穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

町飛脚の歩み ―定飛脚問屋への道程―

 

 寛文三年の公許によって、町飛脚には大小さまざまな変化が齎された。


 たとえば服装。これまでのように武士の格好をする必要が無くなって、飛脚夫の姿は全然町人のそれとなり、現代に生きる我々が「飛脚」と聞いてすぐ連想するあの軽装が一般的になったのである。


 ――改めて思うが、町人が侍に化けるなど本来ならば打ち首獄門級の重罪だろうに、その前非を毫も問い詰めた形跡のない江戸幕府とは、大度というか、なんというか。

 

 

Beato courier or postman

 (Wikipediaより、フェリーチェ・ベアトによる飛脚の着色写真)

 


 変化は根本的な業務形態にさえ及んだ。それまで――つまり大坂在番の保護下に営業していた時代には、大坂を発向した飛脚屋が江戸に着いてまず一番にやることは、適当な旅亭の軒先を借りて筵を広げ、運び来った数多の書簡をその上に並べることだったのだ。


 このようにして行き交う人々の縦覧に添え、行人その中にたまたま自分宛のものを発見すれば、飛脚屋に告げてこれを受け取る。このとき返書を送らなければならなくなった場合に備え、


「お前さんはいつ大坂あっちに戻るご予定だい」


 と訊ね置くのが、謂わば客たちの心得だった。


 これが町飛脚問屋として独立後はどうなったか、昭和十三年刊行の『国際通運株式会社史』より抜粋すると、

 


 日本橋の広小路に毎朝かますを据ゑ、飛脚の目印を立て、別段番人を置かず、差出人は書状又は荷物に賃銭を結付け、之れを叺の内に投じ、飛脚業者は毎夕之を取集めて、京阪地方の宛先へ運送したりしと伝ふ。(25頁)

 


 未熟なれども「郵便ポスト」のような仕組みが出来つつあって感慨深い。

 

 

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(中西義男 「アカイ ポスト」)

 


 また、これはあくまで普通便の話であって、「定六」と呼ばれる――東海道を六日で駆け抜けるところからこの名がついた――速達便の収集方法はまた違う。


 こちらは各飛脚屋が申し合わせて、ここは和泉屋、ここは山田屋といった具合に受け持ち区画を分担し、毎日一定の時刻になると収集人を派遣して、鈴を鳴らして巡廻させつつ、


「○○屋の定六でござアい」


 と呼ばわらしめた。


 客としてはいつこれが来るか分かっているから、用があるならその通路に於いて待ち伏せて、姿が見えれば呼び止めて書状を渡せばそれでよい。


 手渡しで頼める安心感もあったろう。私自身、ちょっと覚えのあることだ。学生時代、図書館の返却ボックスに確かに本を入れたのに、その後「未返却」という通達が来て騒ぎになったことがある。あれ以来、私の中で回収ボックスというものへの信頼感が失われ、図書館だろうがTSUTAYAだろうが返却時には必ずカウンターへ持って行く癖がついてしまった。

 


 まあ、それはいい。

 


 兎にも角にもこの巡廻制度はすこぶる好評を博したもので、後世に至るまで末永く運用されることとなる。


 しかしながら、世の中いい変化ばかりとはいかないもので。


 公許によって新たに発生した弊害というのも、むろんある。


 その最たるものは、やはり悪徳業者の増加だろう。どんな商売でもそれが儲かると知れた途端、類似の業者が雨後の筍の如くに生えてくる。これはもう、古今東西変わることなき人間世界の哲理であろう。

 

 

BambooShoot

 (Wikipediaより、群生する竹と筍)

 


 おまけにこの連中は後発組なだけあって、伝馬所を恐れる心が薄い。大坂在番に対して山吹色の菓子を用いなければ、ろくに人馬を供給してもらえなかった嘗ての時代を知らない。自分達の職業が、その実伝馬所役人の「好意」の上に成り立っているという自覚がないので、自然多くのトラブルを惹起した。


 迷惑するのは老舗である。ただでさえ泰平の世の効能により人口が増え、飛脚の需要が高まって、もはや伝馬所の供給力が飽和しつつあるときに、こんなことをされてはたまらない。住所不定の雲助あがりみたようなのが飛脚を名乗り、荷物を持ち逃げしたりする論外の沙汰も時々起こり、次第に彼らは対策の必要性を感じていった。


 そしてついに、安永元年(1772年)十一月十七日。江戸飛脚問屋九家の連名により、時の道中奉行安藤弾正少弼へ、陳情書が差し出されることとなる。


 この陳情書は全文が、前述の『国際通運株式会社史』14~19頁に亘って転載されている。
 長文だが、求めているところを要約すれば、「飛脚屋の株式の公認」、これに尽きよう。

