穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

明治三十一年の台湾旅行 ―下村海南の見た景色―

 

 下村海南がはじめて台湾の土を踏んだのは、明治三十一年、彼が二十四歳の折。


 東京帝大を卒業し、逓信省に入りたての頃であり、本人の言を借りるなら、「別に会社を訪問するでもなし、取調らべるといふでなし、いやせねばならぬといふではなし。一逓信属としてよりは、大学ポット出の若造として、台湾に放浪した(『プリズム』155頁)のである。

 

 

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 新任の官吏に斯くも気楽な旅行が与えられたことについては、むろんのこと事情がある。


 そも、海南は当時の要路にツテを持ち、入省後すぐの洋行が内々ながらに決定していた。


 ところがいざ逓信省入りを果たしてみると、意外にも当時の内閣がぶっ潰れる椿事が発生。この崩落に海南の「ツテ」も巻き込まれ、洋行も何もあったものではなくなってしまう。


(話が違う)


 と、若き日の海南は叫びたかったに違いない。彼自身『プリズム』に於ける回想で、「僕は不平をならべぼやき・・・立て」と、ふてくされていたのを認めている。なんともはや青臭い、始末の悪い若輩だったと。


 そんな彼を見かねてか、同郷の先輩で湯川寛吉なる人が、息抜きがてらに行ってこいと出張という名を借りて、態々あつらえてくれたのが、この台湾旅行だったのである。
 なお湯川は、後に官を辞して住友に移り、住友五代目総理事として君臨し、日本の経済史にその名を印することとなる。

 

 

Yukawa Kankichi

Wikipediaより、湯川寛吉) 

 


 ともあれ先輩の温かい心遣いによって機嫌を直した海南は、神戸港から新造船の台南丸に乗り込んで、意気揚々と台湾へ渡る。

 ところが当時の台湾は、およそ「蕃地」という単語から連想されるすべてのものを含んでいたといっていい。上陸早々海南は、その洗礼を大いに浴びる。

 


 安平の沖合につくと、竹の筏、あのてつぱい・・・・にしばりつけられてある大きな盥の中へ乗りうつる。長い長い竹筏のはしけ・・・から上陸する。土人の辮髪や垢や汗でぷんぷん臭ふ、小さい低い人力車に乗って台南に入る。鄭成功の神社も赤崁楼も、今も昔のままであるが、当時の台南の街の狭苦しさ、暑さ臭さは今日では一寸想像もできない。そこへペストが猖獗をきはめてる。(『プリズム』153頁)

 


 別に台湾のみが殊更不潔だったわけでなく、当時のアジア各国は大方こんなものだったろう。理学博士の三宅恒方が大正六年に出先の朝鮮から送った書信に、

 


 朝鮮に来てみたら病気の多いのに驚いた。こんな危険な所へ弱い体を提げて来た自分の馬鹿らしさが自分乍らあきれる。(中略)朝鮮赤痢マラリヤ赤痢等多く、殊にチフスは悪性で大抵は助からぬさうだ。之から行く元山には非常に多いので弱り切って居る。今日行った所の所長も其為に死んだとか。××氏は朝鮮に来る度に遺言状を置いてくるとか。(中略)始めからこんなと知ったら決して来ない筈だった。此処の官吏が何故に金が高いかは、辺鄙で生命の危険があるからである。(『学者膝栗毛』206頁)

 


 と申し述べている点、このあたりの消息をよく示している。


 以下、『プリズム』からの抜粋に戻る。

 


 毎日ペスト新患者は五十名を下らない。どこの役所も会社も、入り口で石炭酸をふりかける事になってる。少しでも創口きづぐちがあっては伝染の憂ありと、蚊に刺されたあとも、ニキビを潰したあとも、皆即効紙をはりつけてる。全市あげてペストに脅威されてる折も折、僕の到着した日は病魔退散の日とあって、群衆は関帝廟から関羽の像をかつぎ出して市中を練り廻はした。そのまた関帝廟の神主? がペストになって、避病院へ収容にかかる、イヤ神主がペストにかかるはずが無いと、群衆が神主の入院を承知しない。ワイワイと邪魔立てするといふ騒々しさであった。(『プリズム』153頁)

