穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

公私の巧みな使い分け ―国会記者・岡本一平―

 

 岡本一平は政治漫画もよく描いた。


 だから国会の裏も表も、実に詳しく知っている。


 記者控室の常連だったといっていい。蝶を待つ蜘蛛の心境で、あの立法府の隅々に感覚の網を張っていたのだ。

 

 

Diet of Japan Kokkai 2009

Wikipediaより、国会議事堂)

 


 ある日、こんな景色に出くわした。なんのことはない、ひとりの議員が帰り際、意図せず現職の某大臣と行き合った。すれ違いざま、議員はぺこりと一礼し、簡素ながらも心のこもった辞儀を残して過ぎ去った。ただそれだけのことである。


 ところがこの議員というのが実は野党に属する者で、政府攻撃の先鋒として日夜活動にいそしんでおり、ついさっきまでも予算案に関連づけて、まさにこの大臣某氏を罵殺せんが如き大糾弾をやってのけた本人だからたまらない。


 仇敵に向かって頭を下げた。それだけでも驚きなのに、それを受けた大臣の方も「全く他意なき微笑をもってこれに答へ」たものだから、岡本はいよいよ胆を潰した。

 


 ――本当に。然り、本当に公私の別といふ事をこんなに立派に遣ひ分けられるのか。

 


 戦慄も露わに書き綴ったものである。

 

 

 


 公の場でニコニコと、仲の良さをアピールし、私的な場所では険悪・確執・口もききたくないとばかりの冷たい顔を見せつけ合うのは、べつに珍しくもなんともなかろう。


 世間の人は結構な割合でやっている。


 ごくありふれているだけに、そんなのは大して面白味もない。


 反対に、公の場で激しく角逐しておきながら、いざ「お開き」となるとにわかに敬意を表し合う。こちらはそうそうお目にかかれるものでなく、それだけにまた面白味もひとしお・・・・で、人物の大きさを感じるものだ。


 そういえば第二次世界大戦中、フランクリン・ルーズベルトが急死すると、ヒトラーは欣喜雀躍そのままの態で口撃の鞭を加えたが、日本国首相鈴木貫太郎はただしんみりと「深い哀悼の意」を表明したばかりであった。

 

 

 


 武士道というか、フェアプレイ精神というか。いずれにせよ一連の現象には深いところで、なにか連絡があるように思える。


 岡本はまた、政治家といういきものの骨柄・人相について触れ、

 


 一体に代議士になる奴は身体が大きい。議場で子鼠のやうに見ゆる奴でも廊下で逢ふと普通の人並みはある。平均の目方をとったら世間の平均よりぐっと上になるだらう。
 目鼻口身体の道具立てがまた大袈裟だ。確に常人より怪異だ。人間のあらゆる欲望を露骨に肉体に噴き出さした為めでもあらうか。闘鶏の鳥冠とさかいかつい・・・・ように彼等も好む闘争の度毎にあんなに顔をものものしくさして仕舞ったのか。(中略)或は生まれ付きものものしくある為め自然朋輩から目立って人間の看板ともいふべき代議士になる運命に立つようになったか。どっちだか一寸判らぬ。

 


 このような自説を表明している。

 

 まず、卓見といっていい。

 

 

 


 確かビートたけしの書いた本にも似たようなくだりがあったはずだが、不幸にして抜き書くのを怠った。


 近く、読み返してみるか。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

未来は過去の瓦礫の上に ―青函連絡船小話―


 小麦に限らず、艀荷役はよく積荷を落っことす。


 何処かの誰かが到着を今か今かと待ちわびている大事な品を、些細なミスからついつい海の藻屑に変える。


 大正十一年度には、青函航路――青森駅函館駅との間を結ぶ、片道ざっと113㎞のこれ一本をとってさえ、実に一千四百二十三件もの荷役事故が発生したということだ。

 

 

(函館港)

 


 一千四百二十三件。


 単純計算で、毎日最低三つの荷物を水没させていなければおっつかない数である。


 北海道を本州に、もしくは本州を北海道に繋ぎとめている重要航路に、なんという無駄な損失だろう。


 宿痾なりと諦めるには、ちょっと・・・・以上に多すぎる。


 当時の人もそう思ったらしい。対策が打たれ、効果を発揮し、昭和三年にもなると、同種の事故は年十三件まで低下した。


 斯くも覿面たる対策とは、すなわち貨車航送法の導入。


 汽車から船へ、いちいち荷物を移すなど、そんなまだるっこしい真似はせず。


 荷物を積んだ車輛ごと・・・・船にぶち込み、海峡を渡らせてしまおうと、まことに豪快な発想である。

 

