穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

文明の継承者 ―ジョン・ラスキンとセシル・ローズ―

 

 

 生れてから自分は、こんな汚い町を見たことがない。もう数ヶ月間、雨が一滴も降らない。温度は日向で160度、日蔭で97度だ。町から5マイル四方に一本の木もなく、草を見ようと思ったら、20マイルは行かなければならない。家という家は、悉くナマコ鉄板。喉を通らないようなまずい食物。道路に舗装などはしてないから、道といっても砂と石ころと穴だらけ。空気は半分は埃で、あとの半分は蠅だ。
 自分は空気を吸っているのではなくて、埃を吸っているのだ、という気がした。だからダイアモンドなんて、二三日したら、もう見るのもいやになってしまった。

 


 イギリスの小説家トロロープが記したキンバリーの評である。


 文中で言及されている通り、南アフリカ共和国西部に位置するこの町は、かつてダイアモンドの産地であった。

 

 

Big Hole Kimberley

 (Wikipediaより、キンバリーのビッグホール)

 


 それもちょっとやそっとの鉱脈ではない。
 この地でダイヤモンドが採れると判明した1867年当時に於いては、紛れもなく世界最大の鉱区であった。


 キンバリーでは平地の砂を掘るだけで、もうゴロゴロとダイヤモンドが湧いてきて、抱えきれないほどである――そんな風説が伝わるや、たちどころに世界中から実業家・企業家・冒険家・浮浪人といった面々が殺到。が、トロロープのように想像を遥かに凌駕する文明社会との隔絶ぶりにあっという間に胆をひしがれ、ほうほうの体で退散した者とて少なからずいただろう。

 


 しかしながら、セシル・ジョン・ローズはそうでなかった。

 


 ロンドン近郊の牧師の家に生を享け、16歳で肺を病み、学業の中途退学を余儀なくされて、静養のため南アフリカに送られたセシル・ローズ青年は、のっけからこの地がひどく気に入ったという。


 事実、やがて健康を取り戻すやセシル・ローズは早速ツルハシを手に取って、どこから見ても非のうちどころのない坑夫と化し、ここキンバリーでダイヤモンドの採掘作業に勤しむのである。


 彼の働きぶりは大したもので、とてもこの間まで肺を患っていた男と同一人物とは思えず、二年後には現代価値換算で年収5000万円の身代にまでのし上がっていたのだから凄まじい。

 

 

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 飛竜乗雲という四字熟語は、まさしく彼のためにあるような言葉だ。


 だが、セシル・ローズの真価が発揮されるのはここからのこと。
 ここまでは、所詮準備段階に過ぎない。まさにここから、セシル・ローズの英雄性が躍如として来るのである。


 若くして財を成したセシル・ローズは、一度祖国イギリスに帰還した。
 中途で諦めざるを得なかった、学業を再開するためである。そうして彼はオックスフォード大学に入学した。


 しかも学んだのは、経済学でも政治学でもましてや自然科学でもない。


 彼は古典を学んだのである。


 遥か古代の、ギリシャ・ローマの文献に、セシル・ローズは没頭したのだ。


 ここが凡百の成金連とセシル・ローズとを分かつ、明確な一線であったろう。彼の大学入学はポーズではなかった。彼の熱意は本物だった。彼は真実、学びたいと思ったから学んだのだ。
 自由意志の発露からなる学問への打ち込みが、どれほど当人の血肉になるかは敢えて論ずるまでもないだろう。セシルはまったく理想的な学徒であった。


 おまけに更に幸運なことに、このオックスフォード在学中、セシルは無二の恩師に出逢う。


 自分が進むべき方向をはっきり指し示してくれる、預言者の如き大哲人に、だ。


 その哲人の名を、ジョン・ラスキンといった。

 

 

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 ラスキンについては細かくあれこれ説明するより、オックスフォードで教鞭を執っていた時代、彼が屡々学生に向かって説破した演説を見てもらった方が良い。

 


「青年よ、諸君の前に、今偉大なる運命が佇んでいる。全英国の青年よ、諸君は、諸君の祖国を、再び王の玉座と為し、王威燦たる島と為し、全世界の光明の源泉、平和の中心と為さんとするの雄志に燃えざるか。
 その使命到達のためには、我等は植民地を全世界に打ち建て、我等の手の及ばん限りの空地を占領し、その植民地に、母国に対する忠誠の念を教え、英国の権力を地上水上のすべてに拡大することが、英国国民の第一義務なることを信仰せしめなければならない!」