 


 結果から言えば、この要求はみごと幕府に容れられる。

 


 が、それにはよほど慎重な討議が重ねられたものと見え、許可が下りたのは実に陳情から九年後の、天明二年十一月六日のこと。道中奉行は安藤弾正小弼から、桑原伊豆守に変わっていた。
 以下はそのときの触書である。

 


 近来各駅に於て、三都飛脚問屋、荷物の逓送を遅滞し、大に公用の停滞を致す。依て飛脚問屋、京屋弥兵衛、山城屋宗左衛門、木津六左衛門、山田屋八衛門、伏見屋五兵衛、鳥屋佐右衛門、大阪屋茂兵衛、和泉屋甚兵衛、十七屋孫兵衛の九家に命じ、其店頭に於て、各定飛脚問屋の招聘を掲げしめ、其行李は悉く定飛脚の会符を挿ましめ、其宰領には定飛脚の烙印札を付与し、各駅にも亦其鑑札を予付し、路地之と勘合し、皆お定め賃銭を以て往復なすを許す。各駅宜しく其の旨を体し、公私荷物を論ぜず、其の行李の着順に従て、駅馬及助郷馬を出し、片時と雖ども、其の逓送を遅滞すべからず。云々

 

 

Hagiokan fudaba

 (Wikipediaより、復元された高札場)

 


 これによってどんなことが起こったか?

 影響は甚大だったといっていい。

 まず株式を公認された九家――「定飛脚問屋」の許しがなければ、何人たりとも新たに町飛脚の営業を始めることが出来なくなった。


 謂わば、町飛脚を免許制にしたのである。各伝馬所も、町飛脚に人馬を供給することは「余裕がある場合の好意」ではなく「歴とした義務」になった。


 またその際の代金も、これまでのような季節・天候・街道の繁閑次第で上下させられる「相対賃銭」にあらずして、確固不動の「お定め賃銭」と設定される。


 この「お定め賃銭」、従来ならば諸侯の旅行及びその荷物運搬時にのみ適応される特権であり、それを解放したということは、幕府はよほど思い切ったと言わねばならない。
『国際通運株式会社史』の編纂者がこの「定飛脚問屋」誕生を以って、「我が国運輸史に於て、最も記念すべきものなり(20頁)と感激も露わに書いているのもむべなるかな。


 この日以降、町飛脚のサービスはいよいよ以って安定し、高まり続けたその声望は、ついに水戸・・紀州・・といった徳川御三家の公用物運送御用さえ招き寄せることになる。

 

 

Japanese crest Mito mitu Aoi

 (Wikipediaより、水戸三つ葉

 


 葵の御紋が刻まれた荷物を運ぶということは、当時の町人にとって夢かと見紛うばかりの光栄。四民は驚異の目をみはり、定飛脚問屋を見るしかなかった。

 


 やがて幕末に至ったとき。吸収・合併等々の紆余曲折を経た果てに、生き残っていた定飛脚問屋は計五軒

 

 

島屋佐右衛門
京屋弥兵衛
山田屋八左衛門
和泉屋甚兵衛
江戸屋仁三郎

 


 世に「五軒仲間」と通称された彼らこそ、維新を越えてなお運送業に従事し続け、ついには陸運元会社――現在の日本通運株式会社NIPPON EXPRESSへと繋がる組織――を築き上げる人々である。

 

 

飛脚走り-そうか、こんな走りがあった

飛脚走り-そうか、こんな走りがあった

  • 作者:田村 雄次
  • 出版社/メーカー: 東京図書出版
  • 発売日: 2018/02/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 


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日本国の物流史 ―町飛脚誕生にまつわるこもごも―

 

 町飛脚成立の経緯については、なかなか興味深い伝承がある。
 折角なので紹介しよう。こんな具合のあらすじだ。


 元和元年、家康公が豊臣家を覆滅し、大坂が主を失ったとき。幕府は当然、この政治的にも軍略的にも重要すぎる経済都市を諸侯の手に委ねる真似はしなかった。直轄領と為し、再建された大坂城には城代が置かれ、更に旗本から警備の人員を選出し、堅く守らせることになる。


 この大坂城御在番中の諸士こそが、意外にも町飛脚成立の鍵となるのだ。

 

 

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大坂城

 


 彼らの任期は通常一年から二年程度で、例外的に長引いたとしても五年を超えることはまずなかった。そのような短期出張だから、家族は当然江戸に残され、単身任地に馳せ向かうということになる。


