穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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口内衛生小奇譚


 虫歯の痛みを鎮静させるためとはいえど、蛭を口に含むなど、考えただけでおぞましい。


 到底無理だ。ヒポクラテスの勧めでも、鄭重に謝絶するレベル。万が一、喉の奥へと進まれて、食道にでも貼り付かれたらなんとする。不安で不安で、神経衰弱待ったなしではあるまいか。

 

 

Haemadipsa zeylanica japonica in Mount Nogohaku 2011-06-12

Wikipediaより、ヤマビル)

 


 論外もいいとこに思えるが、しかしそういう療法が、嘗て本当に実在ったのだから驚きだ。前回示した『家庭療法全集』中に見付けてしまった項である。

 


痛む歯の歯茎に、蛭をつけると、歯痛が止まる。膿を持ったのでも治る。蛭のつけ方は、巻煙草の吸口のやうに丸めた紙の中に、蛭を一匹入れて歯茎にぴったりと当てがって吸ひつかせます。軽いときは二匹くらゐが適当、一匹づゝ二度につけます。三匹のときは三度に。
 歯のために頬や顎の下が腫れて、痛みの激しいときには七八匹の蛭を腫れたところへ、吸ひふくべでつけて、悪い血を吸ひとらせ、その後で患部に硼酸水の冷罨法を行ふと治ります」

 


 肩こりをほぐす目的で蛭を背面に乗せてゆくのは蓋しポピュラーな手法だし、さして嫌悪も湧かないが、それはあくまで「皮膚の上に」であるからだ。


 粘膜に接触させるとなると、まるで話は別である。別であるということを、今回このたび、自己の内部に見出した。

 

 

Teeth by David Shankbone

Wikipediaより、成人男性の歯)

 


『家庭療法全集』に、――より解像度を上げるなら、本書の執筆者のひとり、飯塚喜四郎歯科博士の調査に曰く、口腔内にただ一本の虫歯も持たぬ日本人は、百人中たった五人の極低率であったということだった。


 九十五人は最低一本、歯を微生物に侵されていた統計である。


 これはおそるべきことだ。


 飯塚博士も、

 


「昨今は『健康第一』といふ言葉が非常に高唱されてゐるやうですが、健康第一といふことを真に理解し、これを実行せんとするものは先づ第一に、消化器系統の関門をなす、歯の健康に着眼しなければなりませぬ

 


 と、憮然顔で書いている。

 

 

 


 結核は猛威をふるっているし、脚気も根絶できてない。


 腸チフス赤痢とて、折に触れては再流行し身近な脅威で居続ける。


 ちょっと油断しようものなら着物の縫い目にノミ・シラミが這入はいり込み、我が郷里たる甲斐国こと山梨県ではミヤイリガイめが時を得顔であらゆる水場に蔓延って、日本住血吸虫の頼れるお宿――中間宿主として絶賛機能中だった。


 そういう昭和初期から観ると、現代日本はなんとまあ、ほとんど無菌室めいた、高水準な衛生管理システムの確立された社会状態ではないか。


 もはや虫歯対策に、蛭をほおばる要もなし。


 進歩のありがたみ・・・・・であった。

 

 

身延駅近くにて撮影)

 


 ちなみに筆者は生まれてこの方、虫歯をわずらったことがない。


 母の躾の賜物だと感謝している。

 

 

 

 

 


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附録戦争


 猫を狂わせることだけがマタタビという植物の全能力ではないらしい。


 保温効果たっぷりの良質な入浴剤として、人類ヒトの役にも立たせ得る。「五匁くらゐを袋に入れ、約二升くらゐの水で充分に煎じ、その汁をお風呂に入れて入ります。少しも厭な臭ひもなく大変よい気持です。このお湯は、少しくらゐ長湯しても、のぼせることがなく、上ってからも、随分長い間、体中がぽかぽかしてゐます――こういう記述、用法が、戦前刷られた『家庭療法全集』中に載っているのだ。

 

 

 


