穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

アスキスと河合栄治郎 ―日英の自由主義者たち―

 

 高橋是清吉野作造、下村海南、武藤山治柳田国男――。


 昭和二年刊行の『経済随想』には実に多くの著名人が名を連ね、思い思いの切り口で時局を論じているのだが、中でも私をいちばん仰天させたのは、河合栄治郎自由主義なる小稿だった。


 彼の言を信じるならば、第一次世界大戦当時、イギリスは国内の良心的反戦主義をひっくくり、フランスに送ってまとめて銃殺刑に処したというのだ。

 

 

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 順を追って説明しよう。


 河合は話の導入として第一に、英国自由党総裁、ハーバート・ヘンリー・アスキスの政界引退を報じている。あれほど完成された人格を持つ政治家が、孤影悄然と表舞台を去らねばならぬとは、まったくなんたる寂しさか――と、満腔の同情を以ってして。

 


 オックスフォード大学の秀才として、有望の弁護士として、又明敏な議会政治家として、彼の生涯は花やかさそのものであった。議会に於いてギリシャ・ラテンの名詞を引いて高雅な演説の出来るのは近頃において彼丈であった、あれがヴィクトリア朝時代のただ一人の政治家であった。(138頁)

 


 このヴィクトリア朝時代のただ一人の政治家」が、イギリス政治史に如何に目覚ましい貢献をしたか。次いで河合は、そちらに話頭をめぐらせる。


 具体例が列挙され、そのうちの一つに例の「銃殺刑」が持ち上がってくるわけだ。

 

 

Herbert Henry Asquith

Wikipediaより、アスキス) 

 


 第一次世界大戦開幕当初、アスキスが首相の地位にあったことは、過去の記事でわずかながら私も触れた。闘犬的性格の持ち主であるウィンストン・チャーチルを、持ち前の雅量でよくおさめたと。


 しかしながらあの時代、戦争の狂気にあてられて目を血走らせていたのはチャーチルのみではなかったらしい。国内に数千は居ると推測された良心的反戦主義者。卑怯・臆病の心ではなく、まったく思想に基いて兵役を拒否し、政府の戦争遂行を批難さえするこの人々への対応として、見せしめに何人か殺してしまえという声が、閣内に於いても相当かまびすしかったそうなのだ。


 しかしながらアスキスは、頑として首を縦に振らなかった。


 若い党員は彼らを愛国心の欠片もない売国奴の集団だと罵るが、その意見には賛同できない。彼らは彼らで、真摯に英国の未来を考えている。紛れもない愛国者である。そうした異なるタイプの愛国者を数多包含してみせてこそ、大英帝国の活力は生まれ、終局の勝利へたどり着くことも出来るだろうし、これを寛大に許して行けるところに、自由主義の特徴があるのだ。……


 過去、自由党はいつも内紛ばかりを繰り返している」と揶揄された際、


「各人に独自の思想と行動とを出来る限り許すことは、それが自由主義の要諦である。溌溂たる意見の相違が現れるのは、それが自由党なればこそ可能なのだ」


 そう言ってすかさずやり返したアスキスである。


 良心的反戦主義者をめぐるこのやりとりも、彼らしいとごく自然に納得できよう。

 

 

Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith by Sir James Guthrie

 (Wikipediaより、アスキスの肖像画

 


 だがしかし、如何にも寛大なこの態度。


 非常時の沸騰しきった人心には、さまで響くものではなかった。


 却って「甘い」と受け取られ、


「平時ならばいざしらず、あのような人を頭に据えてこの戦争を勝ち抜けるのか」


 足元がぐらつく結果になったのはなんとも皮肉な限りである。


 間もなく政変が勃発し、アスキスに変わってロイド・ジョージが国のトップに踊り出た。

 


 ロイド・ジョージが首相になった時始めて、その人々を縛って、フランスで銃殺したといふことである。(139頁)

 


 そうくくる河合栄治郎の一連の記述は、かなり事実に即した話のようだ。


 2010年に人文書院から刊行された小関隆氏の名著、『徴兵制と良心的兵役拒否―イギリスの第一次世界大戦経験』にも類似の内容が発見できる。牢獄に収監された拒否者の中には精神に打撃を受けるほど酷烈な「懲罰」が下される例とてあったとも。

 

 

 


 戦争の火蓋が切られたならば、何処の国でもやることは大概変わらない。


 アメリは図書館からドイツ語の本を引っ張り出して破り捨てるキャンペーンを始めたし、若干時代が前後するが、普仏戦争後のフランスでは、独帝ヴィルヘルムの写真を子供に踏ませ、敵愾心のすりこみを狙う「教育」が流行った。


 そうした一連の行動を、河合栄治郎は誰憚りなく批難する。

 


 他人の個性を寛假し得ないことのうちには卑怯な嫉妬心と果かない自信とが含まれてゐるのである。変った個性が出てくる時にこれを何とかケチをつけなければ、自らの立場の動揺を感ずる意気地なさがあり、変った個性の人が衆人の意表に現れる時に、これを見逃すことは、自分の地位も落ちるやうに感ずる嫉妬心がある。そのいづれもが女性的の傾向であり、弱小国民の表象である。(141頁)

 