 

 

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 この他にも毎日のように何処其処で土匪や生蕃の襲撃があったと聞かされて、若き日の海南はまったく衝撃を受けてしまった。


 総督府では時の通信課長、菊池末太郎の紹介で、民生長官に就任して未だ間もない後藤新平と面会している。まさか約二十年後の自分自身が、後藤の腰掛けているそのイスに座ることになろうとは、預言者にあらざる海南は夢にも思わなかったろう。

 


 このように、初めての台湾旅行はたいへんな衝撃を伴って海南の心に焼き付いた。

 


 それから約四十年後の昭和十年、みずからもその仕上げに尽力した「新たなる台湾」の姿を、海南はこう物語る。

 


 今日では二萬噸級の船が基隆高雄の岸壁に横付けされる事になった。軌道鉄路は網の如く島内を縫ふてゐる。ペストも土匪も全滅した、マラリアも生蕃も影をひそめた。
 教育の普及、交通の発達、殖産の振興、治安の維持もさる事ながら、衛生の進歩に伴ふ島内人口の動きを見よ。領台前のままであったなら、中華民国の下にくっついておるとして、清朝より化外の民といはれた台湾は、今日果してどうなったであらう。
 そりゃたしかによくもなった、しかしどれもこれも日本内地本位であるといふ人もあらう。いかにも台湾のための日本本土ではない、それは台湾のための支那本土でなきが如くである。(同上、156頁)

 


 万感胸に迫るものがあったろう。大工が思い通りの仕事を果たしたような、しみじみとした満足感が伝わってくる。

 

 

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 それにしても、「そりゃたしかによくもなった、しかしどれもこれも日本内地本位であるといふ人もあらう。いかにも台湾のための日本本土ではない、それは台湾のための支那本土でなきが如くである」という、この切り返しのあざやかさときたらどうであろう。
 この一文だけで、海南が幼稚な善悪論や薄っぺらい人情論を超越した、堂々たる合理主義精神を保有していたことがわかる。


 事実、彼が台湾人の権利増進に極めて積極的だったのも、彼一個の統治哲学に基づく利益優先主義から湧き出ていたに相違なかった。


 海南に言わせれば、斯くの如く文化が栄え、人々の知的水準が向上すれば、遅かれ早かれ必ず「自治」を求めて運動を始める。これは水が上から下に流れるに等しい自然の摂理で人力で覆すことは誰にも出来ない。


 そのときになってから、つまり火を噴くが如き熱烈なる民衆運動に押し切られる格好で権利を認めるようでは駄目なのだ。それでは民衆に「官」に対する勝利感を味わわせ、更なる反政府運動へと奔らしめる結果に繋がる。果ては独立運動にまで至りかねない。


 日本内地の利益をこそ本位とする海南にとって、それは到底許容可能な範囲でなかった。だからこそ、

 


 民衆の要望の声が非常に強くなり、その力に押されて余儀なくさういふ制度を布かなければならなくなるよりも大勢の動きを見時の推移を考へて、早めて与へるといふ形の方がよい(同上、564頁)

 


 という献策に至るのである。
 民衆に勝利の感覚を味わわせない。「獲得」ではなく、あくまで「与える」。些細なことだが、鉄砲の照準と同じく、その些細な相違によって齎される結果の差異は絶大である。


 下村海南、人間心理の微妙さを、おそろしいほど知悉しきった男であった。

 

 

玉音放送をプロデュースした男―下村宏

玉音放送をプロデュースした男―下村宏

 

 

 

 


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戦前の男女共学校

 

