穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

霊威あふるる和歌撰集 ―「神術霊妙秘蔵書」より―

 

 

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

 


 古今和歌集「仮名序」からの抜粋である。


 王朝時代の貴族らは、和歌の効能というものをこんな具合に見積もっていた。


 要するに和歌さえ詠んでおけば、旱天に雨雲を呼ぶことも、また逆に長雨を吹き払うことも可能だし、それどころか愛し女の心を手に入れ、子孫殷昌を楽しむ願いもまた叶う。疫病退散、鬼神調伏、四海安全、天下泰平、なんでもござれ。まこと歌こそ万能である――。


 彼らは一途にそう信じ、日夜せっせと作品づくりに勤しんだ。


 ――斯くもありがたき三十一文字みそひともじと。


 やはり神秘の業を用いて世に様々な利福を齎す陰陽道とが、いつまでも無縁でいられるわけがなく。やがて両者は絡み合い、別ち難く融合してゆくこととなる。


 その実例を、明治四十二年発行、『神術霊妙秘蔵書』に探してみよう。

 

 

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 まずはこれ、「逃走の人足留する秘伝」から。

 

 

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 縦線四本に横線五本、計九本の直線から成る格子のマーク。


 ヒトガタの向かって右側に配置されたこの印は、どう見ても「ドーマン」以外のなにものでもない。


 このヒトガタに向かい、猿田彦大御神に祈念しながら以下の二首を唱えることで、標的の脚はあら不思議、それ以上前に進むことが不可能になり、やがて来る追手の人数になすすべなく捕獲されてしまうという寸法だ。

 

 

くりよせてその行くやらん此里へ
今ぞかへりき伊勢の神垣

西東にしひがし北南きたみなみにも未申ひつじさる
戌亥丑寅辰巳のがさん
 


 また、

 

 

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 このような符を設えて、東西南北四つの○に釘を打ち込むことでも同様の効果が期待できた。


 どちらにしても、年齢と名が必要らしい。


 古人が真実の名をひた隠しに隠したのも頷けよう。

 


 お次はまさに冒頭に掲げた例のまま、「互に思ふ情を通ずる秘伝」

 


 以下に示した通りの札を、その年の恵方を向きながら記すことから術は始まる。

 

 

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「急々如律令という、これまた定番の文句が見えるであろう。


 首尾よく書き上げることが出来たら、今度はそれを枕の下に敷くようにして、毎晩眠りに落ちる前、次の歌を三べんづつ誦するのだ。

 

 

虎と見て石に立つ矢のためしあり
などか思ひの通らさらまじ

 


 なんのことはない、一昔前に流行した「枕の下に好きな人の写真を敷いて眠ると夢の中で逢うことが出来る」というヤツと、所詮同一の筆法である。


 枕とは即ち魂の蔵。蟲師にも確かそんなような話があった。人体の中でいちばん大事な頭部を預けるだけあって、これに関する迷信は根強い。

 


 三つ目は「疝気病全治の呪詛秘伝」

 


 疝気とは下腹部の痛みを総称する漢方用語で、胃炎、胆嚢炎、胆石、腸炎等々が主な原因となっている。


 一連の不調に襲われた際には、

 

 

神かけて心たゆまず引留めん
いかに疝気のすじをひくとも
 


 上の歌が書かれた紙で入念に患部を摩した後、それを枯れたヘチマの中に入れ、陽の昇らざる未明のうちに川に流せば癒えるとされた。


 そのとき、決して背後を振り返らずに、真っ直ぐ家へ帰るのが肝要だという。


 陰陽術というよりも、むしろ神道の気配が強い。

 

 

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 最後に紹介する「虫歯痛全治の禁厭法」は、とりわけ複雑な工程を踏むシロモノである。


 この術はまず、患者の足裏に墨を塗り、紙を踏ませて足形をとるに開始する。


 首尾よくそれが出来たなら、今度は用紙を縦三つ・横三つに折り畳み、その表面にドーマンを書き、痛む歯のある側の手に握らせるのだ。


 更に患者の口をして、

 

 

日の出日の入波留部はるべ由良ゆら々々
 
 
 と唱えさせつつ、右の頬を打ち、左の頬を打ち、また右左右と都合五回も打った後、今度は顔一面に筆で以って○を書く。


 ここまで来て漸く和歌の出番となるのだ。

 

 

うつきには巽の山の谷かつら
本たち切れば葉もかるゝらん

香具山の木の葉を喰ふ虫あらば
皆さし殺せよろづ代の神
 


 これらの歌を吟じさせ、しかしながらまだ終わらない。


 握らせておいた紙を取り出し、竈の近くの柱を選んで釘で打ち付けねばならぬのだ。やがて首尾よく虫歯の痛みが引いたなら、今度はその釘を引き抜いて、問題の紙を小さく丸め、庭の雨垂れが落ちるあたりに埋めてやる。