 筋金入りの自由主義者で、第二次世界大戦前夜、徹底的なファシズム批判の論陣を張った河合らしい物言いだ。


 地球の反対側にこれほどの理解者を持ったことは、アスキスにとって幸福だったに違いない。

 

 

 

 

 


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交通事故と大麻の関係 ―ウィリアム・バロウズの警告―

 

 嗜好用大麻の合法化された合衆国の各州で、交通事故の発生件数が上昇傾向にあるらしい。


 この事態を重く見た当局は、飲酒運転ならぬ「ハイ運転」の予防に乗り出し、被検者の呼気にどれどほどの大麻成分が含まれているかを検査する機器・「カンナビス・ブリーザライザー」の導入に向けて動いたりと、いまさら対策に大忙しだ。


 こんな展開になることは、前々から分かり切っていたであろうに。


 なにしろ遡ること七十年前、ウィリアム・バロウズが既に警告してくれている。


 作家にして重度の麻薬中毒でもあったバロウズは、その自伝とも言うべき処女作品・『ジャンキー』に於いて斯く述べた。

 


 マリファナについて一つだけ注意しておくことがある。マリファナの影響下にある人間は車の運転はまったく適していない。マリファナは時間の感覚をかき乱し、その結果として空間的な関係の感覚まで狂わせる。いつだったかニューオーリンズで道路の片側に車を寄せたきり、マリファナの陶酔がさめるまで待たなければならなかったことがある。すべての目標物がどのくらい離れているのか、交差点でいつ曲がり、いつブレーキを踏むのか、ことごとくわからなかったのだ。(56~57頁)

 

 

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 実際に使った者の証言である。


 一定の信頼は置いてよかろう。


 おまけになんとも、名文だ。読者をして真に読ませる・・・・ものがある。


 いったいこのウィリアム・バロウズというヤク中は愉快な男で、彼のドラッグ・レビューを眺めるだけでも本書を買った甲斐がある。モルヒネ、コカイン、ヘロインと、有名どころは勿論のこと、緑色の胆汁を口から吐くまで酒を飲んだり、ペイヨーテなる幻覚サボテンを賞味してぶっとんだあまり視界に映るなにもかもがサボテンに見えるようになったりと、とにかく話題に事欠かないのだ。


 挙句の果てにはウィリアム・テルになりきって、妻の頭にグラスを乗せ、華麗にそれを撃ち抜こうとしたところ、狙いが逸れて妻の肉体を撃ち抜いてしまった――もちろん彼女は死亡した――なんてエピソードまで持っている。これだけやりたい放題やったというのに彼自身はどういうわけか長生し、1997年、83歳で漸く往生したというから人間というのはわからない。果たしてこのいきものは、丈夫なのか脆いのか。

 

 

Burroughs1983 cropped

 (Wikipediaより、69歳の誕生日を祝うバロウズ

 


 バロウズ以外にもマリファナによる時間感覚への悪影響について語っている者はいる。


 彩図社から2004年に出版された、『実録ドラッグリポート』からの抜粋だ。

 


 マリファナ好きのキムラはいい奴だし、『ガリガリ君』のように勘繰ることもないが、非常にみんなを困らせている。
 待ち合わせをしても、ほとんどの場合、遅刻してくるのだ。それも十分や二十分という遅刻ではなく、平気で一時間遅れてきたりする。その上、本人は明らかに反省しておらず、ぼーっとした表情をして「電車に遅れちゃって」と言うのだ。
 どれだけ電車に遅れれば一時間も遅刻するんだと突っ込んでも、ごめんごめんと口先で謝るばかり。人を待たせることを悪いと思っていない。
 マリファナにハマる前から、キムラのことを知っているが、以前はそんな性格の持ち主ではなかった。待ち合わせに遅れることもなかった。それがマリファナの煙に巻かれているうちに、責任感が消え、人を待たせるのが平気になってしまった。(42~43頁)

 

 

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 将来的にこの植物がわが国でどんな地位を獲得するか知らないが、くれぐれも時間をかけて、慎重に議論を進めて欲しい。


 一度解禁したものを再び取り締まろうとしても、それはひどく困難で、なにより徒労なのだから。

 

 

 

 

  


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セキセイインコとジュウシマツ ―続・投機対象の動物たち―

 

民俗学と聞けば大多数の日本人がただちにその名を連想するに違いない、かかる道の大権威。――柳田国男が、昭和二年に瀬戸内海の北木島を訪れた日のことである。


 船中だろうがそのあたりの道端だろうが、島民が三人以上集まれば、話題は決まってセキセイインコジュウシマツのことばかり。大正の御代に盛り上がり、今やすっかりバブルと化した小鳥ブームの旋風は、総面積わずか7.5km²にも満たないこんな小島の上空にまで吹き荒れていたというわけだ。


 その事実に、柳田は心底にがりきっている。ここまで足を運んでなおも、芬々たる俗臭から逃れることはできないのかと――。

 


 呑気な田舎の旅をする者の大切な楽しみはなくなった。小鳥はいいものに相違ないが、こんなにまで世の中を占領しては、うんざり・・・・せざるを得ぬ。(『経済随想』362頁)

 

 

Kitagishima-Kanaburo1

 (Wikipediaより、北木島

 


