断章
文人どもの嘗て吐露せし感情中に、視力に関する憂いなんぞを発見すると正味ゾッとさせられる。 他人事ではないからだ。 眼球を過剰なまでに使うのは趣味が読書である以上、私自身避けようのない宿命である。 だから怖い。下手なホラーの何百倍もおそろしい。…
本気で理解(わか)っていないのか、全部知ってて素っ惚(とぼ)けてやがるのか。 ちょっと判断に困る事例だ。 ホテル、マンション、アパートが「404」号室を忌み、欠番扱いとするように。 一九二〇年代、フランスの一部列車には「69」を座席番号に使用(つ…
呪者がいた。 呪者がいた。 大英帝国、首都ロンドン。霧の都の一隅に、日本の偉大な文豪を──夏目漱石を怨んで呪う者がいた。 (世にも恐ろしい祟り神) 呪者はイギリス人である。 名前はイザベラ・ストロング(Isabella Strong) 。 テムズ川の流れの洗うチ…
風邪が流行っている。 ――じゃによって、マスクをつけろつけろと言っても、若い女性は見目への配慮が先行し、我々の忠告に無視を決め込む。 まったく沙汰の限りだ、と。 帝都の保健に責任を持つ、とある内務官僚が、しきりとこぼしていたものだ。 彼の名前は…
慶應義塾は頻繁に「初物食い」をやっている。 先鞭をつけるに堪能である印象だ。 鉄棒、シーソー、ブランコ等を設置して、以って学生の体育に資するべく、奨励したのも慶應義塾がいのいち(・・・・)だった。 明治四年の事である。 これからの時代、およそ…
戦争が如何に理性を麻痺せしめ、精神の均衡を失わしめる禍事か。それを示す最も顕著な現象として、交戦相手の国語に至るまでをも憎む──「敵性言語」認定からの言葉狩りが挙げられる。 (Wikipediaより、「キング」改め「富士」) 人類が犯し得る中で、最低レ…
ルドルフ・オイケン。 ドイツ人。 哲学者にしてノーベル文学賞の受賞者。 第一次世界大戦の突発さえ無かったならば、この碩学は一九一四年八月下旬に日本を訪(おとな)う予定であった。 (Wikipediaより、ルドルフ・オイケン) 経路(ルート)は専ら陸路を…
前回掲げた『へゝのゝもへじ』を読み込んで、幾つか気付いたことがある。 本書は初版本である。通弊として、誤字脱字がまあ多い。 そのいちいちに、前所有者は細かく訂正を入れている。 (誤字) (脱字) (逆植) ここまでならば単に几帳面な性格だなとい…
ほんの十秒視線を切った、もうそれだけで姿が見えなくなっている。 子供とは危なっかしさの塊だ。斯くいう筆者(わたし)自身とて、幼少期にはまた随分と親に迷惑を掛けている。迷子になったり突飛なことを口走ったり、危うく保護者の心臓が停止(とま)りか…
「赤と黄とのだんだん染、それも極く大きな柄に染められてゐる、そんな衣裳をつけた人間が、あとへあとへ出て来てそれが列になって、どんどんどんと皆同じ方角から来て皆同じ方角の方へ通りすぎる。それが見てゐるといつまでも尽きない。百人ももっと以上も…
人を見る。 じっと見る。 大阪梅田の駅頭で、あるいは街の活動写真の入り口で。手持ち無沙汰にたたずみながら、しかしその実、行き交う人のつらつきを油断なく観察している奴がいた。 「こうしていると、ここでその日いちにちに、いくらぐらいの実入りがある…
「政治は金なり」。 犬養毅の信念である。 あるいは政治哲学か。 ひとり犬養のみならず、大政治家と呼び称される人々は、揃いも揃ってこう(・・)だった。皆一様に金の真価を認識し、使い方がすこぶる上手い。金に使われるのではなくして、金を支配し、金を…
新時代の開闢に旧世界の残滓など、しょせん野暮でしかないだろう。 可能な限り速やかに視野の外へと追っ払うに如くはない。ましてやそれがカネになるなら尚更だ。 (飛騨高山レトロミュージアムにて撮影) ――維新回天、王政復古、文明開化に際会し、当時の日…
戦争の長期化に従って「心の余裕」を加速度的になくしていった国民は、一にベルギー人だろう。 なんといっても「教皇」にすら噛みついている。 第一次世界大戦期間中、ベルギー人の手や口は、屡々当時のローマ教皇・ベネディクトゥス15世批難のために旋回し…
悠々たるかな大襟度、鷹揚迫らざるをモットーとする大英帝国様々々も、いよいよ以ってケツに火が着いてきたらしい。 ある日、こんな誘い文句が新聞を通して発表された。より一層の志願兵を得るために、壮年男子――本人ではなく(・・・・)、彼らの背後(バッ…
