穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

北門小話


「北海道では馬乗りでなければ選挙に勝てない。内山吉太が屡々勝利を博し得たのも、馬術に長じていたのが第一だ」


 北海道の特殊性を表現するに、楚人冠はこのような論法を以ってした。


 彼の地は広い。東北六県に新潟県を併せてもなお幾許いくばくか及ばないというだだっ広さだ。おまけにその大半は、なお手つかずの森林原野。道なき道を行かない限り、有権者に呼びかけることすら満足にやれない。


 だから馬の出番となるのだ。


 悪路突破の性能に於いて、この四足獣の右に出るモノはまずいない。少なくとも楚人冠が稿を起した、大正三年の時点に於いてはそうだった。巧みな手綱さばきによって北の大地を縦横無尽に駆け巡り、有権者との接触を繁くした者が結局は勝つ――。


 八幡平で落馬して、腕の骨をポッキリ折った楚人冠が書いたと思うと、また格別な面白味が湧き出そう。

 

 

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(楚人冠の落馬地点に建った句碑)

 


 とまれかくまれ、北海道はそういう土地だ。


 明治十四年、天皇陛下が小樽・札幌・室蘭と、各地を御巡幸なさった際も、道中毒虫・荊棘・野獣のために大層ご艱難あらせられたそうである。


 北海道の開拓に、皇族の寄与するところは存外大きい。昭和三年、厳冬期の二月を選んで秩父宮が行啓なされた際などは、道庁役員その効果について謹話するに、

 


「冬の北海道は全く人間の住むところでないものゝ如く思はれてゐた内地人に非常な刺戟を与へ、また北海道における冬の味はひを十分宣伝されたことである」

 


 実に偉大と、感激も露わに述べている。(昭和三年、旭川新聞社発行『北海道論』)

 

 

Chichibunomiya Yasuhito

 (Wikipediaより、秩父宮

 


 またこの訪問の感想として、秩父宮が札幌鉄道局長を相手に、

 


「北海道は将来世界的ウインタースポーツの土地とするやうに、鉄道省等も、スイスのやうに、スポーツマンのため鉄道ホテルを建設し、内外人を北海道に集めてはどうか」

 


 と御指摘なされた一件は、十年後、二十年後を洞察し抜いたものとして、蓋し卓見であったろう。


 昭和十五年札幌オリンピックの中止を最も残念に思われたのは、もしかするとこの宮様であったかもしれない。


 本格的な冬の訪れを前にして、とりとめもなく、そんなことを考えた。

 

 

  

 

 


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福澤諭吉の戦争協力 ―『日本臣民の覚悟』―

 

 引き続き、『学府と学風』に関して記す。


 前回は書き込みばかりで少しも内容に触れられなかった。


 今回はここを補ってみたい。


 本書の中で小泉は、よく日清戦争の当時に於いて福澤諭吉が如何な態度を示したかを引き合いに出す。現在進行形で支那を相手に戦火を交えている都合上、それは自然な流れであろう。


 ――この難局に、慶應義塾の門下生はどんな姿勢で臨めばよいのか?


 迷った際は源流みなもとに還れ。創始者の中に方針を見出そうとしたわけだ。


 そうなると真っ先に目にとまるのが、『日本臣民の覚悟』である。

 

 

Shinzo Koizumi

 (Wikipediaより、小泉信三

 


 日清戦争開戦直後、福澤諭吉時事新報の紙面を通して今次戦争の意義を明らかにし、同時に「日本人が覚悟すべき三つのこと」を世上に説いた。すなわち、

 


 第一、官民共に政治上の恩讐を忘るゝ事


 第二、日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を非難すべからざる事


 第三、人民相互に報国の義を奨励し其美挙を称賛し又銘々に自から堪忍すべき事

 


 この三つを、だ。


 どれもこれも、総力戦の遂行に不可欠な条件ばかりであろう。


 そう、福澤諭吉日清戦争の全面的な肯定者。持てる力の限りを尽くして祖国の勝利に貢献しようと覚悟していた者だった。

 

 

福澤諭吉像2

 (Wikipediaより、福澤諭吉像)

 


 にしても、第二は凄まじい。政府を非難するなとは、言論統制そのものではあるまいか。「自由」と「権利」を日本に教えた張本人がこんなこと書いていいのかと、わけもなく反撥したくなる。