 私は以前、「モルモットと錦鯉」「更紗兎とチベタン・マスティフ」といった記事をしたため、投機対象と化した動物について幾らか述べた。


 あれらが明治初頭の現象だったのに対し、今回触れるセキセイインコやジュウシマツはその「大正版」と思ってくれていいだろう。半世紀を経てなお、日本人は似たような愚行を繰り返していたというわけだ。


 ブームの以前、ジュウシマツを購うには五十銭も出せば充分だった。


 それも一匹だけではない、オスメス番いになってこの値段である。


 ところがちょっと目を離した隙に、五十銭が一円になり、一円が三円になり、三円が十円二十円にと、指数関数的な高まりを示すその価格。最終的には泡がはじけるように暴落し、「小鳥恐慌」と呼ばれる阿鼻叫喚の地獄絵図を現出したところまで、なにもかも嘗ての愚行を忠実になぞりきったといっていい。

 


 官吏だけは小鳥で儲けようとしてはならぬと、訓令をだした県もあるさうだが、現に薄給の人たちが、それで漸く洋服を作ったり靴を買ったりして居るのだから致し方が無い。あまり喧しくいへば役人の方を罷めて、小鳥仲買にでもなり兼ねぬ勢ひだから始末がわるい。その癖何のためにと問へば売れるからと答へるの外は無く、買ふのはたれかと聞けば今では殆ど全部が、また売って利を見ようといふ人ばかりである。(363頁)

 

 

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 柳田国男北木島を訪れたとき、まだ恐慌には至っていない――「泡」の張力が限界に達しつつあった時期なようだが、こうした光景を目の当たりにして、破綻は近いと自ずから悟るところがあったという。


 本来の価値を遠く離れた、投機のための投機。


 空恐ろしいばかりに「根拠」を欠いたこんな景気が、そう長続きする筈がないではないか。


「しかし」


 と、続けて柳田は慨嘆している。


「もはやこの流れは如何ともし難い。一人一人が金勘定の夢ばかり見ている間は、個々の生産者どころか経済学の先生方とも、産業の要不要を談ずることはできないだろう」


 この民俗学者の口を借りれば、「流行とは病理」に他ならなかった。


 にも拘らず経済はいつもこれに追随している。


「従って熱が覚め狸が落ちたやうな場合になって、悪くいへば遅鈍、よくいへば比較的堅実であった人が、背負ひ込んで損をすることは困ったものだ(364頁)


 これに酷似した状況を、我々は遠近十数年の社会にさえいとも容易く発見することが出来るだろう。


 経済に関しては門外漢であるにも拘らず、柳田の慧眼はある種の哲理を間違いなく見透していた。

 

 

Kunio Yanagita

 (Wikipediaより、柳田国男

 


 同時に柳田が心配したのは、暴落後の小鳥たちの行方である。


 二束三文ですら引き取り手がなくなれば、もとより金儲けが主題であって小鳥を愛玩する気分など欠片も持たない連中のことだ。大して深い思慮もなく、空に逃して終わりだろう。

 


 日本の野山に再び小鳥が多くなり、そこでもここでも鳴いて居る時は今にくる。それも何だか楽しみのやうだが、考へて見れば彼等の食料は粟、稗だ。(同上)

 


 柳田国男は、農家にとって鳥害が如何に深刻な悩みの種か知っている。


 山深い農村を訪れて、雀追いの火縄銃をぶっ放す百姓相手に取材を試みた経験がそれを教えた。とくれば今を時めくセキセイインコやジュウシマツが、やがては新たな害鳥として憎悪を向けられる可能性とて、まんざら否定しきれないのではなかろうか。

 


 碌な資本もたまらぬうちから、直ぐに消費事業の大会社などを起こして、瞞してでも取って儲けやうといふのが事業家である。その尻押しをする政客は多くても、国のために生産の急不急、消費の当否を考へる公人は居ない。国が貧乏する原因はよくわかって居る。今度はセキセイインコ等がまた実物教育をしてくれるだらう。(365頁)

 


 日本民俗学の泰斗は、暗澹たる物言いで一連の小稿を結んでいる。


 この「教育」の効果は、遺憾ながら未だ十分に挙がっていない。

 

 

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 2004/05/26
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多産国家日本 ―山下亀三郎の破天荒―

 

 超高齢社会に化しきった現在からは、およそ想像もつきにくい話であるが――。


 かつての、そう、帝国時代の日本人は、何と言ってもよく増えた。別段政府に頼まれずとも、何の便宜も図られずとも、自発的に子を為し家を拡大すること、ほとんど別人種の観がある。


 とある識者の弁によれば、出生率が若干の下降を示しはじめた大正時代の末頃といえど、尚且つ差引勘定で毎年八十万人の人口増があったというから凄まじい。しぜん、巷は子供で溢れ、その情景が外国人旅行者の網膜にも強く焼き付くこととなる。

 


 日本といふ国は、赤ん坊の多いところだとは、予め教へられてゐたが、これほどまでとは思はなかった。とにかくゆっくりと一人々々、人間らしい方法で生むのではなく、一ダースから二ダース、卵から孵すのぢゃないかと思はれるくらゐである。(『外人の見た日本の横顔』294頁)

 


 例の芸者愛好家であるR・バレット氏に至っては、いっとき物珍しげな視線を向ける36人もの子供たちに追いかけまわされ、童話中の一人物――ハーメルンの笛吹になった気分を味わったという。

