穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

立憲君主の理想形 ―エドワード七世陛下の威徳―

 

 昭和五年発行、鶴見祐輔著、『自由人の旅日記』


 ここ数日来、いろいろとネタにさせていただいている古書である。

 
 総ページ数、520頁。なかなかの厚さといっていい。読み応え十分な一冊だった。

 

 

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鶴見祐輔、シカゴ、ミシガン湖畔にて)

 


 就中、もっとも深く感銘を受けた箇所はどこかと訊かれれば、私は即座に、

 


 人間の心を見抜く特別の力をそなへられたエドワード七世は、貧民窟を訪問するときにも、立派な装束をしてゆかれた。貴き王者が、貧しき人の上を忘れない、といふことを、彼等に知らすためである。貧民がいかにも王様らしいお姿を見て、随喜の涙を流した。彼等は王者は王者らしく、貴族は貴族らしかれとこひねがふ。倫敦児の皇室に対する愛着心も、この心情から湧いてくる。(208頁)

 


 英国王の威徳に触れた、この部分こそと答えよう。


 掛け値なしに胴が慄えた。


 そうだ、そうとも、これでこそと思わず叫んだものである。

 
 私はよくフィクションの上に綴られる、「平民に扮して街に出てゆく王侯貴族」が嫌いであった。一種の定番なのであろうが、アレをやられると決まって胸がむかむかし、鼻持ちならない気分になった。


「気取らない、民衆に寄り添わんとする君主像」を演出したがっているのだろうが、大抵の場合あまりに過度で、逆にあざとく、嫌味なものと化している、と言うべきか。上が下におもねるのは下が上に阿るよりも一層のこと悪質で、周囲を害するものであると憤るべきか。


 気分の問題であるだけに、このあたりを整然と説くのは難しい。言葉にすればするほどに、本質から遠ざかってゆくような気さえする。


 とどのつまりは、


 ――あれは嫌いだ。


 と、捨て台詞を吐くしかないのではないか。


 それでは逆に何が好きかと問われれば、まさにエドワード七世のように、王者然とした王者なりとこちらはハッキリ回答できる。

 

 

Eduard VII

 (Wikipediaより、エドワード七世)

 


 やんごとなき御方というのは、やんごとなく在り続けるため、換言すればその権威を保つため、力を尽くして欲しいのだ。そうであってこそ尊敬し甲斐も生まれよう。よく言われるところだが、「権力」と違って「権威」の方は絶対に一朝一夕では成立し得ないものなのだから。


 鶴見祐輔、英国王に更に触れ、

 


  或る外国人が、エドワード七世の陛下の戴冠式が、陛下の重患の為め延期せられた折、ロンドンについた。荷物を運んでくるホテルの運搬夫ポーターに、彼は何心なく聞いた。
「王様が御病気だってね」
 運搬夫はすぐはね返した。
「王様とわしたち貧乏人とは、病気になる暇なんかねーや」
 そして、彼は、何等大声明をした様子もなく、荷物をガタンと床の上にほり出した。外客はその言葉を、無限の興味を以て幾度となく心の中に繰りかへした。そこに、倫敦児の心を読む明瞭な索引がある。(208~209頁)

 

 

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「素晴らしい」以外の言葉が見付からぬ。


 これこそまさに、立憲君主国家にとっての理想形ではなかろうか。


 腹をたたいて「帝力何ぞ我にあらんや」などとほざいた支那人とはまるきり違う。流石は大英帝国と、読んでいて本当に爽快だった。

 

 

名画で読み解く イギリス王家12の物語 (光文社新書)
 

 

 

 


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跳躍するアングロサクソン ―真の闘争の血液を―

 

 世界大戦中の話だ。


 アメリカのとある工場が、深刻な人手不足に陥った。


 そこは軍にとって極めて大事な、有り体に言えば軍需工場の一つであって、機能不全を来すなど、到底認められる事態ではない。大至急、穴を埋めねばならなかった。必要とされる人的資源は、最低でも二千人――。


 多すぎやしないか、急にできる規模の穴じゃないだろう、桁を間違えているんじゃないか――そう言いたくなる気持ちは分かる。が、こういう類の無理・無茶・無謀が平気の平左で頻発するのが総力戦の恐ろしさ。国家の有する力の限りを戦争遂行に叩き込む、超狂気の具現であった。


