穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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人に悪意あり


 その新聞は、立て続けに名を変えた。


 創刊当時――明治十九年九月には『商業電報』であったのが、およそ一年半後には『東京電報』と改めて、更にそこから一年未満、ものの十ヶ月で再度改名、四文字から二文字へ、『日本』として新生している。


 以後は漸く落ち着きを得たものらしい。大正三年十二月の終刊の日に至るまで、この紙名カンバンを掲げ続けた。

 

 

Kuga Katsunan

Wikipediaより、陸羯南。『日本』新聞主筆兼社長)

 


 ――そういう『日本』の報道に。


 ちょっとした愚痴、泣き言の類を見出した。重野安繹の挙動をめぐる一幕だ。「抹殺博士」と、渾名で呼んでしまった方が理解は早いやも知れぬ。日本史学に西洋的な実証主義を持ち込んで、口碑や逸話等々の、事の真偽を糾した結果、数多の英雄・豪傑の虚像を消した彼である。

 


児島高徳山本勘助、桜山茲俊、諏訪吉直を抹殺して尚ほあきたらざるや、抹殺博士の重野安繹氏は、一昨日大学講義室の演説会に、又もや武蔵坊弁慶を抹殺しおはんぬ。悪人は抹殺せずして善人を抹殺す、元来此人悪い癖あり」

 


 明治二十五年十月十八日の記事だった。


 重野に対する記者の批判は情義一偏、大事にしていた胸の奥の幻想を傷つけられた痛みに発する恨み言の類であって、およそ取るに足らないが、末尾の方には割と光る部位もある。


 すなわち「悪人は抹殺せずして善人を抹殺す」性悪説を信奉する筆者わたしにとって、このくだりだけはグッと来た。

 

 

 

(viprpg『トドワレノトウ』より)

 


 そうだ、そうとも、その通り、善人など架空の存在、何処かの誰かが「居て欲しい」と夢に描いた、つまり妄想の産物であり、それゆえ彼らの居場所とは、物語フィクションの上を除いて有り得ない。


 虚飾をひっぺがしてみれば、人類史とは慾と悪意の大渦巻きだとすぐわかる。トマス・ホッブズが謳った通り、人は人にとって狼であり、油断のならない存在である。にも拘らず安易に他人ヒトを信用し、懐に入れればどうなるか。えたり・・・とばかりに喉笛を咬み千切られるに決まっていよう。あまりに自明、歴然たる結末というものである。


「人間社会は智愚相半して組織するに非ずして、或は愚の多数より成ると云ふべき程のものにして、其愚の弊害挙て云ふべからざる中に就ても、最も憂ふべきは軽信の一事なり――福澤諭吉も斯く述べた、猜疑は転ばぬ先の杖、備えを怠るべきでない、と。

 

 

 

 

 渡る世間は鬼ばかり、人を見たら泥棒と思え、男子家を出ずれば七人の敵あり――。

 

 自分の血潮で窒息したくないのなら、他人とはまず、疑ってかかった方が賢明だ。

 

 

 

 

 

 

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脳力と品性の不一致


 脳髄の出来と品位の高下は必ずしも一致せぬ、いやいやむしろ、釣り合う方こそ珍しい。


 禍乱の因子タネはいついつだとてそこ・・にある。才に恵まれ生まれ落ちると人間は、増上慢になりがちだ。あまりに容易く世界のすべてを見下して、「自分以外の誰も彼もが馬鹿に見えて仕方なくなる色眼鏡」を無自覚のまま装着かけちまう。周囲はむろん、本人にとっても不幸なことだ。


 なればこそ、脳髄の出来と品性と、それから身体能力までもが見事に一致したおとこ嘉納治五郎は言ったのだろう、

 


品性の伴はない才能は世に害をなす事が少なくないが、才能の伴はない品性は、よし大裨益をなす事がないにせよ、害を及ぼすことはないのである

 


 と。


「一利を興すは一害を除くに若かず」にも、何処か通ずる訓戒だった。

 

