断章
かつて、ロシア人の眼に、瀬戸内海は「河」と映った。 明治三十七、八年役、日露戦争のさなかに生まれた、割と有名な巷説である。 投降し、捕虜となったロシア兵らを御用船にて移送中、この内海へと舳先が入りかけたとき。 彼らの一人がさも感じ入った面持ち…
あつすぎ もうだめ ばたんきゅー。 (viprpg『それでも果てるまで』より) 実際問題、真面目な話、いつまで経っても衰えぬ暑気に禍されすぎて、すべての日課に不協和音が挟まりつつある状態だ。 文章の書き方がわからなくなり、タイピングが停止して、キーボ…
初期も初期の報道(しらせ)では、甲府もついでに壊滅したとされていた。 江ノ島が沈んじまっただの、富士が崩れ落ちただの。 大正十二年九月一日の大震災は、地震というより天地創造の再開として海外諸国に伝えられた感がある。 (Wikipediaより、関東大震…
特別な意志は介在しない。 そこに雑誌があったから、ただなんとなく手を伸ばし、開いただけのことである。 場所はドイツのミュンヘンである。たまたま入ったカフェである。前の客が置いていったか、それとも店がサービスとして提供していた代物か。とまれ小…
「支那全体に、恋愛は三組以上あるだらうかと思ったのは果して僕だけの感想であらうか。文化が四千年も連続すると、その種族の肉体の細胞は、恋愛を要求する必要がなくなって来るのに相違ない。しかし、肉体が、何故に肉体であるかを證明するためには、飽く…
ハワイ在住、デヴォン氏はとんだ奇士だった。 東洋趣味が骨髄にまで徹しきった人物なのだ。 殊に極東、日本の文化に対する憧憬、凄まじく。ホノルル市の郊外に、私費を投じて純和風の公園を開設せしめたほどである。 (Wikipediaより、ホノルル) 「…入口に…
世の中は、何かにつけて計画通りに行かぬもの。 「どんな完璧な計画も、実行に移した瞬間から崩れ始める」。これは戦場の霧の中から紡ぎ出された文句だが、平時の社会生活上にもある程度、応用できぬこともない。 浅草名物「十二階」こと凌雲閣も、その成立…
冥界に放送局でも建ったのか。 ある時刻、ある周波数に合わせると、ラジオはにわかにスピーカーから幽霊の声を垂れ流す、呪詛の媒介機と化する──。 戦前の都市伝説だった。 霊の棲み処も時代に合わせて徐々にハイカラになるものだ。平成の御代、「呪いのビデ…
「男ならば三宅雪嶺、女ならば羽仁もと子」。 並居る先達諸士の中、時勢の指導者格として相応なのを選ぶなら、まずこの二人になるだろう──。 吉野作造の、かつて語ったところであった。 (Wikipediaより、吉野作造) 彼の言葉はここから更に、「当節は刺戟の…
帝政時代のドイツに於いて、大学生とは一種特権階級だった。 「学問の自由」の金看板をいいことに、彼らはときに国家の法の支配からさえ逸脱せんと試みた。 無法者を気取ろうというのではない。 社会的動物の一員として、むろん秩序は尊重している。尊重する…
ずっと危惧され続けたことだ。 「太平洋の両岸に根を蔓延らせる二大国。旭日旗と星条旗、日本国とアメリカは、結局のところいつか一戦交えぬ限りとてもおさまりっこない、激突を宿命づけられた関係なのではあるまいか?」 昭和どころか大正以前、明治四十年…
まさに総力戦である。 僧侶も、文士も戦場へ征き、敵陣めがけて弾丸(タマ)を撃ち、盛んに殺し・殺されをした。 一次大戦下に於けるフランスの事情を述べている。開戦のベルが打ち鳴らされてものの一年を経ぬうちに、聖職者の身で銃を執り、法服を戎衣に改…
人は一生、見栄を張る。 特に男は痩せ我慢の度合いを以って「男らしさ」のバロメーターにすらアテる。 予防接種で、あるいは虫歯治療の場に臨み、迫る注射の針先や、近付くドリルにしかし怯えをあらわさず、悲鳴を上げることもなく、涙なんぞに至っては一滴…
水晶は、甲州人が他国に誇れる稀少なる名産品の一である。 江戸天保の昔時には、なんと全長一尺三寸にも及ぶ極めて大きな結晶を幕府方に献じたと、そういう逸話がなおも根強く伝えられているほどだ。 一尺三寸。 身近な単位に換算すると、およそ49㎝、ほぼほ…
そのころ汽車はよく落ちた。 「外れた」と換言してもいいだろう。 もちろんレールの上からだ。脱線事故を指している。大正・昭和の昔時に於いて、その種の災禍は珍しくない。我が故郷たる山梨にても、大正時代の中期(なかば)ごろ、一発大きいのがあった。 …