 だが、福澤に言わせれば、原理主義者になれるほど、自分は単純な男ではない。

 


 抑も言論自由の世の中に於て政府の得策を批評するのは当然のことであるが、戦時は然らず、批評はただ人心を沮喪せしむるの不利がある許りで何の利益もないから、「謹んで黙して当局者に自由の運動を許し」何事も賛成して、陰に陽に国民の身に叶ふ丈けの助力を与へねばならぬと謂った。(『学府と学風』62頁)

 


 丁度、ベトナムに於ける米軍のように。


 前線と銃後の統一を欠けば勝てる戦争も勝てなくなると、福澤は知り尽くしていたらしい。


 いったん戦争を始めた以上、何が何でも勝たねばならぬということは、議論以前の「前提」として問題にもしていない。福澤はまったく、戦時中知識人がどう在るべきか、完璧な手本を示してくれた。

 

 

Sino Japanese war 1894

 (Wikipediaより、日清戦争

 


 まるで火薬庫が次々誘爆するように。


 日清戦争の期間中、福澤諭吉の過激論は熱量を増す一方で、ともすれば自制を忘れた観すらあった。

 


 朝鮮で彼の勢力を挫いた上は直ちに陸海軍の全力を挙げて北京を衝くべしと言ったり(二十七年八月五日)、又必ずしも北京には限らぬ、盛京(奉天)省を取って満洲地方との連絡を絶つも好からうと言ったり(八月九日)、取敢へず満洲の三省を略して之を占領すべしと言ったり(八月十一日)した。(64頁)

 

 

 なんと華麗な大風呂敷であることか。


 そう、華麗・・というのが重要だった。福澤諭吉の目的は、とにかく楽観論をぶちまくり、国民をして戦争に積極的ならしめて、中途半端な和平案に飛びつかせない。戦って戦って戦い抜いて、以って「彼の復讐力を減殺」し尽すその瞬間まで、あくまで鉾を収めない。「永久の平和を祈るが故に殊更ら一時の強硬を主張するのみ」という、透徹した現実主義にこそあった。


 つまるところドリフターズ島津豊久が言っていた、

 


 叩く時は追うて追うて根まで叩かねば駄目じゃ。叩いたら叩いて潰せち教わった。
 親父殿もおじ上殿も、もう一人のおじ上ももう一人のおじ上もおじい様もひいじい様も言うておった。

 


 と同一基軸だ。


スティール・ボール・ランジャイロ・ツェペリDioを相手に目指したところの、「あいつに100年間は2度とオレに挑んで来たいと思わせないようなそういう勝ち方」にもどこか通じる。


 いずれにせよ、世代を超えて受け継がれる日本人の精神に、感動せずにはいられない。

 

 

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 先生は時期尚早の平和説の発生を殊に恐れ、度々当局者は斯る愚説に耳を傾けてはならぬと戒めた。殊に商工業者は戦争の影響を蒙ることが多からうから、自然戦を厭ふの情も漸く起らざるを得ぬ。「左れば今後戦争の永続中平和説の徐々に発育す可き地面は実業社会にして陰に陽に之を培養する者は商売人なる可し」と先生は推測した。さうして若しも事実其の通りであるならば、それは昔の「平民根性を再演」するもので、「今後如何様に軽蔑さるゝも一言の申訳」はないと戒めた(九月九日)。(65頁)

 


 戦地の将兵に贈るのに、なるほどこれは最適な書だ。慶應義塾出征軍人慰安会はいい仕事をした。


 八十島信之助が一日で読みきったのも頷ける。きっと書を開いている間中、ずっと福澤に激励されている感があったのではなかろうか。

 

 

スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス

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慶應義塾出征軍人慰安会ヨリ ―八十島信之助の署名―

 

 前の持ち主が意外な有名人だった。


 昭和十四年発行、小泉信三『学府と学風』のことである。

 

 

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 だいたい昭和十二年から十四年までの期間に於いて、小泉が行った講演・演説・祝辞の類を纏めた本書。その奥付に、以下の書き込みを発見したのだ。

 


昭和十四年十一月三十日・泰安
慶應義塾出征軍人慰安会ヨリ
十島信之助

 