 

(函館桟橋)

 


 実現したのは大正十四年度以降。


 その結果として前述の通り、確かに事故は激減を見た。


 が、それと同時に青森市では、およそ千人の失業者が発生する次第となった。


 駅員、水夫、請負人夫、――そういう仕事に従事していた人々である。


 ほぼ同様の現象が、函館市にも起きていた。


 津軽海峡のあっちとこっちで、二千人が職にあぶれたわけである。


 悲惨なことは悲惨だが、だからといって旧に復するわけにもいかぬ。


 人間世界の原則だ。誰にとっても都合のいい話なんぞありえない。変革は苦痛と抱き合わせである。一方が得をするならば、必ずどこか別のところに損をしている奴がいる。一連の作用を如実に示す、これは好例といっていい。


 むろん、利害関係の調整は必要だし、政治家の任のひとつであろう。が、どれほど剛腕をふるったところで調整はあくまで調整に過ぎず、原則自体は揺るがない。割を食う奴は必ず出る。「多かれ少なかれ」に持ち込むのが、人力の及ぶ限界か。


「世の中の事といふものは、どんな事でも、程度の差こそあれ、犠牲を払った結果でないものはない」、これは大隈重信の言葉。

 

 

Shigenobu Okuma 5

Wikipediaより、大隈重信

 


 畢竟、誰かに害を与えることを恐れていたら、何ひとつとして成せないままに人は死に、国家は衰亡してしまう。


 そのあたりを認識していればこそ、

 


 ――貨車航送は一時に約二千人の犠牲者を街頭に放り出したのである。


 ――この悲惨なる事実こそは貨車航送の経費節約振りを実証する何よりの資料である。

 


『時事新報』は、例の松村金助は、これこそ産業合理化なりと殊更に開き直ってのけたのだろう。


 津軽海峡の貨車航送は、昭和六十三年の青函トンネル開通まで。半世紀以上の長きに亘り、その命脈を保ち続けた。

 

 

Seikan tonneru aomori

Wikipediaより、青函トンネル本州側入口部分)

 


 新旧交代、世の移り変わり。こういう景色を目の当たりにする度に、

 


 ――未来は過去の瓦礫の上に築かれるものなんだ。そして人間の知恵とは、それにあらがおうとすることの中にじゃなく、その事実を直視することのなかにあるんだ。

 


 アーサー・C・クラークの哲学が、私の脳裏を横切ってゆく。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

鶴見工場、偉観なり ―時事新報上の日清―


 そのむかし、大日本帝国は一廉の小麦粉輸出国家であった。


 小麦ではない。


 小麦である。

 

 カナダ・アメリカあたりから小麦を仕入れ、国内にて製粉し、袋詰めして輸出する。そういうことで、けっこうな利益を上げていた。

 

 

All-Purpose Flour (4107895947)

Wikipediaより、小麦粉)

 


 当時の記録を紐解くと、昭和二年時点に於いて二百五十万袋を輸出したのが、


 昭和三年には六百五十万袋となり、


 昭和四年には九百十万袋、二年前の四倍弱に到達している。


 春の野原の土筆つくしみたいな、さても目ざましき「伸び方」だった。


 しかし本当に驚くべきは、この輸出小麦粉の七割までが、その実たった一つの工場にて生産され、送り出されていたことだろう。


 その工場とは、すなわち日清製粉鶴見工場。


 需要の爆増した二十一世紀こんにちでさえ、日本国内で消費される全小麦粉の、およそ十分の一を生産している重鎮中の重鎮である。

 

 

(稼働して間もない鶴見工場)

 


 間口四十五間に奥行十五間、高さ百三十尺に及ぶ鉄骨鉄筋コンクリートの八階建てビルディング。


 それが大正十五年操業当初の、鶴見工場の姿であった。


 当時の感覚でこの規模は、偉容と呼ぶに相応しい。経営合理化と海外進出を狙う意志力猛々しき社長、正田貞一郎の肝煎りにて建設された、日清製粉の一大城郭。その内情を『時事新報』が取材したのは、昭和五年のことだった。