 が、一年というのは存外長い。ましてやそれが大坂のような人情も風俗もまるで異なる西国となれば猶更だ。かてて加えて、当人が新婚の旦那ででもあった場合、単なる心寂しさでは済まされないことになる。


 男にとって何がいちばん物狂おしい危惧かといっても、おれの留守中に女房が何をやっているかという妄想に勝るものはないであろう。誰だって、

 

この噂 知らぬは亭主 ばかりなり


 と川柳子に諷されたような、馬鹿な目には遭いたくない。


 江戸に置いてきた女房の心を、なんとかして繋ぎ止めておく必要がある。それには手紙だ、手紙がいい。情の濃やかな手紙を送れば、彼女の空閨の寂しさもいくらか癒されることだろう。――…


 このような発想のもと江戸表との通信の道を開くべしと衆に説きまわってみたところ、たちまち多くの賛同者を得た。足腰の弱った父母の容態、子供たちの発育ぶり、顔には出さねど皆胸の内では故郷を想い続けていたらしい。


 斯くして制度が整えられる。


 御在番中の諸士は各々交代で以ってその家来を飛脚と為し、東海道筋の各駅伝馬所と連絡をとり、毎月三回江戸・大坂間を往復せしむべし。


 世人の云う、「三度飛脚」の始まりである。

 

 

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 これに目を付けたのが大坂町人。こと営利に関しては異様な嗅覚を誇るこの連中は、実はとうの昔から、江戸・大坂間の通信事業を始めれば大きな儲けを期待できると見抜いていた。


「天下の台所」たる大坂と、「天下第一の消費地たる江戸。この両都市間の商取引がいよいよ頻繁になるにつけ、自然な流れとして双方の商人同士で情報を交換する必要性が高まった。


 情報を掴むことが、すなわち商機を掴むことに直結する。


 伝達は、早ければ早いほどいい。


「諷刺や洒落は夏の牡丹餅よりも腐りが早い」と俗に言うが、商機の腐敗速度はそれ以上だ。もしこのあたりをよく飲み込んで、迅速・安全に書簡を届ける業者出現あらわれたなら、その者は瞬く間に巨利を博することが出来るだろう。


 そこまで見抜いておきながら、にも拘らず誰も実現に移していなかったのは、ひとえに伝馬所の利用困難による。

 

 

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東海道五十三次 藤枝 人馬継立)

 


 徳川家康がその街道整備政策の皮切りとして全国に布いたこの制度。宿駅という宿駅に一定数の人馬をあらかじめ用意させておき、これらを駅伝的に使うことで伝送速度を飛躍的に高からしめるという仕組み。これを利用することさえ出来たなら、その便利は計り知れない。


 幕府の法制上、それは許されていることなのである。伝馬所の主目的は官文書の往復、官用貨物の輸送及び幕吏諸侯の行旅のためと定められているものの、その人馬に余裕がある場合に限り、一般人民がこれを使ってもよいと規定されていた。


 が、使用にはむろんのこと代金を要し、おまけにその金額に関して一定した決まりがない。


 すべては各駅伝馬所詰めの役人の胸先三寸ということになる。


 この役人というのがまた「お上」の威光を笠に着て、町人をほとんど塵芥視し、たとえ人馬に余裕があっても容易に使用を許さないか、よしんば許したとしても暴利をふっかけてくるゆえに、とても商売が成り立たない。


 伝馬所を使わなければ高速通信は成り立たず、高速通信が成り立たないなら商人どもは金を払って態々輸送を頼まない。自家の中から適当な人員を選出し、そいつをにわか飛脚に仕立て上げる。


 ――結局のところ、絵に描いた餅か。


 そう諦観していた大坂人士は、しかし「三度飛脚」を見るに及んでにわかに再び立ち上がる。


 ――これこれ、これだ。これしかない。


 突破口を見付けた思いがしただろう。


 野心家どもは八方伝手を行使して、たちまち在番の諸士に接近。いくばくかの冥加金を納めた結果手に入れたのは、公然彼らの家来を装う権利――名をりることの黙認であった。

 

 

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 ほどなくして、東海道上に「三度飛脚」の姿が異様に増えることになる。


 むろん、大坂の町人どもが化けた姿だ。しかしながらちゃんと然るべき法被を着し、大小を差しているために、各駅の伝馬所もこれを「御在番の飛脚」と信ずるよりなく、請われるがまま異議なく人馬を供給した。