意識をあまり一点に集約させ過ぎるがゆえに、心ならずも演じてしまう数多の奇行。 パウル・エールリヒにはどうも、アダム・スミスの同類めいた、生活上の失格者とでも称すべき、素っ頓狂な側面が存在していたようだった。 (Wikipediaより、パウル・エールリ…
君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳きても筆の柄を眺めても 逢見ねば黄泉(よみぢ)と思ふ遠方へ宝のきみをなどやりにけん たゞ一目君見んことをいのちにて日の行くことを急ぐなりけり 思へどもわが思へどもとこしへに帰りこずやと心乱るゝ 以上はすべて与謝…
セーヌ川の水ぜんぶ抜く。 いや、厳密には悉くではないけれど、「大半」程度が関の山であるけれど──。とにもかくにも川底を容易に、大規模に、ごっそり浚い盡せるほどには流水量を減らしてしまう。 どうも、フランスの天地では、一世紀ごとに二回ほど、そう…
アメリカ最大の図書館はワシントンDCに見出せる。 言わずと知れた米国議会図書館だ。 アメリカ最大ということは、とりもなおさず世界最大ということだ。 (Wikipediaより、ワシントンDC) 昭和の黎明、帝国図書館館長である松本喜一がここを訪問した当時、日…
ちょっと人力車めいている。 自転車タクシーとかいった風変わりな代物が第二次世界大戦下、ヴィシー政府のフランスの地に現出(あらわ)れた。 まあ、八割方、名から察しはつくであろうが、自転車に少々手を加え、後から荷車を連結せしめ、一人か二人、客を…
「ふと手にした俳書の或ページに『花袋』といふ結句があったのを苗字とうつりがいゝのでそのまゝ使って居る、『都の花』国民新聞の発刊当時のことだった、後になってわかったことだが、花袋といふのは女の匂ひ袋のことださうだ、二十歳前に漢詩に凝った頃に…
もしも汚穢史、便所の歴史、トイレット・ヒストリーなんてモノがあるならば、以下の如きはその点景の一として収録されるべきだろう。 「一昨年府下の或る商人が、我日本の駿河半紙を二ツ切にして五百枚を一包に拵へ、十二包入を一ダースと為し、雪隠紙なりと…
重度の不眠に憑かれた者は、だんだん妙な心理状態に移行する。 己が起きて、眼を覚ましていること自体に、言い知れぬ不安を持つのだそうな。 「漠然とした」と述べておくより他にない、それは一種、異様な心地。筆にも口にも表し難い、ペン先だろうと舌先だ…
普仏戦争の敗北は、フランス人の精神に重大なる影を落とした。 首都を囲まれ、干しあげられて、動物園の獣を喰って、なお足らず、犬猫ネズミをソテーにしてまで継続した抵抗は、結局何も実を結ばずに、彼らはプロシャの軍靴の前に膝を屈する恥辱に遭った。 …
優生学の心酔者にして熱烈な産児制限論者。 「ハトイチ」こと鳩山一郎なる人物を把握するに際しては、見逃し得ないファクターである。 「貧乏人の子だくさん」は不幸の元ゆえ、抑止せよ。結核病やらい(・・)病患者の人権は、ある程度無視して構うまい。健…
航行中の軍艦で、甲板はまま(・・)運動場の用を成す。 帝国の海の防人たちは、あの場を使って相撲も取れば、 弓も射ったし、 剣道もした、 サメを用いた日本刀の「生き試し」なぞも偶にした。 そのようにして日々の無聊を慰めて、且つ筋骨を錬磨した。 従…
夕立の季節が近づいている。 否、既に、とっくに突入済みであろうか。 夏の風物詩のひとつ、天に轟き地を震わせる、あの雷鳴と云うやつを、恐れる者は数多い。 著名な文士、画家、詩人──俗にいわゆる「文化人」の範囲内にもそうした手合いは割と居る。 宇野…
タウンゼント・ハリスの名前は果たして歴史教科書に掲載されていたろうか? 筆者の記憶は、この点ひどく曖昧である。個人的には記載されるに値する名前であると信ずるが、さて。 (Wikipediaより、タウンゼント・ハリス) ぜんたいハリスとは何者か。 試験で…
空中戦艦。 なんとロマンに満ちた響きか。 一九〇三年、ライト兄弟が初めて空を飛んだとき、その発動機のスペックはものの十二馬力を出なかった。 ところがそれからたった十年、欧州大戦の初頭には、はや百馬力が出現し、更に十年を俟ってみたならどうだろう…
ちょっと意外な感覚だ。 柴五郎におよそこの種の政治色は存在しないと勝手に思い込んでいた。 (Wikipediaより、柴五郎) 会津藩士の生き残り、『ある明治人の記録』にて世上に名高いこの人は、実に大正十三年春、とある右傾団体の発足に手を貸している。 手…