 

 

Syouda Teiichirou

Wikipediaより、正田貞一郎)

 


 記者の名前は松村金助。製粉機にしろ、サイロにしろ、ミシンにしろ、鶴見工場は最新技術の塊めいた場所であったが、中でも松村金助がもっとも強く着目したのは、真空利用の穀物吸い上げ装置であった。


 その概要を、彼自身の文章から抜粋すると、

 


 …工場第一階の一隅にはポンプ室があって、そこから太い鉄管が工場の外に出てゐる。この鉄管が岩壁に沿うて数十間も走り、その先端にあるタンク形をしたレシーヴァーの所から更に海面に向けてホースが突出し、それが岩壁に横づけされた本船の船艙に達するやうになってゐる。工場内のポンプが運転するとこの鉄管内が真空となり船艙内の小麦が猛烈な勢ひで吸込まれるやうな仕掛けである。

 


 つまりはニューマチックアンローダーの如きものかと合点がいくことだろう。


 この装置の導入で鶴見工場は他の追随をゆるさない、瞠目すべき回転率を実現させた。


 なんとなれば従来輸入小麦を搬入するには、本船から艀に移し、艀から更に倉庫へ運ばなくてはならないと、とにかく手間と人手を要したからだ。


 更に言うなら、「沖合荷役を急ぐ場合には艀と人夫の調達が間に合わなかったりする。天気晴朗でも浪高ければ荷役が困難だ。況や雨でも降ったらオジャンである」

 

 

(昭和初頭、横浜港の給水船

 


 目切れの問題もある。本船から艀に積み下ろす際、浪やら何やらの関係で海中に没してしまう小麦のことだ。それがだいたい、千俵下ろせば三俵程度の割合で発生していたという。この目切れのぶんにも、関税はしっかりかかってくるからやってられない。塵も積もれば山となる、総計すれば結構な損失に及ぶのだ。


 が、真空穀物吸い上げ機を利用したなら、これら弊害、その悉くを解決できる。


「仮令浪が高かろうが雨が降りませうが、いつ如何なる時でも作業が自由であり、その上目切れは全然ない。一万トン級の船ならば二日で吸上げて了ひ、艀の荷役に比較すれば、殆んど五分の一かそこらの時間である。その結果本船の繋船時間が短く船の回転率が早くなるから、船賃までが安くなる。まさにいいことずくめである。


 実際、あまりに便利すぎるため、オランダなどでは導入計画が持ち上がるや否や、人夫たちによる激烈な反対運動が起こったほどだ。ちょっとしたラダイト運動だった。

 

 

Pecq 051003 (15)

Wikipediaより、艀)

 


 もっともこの抵抗は、負けじと結束してのけた穀物輸入業者によって、あえなく叩き潰されてはいるのだが。


 鶴見工場に据え付けられた吸い上げ機は、そういうありがたい装置を更に、日清独自の工夫を凝らして発展させたものだった。


 その「工夫」たるや、話がちょっと専門的に込み入り過ぎてくるがゆえ、詳細は省かせていただくが、とにかくドイツの技術士さえも唸らせるレベルであったらしい。


 それだから欧米先進各国は争ってここに視察を派遣、「模範工場」として向こうの経済紙にデカデカと紹介されもした。


何ごとを語るにも欧米を引例しなければ夜も日も明けぬ所謂あちら・・・心酔者流よ、乞ふ自ら卑下するのを止めよ。祖国にもこの世界に誇り得るファースト・クラスの施設あることを知れ」。松村金助は、鼻高々に述べている。


「ものづくり大国ニッポン」の萌芽はこの段階でもう既に見えていたというわけだ。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

真実の聲 ―常在戦場、至難なり―

 

「痛え、医者を呼んでくれ」


 岐阜で兇漢に刺された際、板垣退助が本当にあげた叫びとは、こんな内容だったとか。


 まあ無理からぬことである。


 死の恐怖を、それもだしぬけに突き付けられて、泰然自若とふるまえなどとそれこそ無理な注文だ。

 

 

(維新直後の土佐藩士。前列中央に板垣退助

 


