穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

ハミガキ、エンピツ、子規の歌

「歯の健康」。 蓋し聴き慣れたフレーズである。 口腔衛生用品なんぞの「売り文句」として日常的に耳にする。 あまりに身近であり過ぎて、逆に注視しにくかったが――どうもこいつは相当以上に年季の入ったモノらしい。 具体的には百五十年以上前。維新早々、…

無効票に和歌一首

黒白を 分けて緑りの 上柳赤き心を 持てよ喜右衛門 投票用紙に書かれた歌だ。 もちろん無効票である。 明治四十二年九月に長野県にて実行された補欠選挙の用紙には、とにかくこのテの悪戯が、引きも切らずに多かった。 (信州諏訪の風車。「これは地下のアン…

紀州伊都郡、柿の村

およそ七秒。 紀州伊都(いど)郡四郷(しごう)村の某(なにがし)が、柿の実一個を丸裸にする時間であった。 特殊な器具は用いない。ごくありふれた包丁一本のみを頼りに、十秒未満でくるくると、柿の皮を剥きあげる。 ひとえに神技といっていい。 人間の…

暑気払いの私的撰集

詩歌の蓄積が相当量に及びつつある。 ここらでまとめて放出したいが、なにぶん折からの猛暑であろう、見事に脳が茹だりはじめた。 頭蓋の中で創意が融ける音がする。 お蔭でロクな前口上も浮かばない。エエイまだるっこしい、こんなところで何時までも足止め…

あゝ満鉄

日高明義は満鉄社員だ。 実に筆まめな男でもある。 連日連夜、どれほど多忙な業務の中に在ろうとも、僅かな時間の隙間を見つけて日記に心象(こころ)を綴り続けた。 それは昭和十二年七月七日、盧溝橋に銃声木霊し、大陸全土が戦火の坩堝と化して以降も変わ…

ひいばあちゃんの知恵袋・後編

頭は冷えた。 再開しよう。 〇鋸屑(おがくず)を濡らして固く搾り、箱に入れて、伊勢海老をその中に埋め、暗いところにおくと、一週間くらゐは、生きたまま保たせることができます。新年など、かうしておくと重宝です。 冷蔵技術の未熟な時代の工夫であった…

軍人直話 ―「いこかウラジオ、かえろかロシア、ここが思案のインド洋」―

日露戦争の期間を通し、大阪毎日新聞はかなり特ダネに恵まれた。どうもそういう印象がある。 一頭地を抜く、と言うべきか。 例の手帳はもちろんのこと、海軍にその人ありと謳われた不世出の作戦家、秋山真之参謀相手にインタビューを試みて、 ――ここが思案の…

大目出鯛の戸沢どの

佐竹がやってくる以前、羽州北浦――田沢湖附近一帯を治めていたのは丸に輪貫九曜紋、戸沢の一族こそだった。 (Wikipediaより、丸に輪貫九曜紋) 石高、四万五千石。評判はいい。善政を敷いていたらしい。 百姓どもと領主の距離も近かった。戸沢の殿が田沢湖…

昭和のアルチュウ ―アルプス中毒患者ども―

狂歌(うた)がある。 あの息子 なんの因果か 山へ行き 昭和のはじめに編まれたらしい。 まるで先を争うように若者どもが山に押し寄せ、次から次へと木の下闇に呑み込まれ、さんざん平地を騒がせたあと変わり果てた姿で発見(みつ)かる。そういう事態が頻発…

勲を立てよ若駒よ ―軍馬補充五十年―

ドイツ、百十五万五千頭。 ロシア、百二十万一千頭。 イギリス、七十六万八千頭。 フランス、九十万頭。 イタリア、三十六万六千頭。 アメリカ、二十七万頭。 以上の数字は各国が、第一次世界大戦に於いて投入したる馬匹の数だ。 合わせてざっと四百六十六万…