 

Kano-Jigoro-c1892

Wikipediaより、嘉納治五郎、32歳)

 


 まあ、それはいい。


 品性を伴わぬ才能が世間を毒した例として、格好の人物を以下に引く。


 赤門の住人、東京帝国大学教授、横山又次郎である。


 本邦古生物学界への、彼の貢献は計り知れない。


 ナウマン博士の良き補佐役で、地質調査事業に纏わる基礎固めを全うし、また「恐竜」を筆頭に、古生物に関しての優れた和訳を数多遺した。かつて地球に跋扈した、それら巨獣の通俗的な紹介にも随分功を立てている。横山の働きなかりせば、怪獣王ゴジラとて誕生うまれていたかどうか怪しい。まさに偉業、不滅の、不朽の、絢爛たる名跡である。

 

 

 


 ところがだ。ひとたび視線を私生活へと移してみれば、こは如何に。腐敗と汚濁の沼である。

 


「牛込五軒町に住む帝国大学教授理学博士横山又次郎(44)は、大学時代より不品行此上なく、雇下婢を容れて妻となし子二人を生み、後余所の花に見替へて之を虐待せしかば、妻は嬰児を刺殺して自害せり

 


 明治三十六年十月、日刊紙たる『日本』に掲載された記事だった。


 なんということであったろう。


 てめえから手を出した分際で、子供まで産ませておきながら、飽きたら途端に顧みず、余所の女に現を抜かし、空閨孤独を強いられて物に狂った女房は、とうとう子供を巻き添えに心中にまで至ったと。


 クズの所業としかいいようがない。どう見ても横山の所為だった。男としての責任感の欠如が招いた仕儀である。

 

 

Matajiro Yokoyama, Professor of Geology, Palaeontology and Mineralogy

Wikipediaより、横山又次郎)

 


「若気の至り」で寛恕され得る領域を完全に逸脱した事態。普通の神経の持ち主ならばここで当然の反省が起き、後を追って縊死するか、最低でも女遊びはキッパリ絶って身を慎もうとするだろう。


 が、横山は、そこがおかしい。


 もっとやった。


 記事は直後、こう・・続いている。

 


「洋行帰り以降は、ハイカラ一流の女色漁り、四谷の大谷木某の娘サダ子(32)を娶りて正妻としながら其病に罹りしを忌み、妻の妹リウ下女レンなどと通じ、終にサダ子を離縁せり

 


 もはや呆れる以外ない。


 妻が病んだら夫はどうする、看病するだろ、常識的に考えて。


 それを貴様、放置どころか、その妹に桃色遊戯を挑むとは、いったいどういう料簡だ? 本当に人間か、人間の皮を被っただけの畜生か? 脳髄の冴えと引き換えに、人間性を悪魔にくれてやったのか?


 こんな奴には、

 


 ――妻妾並んで一屋に住まば、金殿玉楼も亦畜生小屋なり。

 


 福澤諭吉の金言を、百万遍でも書きとらせるべきなのだ。

 

 

慶應義塾普通部

 


 蓄積された歪みはやがて、当然の結末を惹起する。


 横山自身が血を流す日がついに来た。明治三十六年九月二十九日に於ける黄昏時のことである。


 その有り様を、再三『日本』に窺おう。

 


「サダ子は夫の家を出でて後下宿屋、或は他家に奉公し、只管謹みて覆水盆に回らんことを期望して居たりしが、博士は之を顧みざるのみならず、更に二妾を納れて之を寵し、あらゆる乱行底止する所を知らざるにぞ、流石のサダ子竟に忍びず、去二十九日の黄昏博士が大学よりの帰路を森川町の往来に要し、ナイフを飛ばして左肩部を傷けしが、博士がヘコタレ腰になりて鼠の如く逃げ去り、すぐ様警察署に駈け込み願を為せしため志を得ず、再昨日検事局送りとなれり」

 


