた。


 学校、教会、公園等々、尋常一様の設備のみでは収まりきらず。ギリシャの、否々、人類史に誇るべき、何千年もの歴史を有す古神殿の中にまで、難民キャンプが設営されていたという。

 


アテネでの余の日程の一つは、学校、博物館、図書館その他の公館をば、出来るだけ広く参観することであった。所が、折悪く議会を初め、殆んどすべての学校は亡命者を収容する為に提供され、大学及高等技芸学校もその校舎の少からぬ部分を敗兵に占められて居たし、更にチフス流行の兆は、政府をしてしばらく中等、初等の学校の休校を命ずるに至らしめたので、此目的の一半を遂ぐることが出来なかった」

 


 おかげで煙山先生も随分な不便を見たようだ。

 

 

Universität von Athen

Wikipediaより、アテネ大学)

 


「亡命者には、零了して乞食に身を落としたものも少なくない。街上に乞食の列をなしてるのには驚かされる。教会の前には勿論だが、レストランの前、ホテルの前にも、彼等がならんでる。日本の乞食よりも服装の遥に良いのは、會々彼等の俄か乞食たるを示すものである。
 敗戦に伴ふ国情の困難はさなきだに良くない人気を一層に悪くしたらしい。掏摸すりが多くなって来たし、白昼、強盗を働くものも少くない。新聞紙の中には、盗賊の跋扈するに至りしは街燈が暗いせいにも原因すると云ふて当局者に警告を与ふるもある。物価が日に日に騰貴する。肉類が欠乏して来る。食料の買ひ入れは、むつかしくなって来た

 


 治安の悪化、人心の荒廃、インフレの予兆、明るい見通し、毫もなし。


 そりゃあケマルを憎みたくもなるだろう。


 なにかを憎んで無理矢理にでも心の気圧を上げていなくば、とてもやっていられない、発狂必至の時勢であった。

 

 

 

 

 


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