 当時に於いては機械化もまだまだ中途であって、手作業に頼らざるを得ない範囲が大きかった所為でもあろう。

 

 

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海軍工廠に於けるヘリウムガスの製造所)

 


 まあいい。そのあたりの詮索をするのが本意ではない。


 当局者はまず、工場所在地一帯に対し募集をかけた。


 が、目もあてられない大失敗に終止した。


 その工場に於ける作業が如何に危険で困難か。死亡事故の発生すら珍しくないということを、地元住民は地元住民であるだけに、皮膚感覚で知っていたのだ。


 当局は方針転換を余儀なくされた。


 地元が駄目なら、都市に溢れる人口を引っ張ってくるより他にない。彼らが次に目をつけたのは、ニューヨーク州バッファロー。この地にひしめく労働者をして、如何に郊外に飛び出させるか。宣伝上の名文句を模索して、日夜激論が繰り返された。

 

 

20150827 61 NFTA Light Rail at Fountain Plaza (21990211710)

Wikipediaより、バッファロー メトロレール) 

 


 やがて、天啓ともいうべき着想を得た。


 ただちにポスターが印刷されて、辻々に張り出される運びに至る。


 そこに記されていた文面は、

 


「男の仕事を恐れない命知らずの男子を求む。君の体内には真の闘争の血が流れているか? 姉妹たちにこれは出来ない。とても苦しい仕事です」

 


 真実のつるべ打ちといっていい。


 一見滅茶苦茶、しかしながらどうだろう、血気盛んな若者にとって、これは絶好の興奮剤として機能すまいか。


幼女戦記を知る方ならば、理解も早いに違いない。ターニャ・デグレチャフはその股肱たる即応航空魔導大隊を編成するに、どんな謳い文句を用いたか。曰く、「求む魔導師、至難の戦場、わずかな報酬、剣林弾雨の日々、耐えざる危険、生還の暁には名誉と賞賛を得る」――。

 

 或いは長谷川哲也『ナポレオン ―獅子の時代―』三巻に於ける、

 

 

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 このシーンでもいいだろう。


 驚くべきことに、現実でもフィクションと全く同じ展開になった。たちどころに志願が殺到、時を移さず工場は、健康な二千名余の労働者を得てめまぐるしく稼働している。


 さても清々しき眺めであった。


 徳冨蘆花が目指したところの、


「文明の頭脳に野蛮の元気を兼ね備ふるが今日の急務である」


 とは、畢竟こんな光景ではなかったか。


 そういえば最近、イーロン・マスク火星開拓について触れ、最初は大勢が死ぬだろうと赤裸々な展望を述べていた。

 

 

Mars atmosphere

 (Wikipediaより、火星とその大気層)

 


 当たり前だ。開拓とは地下百尺の捨て石上に漸くのこと成立するもの。イギリス人だって北米大陸入植当初はバタバタ死んだものである。ときには入植団がまるごと消滅した惨事もあった。


 が、そうした悲劇の累積にも彼らは決して屈しなかった。あくまでも外へ外へと膨張を求め飛翔する、貪婪としかいいようのない運動律の、その原動力は果たして那辺に在ったのか。「解答例」を以下に引く。

 


「我々アングロ・サクソン人は、要するに跳躍ジャンプしてゐる民族だ。一地から一地へと、我はただわけもなくおどってゆく。さうして、もうゆくところが無くなったとなると、我々は実に手持無沙汰で退屈する」
 と、米国で五指を屈すべき大新聞記者のウィリアム・アレン・ホワイトが、ある日私にさう説明した。
 紐育ウォールドのマーツは、さらにこの心持を描写して、
「もう我々アングロ・サクソン人は、どこへも移住する余地がなくなった。地球上は隅から隅まで一杯の人だ。どこへゆかうやうもない。しかし、動きたい。かうじっとしてゐると、むづむづしてたまらなくなる。
 そこでアメリカ人が、自動車といふものを思ひ付いたのだ。だから我々はこの車に一家中乗り込んで用もないのに一時間五十哩の大速力で、ぐるぐるぐるぐる、自分の国の中を走り廻ってゐるのだ」
 と、半ば真面目に、半ば揶揄した。鶴見祐輔『自由人の旅日記』94~95頁)