 如何にも古書でございといった、もう見るからにくたびれきったこの一書。


 もと・・を糾せば単体で売り出された品でなく、婦人雑誌主婦の友昭和六年一月号の附録に具されていたものだ。


 附録とは言い条、総ページ数は七〇〇以上にも及ぶ。もはや本紙より厚いんじゃないかというほどである。


 この年の雑誌商戦は特に苛烈で、なりふり構わず各紙鎬を削り合う、その血みどろの有り様を、口さがのない文人などは、

 


不景気になればなるほど厚くなるのは女給さんの白粉と雑誌の附録だ、昭和六年の正月雑誌は一冊また一冊これでもかと足つぎを重ねて、年の瀬の乗り越えにあせる。『こんなにあって五十銭』『あけてびっくりこの大附録』『スバラシイオマケ八種』『驚く驚く延長六十八尺の大絵巻』などゝあわただしい店頭に媚びてゐる」

 


 こんな感じに、露骨に嘲笑わらったものだった。


主婦の友』とて例には洩れず、と云うわけだろう。

 

 

(書籍発送)

 


 中身の方に着目すると、こまごまとした看護法は当然として、「いもりの黒焼き」みたような奇抜な民間療法や、そうかと思えば当時まだまだ珍しい帝王切開体験談のようなモノまで掲載されていて、纏綿羅色、まさに古式新式の雑居状態の観があり、なかなか飽きることがない。


 就中、「毛生えに効ある薬草」として栗のイガが挙がっていたのは、わけもなく微笑させられた。


「栗の毬を黒焼にし、細い粉末にしたものを胡麻油で練り混ぜて用ひれば効があります」のだそうだ。


 よしんば効き目は無かろうと、激しく害をなすことも、また無さそうな智慧だった。

 

 

 


 戸川秋骨医学書なんぞ読まぬに越したことはない、「誰れでも神経質的に考へると、大抵万病の持主である。うまいものでも食って平気で居れば、病気は自からなくなってしまふものであらうとのたまうが。


 美容・健康・長寿にかける人の執念。その痕跡を辿るのは、なかなかどうして面白い、魅力たっぷりな趣味なのだ。

 

 

 

 

 


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Malignant tumor ―不幸な双子―


 たぶん、おそらく、十中八九、畸形嚢腫なのだろう。


 にしてもなんてところに出来る。


 時は昭和五年、秋。山口県赤十字病院は佐藤外科医長執刀のもと、二十一歳青年の睾丸肥大を手術した。

 

 

Yamaguchi Red Cross Hospital

Wikipediaより、山口県赤十字病院

 


 患者にとっては十年来のわずらいになる。


 十歳のころ、初めて股間に違和を覚えた。


 小さなしこりに過ぎないが、確実に「何か」がそこにある。少年が成長するにつれ、「何か」も併せて体積を増し、少年から青年へ、身体がける時分には、もはや自然治癒などと希望のぞむも愚かな、そういう規模に成り遂げた。


 二十歳はたちの峠を過ぎたころ、いよいよ日常生活に支障を来すまでになる。金はかかるが、この局面では是非もなし。入院し、この厄物を切り離してもらおうと、家族一同、話し合ってそう決めた。

 

 

Various scalpels

Wikipediaより、各種メス)

 


 佐藤医師はベテランである。


 なんてことない、簡単な手術オペに思われた。


 ところが豈図らんや、いざ切ってみたらどうだろう。


 伊予柑並みに膨れ上がった患者の陰嚢内部には、人の胎児が詰まっていたから大変である。否、表現により正確性を期すならば、胎児のパーツと呼ぶべきか。


 筋肉、毛髪、皮膚、骨、歯――。そういうモノが、よりにもよって玉袋の内部から溢れ出たから堪らない。


 助手の中には、危うく腰を抜かしかける奴まであった。


 畸形嚢腫、胎児内胎児。


 本来双子になるはずが、なにかしらの要因で片方が発育に失敗すると、もう片方の肉体に取り込まれた状態で生まれてくることがある。片割れの中で、寄生的に栄養を吸い、不完全な発達をずっと継続することが。

 

 

(昭和の産室)

 


 人体の神秘、運命の無情。えげつないまでの生命のふてぶてしさを感じずにはいられない、この現象が日本社会に常識のレベルで浸透するには、手塚治虫を、ブラック・ジャックを、ヒロインピノコを俟たねばならず、昭和五年の彼らに対し、どうか冷静な反応を――と、期待するのは無理だった。


 事態はやがて「睾丸から胎児が生まれた」云々と極彩色の潤色を施されて伝えられ、猟奇趣味の連中の、あくどい興味をずいぶんそそった・・・・ものである。


 果して患者は、玉袋から出たそれ・・が、己が双子の成れの果てだと正確な知識を得たのだろうか?