 大正十二年九月一日、溜まりに溜まった地殻変動エネルギーがついに臨界点を超え、関東地方一帯を、時化の海もかくやとばかりに激しく揺らしたあの瞬間。


 横浜に不幸な父子があった。


 父は書斎でくつろいで、


 息子は庭で土いじり、


 その格好で大震災を迎えたことが、彼らの運命、生と死を、どうしようもなく分かってしまった。


 震度七の衝撃に、住宅はむろんひとたまりもなく、象に踏まれたマッチ箱みたくぺしゃんこになり。


 脱出が遅れた父の身体は、梁やら屋根やら柱やら、無数の残骸の巻き添えになり、挟み込まれてにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。

 

 

Kanagawa Prefectural Office after Great Kanto earthquake

Wikipediaより、震災後の神奈川県庁)

 


 動転のあまり、息子の魂は消し飛びかけた。


 下敷きの状態でも父の意識は明瞭で、苦悶の声をひっきりなしに漏らすのも、彼の青い精神をいよいよ千々に乱しただろう。


 救出のため、あの手この手を講ずるが、どれも一向に捗々しくない。


 そうこうする間に煙がたちこめ、次いで火の粉が舞いだした。


 関東大震災の発生時刻は午前十一時五十八分三十二秒。昼飯時といってよく、調理用に熾された火が意図を外れて広がって、結果街を焼き尽くす焦熱地獄に繋がったのは蓋し有名な話であろう。


 この現象はなにも東京のみならず、横浜に於いても発生したと、つまりはそういうことなのだ。

 

 

(震災直後の東京)

 


 息子は、絶望した。


 父も状況を察したらしい。で、唇をふるわせ、発した言葉が、


「何故早く救け出さぬ? 早く早く……親不孝者!」


 だったということである。


「このままではお前も危険だ。俺のことはいい、もう構わないから、さっさと逃げろ」――そんなセリフ、気遣いは、一言半句もこぼれなかった。


「板垣死すとも自由は死せず」と同様に。急場に臨んで感動的な名台詞を口にするのは、実に、実に難しい。

 

 

Itagaki

Wikipediaより、岐阜事件)

 


「今でもあの末期の声が、親不孝者と怒鳴られたのが、耳の奥にしみついたまま離れないんです」


 息子は後に、そんな風に語ったという。聞き役は、朝日新聞の記者だった。震災から既に一月ひとつき、三十日余の時間を経たにも拘わらず、彼の形相はつい今がした焼け出されたばかりのような、憔悴しきったものだった。


 発行部数を絶対正義と信奉する朝日新聞の記者といえども、この父子を報道するにあたっては流石に実名を出してはいない。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

続・福澤諭吉私的撰集


 もう少しだけ福澤諭吉を続けたい。


 ――明治維新にケチをつけたがる類の輩が愛用する論法に、アレは市民革命ではない、支配階級すわなち武士同士の内ゲバに過ぎない、よって不徹底も甚だしく未完成もいいところだとの定型がある。


 が、福澤諭吉に言わせれば、「だからこそよかった」


 下からでなく、上からの改革であったればこそ。だからこそ日本の近代化は首尾よく進展したのだと、そのように話を持ってゆく。

 


恰も上流より流して下流に及ぼし、先づ脳髄を文明にして漸く手足に達したることなれば、其道、順にして、流行も亦速なり。之を他の亜細亜諸国に於て、下等の小民等が単に商売などの利益の為めに、先づ文明に接して文明の事物を耳聞目撃することあれども、上流の士君子は依然たる旧時の亜細亜人にして、千載一日の如く曾て変通の道を知らざる者に比すれば、正しく事情の正反対を見る可し。

 

 

東京奠都

 


 蓋し卓見といっていい。


 日本の国情、精神風土、物の道理をよくご存知でいらっしゃる。


 なお、ついでながら、「他の亜細亜諸国」を評するにあたって福澤は、まず支那をして、

 


〇古来貴族専権の国柄にして、人民を苦しむること甚だしく、今の政府に至りても、民間の私に何が業を企るなどの場合は申す迄もなく、或は政府に仕へて地位を求めんとするにも、又は罪を得て刑を免れんとするにも、総て賄賂の手段に由り目的を達するの常にして、政府の官吏即ち貴族の一類は其賄賂を利して自ら私慾を充すのみ。貴族専横、賄賂公行、人民には殆んど私有の安全なしと云ふ、国勢奮はずして次第に衰運に傾くも決して偶然に非ざるなり。

 


