穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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栗本鋤雲を猜疑する ―彼の伝えたヨーロッパ―


 身を滅ぼすという点で、疑心暗鬼軽信も、危険度はそう変わらない。


 しかるに世上を眺めるに、前者を戒める向きは多いが、後者に対する予防というのは不足しがちな印象だ。「疑う」という行為自体に後ろめたさを感じる者も少なくないのではないか。ことによっては「疑って安全を保つより、信じて裏切られた方がいい」などという噴飯物の痴言が、なにか高尚な男気のように大手を振って罷り通っている始末。


 まったくもって冗談ではない。病弊もまた極まれりというものだ。敢えて病弊と言い切ろう。日本人という民族の、これは明らかな弱点である。それだからこそ福澤諭吉は、明治の時点でもう既に、

 


猜疑は人生に免かれざる性質のみか、人事多年の経験に於いて軽信の為めに誤るの事例も少なからざるが故に、人を見るにも僅かに一朝夕の挙動を抵当にして之を信ずる者はある可らず」

 


 いみじくも、こう、貴重な警句を放っておいてくれたのだろう。

 

 

フリーゲーム『眠り売りの』より)

 


 彼の名言多しといえど、この一条ほど筆者わたし個人の先天的な性格に合致したものは他にない。


 よく人物を見極めもせず、迂闊に他者を懐深くに招くべからず。すべて新奇な情報は、まず疑いの眼差しを浴びせておくのが、つまり私の習性だ。


 だからこれも信じなかった。


 慶應三年、西暦にして1867年のオランダに、日本の醤油が輸出され、市井一般の食卓にごくありふれていたなどと――。


 真に受けるには、ちょっと、あまりに、その、なんだ、出来過ぎた・・・・・話ではないか。


 鵜呑みにするなど愚の骨頂に思われる。報告者の名が、栗本鋤雲であろうと、だ。

 

 

Kurimoto Joun

Wikipediaより、栗本鋤雲)

 


荷蘭オランダ我に交る最も久し、故に我の産物大抵あらざるなし。食味に至りても亦然り、醤油の如き其国人皆是を嗜むを以て、凡そ酒肆肉舗必ず備て以て人の索に応ぜり

 


『暁窓追録』よりの抜粋である。


 慶應三年から四年にかけて、鋤雲はパリを中心に、欧州世界に身を置いている。


 その体験を基にして編まれた啓蒙書であった。


 お国自慢の捏造で悦に入れるほど下衆な性根の男でないから、十中八九、事実の誤認があったのだろう。大方、たとえば魚醤のように、類似品と間違えた。そんな呆気ないオチが、きっと待っているのであろう――。

 

 

Fish sauce factory, Phu Quoc

Wikipediaより、ベトナムの魚醤工場)

 


 が、いざ調べてみて驚いた。


 無知なのは私だったのである。


 醤油の輸出は、本当にあった。


 それも幕末、国が再び開けて以降、にわかに開始はじまった事業ではない。


 初回は実に1647年まで遡り得るというのであるから、よほど年季が入っている。日蘭貿易史上に於ける、蓋し華麗な伝統だった。


 喜望峰を経由する長大な旅程に堪えられるよう、特注の容器に充填し、熱処理して密閉するなど、実に念が入っていた。所謂コンプラ瓶である。そこまでして醤油を運んだ。理由はもちろん、手間に見合うだけの需要が醤油にあったからである。鋤雲の記述は、確かに真実に触れていた。なにもかも実に意外であった。

 

 

丸中醤油写真1

Wikipediaより、丸中醤油)

 


 オランダ絡みでもう一つ、『暁窓追録』には見逃せない情報がある。


 スエズ運河に纏わる話だ。


 くだんの地峡の開鑿は、知っての通りフランス資本主導のもとに営まれた事業だが、現場で実際汗水たらして働いている顔触れは、どいつもこいつもオランダ人のそれ・・であった由である。

 


スエズの塹鑿の如き土功の極めて盛なる者と云ふべし。汽車一日半の陸地を塹し、地中海の水をして西紅海に注ぎ、以て上陸換船の費を減し行貨運輸に便す実に驚く可きの大挙なり。是仏国商社の挙になる所なれども、其工役徒丁は総て荷蘭人を用へり。蓋し荷蘭の国たる土地汚下にして海面より低し、故に常に堤防を謹み溝涜を鑿開する事を力つとむ、故に国民最も畚鍤の業に慣る、他国の及ぶ可に非ず、故に仏人此役亦是を用ひたり」

 

 

 


 これまた実に面白い、しかしそれゆえ、なればこそ、眉に唾して聞く必要がありそうな、猜疑と興味が火花を散らしてせめぎ合う、そういう類のモノだった。

 

 

 

 

 


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