 


 この演説は実に2000年以上も昔、アテネの絶頂期に史家トゥキディデスが記した、

 


「我等は文明の魁、人類の先駆である。我等のむれに入り、我等の交わりに加わることは、人間として享有し得べき最上の慶福である。我等の勢力範囲に入ることは隷属にあらずして、特権である」

 


 と、驚くほどに軌を一にするものである。
 アテナイの精神は、確かにイギリスに受け継がれていた。

 

 

 

 


 ラスキンの獅子吼はみごとセシル・ローズの脳髄を直撃し、血液という血液を瞬間的に沸騰せしめ、皮膚に無数の粟を生まずにはいられなくした。
 さもありなん。この瞬間セシル・ローズは、自分の生れてきた意味を完全に理解したのである。


 すなわち、大英帝国の完成。
 世界征服。
 英国の国威をアフリカへ、アジアへ、アメリカへ、その次は天上の星々の世界にまで拡大すること。
 彼の生涯の主題は、この一点に集約していた。


 完璧だ。男子青雲の志として、これ以上に模範的な例はない。人として、男としてこの世に生まれてきた以上、斯くの如き勇壮なる志魂を養うべきであるだろう。セシル・ローズを英雄の殿堂に加えることに、私は一点の躊躇も挟まぬ。

 

 

Cecil Rhodes - Project Gutenberg eText 16600

 (Wikipediaより、セシル・ローズ

 


 セシル・ローズ1902年にこの世を去った。
 享年49歳。
 死因は、心臓病の悪化と云われる。
 生涯妻を娶らなかった。周囲に女の影がちらついた形跡もない。典型的な、「国家と結婚している」タイプの人物だったのだろう。

 


「人間の理想がその男の死とともに終わるという考えぐらい、馬鹿げたものはない」

 


 そう語った男の遺骸は彼自身の希望に則り、喜望峰を北に行くこと1500マイル、マトボの荒野に聳え立つ「精霊たちの丘」マリンディジムに葬られる運びとなった。
 その頂上に穴を穿ち、棺を納め、


「セシル・ジョン・ローズ、ここに眠る」


 と掘られたレリーフを打ち付けたとき、集った数千人の黒人たちは、大酋長を葬るときの例に倣って50頭の牛を屠り、慟哭し、


「我等の父は死したるぞ」


 天に向かって、そのように叫びあげたという。

 

 

貿易商人王列伝: 会社が世界を支配した時代:1600~1900年

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「真情春雨衣」都都逸撰集 ―発禁指定の江戸艶本より―

 

 ここに『未刊珍本集成 第四輯』なる本がある。

 

 

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 昭和九年印刷。その名の通り、発禁を喰らい世に出ることを許されなかった書籍を集めた本である。


 はて、ならばこの本とても発禁を喰らって然るべきではないかと当然の疑問が持ち上がるが、何のことはない、奥付を見ればちゃんと「非売品」の三文字が。


 うまく規制の合間を潜り抜けたということだろう。

 

 

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 内容は、『真情春雨衣』『通俗諸分床軍談』『女非人綴錦』の三作。


 いずれも江戸時代の艶本だ。


 ざっと目を通した感じ、検閲に引っかかったといっても、悪徳の栄えに比べればその千分の一ほどの過激さもない。
 この程度の表現でも発禁になるのか、なんと堅苦しい社会だと、むしろ憫笑したくなる。


 当時検閲の任に当たっていた人々に、コミケ三日目の有様とそこで売られている本の数々を見せてやりたい。あまりのことに卒倒し、或いはそのまま涅槃の人となるだろうから。


 逆に言えば、現代社会がそれだけ性的方面に於いて糜爛しきっているとも取れる。

 

 

20030727 27 July 2003 Tokyo International Exhibition Center Big Sight Odaiba Tokyo Japan

 (Wikipediaより、東京国際展示場

 


 まあ、それはいい。


 本書に於いて特に面白いと思ったのは、『真情春雨衣』。なんとこの作品、各章のタイトルが都都逸仕立てになっているのだ。
 秀逸な句も多いので、いちいち列挙してみたい。

 

 