山中暦日あり ―富士五湖今昔物語―

山中湖には鯉がいる。 そりゃもうわんさか棲んでいる。 自慢なのは数ばかりでない。 体格もいい。二貫三貫はザラである。どいつもこいつもでっぷり肥えて、下手をすると五貫に達するやつもいる。 「そりゃちょっと話に色を着けすぎだろう」 永田秀次郎が茶々…

つれづれ撰集 ―意識の靄を掃うため―

季節の変わり目の影響だろうか、鈍い頭痛が離れない。 ここ二・三日、意識の一部に靄がかかっているようだ。脳液が米研ぎ水にでも化(な)ったのかと疑いたくなる。わかり易く、不調であった。 思考を文章に編みなおすのが難しい。埒もないところで変に躓く…

名の由来 ―酒と銀杏―

先入観とはおそろしい。 ずっと名刀正宗が由来とばかり考えていた。 清酒の銘によくくっついてる「正宗」の二文字。アレのことを言っている。 (「櫻正宗」の醸造過程) ところが違った。違うことを、住江金之に教わった。 昭和五年版というから、ざっと九十…

清冽な大気を求めて ―一万二千フィートの空の舌触り―

山形県東村山郡作谷沢村の議会に於いて、男子二十五歳未満、女子二十歳未満の結婚をこれより断然禁止する旨、決定された。 昭和五年のことである。 (昭和初期の山形市街) ――はて、当時の地方自治体に、こんな強権あったのか? とも、 ――なんとまあ、無意味…

ゴム鞠たれ、潤滑油たれ ―三井の木鐸・有賀長文―

面接に於ける常套句と言われれば、大抵がまず「潤滑油」を思い出す。 あまりに多用されすぎて、大喜利のネタと化しているのもまま見受けられるほどである。 人と人との間を取り持ち、彼らの心を蕩かして個々の障壁を取り払い、渾然一体と成すことで、組織と…

伊藤博文、訣別の宴 ―「万死は夙昔の志」―

初代韓国統監職を拝命し、渡航を間近に控えたある日。 伊藤博文はその邸宅に家門一同を呼び集め、ささやかながら内々の宴を催した。 祝福のため、壮行のため――そんな景気のいい性質ではない。 ――二度と再び現世で見(まみ)えることはなかろう。 だから最後…

人間行路難 ―木戸孝允は死してなお―

起きてはならないことが起きてしまった。 死者の安息が破られたのだ。 墓荒らし――真っ当な神経の持ち主ならば誰もが顔をしかめるだろう、嫌悪すべきその所業。 それが明治十二年、京洛の地で起きてしまった。 場所も場所だが、「被害者」はもっと問題である…

明治毛髪奇妙譚・前編 ―アタマは時代を反映す―

大清帝国が黎明期、辮髪を恭順の証として総髪のままの漢人の首をぽんぽん落としていたように。 ピョートル大帝がひげに税を課してまで、この「野蛮時代の風習」を根絶しようとしたように。 あるいはいっそヒトラー式のちょび髭が、公衆に対する挑発として現…

不平の種、魂の熱 ―満ち足りることに屈するな―

こんなおとぎばなしが西洋にある。 どこぞの小さな国が舞台だ。王と王妃が登場するから、王制を採択していたのは疑いがない。夫婦仲は良好で、国民からも慕われていた。 が、なにもかも順風満帆であってくれては、それこそ物語として発展する余地がない。必…

庚申川柳私的撰集 ―「不祥の子」にさせぬべく―

「きのと うし」「ひのえ とら」「ひのと う」「つちのえ たつ」「つちのと み」――。 あるいは漢字で、あるいは仮名で。カレンダーの数字のそばに、小さく書かれた幾文字か。 古き時代の暦の名残り。十干十二支の組み合わせは、実に多くの迷信を生んだ。 (W…