 かつての画餅は、ついに現実の美味へと変貌したのだ。予想通りこの事業は素晴らしい成果を上げた。その効能を、やがて幕府も無視できなくなり、文三(1663年)には名だたる13の業者に公許を与え、正式に町飛脚問屋を発足させている。しかしながらこれは所謂「現状の追認」に近しいもので、町飛脚の実質的な成立はそれよりずっと以前にまで遡ると見ていいだろう。


 徳川幕府にはこういった、悪く言えば粗雑な、良く言えば融通の利く体質が明らかにある。

 

 

江戸の飛脚―人と馬による情報通信史

江戸の飛脚―人と馬による情報通信史

 

 

 

 


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日本国の物流史 ―華やかな海、ふるわない陸―

 

 日本国は海洋国家と俗に言われる。


 間違いではない。なにしろこの大八洲の地形ときたら、山を越えればまた山が出現あらわれるといったような塩梅で、それがどこどこまでも続くのである。


 ――平野など、どこにあるか。


 古代人にとって、この叫びはより痛切だったことだろう。


 このような国土に置かれた民が、それでも移動・交通の利便を図ろうと欲したならば、勢い水上に活路を見出す以外ない。


 このあたりの消息を小笠原長生『鐵桜漫談』中に於いて、

 


 三十三反、帆を巻きあげて
   蝦夷地離れりゃ、佐渡ヶ島
 何といふ晴ればれした情詩だらう。斯うした短い俗謡をも翫味し来ると、そこに海国民の面目が躍如としてゐるでは無いか。現今のやうに飛行機や自動車が活動する時代ならいざ知らず、駕籠か馬脊で、一日に精々十五六里の旅行しか出来なかった昔時にあって、蝦夷から佐渡まで一跨ぎとの観念を起こさせたのは、全く海路の賜物で、同時に又養成せらるるのは、雄大と優美の精神である。(46頁)

 


 このように詩的感興をたっぷり籠めて書いている。

 

 

Naganari Ogasawara 01

 (Wikipediaより、小笠原長生)

 


『デスストランディングをプレイしてからというもの、私の中で「物を運ぶ」という行為に対する興味がいや増し、どれ、ひとつ日本の物流史について書いてみたいと念願して来たのだが、調べれば調べるほど分かったことは、この国ではサム・ポーター・ブリッジズの如き陸運業の発達はよほど後年、少なくとも江戸時代に入らなければその萌芽すら見えてこないということだった。


 反面、水運は早い。


 それこそ上古の昔にまで遡り、日本書紀応神記中にはもう既に、「科伊豆國、令造船、長十丈。船既成之、試浮于海、便輕泛疾行如駈、故名其船曰枯野」――伊豆の国に命じて長さ十丈の船を建造させた。さっそく海に浮かべて試してみると、まるで駈けるが如く軽々と進む。よってその船を「枯野」と名付けたと、こんな記事が発見できる。


 尺貫法は時代どころか地域に於いても基準とする長さが変動するため一概には言い切れないが、それでも十丈といえば30メートル前後には達していたろう。古墳時代にこれだけの船を造り上げるということは、海に対する興味がよほど強かったと見ねばなるまい。


 しかもこの興味はひとり応神天皇のみを源泉としたものでなく、彼から五代以前の崇神天皇の記録に於いても「諸国に詔して船舶を造らしむ」の一文があり、世代を超えて大和朝廷に受け継がれてきた方針であることが窺える。

 

 

Konda Gobyoyama Kofun, haisho-2

 (Wikipediaより、応神天皇陵)

 


 伊豆の造船に関しては万葉集を捲ってみても、

 

 

防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手船
楫取る間なく 恋は繁けむ

 


 とか、

 

 

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 
音しば立ちぬ 水脈早みかも

 


 とかいったように歌言葉として使われているのを発見可能で、その後長らく栄え、かつ広範に用いられた形跡が見て取れるだろう。


 この民族がやがて遥か南海にまで漕ぎ出して、倭寇と呼ばれ大いに恐れられたのも、蓋し必然と言わねばなるまい。


 その後鎖国によって外海への経路が閉ざされようと、内国航路は相も変わらず盛んなもので、いやむしろより一層の繁華を示し、江戸・隅田川の河口、及び大阪・安治川の河口は常に菱垣・・といった運送廻船でいっぱいになり、ほとんど海波を見ることが出来ず、ずらりと並んだ帆檣がまるで林のようだったと伝わっている。

 

 

Osaka Maritime Museum Naniwamaru

 (Wikipediaより、復元された菱垣廻船「浪華丸」)

 


 なんなら波多野承五郎をその証言者にしてもいい。

 


