穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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エッジランナー石井


 籠城戦をやるに当たって内部の兵士が何にもましていのいち・・・・に、気にかけるのは糧食である。


 生存に必須な物資の貯蔵量に関してである。この原則は、義和団事件の公使館の場合だろうと変らない。

 

 

(『バイオハザード ヴィレッジ』より)

 


 むしろ一段と強烈だったとすらいえる。いやしくも祖国の「顔」として、他国他領で要人貴顕と相交じり、活動する人々だ。


 第一級の教養の持ち主なのは当然のこと。


 その「教養」が、しつこく囁きかけるのだ。


 ──籠城戦の挙句の果てに、被包囲側の人員が深刻な飢餓に晒されて、生きながらにして亡者の態を為してゆくのは珍しくない。


 ──洋の東西を問わずして、戦史をめくればいくらでも実例のあることである。


 知っているからこそ恐ろしい。


 人間は理解できないものに対して恐怖を覚えると屡々聞くところだが、世の中には理解を深めれば深めるほどに却って恐怖が増してゆく、そういう事象も確実にある。


(鳥取城の末路が如き凄愴酸鼻な有り様に、我らもいずれなるのだろうか)


 かつて目にした地獄絵巻を思い出し、石井菊次郎は背筋に冷たいものを感じた。

 

 

Burg Tottori Plan alt.jpg
(Wikipediaより、鳥取城 古絵図)

 


 以下、前回から引き続き、彼の直話を抜き書くと、

 


「敵は、殺しても後から後から蟻の如く群ってくるに反し、味方は手薄であったから、楢原書記官、安藤大尉、小島外交官補と、相次で倒された時は、ヒシヒシと我々の胸にこたへるものがあり、加ふるに糧食が、日一日と減ってゆくのが心細く感ぜられた。鳩が庭の樹に留った時には、信書ではないかと思って射止める。夜間南の方が明るいと、援軍が近付いたのではないかと思ったり、こんな空頼みをしてはいつも失敗に終った」

 


 この「空頼み」は深山幽谷の遭難者の心境に、どこか似る。


 やはり彼らも救助をこいねがうあまり、ほんの些細な刺戟にも過剰に反応、想像力を暴走させて、あられもない幻影をついには白昼見るそうだ。

 

 

 


三度の食事は粥となった。二百余頭の馬も、銃丸に当って負傷した馬から食ひ始めてゐたため、今は三十匹しか残らなかった。かくて八月十三日の晩方から、敵は四方八方から一斉射撃を始めたから、今夜はいよいよ危険と見て、最後の機密書類まで処分した。やがて深更二時頃、遠雷のやうな響が聴へたから、これこそ真の援軍だらうと考へたものの、前に述べたやうな空頼みに懲りた我等は、軽々しくは信じなかった」

 


 過酷な環境を強いられ続け、すっかり荒廃してしまった精神が手に取るように窺える。


 が、今度という今度こそ、援軍接近は真実だった。八月十四日、連合軍は北京攻略を開始、翌日には陥落させる──。

 


「思へば先刻の一斉射撃は、敵が我援軍の着く前に、籠城者をやっつけてから逃げようとする、最後の奮闘だったのである。この時籠城者の歓喜は、到底筆にも口にも盡すことは出来ない。…(中略)…近頃ノビレ少将の北極探検隊が、クラッシン号に救はれた時の心事は、我輩にはよく想像することが出来る。又彼等が飛行機より食物の投下を受けた時の心地は、八月十四日の晩方、我々が山口(素臣大将)第五師団長より、米と鴨子等を満載した駄馬を送られた当時を回想して、一段と感慨が深い

 


 誇張ではなく、蘇生の思いがしただろう。

 

 

(連合軍の北京入城)

 


 石井菊次郎もまた、紛うことなき地獄からの生還者。


 石井・ランシング協定の印象のみで片付けるには、あまりに惜しい人傑である。

 

 

 

 

 