 その盛土を患者の足で入念に踏み固め置くことにより、やっと術は完成を見る。


 複雑怪奇としかいいようがない。


 しかしながらその複雑さが、却ってありがたがられもしたのだろうか。明治末まで伝えられている以上、実行した者が少なからず在ったのだろう。


 追い詰められれば藁であろうと縋らずにはいられない、人情の哀しさが感得される。

 

 

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贖罪と逃避の境界 ―あるトラック運転手の死―

 

 事のあらましは単純である。


 子供が轢かれた。


 トラックの車輪と地面との間に挟まれたのだ。


 無事でいられるわけがない。


 搬送された病院で、翌日息を引き取った。


 運転手は、真面目で責任感の強い好漢だった。


 それだけに罪の意識もひとしおだったに違いない。やがて堪えられなくなって、海に身を投げ自殺した。


 場所は、大島沖であったという。

 

 

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 事故発生から自殺までの数日間。運転手がつけていた日記帳が遺されている。


 昭和十二年刊行、島影盟著『死の心境』からその部分を抜粋したい。

 

 

五月三十一日


 今日は何といふ極悪の日だったらう。ペンを持つさへ恐しい。当時の記憶がまざまざと頭に走馬燈の様に浮び出て来る。一層いっそ、菊丸からでも投身自殺でもしようか。そしてせめて保険金で十分の慰藉は出来ぬにしても、出来るだけのことをしてもらはうか。それを想ふとき、父、母、兄、姉、弟と次々にその顔がフィルムのやうに現れる。どんなに悲しまれるだらうか。それよりも、もっともっと悲しまれるのは………あの子の両親は眠った間とてお忘れになる事が出来ぬだらう。あの子のお母さんがいった。「代れるものなら自分で怪我したかった」そしてもう一度、「一層死んでしまってくれるものならなまじ不びんも残るまいに」俺も思った。死なれるものならあまり苦しまず、癒るものならちっとでも跛の程度の少ないやうに。誠をもって罪を償はしてもらうことが、今となってせめてもの義務であり、かつ本意だ。

 


 事故当日。これを書いている時点ではまだ被害者は生きており、生死の境を彷徨っている状態だったのだろう。


 が、天秤はそう時を経ず、「死」の側へと決定的に傾いた。

 

 

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六月二日


 父親はいろいろいふ。俺は穴でもあれば、否、それ所ぢゃない、死んでしまひたい。(午後七時半記)清さんの一本足ぢゃ三途の川や死出のやみ路が越せないだらう。俺はその時は親代わりとなって、共々に、あの話に聞いたり絵に見たりして居た、エデンの園か極楽へ行かう。

 


 亡くなった子供は、清という名前だったようである。
 日記の記述、なお続く。

 


 二日は朝から病院につき切りだ。示談書をもらはんとしてだ。何と誤解してゐるのか、非常に怒ってゐる。てんで話もろくすっぽしてゐない俺を何と誤解してゐるのだい………俺は自動車で轢いたんぢゃないぞ。清さんが後車輪の少し前で極端にいったら飛び込んで来たんだともいへるのだ。もっとも、警部補が来た場合、実地検査の場合、俺は成る可く被害者に有利な様にいってるけれど、ちっとも俺の方に有利な様にいってないぞ。俺は最後にいふ。俺は君の嚇してゐるやうに、検事局に行くのが恐しいのぢゃない。免許証を取り上げられ、失業するのが恐しいのぢゃないぞ。

 


 子供というのは分別がつかぬ。


 分別がつかぬからこそ子供なのだ。


 ほんの一瞬、親が注意を切っただけで、もう突拍子もないことをやらかしている。


 私自身、さんざん覚えのあることだ。


 この事故はどうやら、そんな幼さゆえの特性が、最悪のタイミングで発揮されてしまった結果らしい。


 それを知らずに、知ろうともせずに、外野は加害者を責め立てる。


 運転手にしてみれば、不可抗力だと、あんなものどうやって避ければいいんだと逆上したくなる事態であろう。


 しかし彼はそうしなかった。自制心を総動員して耐え抜いた。


 が、滲み出る口惜しさは隠せない。文脈のはしばしから、明らかにそうした心の機微が見て取れる。

 

 

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六月四日


 あの世の人となってしまってゐるはずだったのに、もう三日も延びた訳だ。今夜こそもう死ぬ。それが一番楽しい。海中に投じてせめて十四貫の身体で魚類の腹を肥さう。

 