 

 

WP William Allen White

 (Wikipediaより、ウィリアム・アレン・ホワイト)

 


 二十世紀初頭のアメリカ人なら、イーロン・マスクのアレを聞いてもおじけるどころか、却って腕まくりして奮い立ったに相違ない。一世紀を経た今、果たして彼らは老いたのか。いい試金石になりそうだ。

 

 

幼女戦記 1 Deus lo vult

幼女戦記 1 Deus lo vult

 

 

 

 


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空の英雄、沸く地上 ―昭和二年のアメリカ紀行―

 

 昭和二年、鶴見祐輔アメリカにいた。


 都合何度目の渡米であろう。


 この段階で既にもう、鶴見の海外渡航回数は二十に迫る勢だった。それは確かだ。


 が、その旅程のことごとくに「アメリカ」が含まれていたわけではない。欧州の天地に限局された場合もあれば、まるきり別な方向の南溟一帯を渡り歩いたこともある。


 正確な数字はわからない。


 はっきり断言できるのは、「初訪問時」のことである。明治四十四年九月、新渡戸稲造の秘書として、カーネギー平和財団の招聘に随行したのが鶴見にとって生涯初の、アメリカの土に足を下ろした瞬間だった。

 

 

Inazo Nitobe

 (Wikipediaより、新渡戸稲造

 


 それから、早や十六年。


 鶴見もすっかり旅慣れた。遠い異境の地だろうと、四方三里のいずこにも日本語が飛び交っていなくとも、もはや欠片も動揺しない。縮こまることなく、かといって過剰に胸を張るでもなしに、自然と雑踏に混ざってゆける。


 折りしも当時合衆国は、リンドバーグに沸いていた。


 チャールズ・リンドバーグ


 昭和二年――西暦1927年5月21日まで、彼は全然無名の一青年に過ぎなかった。セントルイスの片田舎で郵便飛行機を操るだけが能という、どこにでもいる二十五歳の男であった。


 それがこの日を境目に、たった一夜で英雄に化けた。人類史上初めての、大西洋単独無着陸飛行に成功したのだ。

 

 

LindberghStLouis

 (Wikipediaより、リンドバーグ、愛機と共に)

 


 三十三時間半をかけ、ニューヨークからフランス・パリまで。リンドバーグが飛行しきったと知ったとき、アメリカ人は発狂した。狂ったとしかいいようがないほど、彼らの歓喜空前絶後のものだった。

 


…往くところ、往くところ、この若人の噂で持ちきりで、少なからず当てられ気味だった。当てられたといふのは、米国人がまるで曠世の偉人でも発見したやうに威張るからだ。
「どうだ君、リンディ(リンドバーグを略して、親しみのこゝろを含めて米国人はさう言ってゐた)には感服したらう? どうだい?」
 とこれだ。
 私は当時大して、この青年が大西洋を飛び越したといふことに胆をつぶしてはゐなかったので、あまり感服した顔もしなかったのが、少なからず米国人を不満にしたらしい。実際米国では、此リンディを国祖ワシントン以来の人物のやうに崇拝してゐたのだ。(昭和五年発行『自由人の旅日記』34~35頁)

 


 ヴェルサイユ会議前のウィルソン人気を知る鶴見をしてさえ、これほど圧倒的な感情の渦は見たことがない。


 いったい何がそれほどまでに、彼らの魂を揺り動かすのか? 俄然興味をそそられた。


 国民感情を急騰させる点穴が合衆国にもあるというなら、きっと今が千載一遇の好機会、ぜひともそれを鷲掴みにしておかなくば――。


 そう頓悟して、執った手段が如何にも鶴見祐輔らしい。


 堂々と正面から訊いたのである。


リンドバーグのいったいどこがそんなにエライのですか」


 と。


 遭遇する米国人に片っ端から――それこそ実業家に始まって、学者、評論家、劇作家、新聞記者、露天商、家庭の主婦にタイピスト、挙句の果てには街頭の少年に至るまで――訊いて訊いて訊きまくってのけたのである。

 

 

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鶴見祐輔

 