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日英民族性瑣談


 英国人の周到さにはほとほと感服させられる。


 義和団事件が激化して、北京市街に賊徒満ち、列強諸国の公使らが、生き残りを賭け慣れぬ銃把を握ってまでも死に物狂いの籠城戦をやらねばならなくなった折。


 石井菊次郎は──後に米国国務長官ランシングと渡り合い、青史に名高いかの協定を結ぶに至る外務官僚、当人である──驚くべきものを見た。


「籠城の初日から、揃ひも揃って一定の服装で一定の銃剣を肩にして、行動」できた英国人義勇兵──あんまりにも手際よく、統一的な戦闘態勢への転換をこなしてのけたユニオンジャックの一党である。

 

 

Ishii Kikujirō ca. 1918.jpg
(Wikipediaより、石井菊次郎)

 


「一定の服装は、彼等が平素の猟服を着用したのであるが、銃剣はと聞けば、英国公使館には、五十年前から貯へてをったもので、百挺程あったさうだ。これは五十年前、時の公使サー・トーマス・ウェード氏が、北京のやうな危険な所に公使館を置くからには治に居て乱を忘れてはならぬ。百挺程の銃剣は、断えず磨いて保存すべしとの遺訓を与へ、これが遵法せられて、錆も出さずに備へ付られてあったのだ」

 


 転ばぬ先の杖、備えあれば患いなし。


 流石英国、アヘンにアローに、二度の対支戦争を経て来た彼らに隙はなかった。


 戦場という極限状態の対峙を通し、支那がどういう国情か、漢民族がいったいどんな性質か、骨の髄までとっくりと観察できたようだった。


 なればこその備え、なればこその鮮やかな即応ぶりといっていい。

 

 

Thomas Francis Wade.jpg
(Wikipediaより、トーマス・ウェード)

 


 ──ときにそれなら我々は、日本人は果たしてどうであったろう。


 ほんの五、六年前に日清戦争を経ている以上、条件としてはさまで不利ではないはずだったが、何かしら「備え」はあったのだろうか。


 石井菊次郎の回想中に、その旨ふたたび探ってみよう。

 


「我日本側は如何といふに、恥かしながら列国中一番の不揃ひで、且つ銃剣の用意もなかったから、已むを得ず思ひ思ひのいでたちで、あるひは日本刀を肩にし、はかまを着するあり、あるひは夜会服の捨てゝあるのを被って、棍棒を振り回すものもありといった有様であった。然し驚くなかれ、この不思議なる一隊が、籠城数日の後には立派な制服を着て、見事な銃剣を帯ぶようになったのである。勇気は固より日本人の持ち前であるが、被服、銃剣は如何にして手に入れたかといふに、昼間の乱闘で敵が遺棄した拳匪の死骸を、夜間に襲ふて服も剣も銃弾もそっくり取りあげ、翌朝からは制服でモーゼル銃を肩にして、銃弾を腰に巻くといふ早業で、この早がはりには、外国人も非常に驚いたやうであった」

 


 なんとも逞しいことだ。


 規模小なれども「糧を敵に因る」、孫子の教えを実行した形であろう。

 

 

 


 これはこれで民族性のよき表れに違いない。


 二ヶ月に及ぶ籠城戦の滑り出しの情景は、だいたいこんなものだった。

 

 

 

 

 


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授業中に茶碗酒


 どうも近ごろ、酒の味が面白くない。


 どの蔵元の仕込みも同じ、奥深さが減退し、陶酔感が安っぽくなってきている印象だ。


 いったいぜんたい、何が起こっているのやら──碗を片手にしばしの間、思案顔して気が付いた。そうだ、こいつは、この現象は、酒の輸送に汽車を用いて以後のことではなかろうか。

 

 

(四月上旬、大國魂神社にて撮影)

 


 日本酒は。──本当に美味い日本酒は、やはり東海道五十三次を馬の背にくくりつけられ運ばれて来て、やっと生じるモノだったのだ。


 しかし今更販売元に、輸送手段を文明開化以前に戻せと強請ったところで何の効果もないだろう。脳組織の最奥部まで酒精に浸蝕されきった、アル中の譫言以外の何とも受け取ってくれぬに違いない。