 大日本帝国時代の学制といえば、「男女七つにして席を同じゅうせず」との儒教道徳を遵奉して、性別により学び舎はおろかその教科内容まで劃然と区別されていたというのがまず一般的な認識だが、何にでも例外はつきものとみえ、所謂「今風」な男女共学校というのも当時に於いて既にちらほら存在していた。


 下村海南がそれを見ている。島根県安来実業学校と、そこからそう離れていない、やはり県立の平田実業学校がそうである。


 この二校では男子も女子も同じ校舎にて学び、同じ運動場にて遊び、同じ実習園で開墾作業に従事するといった光景が、ごく当たり前に展開していた。しかもそれで――少なくとも海南の視た限りでは――取り立てて事々しく騒ぐべき、何らの問題も起きたりしていなかったのだ。


 もっともこの両校が共学制を採ったのは、別段校長に男女同権だの何だのと、その種のイデオロギスト的な側面があったからでは全然なく、単に県の財政が極めて貧弱だったゆえ別々に校舎を建てられず、窮した末の苦肉の策としてそのようにしたに過ぎないという、なんとも世知辛い理由に基づく。


 それが意外な好結果を齎したことを、しかし海南は素直に喜び、

 


 たまたま投じられた此一石は、くさぐさの波紋をゑがいてゆく事とおもふ。(『プリズム』410頁)

 


 と、希望を籠めて書いている。
 下村海南という男には、こうした自由主義的、開明主義的な傾向があった。

 

 

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 そのことは、彼の台湾に対する態度ひとつをとってもわかる。海南は台湾の権利増進のため非常に骨を折った人物で、大正八年、第7代台湾総督明石元二郎が郷里の福岡で死去した際など、彼が台湾の発展に如何に貢献したかを縷々と説き、せめて台湾に分骨することは出来ないかと働きかけることまでしている。

 

 

Akashi Motojiroh

Wikipediaより、明石元二郎

 


 日露戦争に於いては諜報面で空前絶後の活躍を遂げ、発病さえしなければ、次期総理大臣の見込みすら濃厚だった男の骨を、外地にくれと言ったのだ。


 その意味するところは重大であろう。実現したなら、内地人の意識下に在る台湾像の重々しさが、飛躍的に向上するのは間違いない。


 もっともこの提案は、大日本帝国の伝説的フィクサー、怪傑杉山茂丸翁の暗躍により、分骨どころか元二郎の遺骸がそっくりそのまま台湾に向けて送りつけられる運びとなって、


 ――まあ、せいぜい遺髪が送られて来れば御の字だろう。


 程度に考えていた海南を、逆に魂消たまげさせている。
 このため明石元二郎の遺骨は今も台湾の地に眠り、郷里たる福岡の墓地には遺髪が納められただけという格好になっているのだ。


「杉山という人はぜんたいどんな手を使い、どう遺族を説得してあんなことを実現したのか、未だにさっぱり見当がつかぬ」


 と、つくづく海南は不思議がり、終生杉山を畏敬した。

 

 

Sugiyama Sigemaru

Wikipediaより、杉山茂丸) 

 


 ちなみに安来実業学校は県立安来高等学校として、平田実業学校は県立平田高等学校として、それぞれ今日にまで続いている。

 

 

父杉山茂丸を語る
 

 

 

 


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「よう死んで来てくれた」 ―北陸線列車雪崩直撃事故異聞―

 

 その青年を、相馬御風はよく知っていた。


 糸魚川はその北側を海に面し、南には山また山の重畳する、海岸に沿って東西に細長い町である。平地など猫の額ほどしかなく、おまけに風の荒さは折り紙つきで、昔から大火の絶えない土地だ。


 青年は、そんな糸魚川蓮台寺地区と云う、相馬御風の住居より若干山際に近いところに棲んでいた。

 

 

Itoigawa city center area Aerial photograph.1976

Wikipediaより、昭和51年の糸魚川市

 