 大抵がこの問い自体を侮辱と感じ、真っ赤になって食ってかかった。


 それも含めて、鶴見の狙いだったのだろう。怒らせて本音を引き出そうという魂胆だ。


 人の悪いやり口であり、この点は鶴見自身も認めている。


 が、そもそもからして政治家なぞは、善人にはとても続けられない、悪人でなくば賄いきれぬ仕事でないか。


 そういう意味では鶴見は確かに資質があった。


 やがて、回答を得た。


アメリカのエレミア」と形容されたジャーナリズム界の巨人、マーク・サリヴァンがこのかまし・・・・・の日本人を黙らせるため直々に、とびきりの名演説をぶちかましてくれている。

 


「今日我々は、この尨然たるアメリカのうちに精神的中心を見失った。民衆の指導者を見失った。ルーズヴェルトが死んだ。ウィルソンが死んだ。それから後は凡人ばかりの世の中だ。成程我々は富んだ。我々の国は強くなった。自動車は走り、映画は変る。しかしどこに、米国々民の心臓を同じ鼓動で波打たす精神的中心があるか。茫々たる四十八州を見渡して、誰一人として一億二千万人の人々の眼をあつめるだけの人は居ないではないか。
 民衆政治は指導者を求める。餓ゑ焦れたる如く指導者を待ちのぞむ。この指導者は、何か超凡のところがなくてはいけない。今日の米国人は、ハーディングからクーリッジにかけての平凡政治に飽き飽きしてゐた。その無意識な民衆的欲求の渦巻きの中へ、ひょっこり舞込んで来たのが、この少年リンドバーグだ。
 ね、時代が彼を要求し、待望してゐたのだよ」(37~38頁)

 

 

SULLIVAN, MARK LCCN2016861440

 (Wikipediaより、マーク・サリヴァン

 


「国民の心臓を同じ鼓動で波打たす精神的中心」とは、なんと卓抜な表現だろう。


 十数年後、フランクリン・ルーズベルト


「独裁者を亡ぼすためには、独裁者を必要とする」


 と白昼公然獅子吼したとき、大衆は鼻白むどころか割れんばかりの喝采を送った理由わけとも、これはどこかで繋がっている。


 民本主義の概念を日本社会に啓蒙し、大正デモクラシーの先駈けとなった茅原華山が、やがて英雄的独裁主義に傾いていったように。


 結局人間は英雄が好きだし、社会もまたそれを必要とするわけだ。


 憧れがあり、求められている以上、それが発生する余地は常にどこかに存在している。


 実に結構なことではないか。

 


 我々の生活に於て、冒険的精神の占むる位置の如何に重要なるかを、我々は往々にして忘れがちである。誰でも少年以来、空中を翔ぶ夢を見ないものゝないやうに、我々は平凡な日常生活から掛け離れた壮快なことをやって見たいといふ心を多分に持ってゐる。たださういふ壮快なことには危険が伴ふから、用心深い人は、まあまあと思ひ諦めてゐるわけであるが、誰か他の人が思ひ切ってそれをやってのけると、我々は思はず、掌を拍いて快哉を叫ぶのだ。
 その冒険的情操といふものがあればこそ、人間の社会は今日まで進歩してきたのだ、石橋を叩いて渡る人ばかりであったら、我々は依然として穴の中に住んで、木の根を齧って暮してゐたかも知れない。(43頁)

 

 

Col Charles Lindbergh

 (Wikipediaより、チャールズ・リンドバーグ

 


 鶴見祐輔はこの翌年、すなわち昭和三年に『英雄待望論』を世に著して、たちまち五十万部を売り上げるベストセラーとなっている。

 

 

 

 

 


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忘れ得ぬ人々 ―ダイヤモンドと鐵の門―

 

 石原忍御手洗文雄を「忘れ難き人」として、鐵門倶楽部の同窓中でも一種格別な地位に置き、満腔の敬意を表したのは、彼が大利根遠漕歌」の作者だったからではない。


「春は春は」に開始する、競漕界の愛唱歌より。


 重視したのは、彼の死に様こそだった。

 

 

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 明治四十三年に学窓を巣立った御手洗は、しかしそれから僅か六年、大正五年の秋の最中に病に倒れ、ついぞ回復の兆しなく、帰らぬ人となっている。