 東京には江戸以来、前蔵制度と言ふのがある。問屋の店は、店の前の河岸づきの所に蔵があって、之に商品を入れて置く。得意が来れば直ちに此前蔵に案内して商品を点検せしめ、而して商談を試みる。此前蔵の裏手には川があって、桟橋がある。此処から船積の荷物の揚げ降しをする、表口には荷馬車が居て荷物の出し入れをする、幾人かの小揚こあげ人足が働いて居る、極めて景気が宜い。(中略)堀留は勿論、小網町、小舟町、伊勢町河岸、材木町河岸といったやうな東京の問屋が櫛比して居る町には、此前蔵がある。猶、言ひ換へれば此前蔵を持ち得る場所でなければ、盛なる問屋はあり能はぬと言ふ事だ。(『古渓随筆』197~198頁)

 


 江戸の消費生活が如何に水運によって支えられていたかよくわかるだろう。


 米、麦、酒、糸、木綿、綿布、鰹節、油、紙、薬、――悉く船によって運ばれている。


 我が故郷山梨のような海を持たない内陸国さえ、河川を利用した輸送によって何千・何万本もの材木を江戸へ出荷し、たびたび巨利を博しているのだ。

 

 

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隅田川名所図巻)

 


 斯くの如き水運業の華やかさに比べて、陸運業はふるわなかった。


 なにしろついこの間まで群雄割拠の戦国時代。諸国は四囲の守りを厳とするべく、多過ぎる道路をぶち壊したり河岸を敢えて断崖に留め、橋を架けることすら禁じるなどの手段によって、ただでさえ通行困難な天嶮をいよいよ以って険阻ならしめたものだから、その傷痕は容易なことでは癒されない。


 東海道の主要幹線でさえ満足に舗装されているとは言い難く、荷馬車を飛ばして一気に大量の貨物を運ぼうなどとは夢物語に属する虚仮こけで、僅かに宿駅から宿駅までの短い間を、そのあたりの農家が本業の片手間、自前の馬や荷車を使って運ぶというのが江戸時代初期の実景であった。


 これに多少の改善が施されるには、町飛脚の発達を待たねばならない。

 

 

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日仏無心状奇譚 ―亀田鵬斎とヴェルレーヌ―

 

 古川柳に、

 

 

鵬斎も 無心の手紙 読めるなり

 


 というものがある。
 江戸時代、書と儒学とをよく修めた亀田鵬斎を諷した歌だ。

 

 

Portrait of Kameda Bohsai

 (Wikipediaより、亀田鵬斎

 


 いったい鵬斎という人物は独特な、曲がりくねった草書体を好んで使う癖があり、欧米収集家の間では「フライング・ダンス」と形容されるほど墨痕に個性が躍如としている。よって普通人には何と書いてあるのかさっぱり解せず、また解せない・・・・ということ自体が、なにやら俗世離れしていて高尚であると見たがる向きも存在し、人気を呼びもしたようだ。


 ところがその鵬斎だろうと、いっそ斜め読みが可能なほどに読み易い、簡単な字体で手紙を作る場合があった。


 それこそが「無心の手紙」――要するに、金をせびる時である。


 こればっかりは読んでもらわなくては目的が達せず、達せなければ最悪飢えて死にかねないのだから致し方ない。


 この「無心の手紙」に関しては、遠く離れたフランスにも面白い話が伝わっている。そちらの主人公は19世紀の象徴派詩人、ポール・マリー・ヴェルレーヌだ。

 

 

Netsurf17 - Paul Verlaine

Wikipediaより、ポール・ヴェルレーヌ) 

 


 この人はデカダンスの教祖と仰がれるほどに美しい詩を詠みながら、しかし人生の舵取りには大失敗したといってよく、教え子の美少年に懸想して教師の職を失くしたり、酒に酔っては危うく母親を絞殺しかけ、牢獄にたたき込まれたりと紆余曲折を経た挙句、最終的には言うを憚る貧窮の果て、娼婦に看取られ51歳で息を引き取る。


 そんなヴェルレーヌが生前に、彼の著作を編纂している何某へ「50フランだけでも前借りさせてくれないか」という手紙を送ったことがある。むろん、自筆の書であった。


 するとどうであろう、やがて競売にかけられたその手紙には、あっという間に900フランもの値がついたのだ。

 

 

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 この競売会が開かれたのは20世紀の初めごろ。当時の1フランはだいたい今の1500円に相当するそうだから、ざっと135万円の価値になる。


 泉下のヴェルレーヌがこれを知ったら、さぞや感傷的な詩を詠んだことに相違ない。いや、案外既に詠んでいて、楽園の天使や女神たちを感涙させているやも知れぬ。

 