 そして彼は、この内容を実施した。


 その行為には多角的な観方が成り立つだろう。あな潔し、日本男児として相応しい責任の取り方だとも、安っぽいヒロイズムに陶酔した果ての愚行、「逃げ」の一種でしかないだろうとも。


 しかしながら、これだけは言える。昨年四月池袋にて無謀な運転をした挙句、母子二人を轢き殺し、他八名に重軽傷を負わせた身でありながら、逮捕されることもなく、娑婆の大気を恥ずかしげもなく呼吸しているどこぞの「上級国民」よりも、このトラックの運転手の方が人間として何兆倍もマシであろう、と。


 読書を通じて、先人に対し申し訳なさを覚えたのは久々だ。

 

 

 

 

 


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切腹したキリスト教徒 ―排日移民法への抗議―

 

 大正十三年五月三十一日の陽が昇るや、榎坂にある井上勝純かつずみ子爵の屋敷はたいへんな騒ぎに見舞われた。


 庭に、異物が出現している。


 死体である。


 白襦袢に羽織袴を着付けたひとりの中年男性が、腹を十文字に掻っ捌き、咽喉を突いてみずからつくった血の海に、うつ伏せに沈んでいたのであった。

 

 

Katsuzumi Inoue

 (Wikipediaより、井上勝純)

 


「昨晩まで、確かにこんなものはなかった」


 深夜、闇に紛れて侵入し、自害したのは疑いがない。


 しかし何故、この庭先で――? 彼の面相を見知る者は誰もなかった。


 疑念は死骸の前に置かれた遺書によって明かされる。宛先にはサイラス・E・ウッズ――現職の米国大使の名前が。


 内容は、ほんの数日前合衆国大統領クーリッジが署名した、所謂「排日移民法に対する抗議であった。

 


 余が死を以って排日条項削除を求むるのは、貴国が常に人道上の立場より、平和を愛好唱道せられ、平和指導者として世界の重きを思はしめつゝある貴国が、率先して排日法案の如き人道を無視した決議を両院通過して法律となす如きは、実に意外の感に耐へざるなり。

 


 と、余計な挨拶を挟まずに、冒頭からしていきなり本題に切り込んでいる。

 


 人類生存上憤怒する場合種々あるも、恥辱を与へられたる憤怒は堪へ難きなり。恥しめらるべき事情ありて恥しめらる、大いに悔いて忍はるべからず。故なくして恥しめらる、憤怒せざらんと欲するも堪へ難きなり。余は日本人なり。今やまさに列国環視の前において、貴国の為めに恥しめらる。故なくして恥しめらる。

 


 なにか、こちらに落ち度あっての懲罰ならば我慢もしよう。


 深く自省し、二度と再び繰り返すまいと次に繋げる努力も出来る。


 しかし今回のこれ・・そう・・ではない。そんな性質の代物では断じてない。我々は、ただ日本人であるというだけの理由で白昼公然と面罵され、ここから失せろと打擲された――。


 少なくとも書き手の眼には、排日移民法とはそういうものに映ったらしい。

 

 
 生きて永く貴国人に怨みを含むより死して貴国より伝へられたる博愛の教義を研究し、聖キリストの批判を仰ぎ、併せて聖キリストにより貴国人民の反省を求め、なほ一層幸福増進を祈ると共に、我日本人の恥しめられたる新移民法により、排日条項の削除せられんことを祈らんとするにあり。

大日本帝国無名の一民

 

 

Bundesarchiv Bild 102-00598, Tokio, Demonstranten vor amerikanischer Botschaft

 (Wikipediaより、排日移民法に抗議するデモ)

 


「当家は米国大使館に隣接している」


 夜の暗さに欺かれたか、あるいは流石に大使館の警備は潜り抜けられぬと観念して、隣の庭で間に合わせたか。


 いずれにせよ、古式に則った見事な切腹の仕様であった。


 一貫して乱れなく、端正な文字の風韻からして、よほどの覚悟あってのことと推察される。


「こやつ、さてはキリスト教徒だったのではあるまいか」


 遺書を一読した者達は、ほとんど皆おしなべてそのような感想を口にした。

 

 

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 厚く天主に帰依したればこそ、同じ宗旨であるはずのアメリカの無道が一層ゆるせず、いわば「身内の恥を雪ぐ」思いも手伝って、ここまでのふるまいに及んだのではあるまいか、と。

 


アメリカ心酔者にとってはよいみせしめだと思ひます。自殺した人も大方平生アメリカを信じてゐたため、欺かれたといふ憤激を深くしたのでせう」

 