 相馬がその著書『雑草の如く』に於いて「F」と呼称するこの彼は、二十代の若々しい精気を凝り固めたかのような人柄で、常に明るく、自信と情熱に満ちており、特に農事の改良に対して積極的な取り組みに努める、所謂「地方青年」の模範たるに相応しい男ぶりだったそうである。


 頭の出来もしっかりしている、そんな彼が、人心を集めないはずがない。事実Fは、蓮台寺地区の若衆頭みたような地位におさまり――しかも殊更に自分から求めたわけでなく、自然に推戴されるような形で――、彼の指示のもと、地区の若い男という男どもが一糸乱れず動く仕組みがきちりと出来上がっていた。


 社会奉仕に地域振興にと、Fは能く組織を統御し、多方面に役立てたという。


 そんな彼が、大正十一年二月三日の、あの運命の日に齎された親不知方面除雪作業の人員募集のみに限って例外に措くはずもない。いつものように若い衆を駆り集め、自分が陣頭指揮を執り、公に尽くすべく出立した。


 この地区の青年層の、ほとんど全部を率いていたという。


 そして帰路、疲労困憊たる彼らを乗せた第65列車を例の大雪崩が直撃し、たった2名を残してその悉くが死亡した。

 

 

fox-moon.hatenablog.com

 


 悲劇という表現さえも、この現実を前にしては生温い。Fの行動が燃えるが如き赤誠に基いていたのは明らかで、本来壮とすべきそのおこないが、よもやこんな結果を招くとは。働き盛りの壮丁をねこそぎ喪い、これからこの村はいったいどうなるというのだろう。――


 誰も彼もが絶望のドン底に突き落とされて不安と悲しみに苦吟しつつも、しかしFを攻撃する声が上がらなかったのは、彼ら北陸びとの品位を証明するものといっていい。

 毎年のように自然からむごたらしい仕打ちを受けていながら、しかし決してそれを怨まず、苛酷な環境にそれでも寄り添いうまく随順する道をこそ選び、結果としてよく鍛冶たんやされた彼らの人間性が如何に輝かしきものか、あざやかに証明されているではないか。


 が、それでもたった一人だけ、Fの責任を深刻な問題として捉えずにはいられなかった者が居た。


 他ならぬ、Fの父親その人である。


 彼が例のプラットフォームで変わり果てた息子の姿と対面したとき、果たしてどのような態度で以って迎えたかは、その場に於いて遺体収容作業に従事していた相馬御風の記述をそのまま引用させてほしい。

 


 頭から上がひどく圧し潰されてむごたらしく変形してゐた其の死骸が、いよいよ彼の面前に運び出された刹那、はね飛ばされたやうにその傍に駆け寄って、つくづく其の醜く変わり果てた息子の顔を見ながら、
「よう死んで来てくれた。お前が生き残ったりなんかした日にゃ、俺は村の人達に顔向けがならんがだった。ほんとによく死んで来てくれた」
 かう叫んだ時の、彼のあの亢奮した様子を、私は今なほ一層あきらかに憶ひ浮かべることが出来る。(『雑草が如く』、361頁)

 

 

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 なんということであろう。


 本来子供にとって、「親に先立つ」以上の不孝はないはずだのに、この倒錯はどうしたことか。責任感と呼ぶにしてはあまりに、あまりに熾烈に過ぎる。
 第一、そんな単純なくくり・・・に収まるものでもないだろう。あらゆる情念が限界を超えて荒れ狂い、極彩色のそれらが綯い交ぜになって渦を巻く、人間性の極致とでも呼ぶべきものだ。

 


 あまりに数多い、あまりにむごたらしい死体を見つづけて来た為に、いつとはなしに神経が麻痺しかけて居た私達は、その瞬間、突如として再び人間らしい心に引き戻されて、居合はせた者は皆泣かずにはゐられなかった。(同上)

 