 腐敗の総本山なりと、神田正雄とほぼ同一の判を押し、また朝鮮に関しては、

 

 

要するに彼の政府の内部は化物屋敷に異ならず。百鬼雑居して仮面を装ひ、媚るが如く、訴ふるが如く、喜ぶが如く、怨むが如く、出没常なく、去就定まらず、唯人の目を瞞着して銘々得手勝手を働かんとする其正体は容易に認む可からずして、到底人間普通の常理を以て遇す可き対手に非ず。

 


『脱亜論』の著者らしく、このような口吻を残してもいる。

 

 

(李王家博物館)

 


〇凡そ世界の外交法に、他国の事を見て手を出すの口実なきに苦しむものこそ多き其反対に、今や日本国は朝鮮より手を引かんとしても其口実なきを憂る者なり。

 


 金玉均の惨死やら何やらを通して、よほど愛想が尽きたのだろう。

 

 

京城東大門市場)

 


〇娼婦の業は素より清潔のものに非ず、左れば之れを賎業と唱へて一般に卑しむことなれども、其これを卑しむは人倫道徳の上より見て然るのみ。人間社会には娼婦の欠くべからざるは衛生上に酒、煙草の有害を唱へながら之を廃すること能はざると同様にして、経世の眼を以てすれば寧ろ其必要を認めざるを得ず。

 


 先生、フェミニストがブチ切れますぜ。


 まあ、それを恐れて筆を引っ込めるような、可愛げのある方ではないか。

 


往年徳川政府の時に香港駐在の英国官吏より日本婦人の出稼を請求し来りしことあり。其理由は同地には多数の兵士屯在すれども婦人に乏しきが故に、何分にも人気荒くして喧嘩争論のみを事とし制御に困難なれば、日本より娼婦を輸入して兵士の人気を和げたしと云ふに在りき。ウラジオストクなどにても同様の理由を以て頻りに日本婦人の出稼を希望し、ま々々出稼のものあれば大いに歓迎して、政府の筋より保護さへ与ふるやの談を聞きたることあり。

 

 

 


 外国人がゲイシャガールをこよなく愛したことについては、以前触れた通りである。


 アメリカの、とある企業の重役なぞは、社用で日本に向かう直前、念入りにも「芸者の手配は十全か」との電報を発しておいたほどだった。


 接待文化も馬鹿にならない。


 江戸時代には百姓さえもそれ・・をした。検地のためにやってきたお役人を酒に女にもてなしまくって、検地帳に載せる数字を一寸でも甘くしてもらうべく努力した。


 国会開設後も、「この国の重要政策は議会ではなく料亭・・で決まる」とよく諷されたものだった。


 もはや伝統、国民性の域である。


 そういうものを、

 


〇彼の廃娼論の如き、潔癖家の常に唱ふる所にして、或は時に実行したるの例なきに非ざれども、其結果を如何と云ふに、表面に青楼と名くる悪所の存在を止めたるまでのことにして、実際に風俗を破り衛生を害するの弊は、公娼の営業を公許したる時に比すれば一層の甚だしきを致して其弊に堪へず、苦情百出の為めに遂に復旧したるの事実は世人の知る所なる可し。

 


 機械的に、一片の法令で縛ろうとしても、そりゃあ上手くいかないわけだ。

 

 

 


昨是今非、朝友暮敵は国交際の常にして、今日の平和必ずしも萬歳の平和に非ず。唯吾々は今後共に外交当局の人々に依頼し、充分に其技倆を振ふては国の名誉実益を維持するに怠るなからんことを希望するのみ。

 

甘言蜜の如くなる外交官の腹底には剣を蔵むるの常にして、外交の技倆とは言行相反するに最も巧妙なるものなりと云ふも不可なきが如し。既に此方に於て妙巧を尽せば、他に妙巧なるものあるも之を咎む可らず。要は唯その妙巧の優劣を争ふに在るのみ。

 


 国家に真の友人はいない。あるのは国益だけだと、福澤は弁えきっていたらしい。


「わが国以外はすべて仮想敵国である」。ウィンストン・チャーチルのこの言葉にも、きっと全面的に同意しよう。

 


〇外交は虚々実々にして諸種の手段を要する中に就き、黄白の物も亦自から必要にして実際に効能の大なることあり。


金を給せずして外交の能事を望むは本来無理なる注文にして、人の手足を縛して運動を促すが如し。如何なる人物をして局に当らしむるも唯徒に之を苦しむるに足る可きのみ。

 