 東京女子医科大学創立者吉岡彌生もこのような見解を口にした。


 そういえば、やはり敬虔なキリスト教徒であった島田三郎も、大正二年カリフォルニアで排日土地法が可決された際には首筋まで真っ赤にして憤激し、口汚くアメリカを罵っている。


 東京神田青年会館の壇上から、彼はこのように獅子吼したのだ。

 


 排日案として現れた議案三十七、その中には日本人の土地所有禁止ばかりではなく、洗濯業の打破、漁業者の重税、酒類販売を禁止してホテル業、飲食業を廃業せしめようとする意図まで含んでゐる。この不真面目極まる排日案を、狂熱に浮かされ叫んでゐる北部加州人は、実に英国の政策によってオーストラリアから加州に送った殺人、強盗、無政府主義などの罪人の子孫、又は罪人それ自身である。かやうな兇悪獰猛な罪人と、一攫千金を夢見た山師達が、加州移住民の祖先であるから、人道などの判る筈はない。

 


 島田の舌鋒は鋭利すぎるほどに鋭利であった。


 さすが田中正造の盟友として、彼と、彼の闘争を支え続けただけはある。

 

 

Saburo Shimada

 (Wikipediaより、島田三郎)

 


 島田の演説、未だ終わらず。一言ごとにボルテージを上げながら継続される。

 


 加州は、今から六十八年前、即ち日本の弘化三年メキシコから分離し、嘉永二年に合衆国に併合せられたのだ。当時は人煙絶えたる無人の荒野であったが、併合と同時に金山発見せられ評判となり、続々坑夫や例の罪人が来たのである。それを今日開拓したのは誰であるか? 実に日本人である。開拓の大恩人たる日本人に酬ゆるかくの如き悪虐が、米国の国家としての態度であるならば、日本人は正に蹶起せなければならぬ。

 


 いささか誇張の気味はあるが、まんざら根も葉もない話でもない。


 実際問題、この排日土地法で在米邦人が50万エーカー余りの土地を没収されたのは確かであった。


 メートル法に換算して、およそ2023平方キロメートルに相当する。


 琵琶湖を三倍してもなお僅かに及ばぬ数字。それも単なる荒蕪地ではなく、彼の地へ渡った日本人が鍬を入れ、肥料を施し、後生大事に育み上げた土地なのだ。


 なるほど島田三郎が「蹶起」を奨めたくなるのも納得である。案の定、国内には米国討つべしの声が高まり、その激しさはグレート・ホワイト・フリート以来最高潮と評してよいものだった。

 

 

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 米国の自由の精神なるものが種々変る。時には帝国主義めく時もある。世界に対しお山の大将めく時もある。時には金貨主義めく時もある。所謂人道主義めく時もある。若し本当に自由の女神をして米国を象徴させる気ならせめて手は握っただけにして捧げるものを自由に取り換へられるやうにするがいい。
 国の傾向の変化するままに或はサーベルを持たさせなければならぬ時があったろう。或は珠算盤を持たせるのが一番表現的な時もあらう或は玩具の采配を持たすのが一番米国らしい時もあらう。
 記念像なぞといふものは気取った嘘を形に作り上げるまでのものだ。

 


 漫画家岡本一平は、名著『紙上世界一周漫画漫遊』で合衆国をこう書いた。


 蓋し至言と呼ぶべきだろう。自由の女神が現在握っているのは何か、以前読み違えて大火傷を負った日本人は、くれぐれも目を凝らしておかねばならぬ。

 

 

 

 

 


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続・太平洋風雲録 ―白船来る―

 

 果然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 日本のみならず、アメリカ社会までもが、だ。


 ――宣戦布告に等しい所業ではあるまいか。


 主力艦隊を太平洋側に廻航するということは、である。


 ――ハーグ国際平和会議を主導した立場でありながら、敢えてそのような挑発的行為に踏み切れば、世界はどんな眼を向けるであろう。


 ダブルスタンダードを危惧する声もちらほら上がった。
 が、


「予は運河区域をとった。そして議会をして討論せしめた。討論がなお進んでいる間に、運河も進んだ」


 パナマ運河にまつわるこの格言からも窺える通り、元々セオドア・ルーズベルトとは、めだって剛腕な政治ぶりのある男。


 一旦やると決めたなら万難を排して突進する、ある種猛牛的気質を有する。


 このときも、その特性が遺憾なく発動されたものらしい。エリフ・ルートに書簡を送付してからおよそ五ヶ月後、1907年12月16日。艦隊はついにバージニア州ハンプトン・ローズの港を発し、予定の航路を進みはじめた。

 

 

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Wikipediaより、ハンプトン・ローズ出航の様子)

 