 ナイフ片手に帰路を待ち伏せ襲いかかりはしたものの、肩口を浅く裂いたのみ。


 暗くて狙いがつけられなんだか、女に迷いがあったのか、それとも男の悪運が異様に強靭だったのか。


 いずれにせよ、だ。――あわれサダ子は日本のジーン・ロレットになり損ねたようである。

 

 

(『Trek to Yomi』より)

 


 ただまあ、しかし、この椿事により報道の目が横山博士の上に向き、二十年来の不行跡、爛れきった私生活が暴かれたというわけだから、あながち無為でもないだろう。


 横山又次郎の心臓が脈動するのを止めたのは、これより更に四十年弱、昭和十七年まで待たねばならない。


 憎まれっ子世に憚るとは、やはり真であるようだ。

 

 

 

 

 

 

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日本、弥栄


 日本人の幸福は、その国内に異人種の存在しないことである。


 維新このかた一世紀、外遊を試みた人々が、口を揃えて喋ったことだ。


 鶴見祐輔小林一三、煙山専太郎あたり――「有名どころ」の紀行文を捲ってみても、その・・一点に限っては同じ感慨を共有している。

 

 

小林一三、晩年の姿)

 


 外に出てみて初めて理解わかるありがたみ。――「ヨーロッパに参りますと、同じく財産を沢山持って居り、又社交上の位置も殆ど同じであっても、人種のちがふ為に或者と交らぬとか、或者の言葉は信用せぬとかいふ傾が大分あるやうであります。之は諸国を廻るにつけて何処の国でも私の感じた一つの点であります」とは、明治の末ごろ、中島力造が書いたこと。


 同志社英学校――同志社大学の前身に相当――最初の生徒のひとりであって、明治二十一年度にはイェール大学で哲学博士号を取得った、新興日本の俊才である。その中島が経験に徴して述べるのだ、

 


「今度ヨーロッパに参りまして、日本の有難いことが、一年間旅行して居る間に、私の心の中に毎日浮びました、其の一は、日本と云ふ国が全く一家のやうな風でありまして、異人種の雑居して居らぬ事であります。ヨーロッパの何処の国に参りましても、異った人種が同じ国民の中にある、それ等の異人種は同じ国民であって、同じ教育を受けて居るのでありますが、何につけても調和せぬ、甚だしきに至ると、互に敵視して居るといふやうな状態であることもありまするので、国民の一致といふことが、どうも日本のやうには往って居りませぬ

 


 と。

 

 

Rikizo Nakashima

Wikipediaより、中島力造)

 


 蓋し謹聴に値する。


 一考するに足る価値を、有しているに違いない。


 なんなら後年、ポツダム宣言受諾によって日本を占領した連中も、これは認めていたことだ。フランク・ギブニーは書いている、「日本歴史の下に潜む意味は非常に深大ではあるが、少なくともその焦点をしぼることはできる。実際、日本国民のあいだには異人種はひとりもいない。彼らは一体になっている。その偉大さ、その短所、その希望、その偏屈さにおいても一体である」と、『日本の五人の紳士』に於いて、いみじくも。


 この特性こそ日本が持つ、かけがえのない宝であった。

 

 そして、だからこそ日本の分解、弱体化を狙わんとする勢力は、将来必ずこの単純さを掻き乱し、いたずらに複雑化させようと謀知をはたらかせるだろう。心ある総ての日本人よ、ゆめゆめ注意を怠るな――。


 戦後、独立を回復してからさして時を措かぬ間に、早くもそういう警告を世間に与えた者がいる。


 慶應義塾の小泉信三、その人である。

 


「日本のこの島の上に八千数百万人の同胞が住むことは、随分窮屈で、決して楽なことではありませんけれども、しかし、この日本の国土は、日本人のものであり、日本人のみのものであるということは、吾々にとって真に張り合いのあることであります

 


 坊ちゃん育ちの元総理、ルーピー渾名がきっと誰より相応しい、あの男・・・にでも三唱させたいくだりであった。


 日本列島は日本人だけのもの。当たり前だろうそんなこと。

 

 