「平安・繁栄・名誉・進歩の実現せられる時代を吾々に与へやうとして父祖は己を犠牲にしたのである。吾々は父祖を裏切ることはできない。父祖が吾々の為に遺した生命と偉業との精神を維持することを吾々は父祖の為に努めねばならぬ。換言すれば民族的精神・…
国家とマグロの生態は微妙なところで通い合う。どちらも前進を止(よ)せば死ぬ。 「足るを知るの教は一個人の私に適すべき場合もあらんかなれども、国としては千萬年も満足の日あるべからず、多慾多情ますます足るを知らずして一心不乱に前進するこそ立国の…
未来は過去の瓦礫の上に築かれる。 「時間」の支配は残酷にして絶対だ。「時間」は決して永久不変を許さない。時の流れはこの現世(うつしよ)に籍を置く、あらゆるすべてを侵食し、変化を強いるものである。 斯かる一連の作用を指して、「時間」なるものの…
三日で三万五千樽。 明治二十二年の二月、憲法発布の嘉日に際し、帝都東京市民らが消費した酒の量だった。 (Wikipediaより、憲法発布略図) 数はほとほと雄弁である。明治人らが如何に浮かれ騒いだか、口を大きくおっぴろげ、つばき(・・・)を飛ばし、め…
米こそ五穀の王である。 その専制は絶対で、他の穀物が如何に徒党を組もうとも、崩すことは叶うまい。 少なくとも、日本に於いては確実に。 「日本という国は藁が本当にいろいろのものに使われている。頭のてっぺんから足の先まで藁で包まれ、家の中まで藁に…
息子(せがれ)を殴り倒すのに、いちいち理由は話さない。 いついつだとて「コラ」か「馬鹿ッ」。啖呵と共に鉄拳が飛ぶ。家庭人としての漱石は、どうもそういう一面を、ある種悪鬼的相貌を備えつけていたらしい。 次男の夏目伸六が、かつて語ったところであ…
東京湾にサメが出た。 単騎にあらず、二頭も、である。 時あたかも明治二十一年五月半ばのことだった。 (Wikipediaより、ホオジロザメ) かなり珍しい事態だが、まんざら有り得なくもない。確か平成十七年にも、五メートル弱のホオジロザメが川崎あたりに漂…
時期的に台風が濃厚である。 明治二十四年九月四日、朝鮮半島仁川港は暴風雨に襲われた。 たまたま彼の地に日本人の影がある。韓国政府の招聘を受け、当港にて海関幇弁をやっていた青年・平生釟三郎だ。 (Wikipediaより、平生釟三郎) 川崎造船所のダラー・…
乱獲による海洋生物個体数の減少は、戦前既に問題視され、水産業者一同はこれが対策に大いに悩み、頭脳を酷使したものだ。 物事の基本は「生かさず殺さず」。根こそぎ奪えば、いっときの痛快と引き替えに、次の収穫は期待できない。いわゆる「越えてはならな…
コナン・ドイルとシャーロック・ホームズがいい例だ。 作家にとって「描きたいもの」と、彼に対して世間が「求めているもの」と、両者は屡々喰い違う。そこに悲劇の種子(タネ)がある。 竹久夢二も、どうやらそっちの類に属す表現者であるらしい。 (Wikipe…
妄想癖を生みやすいのは、一に病弱な人間だ。 ただ天井のシミばかりを友として床に入って居らねばならないやるせなさ。活動する世間から切り離された疎外感。とろとろとした時間の中で、人は次第に己が心に潜り込み、その深淵の暗がりに、娑婆では到底望まれ…
やっと涼しくなってきた。 十月も一週間を経てやっと。 これでも未だ平年並みには程遠い、だいぶ高温傾向なのであろうが、それでも体感はずいぶんマシだ。 暑いと駄目だ、モチベーションまで溶けちまう。何もやる気が起こらない。 盛夏に於けるアスファルト…
古賀残星の性癖に「女教師好き」がある。 幼少時代の実体験から育まれたモノらしい。 「私達の小学校の頃は紫紺の袴をはいた女教師を見て来たのであるが、その時代は非常にロマンチックな色彩があり、教育にも人間味があった。殊に女学校出身の女教師には美…
改めて思う。 小村寿太郎はうまくやったと。 ヨーロッパの火薬庫に松明がえいやと投げ込まれ、轟然爆裂、世界を延焼(もや)す大戦争が開幕したあの当時。 (Wikipediaより、サラエボ事件) 各国大使の舐めた辛酸、一朝にして敵地のど真ん中と化した窮境から…
浦島よ與謝の海辺を見に帰り空しからざる箱開き来よ 哀れ知る故郷人(ふるさとびと)を頼むなり志有る我背子の為め 新しき人の中より選ばれて君いや先きに叫ぶ日の来よ 以上三首は大正四年、衆議院選挙に打って出た與謝野鉄幹尻押しのため、その妻晶子が詠み…