 芸術家といえど生身の人間である以上、生活苦の世知辛さから逃れることが叶わないのは、洋の東西を問わぬ共通事項であるようだ。

 

 

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

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中条流川柳私的撰集 ―「ママにあいたい」の衝撃から―

 

 つい先日、「ママにあいたい」というフリーゲームをプレイした。

 

 

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 オープニングの時点で両腕を欠損している主人公が、母親にあいたい一心で、同じく色々と失っている兄弟姉妹の力を借りつつ、ひび割れや血痕の目立つ謎空間から脱け出そうと奮闘する作品だ。


 劇中では「タネ」だの「受精卵」だのといった単語が飛び交い、おまけに時折、触れると即死な「カンシ」なる異形の存在が出現し、追いかけられる破目になる。

 

 

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 ここまで書けば、おおよその方が何事かを察するだろう。――このゲームが「何処」を舞台としていて、主人公は「何者」なのかを。


 ゲームでここまで戦慄したのは本当に久しぶりだった。


 この余韻が残っているうちに何か書きたい衝動に駆られ、その結果行き着いたのが表題というわけである。

 

 

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(人魂のような物体が「タネ」)

 


 中条流


 江戸徳川の時代に於ける、堕胎業者いいである。


 またの名を「女医者」とも呼ばれていたそうだから、成り手は女性が多かったようだ。


 水戸の藩医南陽享保のころ書き記した『叢桂亭醫事小言』という書によれば、中条流にかかる相場はおおよそ一両三分ほど。「店」に妊婦をあずかって、はらの中身を堕ろした上に施術後の肥立ちがつくまでの間、世話する費用を込めての数字だ。これ以外に水子の回向料として、寺に二百文または一朱銀を送るのがならわしだったとされている。
 この値段設定で、

 

 

中条は むごったらしい 蔵を立て

罪な事 中条蔵を 又一つ

 


 このように蔵を増築するほど儲かったというのだからおそろしい。

 

 

恐ろしや 中条金を 貸す噂

 


 ついには金貸しに転業する輩まで出現したようである。なんという繁盛、なんという需要の高さであろう。

 

 

 

 

しんずかな ところで中条 流行る也

中条の 静かにくらす 恐ろしさ

 


 かといって堕胎が重大な倫理的抵抗を伴うことは江戸時代でも変わらぬらしく、中条流は大通りの喧騒を避けた、どこか人目につかないところで店を開いていたようだ。

 

 

中条の すこしこなたで 駕籠を出る

 


 が、それでもなお「患者」としては玄関からは入りにくい。そこで店側も便宜を図り、

 

 

カラメ手に 間道もある 女医者

角道も 飛車道もある 女医者

中条は 這入勝手はいりかってを 三所あけ

中条へ 路地から来るは 四五回目

 


 玄関以外の、たとえば勝手口等を解放しておき、より人目につかず入れるようにしたという。

 

 

踊子は ことともせずに 又おろし

踊子は 我一存で 二度おろし

短命な 子を踊子は 四五度うみ

中条へ 行くと傾城 安くなり

 


 娼妓と中条流の関係の深さは言うを俟たない。

 

 

82 Yoshiwara Girls

 (Wikipediaより、吉原の遊女)

 

 

中条は 月を流して 日を送り

中条は 腹をへらして 飯を食ひ

外科でなし 本道でなし 不埒也

中条と 産婆生死の 渡世なり

 


 斯くまで忌まれておきながら、中条流の看板が江戸から消え去ることは決してなかった。

 

 

おもしろい あと中条で 待って居る

 


 快楽を求める人間のサガがある限り、彼らの繁盛も約束されていたわけだ。

 

 

中条の 下女は甚だ 気がつよし

 


 中条流の方でも世間の批判に縮こまっているばかりではない。

 

 

中条へ 内福らしい あばた来る

中条は 此顔でかと 思って居

中条へ 息子けい母を つれて来る

 


 案外、彼らは彼らで人の世を裏側から眺められるみずからの立ち位置を存分に活かし、その奇妙さ、不思議さ、馬鹿らしさに感じ入っていたのかもしれない。

 

 

伊勢の長者の茶の木の下で、
七つ小女郎が八つ子を生んで、
生むにゃ生まれず、おろすにゃ下りず、
向ふ通るはお医者じゃないか、
医者は医者でも薬箱持たぬ、
薬御用なら袂に御座る、
これを一服煎じて飲めば、
蟲も降りるし、子も降りる

 


 明治の上半期まで東京の子女が口ずさんでいたという手毬歌。
 これを添えて、今回の記事を閉じるとしよう。

 