第一編


ままよ三度笠よこたにかむり
旅は道連れ世はなさけ


潮来いたこ出島の真菰まこものなかで
あやめ咲くとはしほらしい


粋なお前に謎かけられて
解かざなるまい繻子の帯


さんさ時雨か茅屋の雨か
音もせずして濡かかる


遠ざかるほど逢ひたいものを
日々にうとしとがいふた


夢でなりとも逢ひたいものよ
夢ぢゃ浮名は立ちはせぬ

第二編


逢ふた初手から身に染々しみじみ
こらへ情なくなつかしい


桃と桜を両手に持って
どれが実になる花だやら


お顔見ながら物さへ云はず
はたの人目が吉野川


思ふお方と夏吹く風は
さっと入れたやわが閨へ

十一
あかぬ別れを鳴くとりよりも
待つ夜の鐘の音なほつらい

十二
はやく出雲へ飛脚を立てて
結び戻してもらひたい
 
第三編

十三
旅が憂いとは誰が云ひそめた
心まかせの草まくら

十四
早くお前に似た児を産んで
川といふ字に寝て見たい

十五
惚れた手前たちゃ不憫だけれど
さうは躰がつづかない

十五
花も紅葉も散っての後に
松のみさほがよく知れる

十六
年はとっても一口飲めば
兎に角水性うはきがやみかねる

十八
目出度めでた々々々の若松さまは
枝もさかへて葉もしげる

 


 どうであろう、なんとなく話の流れというか展開が、透けて見えるのではなかろうか。


『真情春雨衣』の作者は吾妻雄兎子と名乗る、謎の人物ではあるが、第三編の序文を為永春水が寄せていること、及び文章の調子、内容結構の具合から、『未刊珍本集成』の編纂者たる蘇武緑郎氏は


為永春水もしくは春水一派の戯作なることは一点の疑ひがない」


 と力強く断定している。


 確かに本書は、たとえば登場人物の台詞に着目しても、七五調で織られたものがやたらと多く、なにやら歌舞伎の台本でも読んでいるような気分になる。


 折角なので、同じく七五調から織り成された上方唄二首をも抜粋しておく。

 

 

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 浮草は、うきくさは、思案の外の誘ふ水、恋か浮世か、浮世か恋か、一寸ききたい松の風、問へど答へず山杜鵑やまほととぎす、月夜はもののやるせなき、癪に嬉しき男の力、ぢっと手に手をなんにも言はず、二人してつる蚊帳の紐。

 


 作中では鍵屋玉次郎という、所謂いいところの次男坊が「鈴虫よりも美しき声」で上記の唄を歌っている。

 


 二人が恋の忍び駒、人の心と、水調子。流れの末はどうなると、思へば心細棹の、一世はおろか二世かけて、切れはせぬぞえ三つの糸。四つ乳の皮のはげやすい、心もかうして胴掛の、しっくりはまる糸巻に、また繰り返す、上方唄、うたひてこそは居たりけれ。

 

 

江戸うつし 春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)

江戸うつし 春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)

 

 

 

 


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東京タワーを上下する ―都合1200段の旅―

 

 ここのところ、江戸についてばかり書いてきた。


 だから、というわけではないのだが。本日東京タワーに登って来たので、その所感を述べてみたい。


 スカイツリー出現あらわれるまで――あるいは今でも――東京都の象徴として仰がれ続けたこの電波塔は、実のところエレベーターのみでなく、階段によってもメインデッキまで到達できる。そう耳に挟むや、俄然興味をそそられた。

 

 

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 生憎と、朝の天気は曇り。雨天の際は階段が通行不可になるとのことで、ちょっと不安の影が差したが、幸いそこまで空模様は悪化せずに済んでくれた。

 

 

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 チケットを900円で購入し、いよいよ階段を上りはじめる。

 

 

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 踊り場に差し掛かるたび、このように段数が塗られているため現在位置が把握可能でなかなか便利だ。


 しかしこれだけ階段を上っているとどうしても、奥高尾を縦走したときの記憶がよみがえる。あの時もひどい階段地獄にあえがされた。


 若しくは、FF7神羅ビル裏口からの侵入だろうか。リメイクがとても楽しみだ。

 

 

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 そんなことを考えつつ脚を動かしていると、さりげなくこんな看板が。矢印の方へ視線を向ければ、

 

 

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 なるほど確かに、ビートたけしと書いてある。

 

 

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 残すところ、あと僅か。

 

 