 

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 この十島信之助という名前、調べてみれば確かに慶應義塾の出身で、昭和十三年医学部卒、陸軍軍医として大陸に渡り、ノモンハン事件等に従軍したとなっている。


 復員後は法医学者の道を歩み、数多くの司法解剖に携わる。なにかと陰謀論のささやかれがちな下山事件の検視を行い、「他殺の疑いなし」と判断したのもこの八十島だ。

 

 のち、札幌医科大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受勲。――


 ノモンハン事件が戦われたのは昭和十四年五月から九月の間。


 泰安支那山東省西部に位置する街であり、支那事変を契機とし、昭和十二年十二月三十一日以降日本軍の占領するところとなっていたから、時間・位置的に不自然はない。


 陣中生活の無聊を慰めるため、軍医時代の八十島が読んでいた本。そう判断するのが至当であろう。いわば戦火を潜ってきた一冊であり、そう考えるとこのボロボロ具合も納得がいく。むしろよく、この程度の損傷で済んだものだと。

 

 

Japanese soldiers creeping in front of wrecked Soviet tanks

Wikipediaより、ノモンハン事件) 

 


 八十島 に依ると思しき書き込みはもう一つある。本文末尾に記された、

 


11月30日
即日読了

 


 すなわちこれだ。

 

 

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 如何に本書が二百ページに満たない小著とはいえ、これは相当なスピードである。


 よほど活字に飢えていたと捉えるべきか。ちなみに私は二日かかった。


 生命いのちの危険なぞまるでない、自室で安穏と炬燵に足を突っ込みながら、だ。


 べつに速読を志しているわけでもないし、こんなことで勝ち負けを競うのは甚だ愚だと分かっているが、それでも後れを取ったという気分が拭えぬ。己の未熟さを実感せずにはいられない。まだまだ精進が必要だ。

 

 

共産主義批判の常識 (中公クラシックス)

共産主義批判の常識 (中公クラシックス)

  • 作者:小泉 信三
  • 発売日: 2017/08/08
  • メディア: 新書
 

 

 

 


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ベルの燈台

 

 フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。


 優美な島だ。


 名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベルBelleは「美しい」を、イルÎleは「島」をそれぞれ意味するものらしい。

 

 

Plage de Castoul Belle-Île-en-Mer (56)

 (Wikipediaより、ベル島、カストゥールの浜)

 


 島には複数の燈台がある。


 本土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。


 さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。


 1911年4月11日、ひとりの男が死亡した。


 彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不意打ち以外のなにものでもなかったという。

 

 

Belle-Ile phare Kerdonis (1)

Wikipediaより、ケルドニス燈台) 

 


 燈台内の清掃作業に当たっていたマテロット氏は、にわかに胸奥に不快を覚えた。咳ばらいをしても背筋を弓なりに伸ばしても、はたまた深呼吸を繰り返そうと、一向にその不快感がなくならない。どころか逆に、身体の芯にいよいよ深く絡みついてくる感がする。


 とうとう彼は直立さえままならなくなり、掃除半ばで下階に降りて床に入るを余儀なくされた。


「いったいどうなさったのです」


 ほんの数時間のうちに、別人の如く衰弱しきった夫の姿に狼狽しながら、妻は必死の看護に当たった。


 が、容体は回復の兆しを一向に見せず、そうこうする間にいよいよ日暮れが近付いてきた。


 そろそろ燈台にをともすべき頃合いだ。


 だが、その作業には夫を置いて行かねばならない。


 呼気もか細く、虫の息という表現がちっとも比喩でなくなった今の状態の夫から、一時的にといえど離れなければならないのである。


 人情として、これほど辛い相談もない。


 まさしく身を引き裂かれる気分であろう。


 が、ほどなく妻は決意した。燈台守として、仕事を果たしに赴いた。標高37.90mの丘の上に、あかあかと灯が点ぜられた。

 

 

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 しかし、ああ、やんぬるかな。妻が部屋に戻ってみると、既に夫はこと切れていた。ほんの数瞬間の差で、彼女は半身の死に目に立ち会えなかった。