 病名すなわち、コレラであった。


 泉橋病院の外科に於いて勤務中、担ぎ込まれた病名未定の遺体に対し検死解剖を施した際、感染うつったものであるらしい。


 病の進行、よほど早く、また重く。一個のポンプと化したが如く、体内にある水分という水分を、の両方の穴から怒濤の勢で吐き出し続ける我と我が身を顧みて、もはや保たぬ、これは死ぬと御手洗文雄は覚悟した。


 覚悟して、そこからが尋常の所業ではない。「君は病床にあって苦しい内に筆を執り、その病状の刻々の経過を極めて詳細に記録した」


 本邦医学の発展に、せめて少しでも資するよう。


 正真正銘最後の気力を振り絞り、自分にできる精一杯をやったのだ。

 


 愈々死期が近づいて最早書き続ける気力のなくなった時、徐に先輩同僚知友に対する感謝の辞を述べ、最後に「秋浅く染めかねて散る楓かな」の一句を遺して従容として死についた。まったく学に忠なるの一念以外何物もない純真なるその態度は、当時人口に膾炙せられた佐久間潜水艇長がその艇の沈没に際して遺した体験記にも劣らざる壮烈なる最後であった。(『学窓余談』33頁)

 

 

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 普通、人間というものは、死に近づくほど理性がくらみ・・・、感情未満の衝動ばかりが前に出て、甚だしい視野狭窄さえ来す生理のもちぬしだ。


 よほど修養を積んだつもりでも、いざ命が脅かされる場に出てみると、途端に胃の腑がでんぐり返り、むざんなまでに「自分」が崩れる。


 このあたりの呼吸というか反応を、厭というほど理解していた者の一人にダイヤモンド社創業の雄・石山賢吉の顔がある。この事業家は多病な性質たちで、尿に糖は混ざっているし胃はへその下まで垂れているしで、医者の世話になることが、兎にも角にも多かった。


 以下はその、一点景といっていい。――腹部にできた腫物をとるため、全身麻酔を伴う手術を明日に控えた夜のことだ。

  

 

Ishiyama Kenkichi

 (Wikipediaより、石山賢吉

 


 どうも寝入る気になれず、視線を所在なく彷徨わせるうち、にわかに恐怖が湧いてきた。


 麻酔をかけられ、そのまま目が覚めなかったらどうしようと思ったのである。


 ごく稀にだが、そういう体質があるらしい。アレルギーと言うべきか。もしも自分が運悪く、その稀な例・・・に属していたら、明日を最後にお陀仏である。遺言を告げる暇さえなかろう。眠るように死ぬというのが比喩でなくなる。こりゃ大変だ今のうちに一筆遺して置かなくば。――


 石山賢吉の面白さは、ここで本当に遺書の文面を考えだしたことである。

 


 第一に、頭へ浮ぶのは、社の事である。それから家族の事である。其の外、一寸頭へ来ない。
 何時も経験する事だが、病気になると、思索の範囲が狭くなる。経済界がどうの、内閣がどうの……と云ふ事は、余り頭へ来ない。殊に、熱が高くなったり、痛みが増したりすると、一層其の傾向が甚だしくなる。思索の範囲は、死後の一点に局限される。(昭和十二年発行『事業と其人の型』185頁)

 

 

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 と、不安が頂点に達したところで石山の思考回路は再度転換。電撃的に唐突に、恩師の最期を脳裡によみがえらせている。

 


 我が師伊藤欽亮先生は、死ぬまで財界の前途を憂へた。私達が見舞に行くと、きまって、
「経済界は?」
 と、肯くのであった。幾度行っても、同じ問ひをする。何も問はなくなった時は、意識不明に陥った時であった。先生は如何ほど病気が重くなっても、経済界に対する憂ひを捨てなかった。流石に先生だと、其の時しみじみ感じた。(185~186頁)

 


 それに引き換え、今の己の姿ときたらどうだろう。尻尾に火のついた独楽鼠みたく、ただいたずらに動揺している。


 未熟も未熟、合わせる顔がないではないか――。


 恥の心が、石山をいくらか冷静にした。


 手本に恵まれるということは、とりもなおさず幸福なことだ。


 なお、翌日の手術は医師の練熟した腕もあり、無事成功裡に済んでいる。

 