 相馬の反応もむべなるかな。
 このときこの場所にあっては、誰であろうとただ泣く以外にどうしようもないであろう。


 当時の日本人に、「塞翁が馬」の古諺が受け入れられないわけである。


 この諺のもととなった物語、その後半では、馬から落ちて足の骨を折ったおかげで老人の息子は徴兵をまぬがれ、同じ村の若者たちが悉く兵士となって戦死したにも拘らず、彼のみは生き永らえることが出来、めでたしめでたしと終わるわけだが、当時出版された書籍をめくってみると、


 ――冗談じゃない、少しもめでたくなんかあるもんか。


 例外なく、そのような論旨で一致している。


 当時の日本人にとってはこの場合、村の朋輩達と共に枕を並べて死ぬることこそ男道に適った在り方に他ならず、そう出来なかったことを悔いるどころかよかったよかったと胸を撫で下ろすような親子の精神性に対しては、嘔吐を催さずにはいられぬほどの軽蔑の念が湧くらしい。


 現代と引き比べて鑑みるに、ほとんど別人種の感があろう。同じ民族が、たった一世紀を挟んだだけでこうも変貌を遂げるものか。

 


 まあ、それはいい。

 


 Fの死後、彼の日記が発見された。ほぼ一日も欠かさずつけられており、Fの真面目な性格をよく反映したものである。

 


一月二十九日
雪降る西風強し、小生等三人にて屋根の雪おろしをす。
一月三十日
雪降る西風甚だし、小生等停車場の除雪に行く、実に驚くべし汽車の立往生で何共お話にならず、大風吹く。
一月三十一日
前夜は小生等の仲間五人夜番に居残りて夜中警戒につくす、実に大風にて致し方なし、前夜より汽車立往生、新町寺町間に機関車六台立往生せり、それを出すに十二時迄もかかれり。
二月一日
珍しき晴天となる、午後小生等又停車場へ除雪に行く、十三人なり、夜据風呂立つ。
二月二日
二日続きの晴天なり、同様の作業に従事せり、小生等の組は十七人なり。

(『雑草が如く』360頁)

 


 彼が如何に郷里の為に、身を粉にして奮闘したかが否が応でも伝わってくる。父にとっては、きっと自慢の息子だったに違いない。


 こんな親子もいたのだと、こんな人情もあったのだと、本日六月十六日、この「父の日」の拭うが如き青天に、しみじみ感じ入らずにはいられなかった。

 

 

雪崩教本 雪崩対策必読の書 Avoid a Avalanche Crisis

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夢路紀行抄 ―心臓祭り―

 

 夢を見た。
 猟奇的な夢である。


 夢のなか、中学生に戻った私は教師から、耳を疑う指令を受けた。なんでも新学期を始める前に心臓を取り換える必要があるから、これで適当に見繕って来いと言うのである。


 教科書を買い揃えろとでも告げるに等しい、いともさりげない口ぶりだった。


 それで手渡されたのが、何の変哲もない鈍色の鍵。わかりましたと返答し、私は迷わず階段を下りた。
 鍵は、学校の地下室のものだった。中に入ればあるわあるわ、無機質な蛍光灯の輝きの下、棚という棚に陳列された心臓の数々。


 円筒状のガラスケースに収められ、透明な薬液にぷかぷか浮いてるいかにも・・・・といった風情のモノがあるかと思えば、ぞんざいにビニールぶくろに突っ込まれ、くるくると丸められただけのモノがあったりと、扱いにひどい差があった。
 透明なビニールぶくろから、膿が漏れ出て棚を黄ばませていたのが印象深い。


 しかしながらそれにも増して私の眼を釘付けにしたのは、心臓を格納している容器、その片隅に貼られた「採集場所」と「採集日時」を書き込むシール、そこに記入された文字という文字が悉く、「ヤーナム」であったことである。