 

 

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北澤楽天 「村まつり」)

 


 が、単に驚嘆しているだけで済まされないのは当局者たち。


 このままのペースで増え続けられようものならば、いずれ国力の限界に達し、官民併せて共倒れになるのでは――。そう危惧する声は少なからず存在し、早くも明治二十九年には福沢諭吉『時事日報』の紙上にて、人口抑制論を展開している。日本の版図には限界があり、養い得る人口もそれに依拠する都合上、野放図な増殖はいずれ「繁殖停止」のしっぺ返しで報いられよう、と。


 後には鳩山一郎なども、優生学のエッセンスを加えつつ人口抑制の必要を説き、「悪い遺伝関係のある男には、輸精管結紮術を施して、子供を生ませない様にしよう」と、友愛精神の塊じみた法案制定に乗り出している(高田義一郎著『らく我記』312頁)。


 斯様な極論が、しかし真面目に検討されてしまうほど、当時の人々にとって増え続ける人口は悩みの種に他ならなかった。

 


 ところがそんな世の中へ、風穴を開けた男がひとり。

 


 山下汽船の創業者、山下亀三郎に限っては、


 ――どいつもこいつも、ちょっとおかしいんじゃねえのか。


 と鼻で笑って、人口増加を少しも問題としていない。「お目出たの座敷へお悔やみを述べにゆく様なもので、御挨拶の文句が違ってをりはすまいか」と、泰然と構えきっている。

 


 自分の考へでは日本の名産は何と申しても人間である。イタリーで戦時中首相をつとめたニッチといふ男が「イタリーの輸出品の第一は移民だ」と申したといふことを聞いたが、日本の人間は移民なんぞといふ用途を限らず、最上格付の逸品である。人間が名産だといへば一寸変に聞こえるかも知れないが、世界の歴史上僅か六十年の短い期間に今の日本程に発展し飛躍した国民がどこにあるか。(中略)これだけ偉大な事業を仕遂げた人間は余程貴い名産といはねばならぬ。(昭和二年『経済随想』105頁)

 

 

Yamashita Kamesaburou

 (Wikipediaより、山下亀三郎

 


 山下亀三郎自身、庄屋の七人兄弟の末っ子からのし上がり、三大船成金の一角を占め、ついには山下財閥の頂点に君臨しただけあって、このあたりの意気まさに当たるべからざるものがある。


 日本民族のポテンシャルに、彼は全幅の信頼を寄せていた。


 更に山下は筆をすすめて、食料自給率など少しも心配には及ばない、足りなければよそ・・から持って来ればよいだけだ、ラングーンでもサイゴンでもバンコクでも、どこからでも俺が船で運んでやらあとそれが本業であるだけに、まことに気前のいい大風呂敷の広げっぷりを披露している。

 


 さう遠方から運んでは運賃に喰はれてしまはないかといふ懸念が出るかも知れぬが、これも当らない。運賃はまづ原価の二十分の一即ち五分に過ぎない軽少なものである。北海道や九州から運んで来るのと大した違ひはない。殊に九州、北海道からは小船で来ることが多く、南洋からは大型船で運ぶのだから、少し下手な荷役なんかやらかせば、内地米の運賃が高まっておつかつ・・・・のものになってしまふ。(107~108頁)

 


 流石、大東亜戦争中も鮎川義介に――ひいては伊藤文なるアル中に――銘酒『白鹿』の供給を欠かさなかった男は言うことが違う。


 悲観論を鎧袖一触でなぎ倒す破天荒さはこの上なく魅力的だ。彼を頭に戴いた山下汽船は実に幸福と言わねばならない。

 

 

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 最後に少々、余談を述べたい。『経済随想』の出版とほぼ同時期のドイツでは、政府主導で一夫婦ごとに3.8人の子供を「国力維持数」として最低限要求している。


 ナチスドイツではない、ワイマール共和政下のドイツに於いて、既に然りだ。


 更に人口増加の要を説くため、デュッセルドルフの衛生博覧会の一角に


 ――二児制の下に、どんな人が生まれなかったか。


 なるコーナーを設置。バッハ、レッシング、ヘンデル、フラウンホーフェル、モーツァルトシューマン、フリードリヒ大王、そしてビスマルク等々と、「民族的英雄」肖像画をずらりと並べ、いよいよ国民の関心を煽りたてたということである。


 こういう手法は、確かに見習うべき価値があろう。

 

 

海運王 山下亀三郎―山下汽船創業者の不屈の生涯

海運王 山下亀三郎―山下汽船創業者の不屈の生涯

  • 作者:青山 淳平
  • 発売日: 2011/05/01
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旗本くずれの姦婦成敗・後編 ―斬ってこそ―

 

 新政府による徳川家処分が決定したのは明治元年五月であった。


 この月の二十四日より、二百五十年以上の長きに亘って「大公儀」の呼び名と共に日本国を統治してきた覇者の血は、一転駿府七十万石の小身に堕とされ、家督も田安亀之助こと徳川家達に相続された。


 家達、このときわずか四歳。

 

 

Iesato Tokugawa

 (Wikipediaより、幼少期の徳川家達

 