 やむなく彼は、自分で工夫することにした。


 中身満載の酒樽を自家の天井から吊り下げて、そこを通りがかるたび揺さぶる習慣をつけたのだ。馬上に於ける振動を、疑似的に再現した心算である。


 うむ、これでよし、昔の味になってきた──と、ひとり点頭したそうな。

 

 

(『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』より)

 


 この酒徒の名は白井雨山。


 明治・大正の彫刻家、「日本彫塑界の父」


 上の噺は東京美術学校で彼の薫陶に浴した生徒、朝倉文夫が現にその目で見たとして、後世に伝えてくれたもの。


 いったい当時の美校というのは酒徒の巣窟の観があり、

 


「竹内久一など云ふ先生は、非常に酒仙であって、学校に酒を持って来て、土瓶に入れて、燗して茶碗で飲みながら教へると云ふ教授だった。又生徒も『先生お茶ですか』など呼び掛けると、酔眼を向けて『一服やらんか』と茶碗を差出すと生徒も『頂きませう』と云ふやうな事で、そんな空気の中で彫刻を当時の生徒は教へられたものである」

 


 現代人の視座からは無法地帯としか思えない、こんな景色が日常だったそうである。

 

 

Tokyo school of fine arts 1913.jpg
(Wikipediaより、東京美術学校)

 


 まあもっとも、生徒も生徒で

 


「その頃の動物園は美校からは庭続きで、垣が不完全なために、自由にこっそりと出入りしたものであった。
 そこで写生に退屈した洋画の生徒が、柵越にラクダとか鹿のやうな動物を集めて、それ等の顔を残りのエの具でくまどりして面白がってゐると、黒川園長から叱られた。など云ふ茶目もあった」

 


 これこの通り、なかなかのワルガキぶりだったから、バランスは取れていたのだろうが。


 芸も、制度も、人心も、とかく粗削りな時代であった。

 

 

 

 

 


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デスペナルティ


 小説、随筆、詩に手紙。


 およそ文学作品と呼ぶに足る、無数の文字の列びより、「処刑」にまつわる記述ばかりを引っこ抜いた撰集を、ひとつ編んでみたいもの。きっと意義深い試みになる──アナトール・フランス著『神々は渇く』を再読時、ページをぱらぱら流し読みしていた際に、ジョージ・オーウェルの脳内にふっと浮んだアイディアだ。

 

 

 


「それらの文章は、概して戦闘を扱ったものよりずっとよく書けているに違いない」との事由に基づく。


 更に続けて

 

 

「たいへん印象的と思われるのは、だれも、といって悪ければ私の覚えている限りだれも、処刑について書く時、決して是認・・の態度をとらないということだ。支配的な調子はいつも戦慄である。社会が極刑なしでやっていけないことは明らかである──なぜなら、生かしておくと危険な人間が一部にはいるのだから。それにもかかわらず、危機がやってきた時、平然と他人を殺すのは間違っていないと感じる人など、誰もいないのだ」

 

 

 云々と、持論を展開してもいる。


 なるほど確かに一理ある、頷けないこともない。目の付け所が流石にシャープ。構想自体の面白味も相当なもの。誰か、何処かに居らぬだろうか、オーウェルの意志を継ぐに足る、勇気と根気を兼ね備えた人物が。三島由紀夫の『金閣寺』にも、社会人心の善化のために死刑を公開するべきだ、非常な効果が見込めるとのたまう手合いが居ったはず。意義はけっこう、あると思うが。……

 

 

(『Cyberpunk 2077』より)

 


でもヒントは〝死〟にあった
生きるヒントは〝死〟にあった


人は人が死ぬ事によって感動する
人は殺しあって
物語をつくる 映画をつくる 芸術をつくりだす


──『エアマスター』より、深道

 

 

(『Detroit: Become Human』より)

 


 つらつら思い合わせてみるに。


 結局のところ人間は、人間の死ぬ瞬間を見たくて見たくて仕方ない。悪趣味極まる欲求を、悪趣味と自覚しながらも、だがどうしても断ち切れぬ。妖しい疼きを、せめて人目につかぬよう心の奥に秘め隠す、それがやっとな生物なのではなかろうか。


 これもカルマか。近頃遊んだインディーズゲームの影響で、その概念が四六時中、寝ても覚めても頭の中を旋回し、どうにも止める術がない。

 