 ――なんということだ。


 こんな代物を移植されて、果たして人間のままでいられるのか? ――と、私が戦慄したのもむべなるかな。あの呪われた古い医療の街から取り出された心臓が、決してまともなはずもないであろう。そのことを私は、知りすぎるほどに知っている。たとえ茫洋たる夢の中でも、その認識だけは揺らがなかった。

 

 

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 さてこそ我が学び舎は、ビルゲンワースに連なるものかと底冷えするような怖気に襲われたところで目が覚めた。


 布団を跳ね上げ、胸に縫合痕がないのを確認したとき、私がどれほど安堵したかはちょっと筆には書き起こし難い。

 

 

Bloodborne オリジナルサウンドトラック

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関東大震災と親不知の大雪崩 ―北陸びとのこころ―

 

 

東京から
来た子供ひとり
ぼんやり空を
ながめてる
空にゃ赤いとんぼ
いっぱいとんでゐる

 


 大正十二年関東大震災をテーマに、新潟の小学生が作った歌だ。


 平成二十三年東日本大震災が文字通り列島を震撼させた当時にも、実家の近くのアパートに福島から避難してきた家族があったのを思い出す。


 それを痛ましく思えども、ただ痛ましく思うだけで、その感傷をこのように、歌という芸術の域まで高めることは到底私には成し得なかった。

 年端もいかぬ小学生が本当にこれを作れたのか、父兄の代作ではないか――と、つい下衆な勘繰りに思考が奔ってしまうほど、秀逸な出来栄えといっていい。


 が、新潟という場所と、この地方が置かれていた歴史的状況を勘案するに、これは少しも不自然ではないやもしれぬ。


 新潟では遡ること一年余り、大正十一年二月三日に日本史上最悪の雪崩による鉄道事故――北陸線列車雪崩直撃事故が起きているのだ。

 

 

北陸線列車雪崩直撃事故現場写真 東京日日新聞大正11年2月7日9面

Wikipediaより、東京日日新聞に掲載された事故現場写真) 

 


 この年の降雪量ときたら、如何な豪雪地帯のこの地方でも異常としか言い様のないほど莫大極まるものだった。
 列車は毎日のように立ち往生して、その都度問題解消のために附近の村落から雪掻き人足が駆り集められ、寒風吹きすさぶなか汗みどろになってスコップを動かしたものである。


 事故発生当日の二月三日も、やはり市振駅親不知駅の間で雪崩が発生。不通になったこの鉄路を通行可能に復すべく、200名近くの人員が送り込まれた。


 県知事、鉄道省、そして陸軍省は当初、夜を徹してでもこの除雪作業を完遂させる予定であった。が、前二日が立て続けに晴天だった影響だろうか、この日は明け方から気温が上がり、雪ではなく季節外れの雨となり、しかも夕刻以降はいよいよ以って雨脚が強まり、紛うことなき大雨と化した。


 当然、作業が捗るはずもない。やむなく徹夜の予定は中止され、作業員たちは糸魚川行きの第65列車に乗り込み、ほっと一息つきながら、帰路をたどることとなる。


 しかし多くの乗客にとって、第65列車は安らげる温かな家でなく、冥府にこそ直通していた。

 

 

北陸線列車雪崩直撃事故 事故前の現場 東京朝日新聞大正11年2月5日2面

Wikipediaより、雪が降る前の現場付近の写真)

 


 だいたい20時を過ぎていくばくかのあたりだろう。列車は深谷トンネルを抜け、勝山トンネル西口にさしかかったところで汽笛を鳴らした。
 夜の闇を引き裂いて周囲に響いたその音に、あたかも呼応するかの如く、勝山の山腹で異変が発生。およそ1000坪――3.3平方キロメートル――に及ぶであろう範囲の雪がにわかに崩れ、100メートル超の位置エネルギーの導きのまま斜面を進み、無防備な列車を急襲したのだ。