 克服するには知らねばならぬ。意志は智により磨かれる。「漫画の神様」の功績は、蓋し偉大と言わざるを得ぬ。

 

 

Osamu Tezuka 1951 Scan10008-2

Wikipediaより、手塚治虫

 


 日本が未だ多産国家だった時代の奇話だった。

 

 

 

 

 


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米食ナショナリズム


 嘗て戸川秋骨は、日本人を「米の飯と、加減の宜い漬けものがなくては、夜が明けない」民族なりと定義した。


 実に単純で、わかりよく、反論の余地のないことだ。


 筆者としても戸川の論を首の骨が折れるほど力強く肯定したい。


 美しく炊きあがった銀シャリには一種の威厳が付き纏う。


 この感動を共有し得る者こそが、つまるところは日本人ではなかろうか。

 

 

 


 福澤諭吉先生が保健のために日々嗜んだ運動は、散歩に居合い、それに加えて「米搗き」だった。本人の言葉を藉りるなら、「宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半許り芝の三光町よりして麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散策し、午後は居合を抜き、又約一時間米を搗き、而して晩餐の時を違へず、雨降るも、雪降るも年中此日課を繰返す」だ。同時代の誰より早く学生の体育に留意して、日本で初めて鉄棒、シーソー、ブランコを、自身の塾の敷地内に設置した、福澤らしい習慣だろう。


 豊葦原瑞穂の国、大和民族のDNAはたわわに実った稲の穂を敬うように出来ている。


 さてさてめでたきことである。

 

 

 


 戸川秋骨は日本人の食文化を讃美している。米の御飯に、漬物に――後には更にを加えて完全とした。「刺身のやうな、色から言っても綺麗な、そして清潔な、見るからに心持の良いものは、先づ喰ひものとして類のないものであらう。吾々はそれを味ひうる幸な人種である。若葉、ほととぎす、而して初鰹、如何に生き生きして鮮明に、また自然に近いものであらう。瀟洒な吾々の心持はその内に遺憾なく言ひあらはされて居る」云々と。


 ところがこの、あるいはだから・・・か、和食礼讃の秋骨が、中華料理を論ずる段に移るや否や温容一変、彼本来の毒舌を縦横無尽にふるっていたのは、対比として愉快であった。

 


支那料理なるものは、随分悪るもの喰いのそれだと思ふ。これが燕の巣で、それが鱶の鰭で、なんて普通の料理にも変なのが出て来るが、何も強ひてそんなものを選んで喰はなくても、普通のものを、うまく喰はせる事が出来さうなものだ、とそんな事も考へられる。君子は庖厨を遠ざける、なんて教訓のあるのに、献立の終りに近づいた頃に、鳥類の料理が出ると、料理人だか、給仕だかが、その鳥肉は、この鳥を調理したので御座い、とばかり鳥の頭か何かを、掴んでもって来て、客に見せる。妙な事をするものだと思ふ」

 


 果たして「妙な事」として、済ましていいのか、どうなのか。

 

 

 


 第一不衛生だろう。今は流石に、こんなあくどいパフォーマンスはなかろうが――ないよな・・・・、まさか、いや、しかし?


