馬鹿な模倣者もいたものだ。
大正五年十月十二日、神奈川県の東南部、藤沢町は若尾銀行前の踏切にて自殺があった。まだ若そうな兄ちゃんが、線路に飛び込み殺到してくる列車に轢かれ、鉄道往生一丁あがりと相成ったという
寸断された「部品」中、上半身の懐あたりを探ってみれば、お定まりの書き置きが。
開けばやっぱり遺書である。内容に曰く、
「死をもって最大の快楽とす、光なき死は吾人之を排すと雖も主義の為めに死するは余光ある者と認む、主義とは何ぞや、人生の不可解なり、
明治三十六年に華厳の滝に飛び込んだ、彼の一高生に憧れて──藤村操の模倣者であるのは疑いもない。
十五年近く経つというのに。「巌頭之感」は未だ不吉な引力を、憂鬱症な青年たちの魂魄に投射しているらしかった。

(華厳の滝)
この馬鹿の所為で予定の狂った乗客たちこそいい面の皮であったろう。
明治・大正の国文学者、池辺義象が朋友たちとかたらって奥日光に遊んだ際に、華厳の滝を仰ぎ見て、
──真にこれは壮快の美を極むるもの。わが国民の義を見て勇往邁進する性にかよはざらむや。何処の痴漢、この霊場を汚し、臭骸をさらすものゝ多き、憤らしき限りと云ふべし。
斯く腹立ちを禁じ得ざったと云うことも、蓋し必然、当たり前の人情だったに違いない。
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