 

 

 

 解脱は遠く、深淵の底はなお見えず。


 げにげに根深き限りなり。

 

 

 

 

 


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民度の頂点

 

 何が故にであっただろうか。


 第二次世界大戦時、ロンドン空襲もっとも激しかったころ、英当局は民衆が地下鉄メトロに退避することを禁じようとしたそうだ。


「駅は駅だ、バンカーではない」──いくらなんでも、そんな原理主義的発想に脳を占領されていたワケではまさかあるまいが。ともかくそうした意向の存在したことは、どうやら事実のようだった。

 

 

(空襲を受けたロンドン市街)

 


 さて、斯くも無慈悲な「締め出し」措置に遭わされた当時の紳士淑女らは、どのように反応したろうか?


 怒りをよすがにたちまち団結、暴徒と化して障碍すべてを薙ぎ倒し、無理矢理地下へと雪崩れ込みでもしたろうか?


 すべてを諦め、来世の厚遇を期待して、なるたけ穏やかな心境で爆弾投下を待とうと努力したろうか?


 いいや否。


 どちらも否だ。彼らはただ、切符を買った。


 一ペニー半と引き換えに、彼らは駅の利用者として合法的な地位を得て、喧騒を避け、事を済ませた。当局もそれで納得し、強いて再び彼らを地下から追い出そうとはしなかった。このことはジョージ・オーウェルが、イギリス人の特性の如実な反映例として一九四四年に書いている。

 

 

George Orwell press photo.jpg
(Wikipediaより、ジョージ・オーウェル)

 


 なるほど確かにこんな景色、展開は、イギリスでしか望めまい。


 同じ状況に置かれた場合、アメリカ人でもフランス人でも即座に暴徒と化すであろうし、日本人なら日本人で、ああ天なるかな命なるかな、これも前世でよっぽど業を積んだ報いに違いない、すべては因果の巡りなり──と、我と我が身を儚むほうへ思考をシフトさせそうだ。


 素晴らしきかな遵法精神。この時代、もっとも洗練されきった民度というのは確実に、イギリスにこそ見出せた。

 

 

(『KARMA: The Dark World』より)

 


 昔からイギリス人は鈍重で、想像力に乏しく、容易に興奮しない。それも、自分はそうあるべきだと思っているために、自然とそうなってくるのである。ヒステリーや「空騒ぎ」をきらい、頑強さをたたえることは、ほとんどイギリス全体に通じていることで、インテリ以外のすべての人に共通している。何百万のイギリス人は彼らの民族的象徴として、ブルドッグ──強情さ、醜さ、底なしの愚鈍さで知られている動物──を喜んで受けいれる。


──ジョージ・オーウェル

 

 

 

 

 


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花の信州


「昔は鶏が死ねば木の下へ埋めたといひます。馬肉を食って来たと云へば家の中へ寄せられなかったのです。牛肉を買って来て軒下で煮て土間で食ったものです。そしてその煮た鍋が穢れてゐるといふので、十日も川の中に入れて置いたものです

 


 信州生まれの、とある古老の追憶である。

 

 

(諏訪湖SAから撮影)

 


 如何に江戸から明治へと、社会自体が音を立てて遷移していた維新前後の候とはいえど、ここまで烈しく肉食を忌む地方というのは珍しいのでなかろうか。


 やはり善光寺が在るからか。


 仏道教化がよほど根深く浸透してでもない限り、これほど過敏な反応は起こり得ないと思うのだ。


 その善光寺の門前町には女どもが春を売る、俗にいわゆる紅燈緑酒の愉しみを提供するを事とする、怪しい店舗がずらりと並んで大盛況を極めていたにも拘らず──信州人の精神性の、理解しがたい点である。

 

 

 


「嘉永三年権堂村売女調べによれば売女屋総数三十五軒、見番一軒、抱へ女百九十八人とあり現在とも余りの大差はない。
 また善光寺繁盛記にも『各楼弦歌海と湧く、近く聞く極楽浄土の涅槃も、枕籍を善光寺如来門巷に移す、遊客雑沓云々』とあり、或は『かれを酔ひを賽に買ひ、これは遊を賽に引く、これ何等の因縁ぞや』とあり、以てその盛観と、懐具合のよい僧侶等の遊蕩三昧の情景が推察されるではないか