 戦艦十六隻、装甲巡洋艦二隻、駆逐艦六隻、補助艦八隻、のべ三十二隻から成る堂々たる陣容である。


 ルーズベルトはこの艦隊の目的を、帝政ドイツ海軍大臣ルフレート・フォン・ティルピッツに向け、


「予は日本をして憐れむべきロジェストヴェンスキー(筆者註、バルチック艦隊司令長官)とは全然別種なる白人種の艦隊が、他に存在することを知らしむるを得策と認めた」


 と説明したが、なるほどそれだけの迫力は十分にあったことだろう。


 この時期、パナマ運河は未だ完成していない。


 艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を経由して、漸く太平洋に進み出た。


 欧州各国でも


「もはや日米の衝突は不可避になった」


 との論調が盛り上がりをみせ、フランスでは日本の国債が暴落し、何故かスペインが軍資金の提供を持ちかけてくる滑稽な事態に。


 大方、米西戦争の意趣返しがしたかったのだろう。が、


(大概にしてくれ)


 日本としてはそのような復讐心に付き合ってやる義理はない。


 対米戦争など狂気の沙汰事、どう転ぼうが結局は日本にとって自殺以外のなにごとにも成り得ぬと、首脳陣は余すところなく知っていた。


 彼らはむしろこれを機に、日米間の緊張をどうにかして解きほぐしたく、だから外務大臣林董の、


 ――ここは一番、我が方から艦隊の寄港を要請し、諸手を挙げて歓迎するに如かず。


 との提案に、膝を打って賛意を示した。

 

 

Hayashi Tadasu 1910

 (Wikipediaより、林董)

 


 しかしながら当時の社会的空気の中でこの方針を貫徹するのは、よほど至難であったろう。


 なにせ、東京五大新聞の一角を占める報知新聞をしてすらが、

 


…由来、米国人は文明を以て誇るものなれど、実際彼等の為す所を顧みれば、毫も文明国民として称するに足るものなし。彼等の文明は唯だ物質文明にして、其精神は全々野蛮なり。支那人は屡々排外運動を試み、近くは三十三年に団匪の暴発となりたるが、今回米国の排日運動は団匪の暴発と毫も択ぶ所なく、団匪の暴発は支那なりしが為、列国の激怒に触れ、文明の敵として鎮圧せられたりしが、米国の団匪は米国なるが為、列国間の問題とならず、日本人間にさえも頗る寛大にこれを観察し、両国の交情を破るなからんことを望むと云ふが如き、微温なまぬるき議論を吐くものあり。在米の我同胞が斯くの如き侮辱を受くる時に当り、強て両国の交情を云々するは余輩の解する能はざる所にして、交情を破るものは米国にして日本に非ず。国際関係は対等なるべく、我国の名誉を犠牲に供してまでも、強いて彼の歓心を求むるの必要いずくに在るや。

 


 このような過激な言辞を振りかざして憚らぬ始末。

 

 

The Carpenter Hanshichi of Fukagawa Seizes His Daughter's Attacker LACMA M.84.31.150

Wikipediaより、報知新聞) 

 


 迂闊に口を滑らせようものならば、売国奴の烙印を押され暗殺目的の壮士が殺到しかねない状況。当局者は、さぞかし神経を磨り減らしたことだろう。


 が、苦しみに堪え、彼らはその難行をやり遂げた。1908年10月18日、米国艦隊――グレート・ホワイト・フリートが横浜港に投錨すると、日本人は「朝野を挙げてこれを歓迎」する姿勢をみせ、一週間の滞在中、決して彼らを飽きさせないよう努力した。


 渋沢栄一東郷平八郎まで動員しての接待だったというのだから、その必死さ加減がわかるであろう。


 あまりに意を尽くし心を砕いたそのふるまいに、口さがのない米国紙などは、


「ブルドックの鼻息に畏縮せるフォックス・テリアの醜態に似たり」


 と冷笑を浴びせたほどだった。


 グレート・ホワイト・フリートを派遣して正解だった、甲斐があったと、きっと誰しもが思っただろう。


 セオドア・ルーズベルトはこの艦隊が任務を果たし、合衆国に帰還するのを見届けてから、およそ半月後の1909年3月4日、大統領職を退いている。

 

 

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 引退後はアフリカに向かい、みずから銃をぶっ放しての猛獣狩りに明け暮れて、大いに愉しみ鬱懐を散じきったあと、帰路すがらちょっとベルリンに寄り、前述のアルフレート・ティルピッツと顔を合わせて談話に耽った。


