穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

断章

未来は過去の瓦礫の上に ―青函連絡船小話―

小麦に限らず、艀荷役はよく積荷を落っことす。 何処かの誰かが到着を今か今かと待ちわびている大事な品を、些細なミスからついつい海の藻屑に変える。 大正十一年度には、青函航路――青森駅と函館駅との間を結ぶ、片道ざっと113㎞のこれ一本をとってさえ、実…

鶴見工場、偉観なり ―時事新報上の日清―

そのむかし、大日本帝国は一廉の小麦粉輸出国家であった。 小麦ではない。 小麦粉(・)である。 カナダ・アメリカあたりから小麦を仕入れ、国内にて製粉し、袋詰めして輸出する。そういうことで、けっこうな利益を上げていた。 (Wikipediaより、小麦粉) …

真実の聲 ―常在戦場、至難なり―

「痛え、医者を呼んでくれ」 岐阜で兇漢に刺された際、板垣退助が本当にあげた叫びとは、こんな内容だったとか。 まあ無理からぬことである。 死の恐怖を、それもだしぬけに突き付けられて、泰然自若とふるまえなどとそれこそ無理な注文だ。 (維新直後の土…

続・福澤諭吉私的撰集

もう少しだけ福澤諭吉を続けたい。 ――明治維新にケチをつけたがる類の輩が愛用する論法に、アレは市民革命ではない、支配階級すわなち武士同士の内ゲバに過ぎない、よって不徹底も甚だしく未完成もいいところだとの定型がある。 が、福澤諭吉に言わせれば、…

福澤諭吉私的撰集

猿に読ませる目的で書かれた文を読んでいる。 福澤諭吉の文である。 尾崎行雄咢堂は、その青年期のある一点で、「筆で生きる」と心に決めた。 そのことを福澤に報告にゆくと、折しも福澤は鼻毛を抜いている最中で、鼻毛抜きを手放しもせず聞きながら、「変な…

福澤諭吉の戦争始末 ―領土経営の方針如何―

鎌倉幕府は、頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした。 が、彼の地にうごめく無数の民を真に屈服させ得たかというと、これは大いに疑問が残る。 なんとなれば津軽に於いて、「口三郡は鎌倉役でも、奥三郡は無役の地」と呼ばれたように。 この時代を象徴する土地制度――…

日仏変態作家展 ―続・身を焼くフェチズム、細胞の罪―

ボードレールが吉良吉影を知ったなら、おそらく彼の名ゼリフ、 自分の「爪」がのびるのを止められる人間がいるのだろうか?いない…誰も「爪」をのびるのを止めることができないように…持って生まれた「性(さが)」というものは 誰も おさえる事が できない……

奸商、姦商、干渉ざんまい

西暦一六四一年、江戸時代初期、三代将軍家光の治下。寛永の大飢饉がいよいよ無惨酷烈の極みへと達しつつあったその時分。幕府の命で、三十人の首が斬られた。 比喩ではない。 そっくりそのまま、物理的な意味で、である。 彼らに押された烙印は「奸商」ない…

総力戦まであと三日 ―準備せよ、準備せよ、準備せよ―

一九三九年九月一日、ドイツ、ポーランドに侵攻開始。 「二十年の停戦」はここに破れた。第二次世界大戦の開幕である。フェルディナン・フォッシュが嘗て危惧したそのままに、世界は再び一心不乱の大戦争へどうしようもなく突入してゆく。 ドイツの動きは早…

マッドな人たち ―八田三郎のコレクション―

手術(オペ)で切除した腫瘍の味を確かめるのを事とした、例の外科医先生といい。 戦前日本の学者というのは、奇人というか、どうもマッドな香りが強い。 植物園の住人ですら、四分五裂した人体のアルコール漬け標本を平気で持っていたりする。 八田三郎のこ…

続・末期戦の一点景 ―大英帝国、備蓄なし―

一九一四年八月四日、イギリス、ドイツに宣戦布告。 それからおよそ二ヶ年を経た一九一六年十月時点で、小麦の値段は十三割増し、小麦粉の方も実に十割増しという、紳士たちが未だかつて経験したことのない、大暴騰が発生していた。 産業革命以来、海外の低…

末期戦の一点景 ―餓鬼道に堕ちたヨーロッパ―

戦争は次のステージに進んだ。 畢竟、勝利の捷径(ちかみち)は、敵国民の心を折って戦意を阻喪せしむるに在り、その目標を達成するに「兵糧攻め」――慢性的な食糧不足を強いるのは、大規模な空襲と相並んで極めて有効な一法である。 今日でこそありきたりな…

挑発には挑発を ―英国貴族と労働者―

「戦争は富める者をいっそう富ませ、貧しき者をより貧しく、唯一の資本たる健康な肉体さえ損なわしめた。金欲亡者がぶくぶく肥り、我が世の春を謳歌する蔭、祖国のために義務を尽した勇士らが、路傍で痩せこけ朽ちてゆく。諸君! こんな不条理が許されていい…

清冽な大気を求めて ―一万二千フィートの空の舌触り―

山形県東村山郡作谷沢村の議会に於いて、男子二十五歳未満、女子二十歳未満の結婚をこれより断然禁止する旨、決定された。 昭和五年のことである。 (昭和初期の山形市街) ――はて、当時の地方自治体に、こんな強権あったのか? とも、 ――なんとまあ、無意味…

遺恨三百 ―歳月経ても薄まらず―

憎悪は続く。 怨みは消えない。 復讐は永久に快事であろう。 幕末維新の騒擾がどういう性質のものだったかは、東征の軍旅が関ヶ原を通過した際、薩摩藩士の発揮したはしゃぎっぷりによくわかる。 「いよいよ二百余年前の仇討ができる」と喜び勇み、一行の中…