 たかが七十万石ぽっちの経済力で、旗本八万騎と俗称された膨大な家臣団を養いきれるわけがない。ごく自然な流れとして主従の縁は消滅し、旗本たちは身の置き所を失って、謂わば宙に浮いたような状態になった。


 この人間集団の処分として、政府は三つの選択肢を彼らに与えた。すなわち、

 


 一、旧主の血筋にあくまで忠に、徳川家達の供をして、無禄を承知で駿府へ行くか。
 二、世の移り変わりを受け容れて、能力があると証明し、新政府に雇われるべく努力するか。
 三、かつての知行地にでも引っ込んで、ひっそり帰農し、晴耕雨読の日々でも送るか。

 


 この三つである。


 駿府行きを選んだ者も相当以上に多かった。


 史料によれば1871年段階で静岡県内に在住した旧幕臣数は14000人弱にのぼるというし、その家族や従者までをも含めれば、更に数倍にも膨れ上がろう。


 これだけの数の人間が、いっぺんに東京から消えてしまった。


 必然として、空き家の数も尋常ならざることになる。


 一旦は旧領に隠棲しながら、再度上京してきた大久保金十郎という旗本くずれが新たに腰を据えたのも、そうした持ち主不明の空き家の一軒だったらしい。

 

 

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 もとの住いである、神田駿河台には戻らなかった。


 そこから若干南西に向けて離れたところ、麹町二番町に落ち着いた。


 旗本屋敷が密集していただけに、維新後急速に寂れていったこの場所が、金十郎の当時の気分によほど合致したのだろう。金貸しへの転職に失敗したとはいえ、まだまだ財産には余裕がある。ここで彼はまたしても、目的意識の欠片も見えないのんべんだらりとした遊惰な生活を再開している。


 ところが金十郎という男、これでどうして人に好かれる天稟でも持っているのか、日を送るごとに新たな知己が一人また一人と増え、中でも旧土佐藩山田主馬とは格別昵懇な仲になり、とうとうその姉を嫁にもらうところまでいった。


 つまり、再婚ということになる。竹子という新たな妻を金十郎は彼なりに精一杯愛し抜き、暫くは平穏な日々が続いた。


 ところが、桜の花も散ったころ。


 転機が来た。それはまったく、予想だにせぬ来襲だった。

 

 

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 葉桜にたかる毛虫を焼こうと庭で作業していた金十郎。その鼓膜を、微かに震わせるものがある。


 なんとはなしに耳をそばだててみると、どうやら塀を挟んだ反対側で、女中のお文が一人の男と話している様子であった。男の声に、聞き覚えはない。にも拘らず、その内容は家内の竹子に言伝を頼んでいるようなのである。


(はて。――?)


 胸騒ぎがした。


 加えて何故か頭に浮かぶ、落城前の五稜郭。戦火にあおられ、否が応にも研ぎ澄まされた神経が、久方ぶりにスパークして警告してくる。


 これはなにか、ただならぬことの前触れだぞ、と。


 気付けば息も足音も殺し、そのくせ猫のように素早い動作で邸内に戻った金十郎。


「幸作」


 そのままの足取りで仲間ちゅうげん上がりの老僕をつかまえ、言葉少なに命を下した。


尾行つけろ。外で、お文と話している男の後だ」


 金十郎の父の代から当家に仕える幸作にとって、反抗という精神機能はとうに削ぎ落とされている。


 理由を訊ねるけぶりすらなく、黙然として頷いた。


 主人の命を忠実に実行する以外、生きる術をとんと知らない。そういう意味では金十郎よりもこの幸作の方が、草創期の三河武士的な要素をよほど豊富に持っていた。家人としては理想的といっていい、質朴そのものの男であった。


 二時間ほどして、幸作は戻った。


 そこで復命したことは容易ではない。


「例の野郎でございますが、どうやら猿若町の、嵐冠八たら云う役者の男衆なようで」
「役者。……」


 猛烈に嫌な予感がした。


 武家の女と若い役者。この組み合わせは、前時代に於いてほとんど不倫の定型という観がある。そういえば竹子は、新婚早々からどうも芝居見物に出たがった。……


「だとすれば、おのれただでは済まさぬぞ。――幸作」
「へえ」
「引き続き、探れ。わしの方でも調べておく」
「心得ましてございます」


 果たして結果はと出た。

 

 

Tōto Meisho - Shibai-chō Hanei no Zu

Wikipediaより、芝居客見物で賑わう猿若町

 


 調査を重ねれば重ねるほど、竹子の不行跡の証拠が積み上がってゆく。ついには御一新以前、竹子がとある大名の奥勤めをしている時分から、既に嵐冠八との関係があったことまで明白になった。


「売女め」


 と、吐き棄てざるを得ない。


 血潮は滾り、熱く燃え、金十郎は久方ぶりに、自分が何者であるかを思い出した。


「狗のような売女め。あのような畜獣を家に迎えるとはなんたる不覚か。斬らねばならぬ。斬って、顔に塗られた泥を雪がねばならぬ」


 ここで我々は、再びエレリー・セジュウィックの言葉に耳を澄ます必要があろう。

 


 日本人のいふ誇りとは如何なるものかを悟るには、先づその誇りの強烈な度合ひを知るばかりでなく、日本人をして云はしむれば、誇りあってはじめて人生の価値があるといふ簡単な事実に気が付かなければならぬのである。(『外人の見た日本の横顔』398頁)