 

実見 江戸の暮らし (講談社文庫)

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夢路紀行抄 ―牙を剥く脳みそ―

 

 夢を見た。
 何をやっても上手くいかない夢である。


 蛍光灯の冷たい光。
 意匠というものを一切凝らさぬ堅い壁。
 無機質なことこの上ない、どこか病院を思わせる一室で、ふと気が付くと、私は太巻き寿司をつくる作業に従事していた。

 

 

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 部屋には私以外にも十人前後の人がいて、うち幾つかは見覚えのある顔だった。

 十数年ぶりにお目にかかる奴もいる。

 皆せっせと巻きすだれを丸めては、右手の皿に太巻き寿司を積み上げていた。


 遅れはとらじと私も仕事に取り掛かったが、どういうわけか私の作る太巻き寿司は、猿の拵えた手巻き寿司みたく不格好な扇形を呈したり、少し動かしただけで両端からぼろぼろ米粒が溢れたりと、いいところがまるでない。


 自分の不器用さに半ば絶望していると、責任者と思しき男がやってきて、


 ――何度教えりゃあ覚えるんだ。


 と、今にも耳たぶを引っ張りかねない剣幕で以って怒鳴りつけられ、私はいっそ空気に溶けて消えたくなった。

 


 終業後、最悪の気分で帰路をたどると、家の中ではエアコンの室内機が壁から外れて落下して、床の上にて無惨な姿を晒している始末。

 

 

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 どうしろと言うのだ畜生め、何故こんなにも不如意ばかりが連続する。いい加減、一周まわって笑い出したくなったあたりで目が覚めた。


 悪夢としかいいようがない。心身ともに休まるべき睡眠時、夢の中ですらストレスを溜めねばならぬとは、いったいどういうことであろうか。私の脳は自滅主義にでも憑かれているのか。

 


 ――ここまで書いて、ふと想起したのが『フォールアウト ニューベガス』

 


 詳しい説明は省くが、核戦争後のラスベガス一帯を彷徨するあのゲームには、摘出された自分の脳とガラスケース越しに会話するという場面があった。

 

 

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 他のゲームではなかなかお目にかかれない、独創的な展開であるといっていい。


 それまでの素行の悪さゆえか、脳髄氏は私に向かって――正確には私の操作する主人公に向かって――さんざんに罵倒を加えたものである。

 

 

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 当時はよくできたブラックジョークの一種としか思わなかったが、こうしてみるとあれは存外、深い意味を含んでいたのではあるまいか。


「私」を構成する最大要素でありながら、脳は、心は、どうにもこうにもままならぬ。

 

 

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 こいつを支配下に置くべく古来より、数えきれないほど多くの者が座禅を組んだり滝に打たれたりして来たが、成功例は至って低く、ほんの一握りに過ぎないままだ。


 私は、さて、どうだろうか。支配するところまでは行けずとも、せめてこいつに殺されるような馬鹿な目には遭いたくないものである。

 

 

【PS4】アウター・ワールド

【PS4】アウター・ワールド

 

   

 

 


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続・ハワイ王国と日本人 ―猛烈なるかな野村貞―

 

 1894年3月29日東郷平八郎率いる戦艦「浪速」はホノルルを抜錨、日本へ去った。


 彼から任を引き継いだのは、戦艦「高千穂」。艦長は野村貞海軍大佐。


 世間ではあまり知られていないが、この野村艦長がハワイで見せた挙動には、ともすれば前任者を遥かに凌ぐ、ある種猛烈なモノがある。

 

 

Nomura Tadashi

 (Wikipediaより、野村貞)

 


 例を挙げよう。
 着任から二ヶ月半後の、6月11日に於ける出来事だ。


 ハワイ王国の創業者であり、旧王朝を偲ぶ者にとっては心の支えといって差しつかえのない、カメハメハ大王の誕生日に当たるこの日。野村艦長は「金剛」とも打ち合わせ、軍艦旗を挙げると同時に両艦一斉に満艦飾を施した。


 去る1月17日には仮政府から如何に頼まれようとも東郷が拒否した飾りつけ。


 艦首よりマストを伝って艦尾へと引き渡された数多の彩旗が、何を祝っているかは明白である。かつてハワイ諸島を統一し、この地に「国」を築き上げた偉大な王と、その血脈を尊んでいるのだ。

 

 

Bap villavicencio

 (Wikipediaより、満艦飾)

 


 これだけでも仮政府へのあてこすりには十分なのに、野村貞はもっとやった。


 その日の夕刻、彼は士官一同を艦長室に呼び出すと、いたくご機嫌のていで次のように語ったという。

 