Yukio Hatoyama 20220224

Wikipediaより、鳩山由紀夫

 


「…そしてこの狭小の国土に住むものが、人種言語や歴史伝統を異にし、その生活様式を別にする異民族であって、一方の笑うときに他方は泣き、一方の楽しむときに一方は怒るという実状であったならば、果してどうでありましょう。既に今日においてもことさらに階級的利害の衝突を誇張宣伝して、平地に波瀾を起し、強いて好まぬものを促して、日本国民を敵味方に岐れさせようとする言説が行われています。もしこれに加うるに、国内に諸異民族の互に嫉視し軋轢するものがあって、兇険乱を好むともがらがその間に乗じ、煽動を恣にするというようなことが行われたなら、その惨状はどうでありましょう

 


 流石としかいいようがない。


 アカの手口を的確に看破し去ってのけている。


 この男が上皇陛下の教育係でよかったという感慨が、沛然として胸を衝く。福澤も彼を誇りに思うことだろう。おれの人材育成は、確かに成功していたと――。

 

 

 

 

 


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明治監獄小綺譚


 明治十二年は囚人の取り扱い上に、色々と進展が見られた年だ。


 たとえば皇居の草刈りである。


 日本のあらゆる権威の根源、

 皇国を皇国たらしめる御方、

 すめらみことが坐する場所。


 重要どころの騒ぎではない、そういう謂わば聖域を、美しいまま保つ作業は従来府庁の役目であった。

 

 

 


 が、四月から、これが変わった。警視局が代わって任に就くことになり、移譲早々、彼らは皇居周辺の浮草並びに野草刈り取り作業に関し、すべて囚人の手によってこれを致す・・と決めたのだ。


 罪を犯して裁かれた――懲役に在る身といえど、安易に「穢れ」扱いするな。そういう意図を迂遠に籠めていたのだろうか。でなくば「浄域」を管理するのに、態々彼らを宛がう理由が見当らぬ。


 監獄は懲罰の為でなく、更生の為にあるという、欧米流の人権意識へ接近したいという意思も、少なからずあったろう。国際社会で文明国と認めてもらいたい故の、ひいてはそれにて不平等条約の改正になんとか漕ぎ着けたい故の、いじらしい努力の一環だ。

 

 

(『アンチャーテッド コレクション』より)

 


 翌月には少年囚への獄内授業が開始はじまっている。


 市ヶ谷監獄第二支署での試みだった。


 四ツ谷学校に協力を仰ぎ、隔日に教員を出張せしめ、講義を施す仕組みを確立。小学簡易科を教授おしえたところ、意外にも食いつきが素晴らしく、皆めきめきと進歩した。


 十月の定期試験に参加させてみたところ、これまた成績上々で、

 全科卒業の者一名、
 六級卒業の者五名、
 七級卒業の者九名、
 八級卒業の者二十八名と、
 斯くの如き好結果を呈したという。


 正式な卒業免状も授与された。むろん、四ツ谷学校の名に於いて、である。

 

 

(市ヶ谷刑務所、昭和初期)

 


 佃島監獄なぞも面白い。


 ここでは十一月の中旬に、敷地内にてまで鋳造してのけている。

 

 区役所に向け差し出した、

 


 佃島監獄署に於て、半鐘鋳造候間、来る十七日前第六時より十八日午前第二時迄煤煙飛颺すべきに付、為心得此旨相達候事。
  明治十二年十一月十五日
   大警視 大山巌

 


 こういう書類が遺っているのだ。

 

 

日露戦争大山巌の陣中日誌)

 


 塀の中とて馬鹿にならない、なかなか以って賑やかである。

 

 

 

 

 


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水利を図れや日本人


 日本人とは、井戸掘り民族なのではないか?


