日本の鉄道運行が時刻表に極めて忠実なることは、戦前すでに定評があった。
一九三〇年代半ばごろ、この島国を旅行したエドワード・ウェーバー・アレンというアメリカ人が書いている、
「日本の汽車は特色がある。
狭軌で、遅く、国有経営である。たまには臭いが一つだけ良い所がある。時間を厳守することだ。時計を汽車で合はすことが出来る程世界一正確である」
と。
むろん原文は英語だが、幸にして優れた日本語版がある。
翻訳者の名は山口晃二、昭和十七年『北太平洋の実相』というタイトルで洛陽の紙価を高めたものだ。お蔭でざっとこのような、
「日本の芸術には、人を惹きつける面白さと明朗さがある。その国の庭園は、繊細な配置の手本になっている。その固有の着物は、乙女たちを美しくし、人を惹きつけるのは周知のことだ。日本国民の生活に如何なる改善が為されようと、日本芸術の粋を毀してはならぬ」
「日本人より子供を可愛がる国民はゐない。父親は吾子が病気にでもなると非常に心配し、その生命を助けるためなら喜んで自分の命を捧げる」
「北日本で、私は、修学旅行の一団の生徒の予約があったために、前以て計画をたててゐた渡船に乗れないことがあった。翠巒に囲れた日光の美しい社には、何処か遠くから来た一隊の女学生が、壮麗な社を見学してゐた。鉄道、汽船、その他あらゆる便宜は、次代を担ふ日本の若人の実際教育に力を借さねばならぬことになってゐる」
「近代日本は、その多くの旧い習慣を棄てたが、国家に対する忠義心と、国家のために喜んで犠牲になるといふ観念は、すべての日本人の心の中に脈々と生きてゐる。
日本国民は、愛国心の強いことでは大いに推賞されるべきである」
所謂「外人の目を通して視た日本観」を、ごくごく手軽に堪能できるわけだった。
ところでこの紀行文、原題を『North Pacific』と称す。
加うるに『Japan, Siberia, Alaska, Canada』との副題がある。
掲げられた地名が示すそのままに、
まずシアトルを起点とし、
カナダ・アラスカ海岸沿いに舐めるような軌跡を描き、
ダッチハーバーからベーリング海に突入すると、
カムチャッカ半島に逢着するまで一路西進、
そこから更に進路を南に切り替えて、
千島列島を右手側に眺めつつ、
津軽海峡を横断し、
やがて小樽に入港するのが、ウェーバー・アレンの旅程であった。
ハワイ経由の一般的な太平洋航路とは、だいぶ趣を異にする。
本人はこれを「大廻航」と呼んでいた。「安全な海峡や入江や瀬戸に気を配って這入ったり出たり、または蜂がぶうんと輪を描いて飛び廻るにも似た北方の暴風雨と必死になって闘ひながら行く」、危険至極なバリエーションルートだと。
実際問題、同時代の日本人で、この
その点、例の三越専務、小田久太郎も変わらない。香港なりシンガポールなりを手始めに、ホノルル、サンフランシスコと向かっていったものであり、ただの単なるノーマルルートの旅行者だ。「大廻航」は旅行というより、冒険の気配を色濃く残す。
その紀行文は従って、他にちょっと類のない、玄妙な栄養素を含むのだ。
そもそも論をさせてもらえば、大抵の日本人観光客はロサンゼルスとサンフランシスコで遊んだっきり満足し、すぐ爪先を東へ向ける。
シアトルにまで寄ってく手合いは極めて少ない。
同じ太平洋岸の要港であるにも拘らず、なんという不遇であったろう。
(シアトル市街)
ましてアラスカともなると、これはほとんど絶無に近いといってよく。
そうした事情も本書の知識の貴重さに拍車をかけていただろう。実際問題、アレキサンダー諸島に於ける鮭密漁者の件なぞは、『アラスカ日記』にも『あらすか物語』にも影も形も見当たらぬ、本書ならではの記述であった。「どんな事業にも寄生虫といふものが附き易いものである」という、矯激な書き出しからそれは展開されている。
「鮭缶製造の眼目は『閉ぢ網』または『罠網』と言はれる網で捕った魚である。魚は捕ってからも工場が欲しいといふ迄は、網の中で泳ぎ廻ってゐる。つまりすぐ網から揚げて古くしてしまはない為である」
保存技術の未発達、工場自体の処理能力の幼稚さゆえの、已むを得ざる措置だろう。
網の中、鮮度のために生かされている魚群こそ、盗賊どもの垂涎の獲物に相違なかった。
「一個の罠網を作って据えつけ設備すると毎年五千弗もかかる。場所はアラスカに居住してゐる者でなくてはいけないことになって居り、缶詰工場へ概算額で売却される。その位置の選択は注意深く何年も先を見越して決められる。であるから、自分の罠網を設備して仕事するより、安い小舟で他の者から魚を盗む方が費用が少くて済み且容易なわけである。法律はアラスカではまだまだ行き届かぬので、魚泥棒が結構流行ってゐるわけである」
ついここまで書きそびれたが、エドワード・アレンは弁護士が本業な人物である。
漁業法を専門とする。
第二次世界大戦後には北太平洋漁業国際委員会の委員長にまでなった。
「罠網には夫々一人(たまには二人)の見張人がついて居り、直接罠の上か、それとも近くの岸辺に小屋を建てゝ住んでゐる。
この見張人は、網を護り、魚を盗む者を見張り、海草や其の他の邪魔物を取り除き欲しい時に魚を揚げるのを手伝ふものとされてゐる」
それだけに、こういう話題はお手の物といっていい。
内容にも信を措いて可であろう。
「鮭海賊の方法には数種ある。
一番簡単なのは(もし罠網の見張人が甘い奴なら)買収することである。酒が手に入り難い禁止機関には、ブリティッシュコロンビアから密輸入したウイスキーが特に効目がある。買収された見張人は、適当に眠るか陸へ上るか、或は何処かへ行ってしまふ。もし仕事をしてゐる時に運悪く所有者のボートがやって来たら言訳をし説明をする。たまには、魚泥棒は巧く買収しても、見張人が初心だと見ると、下手に変心して裏切られては困るから、一緒に側に居らせ何処へも行かせないやうにして悠々と掠奪する」
「北緯五十三度線より以北には、神の掟も、人間の法も通じない」――。
キップリングの箴言だ。
二十世紀に突入してから三十年を経てもなお、合衆国の北辺は統制届かぬ
……なお、言わでものことだが、筆者がアラスカという地理的範囲に興味をもった発端は、XBox360でプレイした、『Fallout3』のDLC、「オペレーション・アンカレッジ」こそに在る。
ゲームが秘める感化力というヤツは、つくづく以って馬鹿にならない。
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