 

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 あまりに恙なく運んだために、特に書くこともないほどだ。


 ダイヤモンド社からは昭和四年と五年にかけて、『伊藤欽亮論集』が、上下巻構成で出版されている。

 

 

サムライたちの辞世の句 (もっと知りたい日本史(のこと))

サムライたちの辞世の句 (もっと知りたい日本史(のこと))

 

 

 

 


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鐵門瑣談 ―東京帝大競漕事情―


 鐵門倶楽部てつもんくらぶ


 東京大学医学部の、同窓会の名称である。


 厳めしい名だ。


 重々しく、つけ入り難い、硬骨漢の集いといった感が湧く。勝手ながらそれこそが、字句の並びを一目見て、私の脳裡に咄嗟に浮かんだ印象だった。


 もっとも「名付け親」達にしてみれば、そうした先入主を抱かれるのは、むしろ願ったりであったろう。


 ――医者は長袖者流で意気地がない。


 と、他学部から嘲笑された屈辱と、それに伴う憤激こそが、発足の淵源なのだから。

 

 

Faculty of Medicine Building 2, the University of Tokyo

 (Wikipediaより、東大医学部二号館)

 


 事の由来の詳細は、鐵門倶楽部草創期を生きた俊英、石原忍の随筆中に見出せる。

 


 東京帝国大学の端艇競漕会は明治二十年から年々行はれて来たのであるが、その頃には他にこれに類似のものがなかったゝめに大学の競漕会は世の注目を惹き、新聞には詳細な記事が掲げられ、分科大学選手競漕には教授も先輩も学生も挙って応援をしたものであった。(昭和十六年発行『学窓余談』23頁)

 

 

 これがすべての前提だった。


 当時に於ける競艇熱の烈しさは、現代の甲子園に匹敵するか、或いはそれ以上ですらあったろう。


 なんといっても優勝した学科では、講義が一週間に亘って休講となり、その間代わって飲めや歌えやの大祝勝会が営まれたというのであるから、凄まじいにもほどがある。


 優勝旗を先頭に凱旋するメンバーは尊敬と羨望の的であり、まさに英雄そのものだった。


 が、輝きが強ければ強いほど、影も濃くなると言うかのように。


 敗者が嘗める苦渋というのも、より一層どす・・の効いた、暗黒なモノへと深化しつつあったのである。

 


 ところがその頃不幸にして医科はどうも成績がよくなく、第四回と第七回には勝ったが、その後六年間といふものは連戦連敗で、他の学部の者からは、医者は長袖で意気地がないなどゝいはれ、頭が上らなかった。これに憤慨して起ったのが鐵門倶楽部なのである。その当時医科大学の本部の時計台の前に鐵の門があった。多分今の精神科の玄関のある辺であったかと記憶するが、そこから鐵門といふ名が起ったのである。(24頁)

 

 

University of Tokyo Tetsumon

 (Wikipediaより、東大鉄門)

 


 復讐ほど優れた原動力は存在すまい。


 万人を酔わせる魔性の酒だ。


 あん畜生めら、よくも見下しやがったな、いい度胸だ覚えてろ、吐いた唾は呑めねえぞ、いずれ必ず貴様らを、まとめて平伏させてやる――。


 まったく当初の鐵門倶楽部は目の玉を七色に光らせた復讐者の集団であり、その内部では総身の骨を撓めるような猛特訓が日常のものと化していた。


(鬼だ。……)


 新入生の石原の目には、彼らをしごく・・・先輩の姿が地獄の獄吏に見えたという。


 石原忍は、素人ではない。


 東大入学前、一高時代三年間、ボートを漕ぎ続けてきた経験者であり、熟練者でもあった筈だが、そんな彼をしてさえも鐵門倶楽部のスパルタぶりは常軌を逸したものであり、数十年を経た後も、「人生で最も辛い経験」ぶっちぎりのナンバーワンに君臨させて譲らなかったほどである。

  

 

Shinobu Ishihara. Photograph. Wellcome V0026602

 (Wikipediaより、石原忍)

 


