家光は信仰の持ち主だった。
しかして彼の熱心は、アマテラスにもシャカにも向かず。
高天原の如何な神、十万億土のどんな仏にもいや増して、東照大権現・神君徳川家康をこそ対象としたものだった。
まあ、この三代将軍の、因って来たるところを見れば無理もない。
幼少期、将軍家の跡取りとして専ら期待されたのは、家光でなくむしろ弟の忠長だった。
忠長の才気、容貌は、まさに輝くばかりであって、彼の前では家光ごとき、泥人形かいいとこ案山子が精々な、なんの光も放たないうらぶれた石塊でしかない。
父も母も、ごく自然な人情として忠長にこそ我が家の後事を託したく、愛を注いで贔屓して、そういう雰囲気の家庭内にて家光は、いうなら体よく放置された状態だった。
その境遇をどんでん返しさながらに、一八〇度覆したのが家康である。
――長幼の序を誤るは家門の乱るる基。
神君の鶴の一声で長子相続制は確立された。
その「一声」を出さしむるため、舞台裏にて春日局の大苦労があったわけだが、それについてはここでは触れない。
家康という絶対者の決断に背けるものが、当時の日本に居るはずもなく。将軍の座が家光にこそ渡ること、これにて明白になったのだった。
家光の日常は、一変したといっていい。
昨日まで忠長の機嫌を取り結ぶべく汲々としていた諸将らは、掌を返すような素早さで、今度は家光の膝下に擦り寄り、叩頭し、うやうやしげに貢物を差し出す始末。
そのいやらしさに直面し、
(これはどうだ)
人間とはなんと現金ないきものだろう、いったい彼らに定見というものがあるのか、どうか、ただ大勢に順応してゆくだけの、浮草野郎ばかりかよ――と軽蔑の気を起こすほど、家光の性根はねじれていない。
(ひとたび祖父の威に打たれれば、世の中はなべて
ごくごく無邪気に、家康の力の巨大さを思い、それが自分の為にこそ揮われたことに感謝した。
この感情は時を追うに従って、いよいよ昂まり、純化され、ついに「崇拝」の領域にまで突き進み、よってもって一個の巨大な結晶体を形作るに至るのだ。
たとえば彼が将軍の座を継いで以後。家康と
「しばし待て」
家光はすかさず顔を引き締め、羽織袴の崩れを直し、両手を着いて頭からのめり込むような姿勢になって、
「さあ、申されよ。権現様はなんと仰せられし」
せっつくように、いや、現に、話の続きをせっついたと伝わっている(『徳川実紀』)。
彼はまったく「秀忠の子」というよりも、「家康の孫」という方にこそ、おのれ誇りの基盤を求めたものだった。
(旧江戸城・田安門。明治九年ごろ撮影)
壮年以降は夢に家康が
「権現様はこれこれこういう出で立ちでおいでなされた」
事細かに説明し、その通りの特徴の絵を描くよう命じたほどである。
探幽、少なくとも表面上は倦む気振りをまったく見せず、律義にこれに付き合った。
結果夥しい数の「東照大権現霊夢像」が作製されて、十幾点かが今もなお、現存しているとのことだ。
うち一枚たる白衣立膝の家康像の裏側を、そっとめくって覗いてみると、
「東照大権現御霊夢難有被思召、寛永十九暦十二月十七日、奉畫於尊容給而已九拝」
との文字列が見出され、必然的に四百年前、完成したてのこの絵の前で総身を小きざみに慄わせて、激しきった感情のまま何度も何度も伏し拝んでいる家光三十八歳が、余儀なく瞼に浮かんでしまう。
普通こういうのは人生の然るべきタイミングで、
――おれは何をやっているんだ。
と、俯瞰の視点が発生し、唐突に我に返るものだが、こと家光に限っては、その形跡が毫もない。
彼の信仰は最後の、最後の、最後まで、
なにせ死病に冒されて、息も絶え絶えの枕頭から自分の葬儀を指示して曰く、
「わが
こんな風であったというから、骨がらみというか、膏盲に入るというべきか、とにかく筋金入りだろう。
家光はその生涯で、日光東照宮に参詣すること、都合十度に及んだという。
これほど足繁く家康の霊に逢いに行った将軍は、後の十二代を総攬しても彼を除いて絶無であるといっていい。
ときに『武功雑記』には、家康が喋ったという訓戒として、
「凡そ人は一生の内三段のかはり目あり。大事の儀なり。先づ十七八歳の時は、友に従って悪しく変る事あり。三十歳の時分は物事に慢心して、老功の者をなんとも思はぬ心出るものなり。四十歳の時分には、物事退展し、述懐の心出でゝ悪しくなるものなり。此三度に変らぬものをよき人といふべし」
斯くの如きが載っている。
――売り家と唐様で書く三代目。
――親苦労、息子道楽、孫乞食。
川柳子が諷した通り、往々にして没落の切所となりがちで、その立ち位置を危ぶまれるのが三代目。だが徳川家は、実に「よき人」に恵まれた。
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