 なにぶん味覚の都合上、滅多に中華料理屋に入った経験ためしの無いだけに、自信をもって言いかねる。ペストだの武漢肺炎だのと、わけのわからぬ病原体が定期的に崛起する、ペイルライダーの保養地みたいな国柄だ。


 日本人とはよほど衛生観念の違う民族としか思われず、それを念頭に置く場合、安易にこちらの常識で推断するのは危険であった。

 

 

Wuhan CBD Buildings

Wikipediaより、武漢市)

 


 他人とは、疑ってかかるべきだろう。特に相手が歴史・風俗を異にする、外国人なら尚のこと。

 

『親善』といふ言葉は、朝鮮でも支那でも嫌はれる、親しみ善くするといふのだから、これほど善い事はないやうに思はれるが、それが案外嫌はれて、日支親善などといふと、気のきいた支那人は皆ぞぞ毛を振る――と、訝しんだのは楚人冠


 こうまで顕著に前提からして喰い違うということを、弁えておくべきなのだ。

 

 

 

 

 


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昭和五年の文士たち


 清廉居士、糞真面目、単純馬鹿、自粛厨、野暮天、潔癖症的正義漢――。


 呼び名は多岐に及ぼうが、ここでは敢えて「確信犯予備軍」と、そういう区分けをしてみたい。


 実に厄介な連中だ。


 昭和五年の七月である、久米正雄が大衆向けに麻雀指南を施す運びと相成った。ラジオを通じて、電波に乗せて、『麻雀と人生』と銘打った斯道の講義を試みたのだ。

 

 

 


 宣伝に凝っただけあって、前評判は上々である。


 放送開始時刻たる、六日の午後六時にちゃんとラジオの前に座れるように多くの中年男性が予定調整に勤しんだ。


 ところが前日、すなわち五日午後八時。局の電話が鳴り響き、応対すればどうだろう。


「久米の野郎を殺してやる、首を洗って待っていろ」


 蓋し物騒な脅し文句を吼え立てられたではないか。


 殺意の由縁は案の定、二十二時間後の麻雀講義にこそ在った。

 


「もしもし放送局ですか、いったい放送局の当事者はこの不景気を知ってゐるのか、失業者が巷に溢れ陰惨な出来事は毎日の新聞に載ってゐるではないか。国家の力位では容易に解決の道が見当らないといふ大きな社会問題が横はってゐるのに、糞面白くもない、安価な娯楽一点張りのプログラムを作ってばかりゐる、久米とやらの麻雀と人生なんて、わけの判らぬ話なんか放送を止めてしまへ、おれは社会人を覚醒させるためにまづ久米を血祭りにあげるつもりだ」

 


 上がすなわち脅迫の、一部始終に他ならなかった。

 

 

Mr.Kume Masao - New York - 1929 - Suzuki Rakan Seisaku

Wikipediaより、久米正雄

 


 局では直ちにこれを通報。警視庁は事態を重く視、犯人を捜す一方で、久米の下には私服警官を数名派遣し、密かに護衛させながら放送局へと入らしめている。


 応対者の記憶によれば、犯人の声は明らかに、若い男のものだったとか。


「浮世の事は卑しくも複雑也。而して青年の心は高尚にして単純也。故に青年の心と浮世とは、常に相衝突す」――大町桂月の嘗て明かした誘引作用。若人の血のくるめきの、正に典型例だった。


 世界恐慌のど真ん中、空前の不況に晒されて、一日平均五人以上が鉄道往生いざさらばと肉片になる御時勢だ。訴えんとするところ、確かにわからぬでもないが、それにつけても頭が固い。


 水清ければ魚棲まずである。廉直が常に最適解とは限らない。一九一七年、西部戦線塹壕でさえジョークは絶えなかったのだ。一切の娯楽を断たれては、一週間と正気を保てるものでない――と、日露戦争の従軍者も語ってくれたではないか。だから陣中、角力をやったり女形おやまになったり、あの手この手を尽くした、と。

 

 

(第一軍陣中相撲大会の様子)

 

 

 ここは一丁、

 

「競馬はスポーツと賭が交錯するところに他のスポーツにない魅力が生ずるのだ、日本の競馬ファンはいま正味二万、このうち一万人は僕みたいに全国十一ヶ所の競馬場を春となく秋となく催を追って渡り歩く競馬マニアだ、その二万人が一年間に貢献(?)する額がまさに一千万円、すると一人あたり年五百円づゝは完全に損してゐる。しかも一度百円儲けると前に三度にわたって六百円損したことをケロリと忘れてしまふほど爽快な気持が湧く、そこが競馬マニアには忘られぬ身上だよ」――菊池寛の説くバクチの妙味、「ギャンブルは、絶対使っちゃいけない金に手を付けてからが本当の勝負」とのたまったおとこの気迫を味わって、少しは心にゆとりというのを確保すべきであったろう。