 遺体に縋り、悲嘆の涙に暮れる彼女に、更に追い打ちというべき報せがかかる。足音も荒く部屋に飛び込んで来た長男が、


「燈台の灯が回ってません」


 泣くような声で、そんなことを言ったのである。


 本来ケルドニス燈台は回転式であったのが、マテロット氏が清掃のため回転機を取り外し、しかも作業半ばで発病したため元の状態に復しておらず、従って回転しなかったのだ。


 これをこのまま放置すれば、どんな不祥事が起こらぬとも限らない。


(ばかな。――)


 嘗て感じたことのない激情が腹の底から衝き上げてくるのを、マテロット婦人は感じていた。


(私は夫を犠牲にしてまで役目を遂げた。にも拘らず、この燈台めの怠慢ぶりはどうだろう)


 冗談ではない、こいつには何が何でも安全に船舶を導かせてやる、と。


 遺体をベッドに放置したまま、彼女はまたも駆け出した。


 その心境は、ある種復讐者のそれに近しい。

 

 

Ferry de Belle Ile

 (Wikipediaより、ベル島、フェリー停泊所)

 


 原因を突き止め、回転機を嵌め直そうとしてみたものの、どうしても夫がやっていたようにカチリとうまく嵌らない。


 万策尽きた彼女は、ついに最後の手段に打って出た。


(自動が駄目であるのなら)


 結構、手動でやるのみよ、と。


 二人の息子と力を合わせて、21時から翌朝7時に至るまで、延々灯火を回転させ続けたのである。


 力技にもほどがある解法だった。


 明らかに給料分を超えた労働。


 しかし損得勘定を超越した行為にこそ、人は心震わせる。


 この日マテロット一家を襲った異常な事態はやがてフィガロ紙に取り上げられ、全フランス国民の知るところとなり、英雄的義挙として、絶大な反響を呼び起こす結果となった。

 

 

19270604 Le Figaro - Supplément littéraire du dimanche - page 1

 (Wikipediaより、ル・フィガロ

 


 日本では楚人冠が、同年7月4日に新聞紙上で触れている。


「幸ひにして出入の船舶が此の燈台を見誤らずして全く事なきを得たるは、一に此の幼い子供が母の命を奉じて夜の目も合さず燈火を回転させたるに依る」、と、そのいじらしさをほとんど手放しで称賛した。(『新聞記事回顧』297頁)


 左様、幼い。


 夜を徹して燈火を廻し続けた二人の子供。そのうち長男ですらこのとき10歳の若さに過ぎず、次男に至っては言わずもがな。


 おまけに彼らは、直前に父を喪っている。


 心身ともにどれほど疲弊したことか。つむじ曲がりの楚人冠といえど、流石に脱帽するしかなかったのだろう。

 

 

 

 

 


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アメリカ三題 ―楚人冠の新聞記事から―

 

 思わず声を立てて笑った。


 楚人冠全集第十四巻、『新聞記事回顧』を読み進めていたときである。


 頁を捲った私の眼に、このような記事が飛び込んで来たのだ。

 


 嘗てパリの労働者間に酒類に代へて石油飲用の流行したることあり。又露国が戦時禁酒を行へる当時、酒に窮してオーデコロン、オーデキニンを飲用したるものありと聞く。

 

 

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 大正八年三月二十五日の社説に書かれた文らしい。


 大正八年といえば西暦にして1919年、およそ101年前である。


 なんとこんな昔から、ロシア人のアル中ぶりが知れ渡っておったとは――。


 つい先日もロシアでは、酔いを得ようと手指消毒液を呑み干して、七人が死亡したばかりである。


 2016年には入浴剤を喉の奥に流し込み、百人超が中毒症状、七十八人が死亡した。


 旧ソ連時代、車輌用の不凍液を蒸留してウォッカ代わりに酌み交わしたという心温まるエピソードも見逃すわけにはいかないだろう。


 まこと、彼らは筋金入りだ。


 楚人冠は上記の奇話を、目下米国で制定されつつある禁酒法批判のために引いている。

 


 吾人が最近接手せる報道に依れば、去る二月六日三万人より成れる建築労働組合代表者は「ビールを得ずんば働かず」との決議をなし、ニューヨーク及び其の附近の労働大会に提出して、七月一日戦時禁酒法励行と同時に大同盟罷工を開始せん計画中なりとあり。(18頁)