 


 この特質は、武士に於いてより濃厚といっていい。


 というより、武士道こそが源流に相当するのだろう。それだけに彼らは「侮辱」という行為に対して、信じ難いほど過敏であった。――戊辰この方、惚けた腑抜けと化していた金十郎を、荒稽古に骨をきしませ血の小便を流して厭わなかった嘗ての姿に、いっぺんに戻してしまうほど。

 


 やがて、機会が来た。

 


 地上から色彩が喪われゆく初冬のある日、


「少々、実家に顔を出さねばなりませんので」


 と嘯いて、竹子が家を出たのである。


 しかしながらその行き先が、ぜんぜん実家と違うことを、金十郎はとうに掴んで知っていた。


(今日こそは)


 立ち上がった金十郎、既に鬼気を帯びている。


 例の如く幸作を連れ、竹子の後を尾行した。


 背後に夫が隠れているなど露知らず、竹子は浅草の雷門を潜り、仁王門にてたたずんでいた一人の男に呼びかける。


 むろん、嵐冠八であった。


 さりげない仕草の端々にまで、気の通い合った男女特有の馴れ・・があり、それだけでもう金十郎は悩乱しかけた。今すぐ飛び出し、抜刀し、あの二人を細切れの肉片にしたい。――


 主人のその衝動を、幸作は必死の思いで袖を引き、辛うじて思い止まらせていた。ここは人通りが多すぎる、思わぬ横槍が入るかもしれず、もっと確実に仕留められる場を待ちなされ。……


 金十郎は、歯ぎしりして耐えた。

 

 

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 竹子と嵐冠八は肩を並べて会話に華を咲かしつつ、二天門を抜け馬場を横切り、竹屋の渡しから隅田川を越え小倉庵なる料亭に入る。金十郎と幸作も、しばし遅れて暖簾をくぐり、女中に因果を含ませて、隣り座敷を確保した。


 襖を隔てて楽しげな笑い声が聞こえてくる。


 もはや我慢の限界だった。今度は幸作も引き止めない。目釘を唾で湿らせると、手馴れた動作で太刀を鞘から抜き放ち、襖を蹴倒し次の間へと殺到した。


「覚悟!」


 と叫ぶが早いか、反射的に腰を浮かしかけた嵐冠八の首が胴から離れ、血を噴きながらすっ飛んでゆき、壁に当たって転がった。


 座敷は、一瞬にして血の海に変わった。


 金十郎は血塗れの刀を、拭いもせずに振りかぶる。その足元で、竹子はこの事態に叫ぶでもなく、弁明し、赦しを請うわけでもなく、唇を閉じてただ凝然と、夫の瞳をめ上げていた。


(おお)


 金十郎の背後で、幸作は密かに舌を巻いた。


(流石、腐っても武家の女じゃ)


 土壇場での振る舞いを弁えている。


 胆の座りきった妻の態度にちょっと気圧されはしたものの、そのまま圧倒されるほど、今の金十郎は軟弱ではない。


 秋水は歪みない弧を描き、竹子の細首をたたき落として、現場の情景をいっそう凄惨ならしめた。

 

 

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 姦婦と間男の生首を、金十郎は両手に引っ提げ、そのままのいでたちで小倉屋の番頭に仔細を語った。番頭はさぞや必死だったろう、警察が来るまで、この狂人を刺激すまいと――。


 即日検視が行われ、金十郎の証言がいちいち正確であるとたしかめられたその結果、なんと次の日には無罪放免不義密通にはで報いて構わぬという江戸徳川の法制は、実は明治維新後も委細違わず通用するものであり、そうせぬやつは却って意気地なしの謗りを受けるところまでそっくりそのまま同じであった。


 これが遺風と化するには、同十五年にボアソナードが改革の大鉈を振るうまで待たねばならない。


 よって、金十郎が牢にぶち込まれるべき謂れなんぞはどこにもない。悠々と、彼は陽の射す場所へ帰還した。

 

 

Bust of Boissonade

 (Wikipediaより、ボアソナード像)

 


 大久保金十郎は長生した。

 

 明治四十年まで命を繋ぎ、恙なく天寿を全うしている。


 岐阜の県会議員に選ばれたこともあるそうだから、小倉庵の一件以後、この男の細胞はみずみずしさを取り戻し、浮世の荒波を精力的に泳ぎまわったということだろう。


 してみると嵐・竹子の鮮血こそが、彼にとっては鬱気を散ずる何よりの妙薬だったらしい。


 これだから侍はおそろしいのだ。

 

 

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 そのうち姦婦・間男を成敗する金十郎の姿を錦絵に描く画家があり、しかもその出来が結構よかったものとみえ、当人の死後暫くを経た大正・昭和のあの時代、ときたま品評会に出現しては好事家マニアたちから存外な高値をつけられている。

 

 

増補 幕末百話 (岩波文庫)

増補 幕末百話 (岩波文庫)

  • 作者:篠田 鉱造
  • 発売日: 1996/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

 


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旗本くずれの姦婦成敗・前編 ―明治の椿談―

 

 戊辰の硝煙をくぐって以来、大久保金十郎という旗本くずれは、心の芯棒がどこにあるやら見当のつかない男になった。


(なにやら、夢のような)