 

 

 

 

 


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午年、午の日、午の刻


 案内状が舞い込んだ。


 同窓会の開催を報せる趣旨のものである。


 一九三〇年のことだった。一八七〇年生まれの戸川秋骨の身にとって――正確には一八七一年三月の「早生まれ」ではあるのだが、本人が「自分は一八七〇年の生まれだ」と繰り返し主張するがゆえ、ここではそれに従おう――、このとしは丁度六十歳目、還暦という人生の大きな節目に相当たる。


 それにかこつけ、久方ぶりに小学校のクラスメイトで集おうぜ、わっと騒いで、旧交を温め合おうじゃねえか――と、つまりはそんな誘いであった。

 

 

 


 聖書の登場人物で誰が一番好きかと問われポンテオ・ピラトと即答し、十二使途には「耶蘇の殺されたのは気の毒といへば気の毒だが、その為めに今日の耶蘇教が立派に成立した。耶蘇が殺されなかったら、あのガラリアの漁夫や、収税吏に何が出来たらう云々と、蓋し辛辣な評を贈った戸川秋骨のことである。


 まずまず名うての英文学者で、翻訳業も能くやりながら、自分で修めたその道に、「新聞で一番わからない、従って興味を感じないものは、相場の欄であるが、それに次いでは文学論の欄が私にはわからなく興味もない」と、つっけんどんな態度をとって憚らぬ、筋金入りの偏屈漢だ。


 当然、還暦同窓会のお誘いも、素直に受け取ったりしない。きっちり一言、

 


「どうして野蛮なチベットあたりから来たらしい干支が、古い日本人の心を、そんなに強く支配して居たのかわからない」

 


 毒づくのを忘れなかった。


 まあ、こんな悪態を吐きながら、いざ当日を迎えれば、ちゃんと盛装した格好で受付を済ます戸川の姿があったわけだが。

 

 

秋田県、湯津の馬風呂。昭和五1930年は午年である)

 


 会場内には懐かしい顔がぞろぞろと。


 ――貴様はちっとも変らんなあ。


 とか、


 ――けったいな爺ィになりおってからに、この野郎。


 とか、お定まりの口上を、しかし唯一の喜びを籠めて盛んに交換し合ってる。


 わけてもとりわけ目立っていたのは、やはり伊藤博だった。


 字の並びから、おおよその素姓は察せよう。


 然り而して、明治の元勲、伊藤博文の伜であった。

 

 

Hirokuni Ito 01

Wikipediaより、伊藤博邦)

 


 息子せがれといっても、直接的な血の繋がりはべつに無い。


 いわゆる養嗣子とする為に、井上馨の兄夫婦から貰い受けた児であった。


 まあ、その辺の事情の詮索は措くとして。――とまれかくまれ伊藤博文の後継ぎと戸川秋骨は奇遇にも、同窓の関係だったのである。


 還暦を機に、数十年越しの再会を迎えた。


 その際、戸川の心中に、どんな思念が湧いたのか。以下が即ち、詳細である。

 


「伊藤さんは私の小学校の同窓である。時は明治十二三年の頃で博文公がまだ工部卿で、葵坂の官邸にまだ居られた時代であったところから、私は当時そこへ遊びに行ったこともあった…(中略)昔は鬼ごっこで、きれいな縮緬の羽織を汚い手で、ひっつかんだものだが、今は全く雲上の人、此方は下界の一老書生、この辺で一つ栄枯盛衰を歎いて見たいのであるけれども、さて歎いて見るほどの憤慨も私にはない。それほど私は無気力なのだ。ただ案外にも伊藤さんが細節にとらはれず、福引の際の如きは、みずから立って、エー、……番はどなた、……番はありませんか、などと周旋までされたのはうれしかった」

 


 戸川秋骨、知っていたのか。つまり吉田松陰が、


「俊輔、周旋の才あり」


 と、その教え子を褒めて発した一言を――。

 

 

松下村塾

Wikipediaより、松下村塾

 


 故意か、それとも偶然の一致か。いずれにせよ、この眺めは悪くない。香しき人間風景だった。

 

 

 