 

 

5 Prohibition Disposal(9)

 (Wikipediaより、下水道に廃棄される密造酒)

 


 アメリカ人の酒に対する執着たるや甘くない、ロシア人と比べても簡単に引けは取らないほどだと警告し、にも拘らず強いて横車を押そうとすれば、すなわち「窮すれば濫するは人の自然」で、結局のところ酒より有害な代用品を用いる輩が急増し、また一方ではムーンシャインと呼ばれる密造酒の需要が甚だしく拡大し、その元締めたる暗黒街の住人どもが断然威を逞しくするようになり、社会に対して計り知れない害毒を呼び込むことになるだろう、と。


 まるで十年後のアメリカを見てきたように。いちいち精確な指摘を行っている。

 


 米国には婦人と偏僻なる宗教家が往々民情を無視して枯淡なる清教的法律の作成に努力し、その結果意外の悪結果を醸成して世の物笑ひとなることあり。(19頁)

 


 これなどは昨今の愚劣極まるポリコレムードにもぴたりと嵌まる、名分析であったろう。


 アメリカの病根をえぐり抜くこと、達人の手際としか言いようがない。


 合衆国に関しては、楚人冠はこんな記事も書いている。

 


 米国の大西洋岸では目下イルカの猟期といふので、漁夫は申すに及ばず、全国の時計屋が少からず気を揉んで居る。時計屋が気を揉むのは可笑しいやうだが、時計に使ふ最上の油はイルカから取れるので、イルカ以外にこんな良い油は取れないとなって居る。(301頁)

 

 

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 化学技術が未発達な時代、油や香料は自然にこれを仰ぐしかなく、たとえばペンギンなどは何百万羽と蒸し殺されて、燈油や石鹸あたりの品に生まれ変わったものだった。


 そういう意味では石油化学の発達ほど動物の命を救った研究もなく、功績偉大とするに足る。


 イルカ猟の記事、更に続いて、

 


 それもイルカの全身にあるのではなく僅に下顎にあるりである。普通の脂肪あぶらなら大抵のイルカ一尾に一斗五升位はあるが、下顎は平均一升二三合しかない。随って価格も普通の脂肪は一ガロン(二升五合)七八十銭位のものだが、下顎のは二十円もする。(同上)

 


 時計が高価なのも納得のゆく下りであろう。

 

 

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 ハワイで弁護士をやっているヘンリー・ホームスなる白人と、晩餐を共にしたこともある。これは横浜きっての古美術商、野村洋三の手引きによって実現した席だった。


 その間じゅう、ホームスは日本人が西洋の文物を取り入れることにばかり熱心で、従来の美風を置き捨てにして朽ちさせて、しかも何ら顧みるところなきを痛嘆し、

 


れいせば貧に処して悠然として安んずる所あるが如きは日本の貧民の美所なり。西洋にて金のなき者といへば年が年中せかせかとして蚤取眼に世を渉猟あさり廻り、あはよくば泥棒でもし兼ねまじき者許りにて、日本とは大変な相違なり。近頃日本人が此の美所を捨てゝ金儲けにとて海外に迄出かけ其の結果徒に欧米奢侈の風を輸入し来るが如きは余日本の為に取らず(289~290頁)

 


 その語気の激しさたるや、ほとんど安政時代の攘夷志士の怨念でも憑依したかと、聴き役の日本人二人の方が不安に駆られるほどだった。


「しかし、なんだな」


 たまりかねて野村洋三が口を挟んだ。


「カリフォルニア辺りの日本人は、却って国俗を墨守して全然改むるを知らざるが故に不人気となり、とうとう今日の排日騒ぎに至ったではないか」


 こうまぜっ返すと、途端にホームスは怒気を発して、

 


「日本人がカリフォルニア辺にて人望を博せんと欲せば、須く酒を飲み色を漁し賭博を打つべし、得る所の金は悉く費ひ果して一文も他日の為に貯へず、半銭も本国に持ち帰ることなくば、夫こそ大変な人望を得らるべし、斯く迄に我を棄て他を学ぶの要あらんや(290頁)

 


 と切り返したから堪らない。


(なるほど弁護士なだけはある)