 と、日に何度思うかわからない。


 自分が神田駿河台二千七百石を食む旗本の長男に生まれたことも。


 武門の子として恥かしくない教育を受け、間もなく武芸の方面で群を抜く才を発揮して、衆の羨望を集めたことも。


 その名声に半ば引きずられるようにして、幕末函館に馳せ参じ、榎本武揚麾下となり、立て籠もった五稜郭にて官軍相手に奮闘し抜いた鉄火の日々も。


 天運我にあらずして、もはやこれまでと降伏し、漸く江戸に帰ってみれば世はとうに「明治」と改まっていたことも。


 何もかもがまるで夢中の沙汰であるかの如く、妙に現実感を欠いており、自分で体験したことながら、


(はて、あれは本当にあったことなのか)


 今一つ信じきれず、首を傾げざるを得ないのである。


 戦争が人を変えてしまう、一典型といっていい。

 

 

Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan01s3

 (Wikipediaより、五稜郭模型)

 


 そのうち江戸に留まっているのが、なんとなく苦痛になってきた。


(田舎にでも引っ込むか)


 幸い、美濃の岩村に旧領がある。


 そこに退隠することに決め、馬方を雇い、家財道具と有り金ぜんぶを運ばせた。


 このとき動員された馬の数が三十七匹にも及んだというから、腐っても旗本、並大抵の豊かさではない。


 中仙道をゆくうちに、馬方の中に悪心を起こす者があり、夜の合間に担当していた荷物ごと何処かへ姿をくらましてしまう――持ち逃げ事件が多発した。


 にも拘らず、金十郎の面上にはさしたる怒りも見られない。彼の意識は江戸からこっち、ずっと雲の上に在り、下界の騒ぎがどうにも聴こえにくかったのだろう。


 雇い主のそんな態度を、馬方は却って不気味に思った。


 馬は日に日に目減りして、岩村に到着する時分には、出発当初の半分以下の十七匹まで減ってしまっていたという。


(人の心のあさましさよ)


 が、それでも莫大な財産であることには変わりない。


 持ち逃げされた二十匹のほとんどが家財道具を積んでおいた馬であり、有り金にはほとんど手をつけられていないのも大きかった。


 金十郎は旧領の者から「殿様」呼びで尊敬されて、何不自由ない暮らしを始めた。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20200320173048j:plain

岩村町富田地区)

 


 といって、すっかり無気力に陥っていた彼のこと。人目を引くような贅沢もせねば、土地の子供を駆り集めて教育を施すわけでもない。岩村に退隠中の金十郎は、少しずつ目減りしてゆく財産を眺めながらただ息をしているだけの生き物だった。


(なんということだ)


 この齢で、まるで枯れ木のような――と我ながらときに愕然とするが、再び世の表舞台に打って出ようと決心するほどたくましい精神的弾性は、どうにもこうにも見出せない。


 そのうち周囲に何くれとなく世話を焼きたがる者があり、その紹介で土地の娘を妻に迎えた。


 この妻のすすめで小金貸しを始めても見たが、当然のように上手くいかない。


士族の商法の泥沼に、片足を突っ込みかけたと言ってよかろう。この歴史的失敗者の群れについては、昭和六年に日本を旅した英国人――エレリー・セジュウィックの評が鋭い。

 


 農民がその国の領主に貢ものを納めるといふ往昔からの古い制度に出発してゐる所謂藩制問題を解決するため明治天皇はそれ等の収入を集成して国庫の金となし給ふた。(中略)藩士たちはうんと懐を温かくして貰って耳には商法に従事せよといふ御詔を聴きながら新生活へのスタートを切ったのであるが、その商才たるや木偶であって無為無能なることが農工商の上に立つ金看板として数百年このかた先祖代々大切に伝来されてきたものであるから、彼らサムライ達は謂はば伝家の宝刀を打ち伸ばして金銭登録器を作らうとしたものである。サムライの商法である。日本武士最後の突撃である。かのフロワサール年代記でもこの突撃ほど望み薄な決死隊を行ってゐない。(『外人の見た日本の横顔』384頁)

 


 フロワサール年代記とは、1322年から1400年にかけてのフランス百年戦争前半部を書き綴ったジャン・フロワサールの大著作。


 中世ヨーロッパの騎士道文化を記録した文化的傑作とも評される、そんな代物を敢えて引っ張ってきたわけである。

 

 

Froissart

 (Wikipediaより、フロワサール像)

 


 セジュウィックは更にこの後、

 


 金銭を阿賭物として賤しむだサムライたちが浮沈常ならぬ混戦乱舞の商人世界に乗出して金儲けが出来るといふのなら、ドンキホーテが村の店で番人を勤めることだって六ヶ敷いことではなかったらう。(同上)

 