 この人は後に軍医になるため兵営生活を経験し、時間厳守の重要性を叩き込まれ、また欧州大戦勃発時には偶々ドイツに留学中――鶴見三三と同じ境遇――で、命からがらヨーロッパを脱け出したりと、数奇というかなんというか、とにかく波乱万丈な生涯を送っているが、それでも一番上は「鐵門」というこの偉観。


 戦慄せずにはいられない。


 もっとも辛いからといって、それが直ちに不幸なる、「嫌な思い出」になるわけではないらしい。

 


 東大は私たちの入学する二年前に鐵門倶楽部が出来、(中略)創立に近い意気の最も旺盛な時でしたから、ボートの練習も中々苦しかったものです。
 この苦しい練習が今日まで非常に身のためになって、大概の事は我慢ができます。実際私の生涯の中にはボートの練習ほど苦しい経験は今日まで他にありません。(130頁)

 


 むしろその逆、鐵門での経験を巨大な財産と視ていたことは、上記の発言からでも十二分に読み取れるだろう。


 実際、艱難辛苦の報酬はあった。石原忍の在籍中、医科は破竹の勢いで競漕会を勝ち進み、「4M」と呼ばれる黄金時代を実現している。

 

 

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(明治三十八年度、祝勝会の記念撮影。前列左より六番目に石原忍)

 


 倶楽部設立の目的は、完璧に達成されたといっていい。

 

 初志貫徹の光景は、なんであれ清々しいものである。

 


「すべて競争には人の出来ないと思ってゐるやうなことをやらなければ、勝ち難いものである。世間の生存競争でもこれと同じで、他人よりも余計に勉強をし努力をする者が概して勝利を得るやうである」

 


 という彼の箴言は、明らかに一連の体験を通して帰納されたものだろう。


 卒業後も石原と鐵門倶楽部の関わりは続いた。


 大正十四年から昭和十二年にかけては副会頭を、


 昭和十二年から同十五年にかけては会頭を、


 それぞれ立派に務めあげ、後進の育成に多大な貢献を成している。

 

 

  

 

 


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夢路紀行抄 ―寝相、うつ伏せ、ショットガン―

 

 どうも近頃、寝相が悪くて難儀する。


 意識が眠りに落ちる前、確かに姿勢は仰向けだった。にも拘らず朝目覚めると一八〇度反転し、うつ伏せ状態になっている。そのくせ布団にさしたる乱れもないのだから不思議としかいいようがない。いっそカメラでも設置して、運動経過を観察したくなるほどだ。

 

 

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 と、あまり悠長に構えてばかりもいられない。


 長時間うつ伏せを続けた場合、怖いのは内臓の圧迫だ。血流だって滞るし、首の負担も馬鹿にならない。矯正したいのは山々であるが、事は無意識に属するだけに、どこから手をつければよいのやら、途方に暮れる感がする。


 せいぜい夜食を厳禁し、睡眠時には胃の腑を空にしておくように心掛けるぐらいだろうか。逆流性食道炎など、万が一にも患いたくない。胸焼けの苦しみは胃潰瘍でとうに飽き飽きしてるのだ。

 


 ――昨夜の夢はそんな不安の多いうつ伏せのもと、展開されたものだった。

 

 

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 旧友たちと集まって、同窓会の準備に勤しんでいたのも束の間のこと。気付けば荒廃したハイウェイの上、古タイヤや有刺鉄線を利用して構築された陣地に籠り、ゾンビの波状攻撃を撃退する自分があった。


 武装はナイフと火炎瓶モロトフ・カクテル、それからショットガンが一挺ばかり。フランキスパスを思わせるポンプアクション式の得物で、リロードの手応え抜群であり、この感触を味わえるなら何度だって最前線に身を投じてくれようずと、陶然として思いさえしたものである。


 ゾンビの頭を次から次へと柘榴みたいに吹っ飛ばしつつ。それでも気分は天界の狭霧を呼吸してでもいるかのように、一貫して爽やかだった。

 

 

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 ――俺のリロードはレボリューションだ!