 妙な言い回しになるが、そうだとしか思えない。


 海の向こうに巣立っていった同胞たちの美談といえば、十に七八、それ・・である。

 

 

江戸東京たてもの園にて撮影)

 


 アフリカ、中東、東南アジア、煎じ詰めれば発展途上諸国に於いて、言語の壁にも、甚だ不良な治安にも、決してめげる・・・ことなしに、時間と熱意を代価に捧げ、ついに「水の手」を確保した――と、大概そんな筋だろう。


 全地球的観点から眺めても、清冽かつ豊富なる日本国の水資源。ありあまるほどの恩恵を、大して意識することもなく――「日本人は水と安全はタダと思っている」――享受し育った身としては、黄土色の濁り水を無理矢理濾過して飲まざるを得ぬ第三世界の事情なぞ、ほとんど地獄と変わらないのに違いない。


 なればこそ、その現実に直面した際、受けるショックは甚大で、


 ――なんとかせねば。

 ――こんな悲愴をどうして放置しておける。


 と、義侠心にも似た感情がしぜんとむらがり湧くのであろう。


 人によっては一生を左右されるほど、その衝撃は鮮烈だ。


 で、そんな彼等の業績が「美談」して纏められ、やがて逆輸入されるに至る。構図にすれば、大方こんなものではないか。

 

 

(同上)

 


 記録を探れば、明治人――十九世紀のご先祖方も、やっぱり井戸を掘っていた。


 明治十年代初頭、江華条約の締結により開国させた朝鮮半島に於いてであった。


 当時の新聞、『朝野』に曰く、

 


「今度開港になりし朝鮮国元山津は、従来井戸は一ヶ所しか無かりしを、我が商人が追々掘り穿ちしかど、夫れのみにては猶ほ不足ゆゑ、今更に数ヶ所の井戸を掘り穿つに付、府下の井戸職人永田直吉外数名は一昨二十六日横浜を出帆せしが、来月二日神戸港より観光丸に乗り替へ同国へ赴く由」(明治十三年五月二十八日)

 


 大日本帝国韓半島の水利のために――田圃の水すら天水頼みで灌漑設備の絶無に近い、彼の地の環境改善のため、半世紀以上の永きに亙り、実に巨大な資本を投じたものだった。

 

 上はさながら、その前奏か、あるいは先駈けのようであり、一読するだに床しい気分に満ちてくる。

 

 

(『『HOMEFRONT』より)

 


 戦後、小泉信三が、

 


「社会の制度は様々であり得るが、常に大切なのは、各世代が前代より受け継いだ国土を、そのままではなく、より好きものとして子供に伝えることである。今は他人の国であるから、あまり立ち入ったことを言わないが、日本人は嘗て台湾や朝鮮を、確かによりよき国土にしたといい得ると思う

 


 言い切ったのもむべなるかなだ。


 福澤諭吉の膝下で育ったこの男、慶應義塾七代目の塾長は、竣工したての佐久間ダムへと足を運んだ際に於いても、

 


「今日この天工を奪う大工事を見て、日本人のために意を強くした。敗戦以来、人は国民の誇りというようなものを忘れたかと案じられる。このようなダムを日本人の力で造ったという実例は、無上の教訓と激励になるであろう

 


 これこの通り、いきいきとした名調子の演説を遺してくれたものである。

 

 

Sakuma Dam 2010-03

Wikipediaより、佐久間ダム

 


 慶應義塾はいい人材を輩出はいしゅつしている。


 それは揺るぎない確かなことだ。

 

 

 

 

 


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つれづれなるままに


 書棚を飾る『蠅と蛍』

 

 

 


 佐藤惣之助の想痕、あるいは随筆集。神保町のワゴンから五百円ワンコインにて回収してきた品である。


 本書の見開き部分には、

 

 

 


 必要最低限度といった、ごく控え目な書き込みが、これこの通り為されてる。

 


      白楊
 辰澤様

 


 と読むのであろう。


 白楊――。


 佐藤惣之助の雅号ではない。


 では誰だ。


 画家である。


 本書の絵画装幀を担当したる絵描きの名。それが井上白楊である。十中八九、この人からの贈り物であったろう。

 

 

 


 受け手側たる「辰澤様」がいったい誰を指すものか、こちらはどうにもわからない。個人的に親交のあった者であろうか?