 その際、グレート・ホワイト・フリートも話題の俎上に載せられている。


 ティルピッツが


「あの時自分は日本が、米国主力艦隊の遠航中を奇貨として、アメリカに攻撃を加えるだろうと予測していた。貴下はそうした憂慮を抱かざりしや」


 と訊ねたところ、ルーズベルトは、


「十に一つはそんな事があるかも知れないと考えていた。そして勿論、日本にして開戦するも、将又平和的態度を持続するも、どちらの態度に出ようとも十分対処可能なように準備は整えてあったとも」


 と、容易ならぬ返事をしている。


 1941年12月8日を思うとき、日本人にとってはどこか宿命的な響きすら感ぜられる言葉であろう。


 大国というのは、全く以って羨ましい。

 

 

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太平洋風雲録 ―明治末期の日米間危機―

 

 日米開戦の危機というのは、なにも昭和に突入してからにわかに騒がれだした話ではない。


 満州事変の遥か以前、それこそ明治の昔から、大真面目に論議され検討され続けてきたテーマであった。


 サンフランシスコ・コール紙などは1906年10月に「If Japan should attack us」なる記事を載せ、いざ事が起きた場合の予測を披露。それによれば、サンフランシスコはいっとき日本軍の占領下に置かれようが、やがてアメリカはこれを回復、軍艦を進め太平洋の向こう側まで逆撃し、日本列島の港湾という港湾を悉く封鎖。
 ついには陸軍を上陸せしめ各都市を制圧、終極の勝利を飾るであろう――こんな具合に結んでいる。

 

 

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 旭日旗がサンフランシスコの街路を練り歩く挿絵までつけて、なんともセンセーショナルな報道だ。これを見た市民は、勢い日本への敵愾心と危機感を募らせずにはいられぬだろう。

 


 分水嶺は、やはり日露戦争にこそ見出せる。

 


 あのいくさアメリカが何くれとなく日本の世話を焼いたのは、なにも日本の立場に同情し、正義人道の赴くところに従ったからでは全然ない。


 彼らの脳中、ただ利だけがある。満洲に蟠踞し、しつこく南下の執念を燃やし続けるロシアを追って、代わりに自分達こそが東亜の覇権を掌握せんと企図したからだ。


 アメリカとロシアの確執は古い。シベリアの曠野を東へ東へと進み続けたロシア人は、驚くべきことにベーリング海峡に到達してなお停止せず、アラスカに渡り年々北米大陸西岸を南下、サンフランシスコ附近にまで出没し、1821年には太平洋北緯50度以北を自国領海と宣言するまでに至っている。


 建国間もないアメリカにとって、これは非常なストレスだった。


 歴史に名高い「モンロー主義にも、このロシア人の跳梁を抑止せんとする意図が含まれていたといえば、おおよその雰囲気は察せよう。


 ついでながら「モンロー主義」ほど時代時代でご都合主義的な解釈を施された理念というのも珍しく、その得手勝手さは自国民ですら眉をひそめずにはいられぬほどで、


モンロー主義は伸縮自在なることインドゴムに似る」


 とニューヨーク・サンが揶揄すれば、


モンロー主義はその初め大統領が作り上げたのであるが、その後幾度となく改造されて、今では生みの親すら見分けのつかぬ子になった」


 ニューヨーク・プレスがこう書き立てる始末であった。

 

 

NewYorkSun1834LR

 (Wikipediaより、ニューヨーク・サン)

 


 まあ、それはいい。


 このとき生じた恐露感情はその後ながらく尾を引いた。


「東方問題はもはやコンスタンティノープルを中心とせず、シベリア鉄道の完成によって旅順港に転ぜしめられたのである」


 とか、


満洲遼東半島に於けるロシアの実際的優越権はもはや疑う余地がない。従って牛荘条約港――この港の輸入する綿織物の半分以上は合衆国から来るのである――は、何時でもロシア帝国の一部であると宣言され得る」


 とかいったアメリカ知識人の言論が、どれほど日本を利したか知れない。


 今次戦役に於けるアメリカの意図が那辺に在るか、はっきり日本に告げもした。国務大臣ジョン・ヘイの口から、金子堅太郎に語って曰く、

 


「私は外務大臣として支那に向っては門戸開放、機会均等と云ふことを宣言した。それをロシアが門戸開放をせずして満洲には外国人を入れぬ。満洲に於いては機会均等ではない。満洲はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。而して日本では満洲も矢張支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろと言ふ。此の結果が、今日の戦争になったのである。詰りアメリカの政策を日本が維持するが為の戦ひであると謂っても良いから、今度の戦争はアメリカが日本に御礼を言はなければならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦に就ては一致して居るから、アメリカは日本に同情を寄せることは疑ひない」(『日露戦役秘録』67頁)

 

 