 その威力ときたら、破壊的と呼ぶ以外にない。


 特に被害の大きかった3・4両目の車体など、床部分を残してそれより上の一切が粉砕されていたと云う。


 雪は血と肉片で真っ赤に染まった。


 この大惨事の実景を、巨細余さず目撃していた者がいる。列車が目指していた糸魚川に居を構える自然主義的文筆家、相馬御風その人である。

 

 

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 早稲田大学校歌、都の西北の作詞者たるこの人物が目の当たりにした遺体収容作業の凄まじさときたら、ほとんど地獄と変わらない。

 


 死骸は牛馬の死体でも運ぶやうにいづれも貨物車の上に藁を敷いてその上に列べてよこたへられてゐた。そして列車がプラットフォームに着くと、人々は臨時に用意された藁縄製のモッコ同様の担架でそれらの死骸を一つ一つ指定された収容所へと運ぶのであった。死体はいづれも草鞋まで穿いたままの作業姿であった。どの死体もどの死体も顔面は一様に紫色に脹れ上ってゐた。頭がつぶれて、眼の玉の飛び出てゐるのもあった。頭から上がひどく圧しつぶされ滅茶々々になってゐるのもあった。腰から下がもぎ去られ臓腑が悉く露出してゐるのもあった。頭が破れて脳味噌の出てしまったのもあった。手のないもの、足のないもの、シャベルが胸から背へと突立ってゐるもの、車体の破片らしい太い木片が、腹から背へ突通ったままになってゐるもの……そしてどれもこれも皆血みどろになってゐた。(相馬御風著『雑草の如く』356頁)

 


 200名の乗員のうち、死者90名、負傷者40名。
 それが最終的な被害報告とされている。


 親不知の嶮は古より難所として知られた場所だが、一度にこれほどの被害が出たのは嘗てなかったに違いない。


 相馬自身もこの事故で、幼友達を一人亡くした。


 この惨禍の傷痕もまだ生々しい、翌十二年の九月一日に関東大震災が起きたのである。


 北陸の人々の精神が天災に対して敏感になっていたとしても、少しも不自然ではないだろう。事実として新潟の某市役所では震災の報が伝わって間もなく、義援金募集の呼びかけも何もしていないのに身なりのよくない老婆が窓口にあらわれ、百円札を差し出して、


 ――地震で困っている人たちに、どうかお役立てて下せえ。


 と訴える光景が展開されてる。係員が詳しく聞くと、この老婆は親不知の大雪崩で息子を亡くし、その際世間から寄せられた「慈悲」によって多少なりとも救われるところがあったらしい。
 この百円はその「慈悲」の残りに他ならず、関東の天地に苦悶の声が満ちた今、今度は自分の番なりと思いこうして持ち寄ったものだという。

 


みんな燃えた
東京は
黒い、黒い原になった、
どんなにさびしい
ことだろ
夜になったら
なほさびしかろ
月が出たらば
なほ、なほさびしかろ

 


 こうした歌の詠み手たる小学校の生徒達にも、或いはやはり大雪崩で肉親を喪った者が居たやも知れぬ。
 ゆえにこそ共感力が最大限に高まって、斯様に結実したのだろう。


 まこと日本は災害大国。ゆえにこそ培われてきた美しさとて、きっとある。

 

 

良寛坊物語 新装版

良寛坊物語 新装版

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―強制労働―

 

 夢を見た。
 収容所にぶち込まれる夢である。


 最初、私は船の甲板に立っていた。


 今となっては映画の中か、どこぞのテーマパークにでも赴かねばまずお目にかかれぬ、古式ゆかしき三本マストの風帆船の甲板に、だ。

 


 周囲は暗い。夜の海を、船は滑るように進む。

 