「噂によると今夜旧王宮前の広場で、王党の連中が演説会を催して仮政府の攻撃をやり、時宜によると或は爆発するかも知れんといふことぢゃ。その善悪よしあしは別として、如何に腑甲斐ない王党でも、これ位の事はりたからう。就いては年齢の若い貴君方は、なるべくさういふところを見て置くがよろしいから、当直と陸戦隊と野砲隊とに差支無いものは、往くやうになさい。縦令たとい危険な場所に立入るとしても、艦長は強ひてお止め致しません」(『鐵桜漫談』32頁)

 


 本国の、たとえば山縣有朋あたりがこれを聞けば、おそらくのけぞるほどに驚いたろう。
 奇矯に過ぎるこれら数々の振る舞いの根には、彼が元・長岡藩士であることが深く関わっていたに違いない。

 

 

Nagaoka from the sky

 (Wikipediaより、冬の長岡)

 


 野村貞は英雄・河井継之助の甥であり、北越戦争に於いては野砲半隊長に任ぜられ、さんざん官軍をてこずらせた筋金入りの武士である。


 土佐沖を航行中、台風に巻き込まれた際などは、「総員死に方用意」と号令し、ひるみかけた船員の心を叱咤激励した漢だ。


 某国砲台を見学したとき、その錆びているのを見つけるや、「この弾丸は木製か」と揶揄してのけた人物でもある。


『鐵桜漫談』の著者である小笠原長生は彼をして、「その風采といひ、気質といひ、何所までも東洋的豪傑の典型」と評し、

 


 若し彼をして西隣にでも生れしめたなら、張作霖の向うを張って、東三省を掌握する位は易々たるものであらう。(30頁)

 


 と激賞している。

 

 

Kawai Tugunosuke

 (Wikipediaより、河井継之助

 


 話を、1894年6月11日の夕刻に戻そう。


 このとき野村艦長から「過激派の集会に顔出してこい」と勧められた士官の中に、八代六郎の姿がある。


 後の男爵・海軍大将もこの時は一介の大尉に過ぎず、したがって、


 ――万が一にも兵学校に入れなければ侠客になる。


 と豪語した少年時代の血の気の多さを、まだたっぷりと残していた。


 着港間もなく、同じく「高千穂」に乗っていた長生に向かって、


「廃王リリウオカラニ訪問たづねて、慰めてやらうと思ふから、一緒に来い」(34頁)


 と誘ったほどの彼である。


 艦長の許しを幸い、勇躍して集会に向かった。

 

 

Vice Adm. Rokuro Yashiro

 (Wikipediaより、八代六郎)

 


 しかし、結果から言えばこの集会。「高千穂」の軍人たちが期待したほどのものにはついに成り得ず、八代大尉は深い失望を味わって、二度三度頭を横に振る以外どんな感想も漏らすことなく、唇を真一文字に引き結んだまま艦に戻ることになる。

 


 その夜の王党演説会なるものが、相当激越なものもあって、一時は聴衆中から呼応者でも出るかと思はせたが、仮政府の取締厳重のためでもあったらう。何事も無くして夜半散会を告げた(34頁)

 


 そのころ、「高千穂」上には触れれば切れてしまいそうな、粛殺たる気が満ちていた。


 野村艦長は艦橋に在り、手にした双眼鏡で陸の様子を頻りに確かめているし、上甲板には陸戦隊が出撃準備を完了させて、命令あらばいつでも飛び出せるように待機している。


 そこへ八代大尉一同が帰艦して、目撃した一部始終を報告すると、艦長はさも不興気に、


「そうか、どうも仕方がない」


 と呟いて艦長室に降りていったが、やがて従卒に酒を持って来るよう命じる声が聞こえたという。

 

 

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(ハワイ、イオラニ宮殿

 


 ついでながら触れておくと、王政復古を目指すハワイ先住民たちは、この後確かに蜂起した。


 しかしながらそれは日本の軍艦が去って久しい1895年1月6日の出来事で、しかも二週間足らずで鎮圧されたため、風の便りにその話を耳に挟んだ野村貞は微苦笑して舌打ちし、


「なんだ今頃やったのか、先月開けた麦酒ビールのやうぢゃね。これが本当の布哇ハワイアワイ)立たずか」(35頁)


 と小洒落たっきり、あとは何も言わなかった。


 後年、同じく長岡出身の山本五十六が海軍を目指すに至った動機は、この野村貞の影響が大きかったとされている。

 

 

八代六郎伝─義に勇む─

八代六郎伝─義に勇む─

 

 

 

 


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