John Hay, bw photo portrait, 1897

 (Wikipediaより、ジョン・ヘイ)

 


 ところが周知の通り、いざ戦争が終わってみると日本は露骨に満洲からアメリカ資本を排除する態度を見せた。合衆国の便利な道具に飽き足らず――独立国としては当然なことだが――、みずからが東亜の盟主に踊り出んとの野気を示した。

 
 ――おのれなんたる僭越か。


 合衆国は激怒した。


 この瞬間、情勢は既に一変したといっていい。


 日露戦争からたった一年。


 たった一年で米国内には排日論が横行し、カリフォルニア州を中心として移民に対する襲撃事件が続発。冒頭に掲げた日米開戦論の類が紙上を飾るようになってしまった。


 こうなれば、日本も黙っていられない。真っ先に輿論が沸騰しだした。ヤンキーがそうまでりたいというのなら、よかろう、受けて立ってやる。その予測が如何に楽観主義に基いた、現実から遊離したものであったのか、今際の際で悟るがいいさ――。


 未だ敗北を知らぬ国民は血の気が有り余っており、恐れることなく意見を尖鋭化させてゆく。それこそ即ち、アメリカが待ち望んでいたものであると気付かぬままに。


 合衆国は日米関係の悪化を受けて、その原因を日本の「傲慢」にありと解釈。その傲慢を打ち砕くには、言葉にあらず、ただ実力を以って威嚇するより他にないと断を下した。

 

 

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 1907年7月13日、セオドア・ルーズベルト国務長官エリフ・ルートに宛てた書簡ときたらどうであろう。

 


…予は日米両国間の関係に対しては、他の問題以上に心労する。幸いにして我が海軍は整備し、今や世界を巡行すべき好時機である。第一に予は思う、此の巡航は米国海軍の為すあるを示すにおいて、平和的良果を挙ぐるを得べく、第二には、予は時局に於いて海軍当局と熟慮を重ねた末、平時に於いて太平洋上に一大艦隊を遊弋せしめて、我が海軍の為すあるを示し、依って以って戦時の実験を避けしむることは、米国にとりて絶対必要なりと、予は確信するに至った。

 


 意味するところは、大西洋艦隊の西海岸への廻航


 そして同艦隊を以ってして太平洋をぐるりと巡る、壮大な軍旅の構想だった。


 棍棒外交の極致と看做していいだろう。是非善悪は抜きにして、アメリ・・・・であることは疑いを差し挟む余地がない。

 

 

文庫 日米衝突の萌芽: 1898-1918 (草思社文庫)

文庫 日米衝突の萌芽: 1898-1918 (草思社文庫)

 

 

 

 


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アメリカ草創期の小話 ―エンプレス・オブ・チャイナ号―


 ワシントンの誕生日にまつわる小話でもしてみよう。


 平岡熙例の逸話に触発されての試みである。


 ジョージ・ワシントン

 

 

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アメリカ建国の父」として不朽の名を青史に刻んだこの人物が誕生したのは、1732年2月22日、今で云うバージニア州ウェストモアランドに於いてであった。


 それから半世紀ばかり時間を飛ばして、1784年2月22日。


 ワシントンが52歳を迎えたこの日、一隻のクリッパー船がニューヨークを出航している。


 船名は、エンプレス・オブ・チャイナ号


 持ち主の名はロバート・モリス。


 やがて米中貿易の草分けとして語り継がれる、一番最初に両国間を往来した商船だった。

 

 

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 積荷はおよそ50トン。うち10トンを毛皮・呉絽・綿花・鉛・胡椒等が占めており、では残り40トンは何かというと、これがニンジンだったというからなんとも意外な感に打たれる。


 もっともニンジンとは言い条、爽やかなオレンジ色をした、食卓の常連たる例のセリ科野菜をイメージしてもらっては困る。


 正確な名はアメリカニンジンウコギ科に属する薬用植物の一種であって、根がときに人の形に似るあたり、マンドレイクにむしろ近い。


 主な効果は滋養強壮、解熱鎮静。アメリカ人にとってはニューイングランドウェストバージニアの山中に簇生する雑草に過ぎないこの植物が、しかしひとたび海を越え、支那大陸に持ち込まれるや生薬の原料としてひどく珍重されるのだ。


 八年続いた独立戦争の傷痕深く、疲弊しきった国力の回復にあくせくしているアメリカにとって、これほど好都合な輸出品は他にない。原価はほとんどタダに等しく、単に運びさえしたならば、金貨の山へと化けるのだから。

 

 

GinsengMarathonCityWisconsin

 (Wikipediaより、ウィスコンシン州アメリカニンジン畑)

 