 と、あたりの闇がにわかな盛り上がりを見せた。
 不審に思う暇もなく、その盛り上がり・・・・・から幾条もの光線が発射される。
 サーチライトの照射であった。


 いつの間に忍び寄ったのだろう、D-Dayにノルマンディーの岸辺へ雲霞の如く押し寄せた、あのLCVPにそっくりな船がこちらを完全に包囲しており、蟻の這い出る隙間もないのだ。

 

 

Darke APA-159 - LCVP 18

Wikipediaより、LCVP) 

 


 乗り込んできた兵士達に、為す術もなく捕縛された。


 縄を打たれて体育館に詰め込まれたかと思うと、窓が閉められカーテンが引かれ、一切の明りが落とされて、正面スクリーンに映し出されたのは大英帝国の絢爛たる歴史を物語るドキュメンタリー映像。斯くも偉大なる我々の為に働けることを光栄に思え、いっそ感涙にむせび泣けとか、そんな趣旨だったように記憶している。


 その後は強制労働が待っていた。


 黒ずんだ皮膚の老人が、得体の知れぬ海産物を干物にする作業に従事していた。
 私はというと、コーンスープのぶちまけられた板敷の床を雑巾で以って拭かされた。
 出来栄えをチェックしに来た先輩に、拭き方が下手だと怒鳴りつけられ、なにをこの、てめえだって虜囚の分際で偉そうに、と嚇怒の炎に身を焼かれたあたりで目が覚めた。

 


『殉国憲兵の遺書』『アーロン収容所』を読み込んだ影響だろうか?


 それにしても、風邪をひくといつもより、夢を見やすいような気がする。
 不幸中の幸いと言うか、怪我の功名と呼ぶべきか。なんにせよ、思わぬ恩恵があるものだ。

 

 

アーロン収容所再訪 (中公文庫)

アーロン収容所再訪 (中公文庫)

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―三本立て―

 

 夢を見た。
 紫色の空の下、星のカービィシリーズに登場する無敵の砲台――正しくはシャッツォとか云う名前らしい――からの集中砲火を浴びせられる夢である。


 段差を利用したり、落とし穴に潜んだりしてなんとか命を繋いでいると、唐突に場面が切り替わる。気付けば私は白を基調とした浴室に在り、鏡の前でハサミを動かし、自分の髪を切っていた。


 最終的に、いい具合のスポーツ刈りになったと思う。


 ただ、右側頭部、耳から少し斜め上あたりの部分の髪が除草剤でも撒いたかの如く綺麗さっぱりなくなっているのには驚いた。その不毛地帯は歪んだ三角形を為しており、私は思わず冷や汗を流し、


 ――しまった、まずい、失敗した。なんたることか、これではとても外出できない。


 と、文字通り頭を抱えたものである。
 再度場面が転換したのはその時だ。私はいつの間にやら雪国に居て、ストーブを――マッチで点火する、白い円筒状のアレである――効かせた部屋の中から外の吹雪を眺めていた。


 すると目の前の網戸に、びたあん! と張り付いたものがある。


 胴体だけでも私の手のひらほどもある、なんとも巨大な蜘蛛だった。


 ガラス越しに節足が蠢くのを眺めていたが、こんな怪物が万が一にも部屋の中に侵入してくれば事である。殺虫剤を取りに行き、戻ってくると蜘蛛が蜘蛛でなくなっていた。


 そこにいたのは、黒っぽい毛皮に身を包んだ、福々しい狸の子供に他ならなかった。


 なんだ、さっきのは見間違えか、そりゃあそうだ、常識的に考えてあんな大きな蜘蛛なんぞが日本に棲息するわけがない――と安堵しながら窓を開け、狸を中に入れてやる。
 寝ていた猫が途端に跳び起き、この「新入り」に向かってシャーシャーと、威嚇の声を発したところで目が覚めた。

 

 

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 ただでさえ、熱で意識が朧になってる。
 見る夢が輪をかけて奇天烈になるのも当然だろう。

 

 

【指定第2類医薬品】バファリンA(80錠+10錠) 90錠

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