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 到達。メインデッキの神殿に賽銭を納める。


 祭神は天照大神とのこと。建材の真新しさが目にまぶしい。

 

 

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 かの有名なガラスの床。落ちるわけがない、安全は保障されていると重々承知しながらも、いざ立ってみるとこれはなかなかクるものがある。

 

 

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 向こうに見えるのは東京湾か。だとすれば、家康公が御入国したその節は、あれがもっと内陸に喰い込んでいたわけだ。


 タワーのあるこの場所にも、ひょっとすると波が押し寄せていたやもしれない。


 そうでなくとも、野っ原だったのは間違いなかろう。


 その場所にまつわる逸話や歴史を心得ておくと、味わえる興趣が二倍にも三倍にも膨れ上がる。

 

 

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 ひとしきり楽しんだので、下降を開始。

 

 

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 対面に見える531段表記は、上り専用の階段のもの。つまり先刻私が踏んだ場所である。


 出口にたどり着いたあと、ふと頭上を仰ぎ見ると、

 

 

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 あそこまで上り、そしてまた下りて来たのだと思うと、流石に感慨も一入ひとしおである。

 

 足を運んだ甲斐のある、良い塔だったと評したい。

 

 心地よい疲労感を伴いながら、私は東京タワーを後にした。

 

 

 

 

  

 
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ひらけゆく江戸 ―家康公の御英断―

 

 神田山が崩されたのは、慶長八年(1603年)のことだった。


ここもかしこも汐入の葦原にて、町屋侍屋敷を十町と割り付くべき様も」ない――すなわち海水が入り混じり、葦ばかりが生い茂る当時の江戸を、人間が集団生活を営むに適した確固たる大地に生まれ変わらしめんがため、家康公の指示だった。


 山を崩し、その土砂で海を埋めたのである。


 その風景は、相模三浦氏の一族に生まれ、のち南海坊天海に帰依した三浦浄心『慶長見聞集』に於いて詳しい。

 


 当君、武州豊島郡江戸へ御うち入しよりしこのかた町繁盛す。然れども地形広からず、是によりて、豊島の洲崎に町を建んと仰ありて、慶長八年卯の年、日本六十余州の人歩をよせ、神田山をくづし、南の海を四方三十余町うめさせ陸地となし、その上に在家を立給ふ。この町のほか家居つづき、広大なる事、南は品川、西は田安の原、北は神田の原、東は浅草まで町つづきたり。
 江戸町のあとは大名町となり、今の江戸町は十二年以前迄は大海原なりしを、当君の御威勢にて海をこの陸地となし町を立給ふ。

 


 百万大都市の基礎固めは、このようにして行われたわけである。

 

 

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 ところでこのように街が発展する下地が整い、四方から人が流入してくるようになると、自然な勢いとしてとある職業の従事者が目立って数を増やしはじめる。
 傭兵と並んで人類最古の職業と称されもする、「遊女」がすなわちそれである。


 堂々たる江戸幕府の老臣たちは、この現象を決して軽視することなく、額を寄せ合い大真面目に協議したのだ。このままでは武士の鉄腸が蕩かされ、いざ合戦の際に何の役にも立たぬ木偶揃いに化するのではあるまいか――。


 ついにこの問題は家康の上意を仰ぐところにまで至り、その間の消息を、『事蹟合考』は以下の如く伝えている。

 


 江戸中所々に追々遊女屋の出来候節御年寄中御停止にも仰付らるべくや、諸武士惰弱に罷成候はん義如何と奉伺うかがいたてまつり候処、神君上意に、日本国中諸武士末々の者に至る迄江戸に来て諸国になき楽みを致さんと存じ勇み寄るこそよけれ、苦しからざる間其分に永々ながなが差措候へとの御儀にて末代に至り遊女屋御城下に並べ置かるべく云々、此事老輩の申置処也。

 


 なんという――
 なんという人間心理に通暁した君主であろうか、徳川家康という方は。
 地方民が「都会」に対して期待するところのものを、痛いほどに知悉している。
 清濁併せ呑む度量の広さが、間違いなくこの漢には存在していた。


 ついでながら『事蹟合考』について補足しておくと、この書物は江戸中期の国学者である柏崎具元の手によるもので、「江戸開幕期の諸相を懐古の対象としながら客観的な叙述に徹している」と評価が高く、大田南畝山東京伝など、後々の考証家の間でもよくこの本が取り沙汰された。

 

 