 

 


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ドイツに学べ ―牛乳讃歌―


「日本人はもっと牛を飼わなきゃイカン。牛を殖やして、殖やしまくって、肉も喰らえば乳も飲め。そのようにして西洋人と渡り合うのに足るだけの、丈夫な身体を作らにゃイカン」


 維新成立早々に、社会のある一部から盛り上がった掛け声だ。


 畜産を盛んにせよという、つまりはそういう趣旨である。

 

 

(北大農学部の牛)

 


 御国のためなら是非もなし。「追いつけ・追い越せ」精神を色濃く反映しているだけに、官民問わず賛同者は多かった。


 福澤諭吉も、その顕著なる一人であろう。

 


牛乳の功能は牛肉よりも尚更に大なり。 熱病労症等、其外都て身体虚弱なる者には欠くべからざるの妙品、仮令何等の良薬あるも牛乳を以て根気を養はざれば良薬も功を成さず。 実に万病の一薬と称するも可なり

 


 腸チフスによる衰弱を牛乳により癒したという実体験があるだけに、先生、語りに熱がある。


 他には大久保利通なぞも、内務卿としてその方面に力を致していた筈だ。


 時間を飛ばして年号変わり、大正時代に至っても、方向性は変わらない。

 

 

 


 内務省は相も変わらず、牛乳の普及に努めてる。日本人に馴染ませようと苦心していた形跡が、衛生局医務課長、野田忠広の発言中に窺える。

 


一体牛乳は国民保健上欠くべからざる栄養飲料であるから極めて廉価に一般国民に需要し得らるゝやうにしなければならぬ、然るに我国の牛乳は非常に高価で中流以上の人でなければ常に飲用することが出来ない有様である、ドイツの如きは如何な貧民でも牛乳を飲用せぬものはない、之は要するに価格が安いからである、正確には記憶せぬがドイツの牛乳は一合二銭以下で殆ど我国の半額にも当らぬ」

 


 大衆が求めているものは、常に安くて・・・良いもの・・・・だ。


 横着者めと言いたければ言うがいい、それでも事実は変動うごかない。


 セガサターンをたった一言で葬った、スティーブ・レースの「299ドルだ」――初代プレステの値段発表――は、何故あそこまでの破壊力を持てたのか? 何故ああまでも劇的効果を演出したか? ちょっと考えれば必然として見えてくる。


 だからそう、野田忠広の着眼点は、実に当を得ていよう。

 

 

旧中央合同庁舎第二号館

Wikipediaより、内務省庁舎)

 


 話は更にこう・・続く。

 


「然らばうすれば廉く飲めるかと云ふに之は大に研究を要する事で、営業者側から云ふと需要者が少いから自然高くなると云ひ又需要者に云はせると高いから飲めぬと云ふ何れも一理がある、基盤が鞏固で国民衛生を主眼として営利を第二とした一大牛乳会社を出現さして牛乳代を廉くしたらどうかと思ふ、ドイツのベルリンにボルレ会社と云ふ此種の大会社があって三四百台の馬車や自動車で極めて迅速に配達して居る、斯る大規模の会社組織となると各種冗費が省かれ営業費が著しく軽減される、結果は牛乳が低廉に販売されるやうになるのである」

 


 ――以上、大正六年に、世に表された意見であった。


 西紀に直せば一九一七年だ。


 欧州大戦酣なる時期である。


 戦車に飛行機、毒ガスと、人が人をまとめて殺す能率が天井知らずに向上している時期である。


 大日本帝国は帝政ドイツに宣戦布告、青島を攻めたり商船を沈められたりと、交戦状態真っ盛りな頃である。

 

 

 


 戦時中に敵性国家のメソッドを学ぼうとする柔軟さ。且つ、そのことを大っぴらに叫ぼうと、なんら咎められない空気。


 大東亜戦争時局下にては、まず望み得ぬ光景だ。


 大度と感心するべきか、あいやそれとも、当事者意識の欠落をもどかしがるべきなのか?


 多くの日本人にとり、第一次世界大戦がどういう感触だったのか。――どんな印象のいくさであったか、こんな些細な点からも、おおよその見立てはつくものだ。

 

 

 

 

 


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