 船は喜望峰を経由して広東に向かった。


 この当時、アメリカは未だ13洲。大西洋とアパラチア山脈とに挟まれたほんの僅かな――後世の視座からすればまったく僅かな――範囲を占有しているに過ぎない。


 当然太平洋航路など夢物語以外のなにものでもなく。エンプレス・オブ・チャイナ号はまずアフリカ大陸最南端を経由してインド洋に突入し、それから漸く太平洋に入ったわけだ。


 その航行期間中、積荷の監督を行ったのは海軍少佐ショーなる男。ワシントンの良き友であり、独立戦争で勇戦したこの人物は、やがてワシントンが大統領に就任すると、広東領事の大任を拝命している。


 この一事からおよそ察しはつくであろうが、エンプレス・オブ・チャイナ号は成功した。


 無事広東に到着し、積荷を捌き、代わりに紅茶・緑茶・麻布・陶器・絹等々を積み込んで、ニューヨークに戻ってきたのが翌年5月。投資額12万ドルに対して、純益3万3千ドルを叩き出すという文句のつけようがない黒字ぶり。成功も成功、大成功と評してよかろう。


 このエンプレス・オブ・チャイナ号の成功が、アメリカの対中貿易熱を大いに煽った。


 一攫千金を夢見る勇者が殺到し、彼らはときに60トンの小型船を操ってでも万里の波濤に挑んだという。

 

 

The Port of Canton

 (Wikipediaより、1830年の広州)

 


 自己の運命を、実力で以ってこじ開けようとしたわけだ。


 なんともはや、野気に溢れる時代であった。


 アメリカニンジンはその後中国でも栽培されるに至ったが、品質では今一歩「本場の品」に及ばぬらしい。


 最高級の栄冠は、ウィスコンシン州のそれにこそ相応しいとの評判である。

 

 

植物はなぜ薬を作るのか (文春新書)

植物はなぜ薬を作るのか (文春新書)

  • 作者:斉藤 和季
  • 発売日: 2017/02/17
  • メディア: 新書
 

 

 

 


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長禄の江戸、慶長の江戸 ―古地図見比べ―


 かつての江戸の民草は、台風の接近を察知するとはや家財道具を担ぎ出し、船に積み込み、そのともづなを御城近くの樹々の幹に繋いだという。


 高潮来れば、この一帯は海になる。


 狂瀾怒涛渦を巻き、人も家も噛み砕いては沖へと浚う荒海に、だ。


 無慈悲な自然の暴威に対し、せめてもの抵抗を試みるならそれしかなかった。家康公が入府して、土地自体に抜本的な改革を施すまでこの習慣ならわしは続いたという。

 

 当時の江戸がどれほど海にほど近く、そこいらじゅう沼沢だらけの湿った土地であったか示す、格好の逸話であるだろう。このことについては、既に幾度も触れてきた。

 

 

 


 近頃もとめた丸ノ内 今と昔』(昭和十六年、冨山房より発刊)の効により、このあたりの智識が更に補強されたので記したい。


 何はともあれ、まずはこれを見て欲しいのだ。

 

 

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 長禄年間、太田道灌が築城してから間もない江戸の地図である。


 ところどころに漁村が点在しているほかは、一面渺茫たる野であった。


 城内・含雪亭の欄干から外を見はるかした道灌が、

 

我が庵は松原つづき海近く
富士の高嶺を軒端にぞ見る


 と詠んだのも蓋し納得の風景である。


 もう一枚、こちらは慶長年間の江戸の地図

 

 

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 既に神田山は切り崩されて、その土砂で埋め立てが行われた後だろう。街らしい姿が整いつつある。屋敷地の他にも、門に竹藪、橋、川筋と、記載は多岐に及んで精妙である。


 この地図の元々の持ち主は、下総国松戸宿――現在の千葉県松戸市松戸本町――にて薬商を営んでいた山下友右衛門なる男。祖父の代から当家に受け継がれた品であり、更にその祖父・市兵衛は小田原に住む山谷某なる医者に請い、写させてもらったのがはじまりという。


 当時に於ける地図の価値は、現代人の想像力では測り難い、途轍もないものがある。


 良き地図を得る事が、戦に於ける勝敗を決定付けることとてあった。ましてや慶長年間といえば未だ大坂に秀頼在りて、幕府の地盤定まり切らぬ不穏な時代。その最中に江戸という、徳川の本拠地の詳細な地図を描くというのは、命の危険を覚悟しなくば到底やれるものでない。


 誰が、何の目的でこれの「原典」を描いたのか。その力の入りようといい、結局は市井の棚の奥深くに隠されていたことといい、想像するとひどく浪漫を掻き立てられる。

 

 

 

 

 


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