魂叫

貧は罪の母という。 その象徴たる事件があった。 姉による、弟妹どもの抹殺である。 (『江戸府内 絵本風俗往来』より、子供の盆歌) 主犯――長女の年齢は、事件当時十七歳。この長女が 「水遊びをしに行こう」 との口実で十歳になる弟と、十二歳の次女、二歳…

アンダマンの原始缶詰

またぞろ例の「竹博士」が喜びそうな話を聴いた。 そこは遥かなインド洋、ベンガル湾南東部。インド亜大陸本土から隔つること実に1300㎞東の彼方。翠玉を溶き流しでもしたかのように澄んだ海に囲まれて、アンダマン諸島は存在している。 「世界で最も孤立し…

濠洲小話 ―ファースト・フリート―

見方によってはアメリカ独立戦争こそが、オーストラリアの産婆役であったと言える。 (Wikipediaより、レキシントンの戦い) 一七七五年四月十九日、開戦の号砲が鳴る以前。イギリスからは毎年およそ千人前後の囚人が、北米大陸に送り込まれる「流れ」があっ…

ユートピアの支え

二十世紀初頭、排外的民族主義の骨頂はオーストラリアに見出せた。 白濠主義をいっている。 有色人種を叩き出し、かつ侵入を防遏し、彼の地を以って白人の楽土たらしめること。この至上命題を達成すべく、どれほどの知恵が絞られたのか。それについては以前…

黄金週間戦利品 ―掘り出し物はいいものだ―

久々に身の裡に慄えが走った。 まずはこれを見て欲しい。 昭和十一年刊行、『刀談片々』見返しに記されていた墨痕だ。 謹呈 自著 本阿弥光遜(花押) と読める。 日本刀で本阿弥といえば、少しその道を齧った者ならすぐにピンと来るだろう。 室町から続く研…

北アルプス VS 南アルプス

南アルプスは欠点だらけだ――。 そんな誹謗中傷に、思いもかけず遭ってしまった。 甲州人として悲しまずにはいられない。 往昔の日本山岳会に、小暮理太郎という人がいた。 群馬の生んだ偉大な登山家、齢六つで赤城山を征して以来、山の魅力に憑かれた男。 地…

去勢夜話 ―第二天使ケルビムの聲―

藿香。 鶏卵の黄身ふたつぶん。 生クリーム一合五勺。 それから砂糖を小さじ半。 これらは牛肉のスープと合わせることでジェニーリンド・ドリンクと呼ばれ、十九世紀の声楽家らが喉の調子を保つため、愛飲していたものである。 最初にレシピを確立したのはス…

英国紳士とダウジング ―アイルランドに於ける検証―

イギリス人は検証好きな生物だ。 産業革命を成就せしめただけあって、原理の解明をこよなく愛す。 神秘的な何がしかに直面しても、手放しに感動したりせず、疑惑のまなざしを先行せしめ、それが本当に理解を超えた代物か、納得いくまで試そうとする。 エマー…

夢と現の境界 ―第十五號患者の記録―

お見舞いとして贈られた汁気たっぷりなフルーツを、 「それは銅で出来ている!」 と、顔じゅうを口にして絶叫し、一指も触れずに突っ返す。 (たわわに実った甲州葡萄) 曲がり角に突き当るたび、その蔭に、ドリルを構えて待ち伏せしている医者の姿を幻視し…

ダンボール以前 ―流通小話―

四十五億五千万ボードフィート。 我々にとって身近な単位に置き換えるなら、一〇七三万六八〇四立方メートル。 学校に併設されている二十五メートルプールの規模は、およそ四二〇立方メートルが一般的と聞き及ぶ。するとこれを収容するには、ざっと二万五千…

プッチ神父とトーマス・エジソン ―発明王の生命哲学―

あれは結構好きだった。 ホワイトスネイクがスポーツ・マックスに説いて聴かせていた話。 地球上でどれほどの死と、どれほどの生が循環しようと、「魂」の総量は常に一定、増えてもなければ減ってもいない。 永遠の均整を保ち続けているのだと、そんな趣意の…

紅葉館の霹靂 ―伊藤博文、大激怒―

「望月ッッ」 その日、紅葉館に雷が落ちた。 紅葉館――東京・芝区に存在していた超高級料亭である。 「金色夜叉」の作者たる文豪・尾崎紅葉が、ペンネームの元ネタとした建物だ。 (Wikipediaより、紅葉館) 隅々まで職人の心配りが行き届いた純和風の邸内。…

「誠意」の氾濫 ―南洋諸島覚え書き―

最初の世界大戦で、日本は「勝ち組」に身を置いていた。 戦後行われるパイの切り分け作業にも、当然参加する資格を有す。各国の思惑交錯し、智略謀略張り巡らされ、次の大戦への種子がまんべんなく振り撒かれたヴェルサイユ会議が終結したとき。極東の島国の…

ゴム鞠たれ、潤滑油たれ ―三井の木鐸・有賀長文―

面接に於ける常套句と言われれば、大抵がまず「潤滑油」を思い出す。 あまりに多用されすぎて、大喜利のネタと化しているのもまま見受けられるほどである。 人と人との間を取り持ち、彼らの心を蕩かして個々の障壁を取り払い、渾然一体と成すことで、組織と…

天才、才能を語る ―盲目の箏曲家・今井慶松―

その少年は四歳で光を失った。 両眼失明という過酷な現実。あまりにも巨大な運命の重石が、小さなその背にいきなり振り落ちて来たわけである。 もしも私が、同じ境遇に置かれたならばどうだろう。果たして耐えることができただろうか。いや、考えるまでもな…