正月惚けの治療薬 ―川柳渉猟私的撰集―

思考がどこか惚けている。 正月気分で緩んだネジが、未だに二つか三つほど、締まりきっていない感じだ。 しゃちほこばった文章は、角膜の上をつるつる滑って逃げてゆく。 こういう時には川柳がいい。 するりと脳に浸潤し、複雑な皴を無理なく伸ばす。そうい…

大正みやげもの綺譚 ―岡本一平、山陽を往く―

土産物にはその土地々々の特色が出る。 そりゃあそうだ、出ていなければいったいどうして、観光客の購買欲を掻き立てられる。財布の紐を緩ませるには、彼らの日々の生活範囲の域を外れた、そこならでは(・・・・)の尖った「なにか」が必要なのだ。 昔の早…

天皇陛下の御節倹 ―廃物利用の道はあり―

稚子にせよ、女官にせよ。 明治大帝の印象を、近侍した多くが「倹素」と答える。 無用の費えを厭わせ給い、自制の上にも自制を重ね、浮華に流るる軽々しさを毫もお見せになられなかったと。 (明治天皇御真影) 夏の暑さがどれほど過酷であろうとも、 冬の寒…

明治神宮参詣記 ―すめらみくによ永遠に―

明治神宮は鮎川義介の愛した社だ。 総面積七十万平方メートルにも及ぶ、広い広いこの境内を、焦らず、ゆっくり、朝の清澄な大気によって肺を満たしながらゆく。彼の一日はそのようにして幕開ける。昭和三十六年以降、ほとんど毎日繰り返されたことだった。 …

薩人詩歌私的撰集 ―飲んでしばらく寝るがよい―

鹿児島弁は複雑怪奇。薩摩に一歩入るなり、周囲を飛び交う言葉の意味がなんだかさっぱりわからなくなる。これは何も本州人のみならず、同じ九州圏内に属する者とて等しく味わう衝撃らしい。 京都帝国大学で文学博士の学位を授かり、地理にまつわる数多の著書…

ごった煮撰集 ―月の初めの「ネタ供養」―

金を散ずるは易く、金を用ゐるは難し。金を用ゐるは易く、人を用ゐるは難し。人を圧するは易く、人を服するは難し。 大町桂月の筆による。 短いながらも、登張竹風に「国文を経(たていと)とし漢文を緯(よこいと)として成ってゐる」と分析された、桂月一…

英霊への報恩を ―日露戦争四方山話―

胆は練れているはずだった。 間宮英宗は臨済宗の僧である。禅という、かつてこの国の武士の気骨を養う上で大功のあった道を踏み、三十路の半ばを過ぎた今ではもはや重心も定まりきって、浮世のどんな颶風に遭おうと決して折れも歪みもせずに直ぐさま平衡を取…

薩州豆腐怪奇譚 ―矢野龍渓の神秘趣味―

朝起きて、顔を洗い、身支度を済ませて戸外に出ると、前の通りのあちこちに豆腐の山が出来ていた。 何を言っているのか分からないと思うが、これが事実の全部だから仕方ない。江戸時代、薩摩藩の一隅で観測された現象だ。「東北地方地獄変」や「江戸時代の化…

鮎川義介の長寿法 ―建国の 礎となれ とこしへに―

誰もが永遠に憧れる。 (『東方虹龍洞』より) 不老不死は人類最高の夢の一つだ。「それにしても一日でも長く生きたい、そして最後の瞬間まで筆を執りたい」。下村海南の慨嘆はまったく正しい。生きれるものなら二百年でも三百年でも生きてみたい。かてて加…

春月ちぎれちぎれ ―流水・友情・独占欲―

「私は、水の恋人と云ってもいい位、水を眺めるのが好きな性癖があって、橋の上を通るときは、そこから下を流れる水を見下ろさずにはゐられないし、海岸に 彳(たたず)んで、いつまでもいつまでも、束の間の白い波線の閃きを眺めるのが、私は好きであった」…