MGS3』に於けるリボルバー・オセロット台詞を、つい叫びたくなる夢だった。

 

 

 

 

 


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言霊の幸ふ国に相応しき ―歌にまつわる綺譚撰集―

 

 中根左太夫という武士がいた。


 身分はひくい。数十年前、末端部署の書役に任ぜられてからというもの、一度も移動の声がない。来る日も来る日も無味乾燥な記録・清書に明け暮れて、知らぬ間に歳をとってしまった。ふと気が付けば頭にも、だいぶ白いものが混じりつつある。


(なんということだ)


 まるでモグラか何かように、日の目を見ない己の境遇。このまま立身する見込みもなしに、燭台の蝋が尽きるが如く死んでゆかねばならぬとすれば、はて、いったい自分は何のため、この世にまろびでて来たのであろうか。


(むなしすぎる。……)


 無常を感じずにはいられない。


 その寂寥が、一首の歌に凝固した。

 

 

筆とりて頭かき役二十年
男なりゃこそなかね左太夫
 


 自身の名字の「中根」の音と、「泣くものか」という痩せ我慢とをカケた歌だ。

 

 

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 悪くない出来といっていい。武士の要訣を衝いている。侍と百姓とを区別する決定的な境界は、実にこの痩せ我慢にこそあるだろう。元土佐藩士の家に生まれた作家の大町桂月なども、幼い頃から

 


 ――夏暑くとも、暑しと云ふな、裸になるな。冬寒くとも、寒しと云ふな、火にあたるな。痛しとも痛がるな。恐ろしとも、恐るるな。

 


 との教えのもとに厳しく躾けられている。その結果、

 


 痩我慢だにあれば、胆力なくとも、胆力ある人と共に伍するを得べきなり。勇気なくとも勇気ある人と騁馳するを得べき也。人前にて臆病なる挙動をなさざる也。如何に困苦するも人に泣面を見せざる也。干戈の巷に出でても、余りひけを取らざる也。平生個人の交際、家庭団欒も円満になる也。社会に出でて事業をなす上にも便宜多き也。(中略)凡人をして、天才者の域に近づかしむるも、亦実に痩我慢也。(大正十五年発行『桂月全集 第十一巻』395頁)

 


 痩我慢なるかな、痩せ我慢なる哉――と。


 煌めくような名文警句を展開するまで至ったものだ。

 

 

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 まあ、それは余談。


 とまれかくまれ、中根左太夫の詠んだ狂歌は武士の心にぴたりと添うものであり、ふとした筋からそれを聞き知った重臣は、


 ――心意気、いじらし・・・・


 ということで、彼を転役、昇進させてやったということである。


「言霊の幸ふ国」に相応しい逸話であるだろう。


 三十一文字にまるわる綺譚は、全く以って百花斉放、浜の真砂の数にも及ぶ。


 もう二・三ばかり摘出すると、たとえば柳亭種彦は、あるとき古道具屋で掘り出した茄子型の硯を愛用し、その入れ込みようはほとんどこれを舐めんばかりで、常に机上に置くばかりでなく、ついにはその蓋の表に、

 

 

名人になれなれ茄子と思へども
兎に角へたははなれざりけり

 


 以上の狂句を掘りつけて、一層悦に入ったとのこと。

 

 

Ryutei Tanehiko

 (Wikipediaより、柳亭種彦

 


 作曲家にして演奏家、一弦琴を奏でさせては並ぶものなき真鍋豊平、大阪に住み自流の伝道に努めていたころ。思うところあって伏見町から瓦町へと住居を移した。


 それから暫く、移転先を聞かれる度に、

 

 

難波橋瓦町なる角屋敷
歌と琴とをまなべ豊平

 

 
 斯くの如き歌を記した名刺を差し出し、莞爾とするを常とした。

 

 

Koto lesson

 (Wikipediaより、琴の練習風景)

 


 京都のとある理髪師が、軽々にハンコをついたばかりに友人の借金を背負い込んで、もはやどうにも首が回らず、夜逃げか死かの二択にまで追い詰められた。


 で、結局夜逃げと相成ったのだが、その間際。彼は自宅の戸口の上に、べったり半紙を張り付けるのを忘れなかった。


 そこに記されていた文面は、

 

 

金もなく妻なく子なく義理もなし
身につくものは虱きんたま

 


 この戯言ぎげんには、さしもの債鬼も表情筋を緩ませずにはいられなかったそうである。

 

 

ダンガンロンパ霧切 1 (星海社 e-FICTIONS)

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