山東京傳

 (Wikipediaより、山東京伝

 


 家康自身、そこまでの自覚はなかったろう。
 だが、彼のこの裁断は、間違いなく後の日本文化の在り方を決定付けた。


 東照大権現のこの一言があったればこそ、吉原は城下町にその存在を赦されて、京都の島原、大阪の新町と相並び、日本三大遊郭と讃えられるまで盛況を極めることが出来たのである。


 もし、家康公のおつむりが腐れ儒者のように固く、「道徳」の順守に躍起になって、全然反対の対応に出ていたならばどうなっていたか。


 当然、葛飾応為『吉原格子先之図』は生まれ得ず、
 井原西鶴好色一代男からは小紫太夫や高雄太夫などの吉原美人が消滅し、
 吉原を題材とした数多の川柳も詠まれなかったことになり、『柳樽』がさぞや寂しくなるだろう。

 

 

Yoshiwara Kōshisakinozu

 (Wikipediaより、吉原格子先之図)

 


 具体例を列挙してゆけばキリがない。なんとなれば江戸を盛りと花開いた町人文化の源泉とは、遊郭にこそ見出されるからだ。


 文学も、
 劇も、
 音楽も、
 絵画も、
 花街をその材料に含まぬものはほとんどない。


 なればこそ「三大」の欠落――否、中絶・・がどれほどの影響を及ぼすか、多言を弄するまでもなかろう。

 

 


 家康公御自身は、芸術に何らの興味も見出さない性質たちだった。


 彼の眼中、ただ実利だけがあった。


 しかし彼の執った政策が、その後の江戸芸術に資するところは無限である。

 

 

 

 

 


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武蔵野・江戸の原風景 ―権現様の関東入国―

 

 家臣たちは、おおかた鎌倉小田原あたりになるだろうと予測していた。


 北条征伐の後、関東二百五十万石に封ぜられた家康が、その居城として定めるべき城は、である。


 それがいざ蓋を開けてみれば「江戸」などというとんでもない大田舎の名が飛び出してきたものだから、彼らの受けた衝撃たるや計り知れない。驚きを通り越して愕然とする者さえあった。


 このあたりの消息を、江戸中期の軍学者大道寺友山によって編纂された『岩淵夜話別集』なる書物にたずねてみると、

 


 家康公領知となり候へども、御在城の義は未だ何方いづかたとも仰せ出だされず、去るに依て御旗本の積り、十人に七八人は相州小田原と推量仕る、其内二三人も鎌倉にても御座有るべくかなどと申衆もあり、然る処に秀吉公と御相談の上にて、武州江戸を御居城と仰出されに付き、諸人手を打て是はいかにと驚く仔細は、其時代迄は東の方平地の分はここもかしこも汐入の葦原にて、町屋侍屋敷を十町と割り付くべき様もなく、さて亦西南の方はびやうびやうと萱原武蔵野へつづき、どこをしまりとなすべき様もなし。

 


 おおよそこのように記されている。
 これはもう、「田舎」どころの騒ぎではない。一面の荒蕪地であるだろう。
 しかもこれがまんざら誇張でもなさそうなのは、一昔前にこの地を旅した北条氏康『武蔵野紀行』に、

 


 東に筑波、西には富士を眺めて、月は草より出でて草に入る、其武蔵野は渺茫として眼も遥かなる大野であつた。
 それより武蔵野を狩ゆくに、誠に行けどもはてのあらばこそ萩芒女郎花の露にやどれる虫の聲々、あはれを催すばかりなり。

武蔵野といづくをさして分けいらん
行くも帰るもはてしなければ

 


 と述べられているからである。

 

 

Ujiyasu Hojo

 (Wikipediaより、北条氏康

 


 江戸はこの、どこを見廻しても萩と芒と女郎花しかない武蔵野の、つまらぬ一郷に過ぎなかった。
 どう考えても、関八州の太守たる者が君臨すべき城ではない。
 家康の意図がさっぱり読めず、家来という家来はことごとく困惑の渦に突き落とされた。


 正直な話、筆者にさえもわからない。家康は容易に腹の内を明かさぬ男で、この時もその癖がもろ・・ に出た。そのため400年以上を経過した現代でさえ、家康の江戸入りというこの一件は歴史の謎となっている。

 


 さて、いよいよ天正十八年(1590年)八月朔日ついたち、家康が江戸城に入る日がやって来た。

 