 法廷で鍛えられた賜物か、と。


 その論鋒の鋭さに、楚人冠は舌を巻かずにいられなかった。

 

 

Aliiolani Hale 2011 by D Ramey Logan

 (Wikipediaより、ハワイ州最高裁判所があるアリイオラニ・ハレ)

 


 この会食の風景が新聞に掲載されたのは、明治四十四年十二月五日のこと。


 グレート・ホワイト・フリートが来航してから、およそ三年後の日であった。

 

 

知っておきたい「酒」の世界史 (角川ソフィア文庫)
 

 

 

 


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1925年のダマスカス ―フランス軍、暴徒に対して爆弾投下―

 

 1925年、シリア、ダマスカスの市街に於いて。


 フランス軍は暴徒鎮圧に爆発物を投入し、ナポレオン・ボナパルトの勇壮な精神の輝きが遺憾なく受け継がれていることを内外に示した。

 

 

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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より)

 


 順を追って説明しよう。


 すべての元凶はイギリスである。


 この年の四月一日エルサレムに築かれたヘブライ大学の開校式に出席するため、アーサー・ジェームズ・バルフォア卿パレスチナに乗り込んだことが始まりだった。


 そう、アーサー・ジェームズ・バルフォア。


 第一次世界大戦当時外務大臣の席に在り、例の三枚舌外交を発揮して、中東に百年経っても解決されない大混乱を惹き起こした張本人といっていい。


 アラブ人――特にパレスチナ在住のアラブ人にしてみれば、どんなに呪っても呪いきれない相手であろう。


 そんな男がよりにもよって、怨嗟渦巻くエルサレムに、イギリスの肝煎りで設立された、ユダヤ人のための大学の式典に出席するため飛び込んでゆく。


 騒ぎにならねばむしろ奇蹟だ。


 案の定、エルサレムのアラブ人は針の筵で彼を迎えた。当日、アラブ人の経営による商店は示し合わせて一切合切休業し、戸口に弔旗を掲揚し、自分たちの感情が那辺に在るかを如実に示した。


 各新聞もこれに和し、こぞって黒枠付きの新聞を発刊、弔意を表したものである。


 が、パレスチナに於いてはそれ以上のことは何も起こらず、開校式も恙なくプログラムを完了し、バルフォア卿は五体満足でスコーパス山を後にした。

 

 

Founding of the Hebrew University

 (Wikipediaより、ヘブライ大学開校式)

 


 問題が起きたのは、イギリス委任統治パレスチナからフランス委任統治領シリアに入って以後である。


 この地に住まうアラブ人は、パレスチナの人々ほど気が長くなかった。もっと直接的な方法で意志を表現することにした。すなわち、


 ――あの三枚舌野郎を街路に引き出し、八つに裂いてくれようず、と。


 バルフォア卿の泊まるホテルに襲撃をかけることにしたのだ。


 フランスこそいい面の皮であったろう。


 彼らにしてみれば、いま現地人の感情を刺激するのは何としてでも避けたかった。


 ヴェルサイユ条約以来、ここシリアでも民族自決金科玉条として「シリア人のシリア」を求める動きが不気味に大地を揺さぶっている。


 が、一次大戦以前には、ルイ九世の古証文を持ち出してまでこの地の保護権を主張したほどのフランスが、それを良しとする筈もなく。


 国中の監獄という監獄が悉く国事犯で埋まるほど厳しく弾圧に努める一方、これ以上の激発を抑止し、彼らを現状維持の惰眠の中に閉じ込めておくよう、様々な懐柔策を打ち出していた。


 そうした繊細な心遣いの真っ最中に、このバルフォア来訪である。

 

 

A.J. Balfour LCCN2014682753 (cropped)

 (Wikipediaより、アーサー・バルフォア)

 


 たまったものではなかったろう。旱魃続きの夏の枯野に、火炎放射器をぶっ放されたも同然だった。


 必然として、大炎上した。


 その火勢を、興味深く眺めていた日本人がひとり居る。


 東京日日新聞顧問で、昭和二年には名著『外交読本』を世に著した、稲原勝治その人である。


 以下、彼の報告「『神の選民』ユダヤ人の国」から抜粋すると、

 