 とまれかくまれ、著者謹呈は屡々見たし持ってるが、こういうケースは初めてだ。


 ちょっと新鮮な喜びと、また驚きを味わった。


 その情動が醒めやらぬ間に、ここまで一気に書き上げた。


 我ながら粗忽な文ではあるが、たまにはこういう試みも、さまで無為ではないだろう。

 

 

 

 

 


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愛は努力だ ―身持ちの堅い女たち―


 作品から作者自身の性格を推し量るのは容易なようで難しい。


 あんな小説を書いていながら紫式部本人は身持ちがおっそろしく堅い、ほとんど時代の雰囲気にそぐわないほど頑なな、あらゆる誘惑を撥ね退けて貞操を断固守り抜く、まるで淑女の鑑のような御人柄であったとか。

 

 

 

(viprpg『かけろ!やみっち!!』より)

 


 少なくとも与謝野晶子はそう信じていた。日本で初めて源氏物語の現代語訳を成し遂げて、しかもそれでも飽き足らず、紫式部日記すら新約せんと試みた、そして現に果たしたところのこの人は、ほとんど崇拝の領域で紫式部に親炙しきっていたらしい。


 まあ実際、原著に対する愛が無ければ良き翻訳など到底望めぬモノだろう。納得のいくことだった。


 晶子曰く、宣孝と結ばれる以前にも、また彼に先立たれて以降にも、紫式部は夫と決めた人以外、身をゆるすことは有り得なかった。相手がたとえ当時に於ける実質的な最強者、藤原道長であろうとも、例外ではなかったのである。


 このあたりの消息につき、本人の言葉で表現すると、

 


「宣孝以前にもまた其歿後にも紫式部に懸想した男子は多かったと思ひますが、紫式部が毅然として其れを斥けたのは道長一人に対してばかりで無く、三十七年の生涯に宣孝以外の男子に向って毫も許す所がありませなんだ

 


 断定である。


 相も変わらず、小気味よい断定をする人だ。


 鉈を用いて、丁と薪を打つような、そういう清々しさがある。

 

 

Murasaki Shikibu Diary Emakimono (Gotoh Museum) 3

Wikipediaより、紫式部日記絵巻)

 


 晶子の語りは止まらない。紫式部についてなら、いくらでも喋る内容を持っていた。

 


「之は『女は自由意志で無くて、うっかり人に身を誤られる危険のあるものであるから、自重して堅く守ることが大切である。軽率と放縦とは品格を失ふことである』と云った紫式部の聡明な理想の然らしめた所であるのは勿論ですが、」――勿論なのか。常識のレベルだったのか。知らなかったそんなの――文学の著作に傾倒して現実以上の『美』を想像の世界で経験して享楽して居る人には、現実の世界に理想通りの恋の対象を求めることは容易で無かったし、また其れを求めることがうるさく感ぜられたかも知れず、其上、早くから文筆に親しむやうな気質の人であり、若死をした人でもあるだけに体質の関係もあって、自然に貞操的に終始することが出来た点もあらうと想ひます」

 


 ページ越しにも拘らず、百年以上の時間的距離があるというにも拘らず。――一気呵成に耳元で、まくし立てられた印象だ。


 なんというか、圧倒される以外ない。


 呆然として、一時的にも虚ろになった精神に、どこからともなく橋田東聲の声がする。

 


人ひとりを十分に愛すのは容易でない。完全に愛し切る事は殆ど不可能の事だ。多くの人には、そこに油断がある。愛は努力だ

 


 紫式部という人は、この不可能事を成し遂げた、実に稀有なる努力の人であったのだろう。

 

 

(永遠の絆)

 


 むろん、あくまで「与謝野晶子の解釈に則ることを前提に」との、但し書きが付くのだが。――晶子の熱にあてられたのか、筆者個人の所感としても、そう・・あれかしと信じたい気になっている。

 

 

 

 

 


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