 と、皮肉を言わせたら右に出る者のない英人らしさの面目躍如と洒落込んでいる。


 しかしながら幸いにも金十郎は、この決死隊から途中離脱に成功した。


 妻の前歴になにやらよからぬ気色ありと嗅ぎつけるや、あっという間にこれを離縁。それを機に、彼女のすすめた金貸し業も一切畳んでしまったのである。


 泥沼逝きはすんでのところで回避した。


 しかしながらこの一件で旧領の岩村もなんだか居心地が悪くなり、やむなく彼は「東京」と改称された江戸へと戻る。


 このあたり、金十郎という男は本当に、浮草のように定見がなく、あっちへふらふらこっちへふらふら、尻を蹴飛ばしてしまいたくなる。


 しかしながらこの「浮草」は再び訪れた東京で、錦絵になり後々まで語り継がれるほどの大立ち回りを演ずるのだ。


 大久保金十郎の名を一躍世間に轟かせる数奇な運命さだめは、まさにこの瞬間からひらけるのである。

 

 

 

 

 


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誤字脱字奇譚 ―女神の報復―

 

 その日、新聞を開いたドイツ国民は一様に驚愕の嵐に見舞われ、危うく顎を落っことしかけた。


 こともあろうに、あのビスマルクが。


 帝政ドイツの立役者たる鉄血宰相その人が、よりにもよって議会という、権威の殿堂のど真ん中で、


「余は総ての少女らと親善なる・・・・関係・・を維持していることを喜ぶ」


 と演説したと報じられれば、そりゃあそうもなるだろう。


 悪童時代のビスマルク――若干15で女遊びを習得し、農民の女性や保母を相手に経験を積み、磨き抜かれた手腕で以って貴族の娘や牧師の娘やフランス人の人妻と関係を結びまくった手の着けられない女ったらし――を知る人々は、さてこそあやつめ、昔の血が騒ぎ出し、古代専制君主さながらの「処女権」獲得に乗り出すつもりかと真っ赤になって憤慨したほどである。

 

 

Otto von Bismarck, Jugendbildnis im Alter von 22 Jahren

 (Wikipediaより、22歳のビスマルク

 


 が、一連の誤解は春の淡雪よりも容易くとけた。


 なんのことはない、これはちょっとしたヒューマンエラーで、「列強」を意味する「Mächten」という単語を何処ぞの職工が二字組み間違え、「Mädchen」――「女の子」と刷ってしまっただけだった。よって、本来のビスマルクの演説は、


「余は総ての列強と親善なる関係を維持していることを喜ぶ」


 こうなるわけだ。


 外交家としては悪魔的手腕を持つオットー・フォン・ビスマルクのこと、なにもおかしな点はない。


 それがたった二つのアルファベットを組み間違えただけのことで、斯くもドイツ社会を騒擾させる。誤字脱字の恐ろしさが伝わろうというものだ。

 


 とある大衆作家は誤字脱字をして、銀シャリに紛れ込んだ砂粒」と評した。

 


 一握りにも満たないほんのわずかな量であっても、食感を妨げること甚だしい。


 21世紀の科学力を以ってしてさえ、未だこの不純物の一掃は成し遂げられないままなのだ。況してや19世紀という、一文字一文字手作業で活字ブロックを嵌め込んでゆく必要のある、あの時代に於いてをや。

 

 

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 誤字脱字は日常茶飯事といってよく、如何なる権力者であろうともこの脅威から逃れることは叶わなかった。


 ナポレオン・ボナパルトでさえ、その被害に遭っている。


 即位後の彼が張り出した諭告の中に、


「朕はフランス軍の盗賊的行為を嘉す」


 という一文があって、やはり大騒ぎを惹起したのだ。


 皇帝陛下を襲ったこの誤植は鉄血宰相よりも一文字少なく、「勇敢」を表す「Valeur」の「a」をうっかり「o」と取り違え、「盗人」を意味する「Voleur」になってしまっていたというもの。

 


 特に秀逸な一例は、とある無神論が自説を纏め、「God is nowhere」――「神は存在せず」という表題の大論文に仕上げた際のことである。

 

 如何なる運命の悪戯か、印刷にまわしたこの論文は活字が途中で切れてしまって、「nowhere」の一字が「now here」の二字に分割されることとなり、「God is now here」――「神は現にここに在り」と、本来の意図とは正反対の結論を掲げてしまったそうな。


 これなどは存在を否定された運命の女神が、その面当てに特別に糸車を手繰ったようで趣深い。

 

 

Strudwick- A Golden Thread

 (Wikipediaより、運命の三女神)

 


 それから最後に、これは若干趣旨が違うが、今書いておかないとついに発表の機会を失いそうなので付記しておきたい。


 明治の聖代、尾崎行雄アメリカを旅したときのことだ。


 西部の旅宿に泊まった彼は、唐突に以前この大陸で口にした、酸味の強い赤い野菜を喰いたくなった。


 ところがソレの名前というのが、どうにもこうにも出てこない。あと三十年もすれば日本人でトマトの名を知らぬ者などほとんどいなくなるのだが、当時はまだ「知る人ぞ知る」の枕詞が十分に相応しい頃だった。


 脳内回路の、どこがどう間違って繋がったのか。苦心惨憺の末、とうとう彼の口からまろびでたのは、

 


「トマホウクを持って来い」(『咢堂漫談』335頁)

 


 という一言だった。

 

 

NezPerce Tomahawk

 (Wikipediaより、トマホーク)

 

 
 ミサイルなど影も形も存在しないこの時代、トマホークといえばインディアンの用いるあの手斧以外に有り得ない。


 給仕人は呆然と突っ立ち、咢堂の顔を凝視するほかなかったという。

 

 

 

 

 


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