 流石、一万円札になる人は言うことが違う。

 

 

 


 人生が戦場ならカネは銃弾。そうだとも、この欲の世で、金もなしにいったい何事が成せるという。自分の身すら守れないのがオチではないか。

 


〇今や日本は一蹶して文明世界強大国の列に入りたり。既に強大を以て自ら居るときは其強大相応の費用なきを得ず。之を費さずして単に外交官の運動を促すは、兵糧を給せずして進軍を命ずるに異ならず。我輩は飽くまでも外交の兵站部に給与の豊なることを望むものなり。

 


 比喩表現も秀逸である。


 こういうマキャベリスト的論調が、たまらなく私を魅するのだ。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

福澤諭吉私的撰集

 

 猿に読ませる目的で書かれた文を読んでいる。


 福澤諭吉の文である。


 尾崎行雄咢堂は、その青年期のある一点で、「筆で生きる」と心に決めた。


 そのことを福澤に報告にゆくと、折しも福澤は鼻毛を抜いている最中で、鼻毛抜きを手放しもせず聞きながら、「変な目付きをして、ななめに予が顔をながめ」


 ――おミェーさんは、誰に読ませるつもりで、著述なんかするのか。


 不作法千万に訊ねたという。

 

 

Yukichi Fukuzawa

Wikipediaより、福澤諭吉、明治二十年ごろの肖像)

 


(……恩師とはいえ)


 その態度はあんまりだろうと、尾崎は怒気を催した。


 が、自制心を総動員して抑え込み、返した答えが、


「大方の識者に見せるため」


 襟を正して背筋を伸ばし、若者らしい潔癖さを籠め表明したものだった。


 すると福澤は、


「馬鹿野郎!」


 とまず一喝し、


「猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いてるが、世の中はそれで丁度いいのだ」


 叱責だか訓戒だか、よくわからないことを喋った。


 冒頭の二行は、割かし有名なこのエピソードに由っている。ちなみに咢堂本人は、遠く昭和になってから改めてこれを追想し、

 


何が何だか分からなかったが、兎に角その態度や、言葉遣ひが、気に入らなかったから、その後は、なるだけ先生を訪問しないやうにした。これは、予が若気の至り、無思慮の致す所で、今日よりこれを思へば、実用的著述の極意を示されたもののやうにも思はれる。(『咢堂漫談』128頁)

 


 畏敬の念を深くしている。

 

 

 


 とまれ、猿にも理解可能なようにと配慮の上で書き綴られただけあって、福澤の文章は簡潔明瞭、わかりやすく面白い。明治後期の著述であるのに、昭和初頭に出版された本とまるで変わらぬ平易さだ。読み込むうちにどうにもならず血が湧いて、久々に撰集をやりたくなった。


 そういう次第だ。


 しばしの間、お付き合いいただければ幸いである。

 


〇此度の勝利は紛れもなき文明開進の賜にして、彼の精神一到何事か成らざらんと云ひ、精神一度び定まれば武器の如きは論ずるに足らずと云ひ、思ふ心は岩をも通すなど云へる漠然たる古人の思想、即ち愛国の短気癇癪とも名く可き数理外の力のみを以て成功したるものに非ず。

 


 日清戦争の大勝を受けて。


 福澤にとっては精神力も状況を構成する種々の要素のひとつであって、他に優越する絶対性など欠片も認めていなかったのだ。


 そのことは、

 


〇凡そ人事を処するに、時の遅速と数の多少と物の強弱と、此の三者を計りて之を数学上に加除し整理して、以て実効を収るもの、之を文明開化の事と云ふ。

 


 文明開化の正体を闡明した、この一文を覗いてみても明らかだろう。

 

 

(福澤の原稿)

 


今日の世界は道理の世界に非ず、殊に国と国との交際には、道理の勢力最も薄弱にして、少しく重大なる問題はすべて腕力を以て決するの常なれば、仮令ひ一国の所為が如何ほど正理公道に叶ふとても、之を維持するの兵力にして充分ならざるときは、遺憾ながらも枉げて他の忠告に従ふの場合なきに非ず。