 


 上の記述は毎度おなじみ東京日日新聞社編、『経済風土記』からのもの。


 まったく彼の地は大っぴらに歓楽街の風情を呈していたようで、同書に曰く、

 

  権堂花街極楽なれや
  女まじりの風も吹く


 なんて歌まで編まれる始末であったとか。


 如来サマの膝元が斯くの如きふざけ散らした有り様で、いったいぜんたい良いのかどうか。

 

 

(『Ghostwire: Tokyo』より)

 


 食には潔癖、性には奔放。家畜の肉を煮るのはアウトで女を銭で買うのはセーフ。よく考えればおかしな話だ。普通逆ではあるまいか。


 およそ人のやることに矛盾撞着はつきもの・・・・とは、なるほどよくも言ったもの。


 何を以ってタブーとするか、その境界すら土地と時代によりけりで、これほどまでに移ろう定めなのだから……。

 

 

 

 

 


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素早く眠りに落ちるため


 興味深い証言がある。


 伊藤博文に関してだ。


 前回から引き続き、佐藤紅緑の追憶より少し引く。

 


「日露戦争の熄む少し前、公に愛されてゐた或芸者から聞いたことだが、世間では伊藤公といへば非常な好色家のやうに思ふけれども、聞いて見ると必ずしもさうでない。なるほど伊藤さんはよく飲みよく遊んだ。そしてお茶屋へ泊り込む時は、枕元へ芸者を坐らせて、三味線を爪弾きさせる。それを聞きながらウトウト眠るんだね。芸者は、公が眠ったなと思ったら、目が覚めないやうにソーッと部屋を出てしまふと云ふんだ。つまり独りで眠るのが寂しいらしい」

 

 

 


 親近感を覚えずにはいられない。


 なんとなれば筆者わたし自身の父親も、よく枕元にラジオを置いて就寝していたからである。ときによっては砂嵐めいた、特徴的な例のノイズをもろ・・に頭部に浴びながら、平然とイビキをかいていた。

 

 神経が太いというべきか、それともただのニブチンか。判断に迷ったものである。


 ところがしかし何時からか、かく言うわたしもヘッドホンが手放せぬ身に、声優のASMR作品をお供にせねば不眠に陥る体質に──いや、これ以上は止めておこう。

 

 

 


 ところで例の、伊藤博文の枕頭に屡々侍りし芸者だが。一方的に情報を引き出されるのみでなく、実は彼女の方からも意味深な問いを投げかけて、当時の佐藤紅緑を若干たじろがせている。


「近く、日本の社会全体を大きく揺り動かすような、変事があるんじゃないですか。あなたの方でも、何か掴んでいませんか」、と──。

 


「僕は何も知らぬから『そんな事はないよ』『あなたは新聞記者でゐて、それに気が付かないのですか』『知らないねえ』『いえ、きっと何かありますよ、大変な事が……』かういふ。そこで僕がその理由を尋ねると、昨夜伊藤さんが遊びに来られたが、夜通しどうしても眠られなかった。ほんの五分間ばかり眠ったかと思ふと、パッと目を開ける、さうして暫くジーッと考へ込む、又ウトウトと眠る。凡そ五分おき位に目を開いてゐる、眠ってゐるのか居ないのかわからん。『ずっと前にも政変があるとか、日本の国に一大事が起るとかいふ時は、いつもさうでしたから、今度も何か大事件があるに違ひないと思ふんです』彼女はさう言ふのである。後で考へると、それがポーツマスの講和問題なんだ。日本でも戦争を止めようか止めまいかといふ切羽詰まった場合である。心配で心配でまんじり眠れなかったんだね」

 


 あるいは例の富貴楼のお倉なんぞも、藤公のこうした一面を知っていたのでなかろうか。

 

 

 


 これだけ掘ってまだ噛み応えが残されている。伊藤博文、やはり大人物である。

 

 

 

 

 


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