 バルフォア卿が、エルサレムを引揚げ、仏国受任統治領たるシリアに入りダマスカス市に滞在するや、アラビア人の大群衆がそのホテルを襲ひ死傷者百五十名を出し、暴徒が再び襲来せる際は、仏軍が爆弾を投下してこれを離散せしめたほど、勢ひ猖獗を極めたものである。驚いたバルフォア卿は、辛うじて身を以て汽船スフィンクスに逃れ、英国に帰った。

 


 要するに、

 

 

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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より)

 


 こういうことが起きたのだ。


 フランスの努力は、無為に帰したといっていい。彼らの眼には、バルフォアが疫病のように見えたのではあるまいか。


 シリアはその後、独立の気勢ますます高まり、1928年にはフランスをして軍政の廃止と制憲議会選挙の実施に頷かせるに至っている。

 

 

 

  

 


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トルコアヘンは大人気 ―イスタンブールの日本人―

 

「ウチのアヘンはもの・・が違う。紛れもなく、世界最高品質だ。一度でもその味を知ってしまえば、二度と再び他国製では満足できなくなるだろう――」


 そのトルコ人の自慢話がまんざら誇張でもないことを、大阪朝日の特派員・高橋増太郎は知っていた。


 彼が派遣されたこの当時、トルコ共和国国際連盟に未加入な立場を最大限活用し、アヘンの輸出に極めて積極的な状態にある。1927年だけでも三十五万七千六百キログラムを生産し、その輸出額は千四十四万リラに上ったというから大したものだ。


 建国間もないトルコにとって、これほど好都合な「特産品」もなかったろう。


 彼らはまた、自分たちの商品が如何に高品質を保っているかを科学的に立証しようとこころみた。各国のアヘンを分析し、そのモルヒネ含有率を調査して、白昼堂々公然と、スミルナ商業会議所の名の下に発表したのだ。

 

 

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(スミルナの街。現在では「イズミル」の名で呼ばれる)

 


 それによると、


 まずはトルコが10~14%、


 次にユーゴスラビアが8~14.5%、


 ペルシャの8~10%が後に続き、


 エジプトが6~8.5%を示せば、


 インドの6~7%となり、


 最後に支那の3~7%が来るといった寸法である。


 最大値こそユーゴスラビアに一歩譲るが、安定性ではトルコが大きくリードしている。なるほど胸を張りたくなるのも当然だろう。


 ところで面白いことは、このトルコアヘンがブランドとして確立するに、大きく寄与した日本人がいたことだ。


 その人物は、大阪から来た。


 堺商人である。


 という稀有な姓――これ一文字で「さかん」と読む――の持ち主で、トルコ政府から許可を受け、イスタンブールに拠点を置き、精製業を専らとした。


 むろん、アヘンの、である。

 

 

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(夕暮れのイスタンブール

 


 芥子坊主から採られた液は彼の技術で不純物を除去されて、色鮮やかなアヘンに変身、スイス、フランス、ドイツ等の製薬会社へ大いに売り込んでいたらしい。


 が、その大いに・・・というのがまずかった。


「なぜトルコがこれほど質のいいアヘンを作れる」


 という疑問が列国間で持ち上がり、内偵をすすめた結果、裏に日本人が居ることを、おそらくは英国あたりが嗅ぎつけた。


 彼らはさっそく日本政府に苦情をねじ込み、吃驚した日本政府は大慌てで目氏に圧力をかけ、半ば強制的にトルコから退去させてしまったのである。


 このあたりの顛末を、


「相当に金儲けが出来たものか一年程前権利をドイツ人に譲渡して故国に引揚げたが、惜しい事業であった」


 と、高橋も痛惜を籠めて書いている(『国富増進と産業の発展』)。

 

 

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(トルコの市場)

 


 それにしても、


 ジャワ島でニャミル椰子園を経営していた和田民治といい、


 アフガニスタン軍務省に招かれて政府施設の建築設計に携わった近藤正造技師といい、

 
 そして今回の目氏といい。


 日本人の活動は私の想像を遥かに超えて幅広く且つめざましく、彼らの足跡を発見するたび、こんな古くからこんなところまでよくもまあ、と、いちいち新鮮な驚きに包まれずにはいられない。


 つくづく以って、わが国の歴史は豊潤だ。

 

 

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