文明競争の世界に立るものは常に戦争中の覚悟を以て自ら居り、其幸にして無事なるは唯是れ一時の休戦として視る可きのみ。今日の無事は以て明日の安心を證するに足らざるなり。去れば所謂無事平和の時に於ても軍備の不完全は如何にも危険の至りにして、其状恰も厳冬将さに来らんとして綿衣わたいれの未だ成らざるに同じく、甚だ心細き次第なり。


支那の先哲は春秋に義戦なしとて嘆息したけれども、義戦なきは豈唯春秋の時代のみならんや。世界古今に通じてあらゆる戦争をかぞふるも、一として義戦の名を下すものはある可らず。戦争は唯是れ人間が自利の為めに運動したるものと知る可きなり。

 

 

 この徹底的な現実主義がたまらない。


 肌に粟粒を生ずるが如き心地のよさだ。


 斯くの如き福澤に養育されたればこそ、小泉信三第一次世界大戦勃発当時、大英帝国に身を置きながら、彼の地に吹き荒れる凄まじい反独プロパガンダにあくまで乗らず、

 


 ――ベルギーの中立が侵されようが、侵されまいがフランスが開戦する以上イギリスは必ず共に立たねばならない地位にいたのである。


 ――ベルギーの中立尊重は口実に過ぎぬ。仮に戦略の必要上フランス軍が先ずベルギーに侵入した場合にグレーは必ずグラッドストンの言葉を引いて傍観したに相違ないグラッドストンの演説中にはベルギーの中立は絶対的のものではないという意味の章句があるのである)

 


 こういう時勢を透見しきった、切れ味のよすぎる観察を呈することができたのだろう。

 

 

Portrait of Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon

Wikipediaより、エドワード・グレイ)

 


 小泉信三、尾崎咢堂、武藤山治高橋誠一郎、波多野承五郎、石山賢吉――慶應義塾出身者の本はずいぶん読んだが。源流はやはり、福澤に在りだ。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

福澤諭吉の戦争始末 ―領土経営の方針如何―


 鎌倉幕府は、頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした。


 が、彼の地にうごめく無数の民を真に屈服させ得たかというと、これは大いに疑問が残る。


 なんとなれば津軽に於いて、「口三郡は鎌倉役でも、奥三郡は無役の地」と呼ばれたように。


 この時代を象徴する土地制度――守護・地頭の導入も、一旦はこれを実施しながら「出羽陸奥に於いてはえぞの地たるによりて」と理由を構え、いそいそと撤回した形跡がある。


 撤回して、変わりに示した方針は、「すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべし」――奥州藤原氏の頃のままやれとのことだった。

 

 

(平泉毛越寺に伝わる舞踊)

 


 事実上の白旗宣言に等しかろう。しかもこの方針を示した相手は、やはり土地の豪族・安東氏。嘘か真か、安倍貞任の子高星の後を自称して、その遠祖はトミノナガスネヒコ――神武天皇東征に於ける最大の敵――の近親、兄たる安日あびなりと唱えている一門である。


 これだけでもう、相当な食わせ者であるのが伝わってくる。まったく油断のならない手合いを、幕府はしかし代官に任じ、蝦夷管領として一帯を鎮撫させねばならなかった。


 これと似たような例として、徳川家康の関東入部が挙げられる。


 福澤諭吉の説くところでは、権現様が江戸に腰を下ろすなり、まず真っ先に発した令は、凡そ八州の地方に五十年来在り来りし事は、其事の善悪利害を問はず其まゝに差置く可しと命じて、以て永年の治安を致したり」とのことだった。


 福澤がこれを書いたのは、明治二十八年四月二十日付けの『時事新報』の上である。

 

 

(在りし日の時事新報社

 


 とき恰も、日清戦争の終局にあたる。


 講和条約――下関条約の調印も済み、国民一般、その内容の公表を、今か今かと待ち望んでいる時節であった。


 遼陽半島、澎湖諸島、そして台湾――遼東半島こそ後の三国干渉で返還を余儀なくしたものの。この戦勝で、日本国には新たな領土が加わった。


 その領土を経営するに、方針策定の手掛かりとして、このような故事を学んでおけと、福澤先生啓蒙のため、筆を動かしたものだろう。

 

 

(青年時代の福澤諭吉

 


 戦争に勝っても、その後の統治よろしきを得ずば何にもならない。


 この原則を、福澤はよく知っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