 はじめてこの地に城を築いたのは扇谷上杉氏の老臣、太田道灌なる男。築城のきっかけについては霊夢を見たとかなんとか怪しげな伝承が残っているが、目的としたところは明快で、川越城と連携して北方の脅威に対抗せんがために相違なかった。

 

 

Outa Doukan

 (Wikipediaより、太田道灌

 


 ところが扇谷上杉氏が北条勢力に敗れたことで、城は北条氏の支城として組み込まれ。
 築城からおよそ130年を経過した、この家康関東入国のときには、川村兵部大夫なる北条系の人物が江戸城の守備に就いていた。


 彼を「退転」させて新たなる城主となった家康が見た江戸城の内実というものが、いったい如何なるものであったか、やはり大道寺友山の『落穂集』から参照したい。

 


 その節御城内は先の城主遠山左衛門(筆者註・遠山景政を指す。前述の川村兵部大夫のに該当)が居宅そのままに相残りこれあり候へども、なかなか籠城のうちに捨置候ゆへ、ことごとく破損に及び、其上取りふき仕り、屋根の上を籠城の節土にてぬり候に付、そのもり雫にて畳先き物等もくさり果候を、ことごとく御修復仰付けられ、諸役人昼夜骨をおり、やうやくと御入国の間にあひ候とこれある儀を、長崎彦兵衛と申て甲州代官の手代を勤候よしの老人常に物語候(後略)

 


 廃墟同然に荒れ果てていた内装を、この長崎彦兵衛のような忠良なる役人たちが、必死の思いで馬車馬のように働いて、どうにか人間の暮らせる環境程度に修復してくれていたらしい。


 更に石川正西なる、当時の旗本が残した『見分集』をのぞいてみると、

 


 …山の手は皆野原にて御座候ひつる。西の丸も野にて御座候ひつるを新規に立てなされ候。山の手の総ほりもその以後に仰付られ御ほらせなされ候。

 


 とあるから、本当に草ぼうぼうのだだっ広い野っ原に、本丸だけがぽつねんと佇んでいた情景が想像できる。

 

 

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 この段階からよくもまあ、海内を圧倒する将軍家の「力」と「権威」の象徴たるに相応しい、あの千代田城まで持って行けたものである。


 しかもその千代田城たるや、維新の動乱を経てなお死なず、今日に至るもなお皇居として光輝を放ち続けているのだから、それを思えば権現様の偉業のほどに、いよいよ感服せざるを得ない。

 

 

新発見! 江戸城を歩く (祥伝社新書)

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徳川家康と岩崎弥太郎 ―紙一枚たりともおろそかにせぬ男たち―

 

 既に幾度か取り沙汰した『修養全集 11 処世常識宝典』は、流石に昭和というあの時代に編まれた修養本なだけあって、倹約を奨励する記述が至る所で目に入る。
 それは単に理論をもてあそぶのみでなく、

 


 薪などは薪と薪との間を適当に空かせて、火力が鍋や釜の底に一面に当る様にすれば、五本で沸騰するものが三本で同様の結果を得ます。大阪では女中の手腕が二本薪、三本薪、五本薪といはれて給料までが区別されてゐるさうです。然るに一般には猿くべと申して徒に薪を多く投込む癖がある。(13頁)

 


 このように実例を交えて語られることも珍しくない。


 ――その「実例」のうちの一つに。


 三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の逸話がさりげなく紛れ込んでいた。

 


 故三菱会社社長岩崎弥太郎は、会社の用紙を無駄に使った一社員を叱りつけて、「一枚の紙といふかも知れないが、さうした使ひ方をするのは怪しからん、塵積って山となるの譬へもある。人間は太っ腹であると同時に小事といへどいやしくもしない、之が処世上大切な事である」とねんごろに説諭したといふ話がある。(543頁)

 


 気に入らなければ誰彼構わず喧嘩を吹っかけ、相手の息が停止するまで悪口を発射し続ける、手の着けられない乱暴者の弥太郎が、齢を重ねたとはいえこんな分別がましいことを口にするとはほとんど信じ難い思いがする。

 

 

Y Iwasaki

Wikipediaより、岩崎弥太郎) 

 


 が、それにもまして私の脳裏にはためいたのは、東照大権現神君徳川家康の晩年の逸話に他ならなかった。


 家康公もまた、ふとしたことから風にさらわれた懐紙を追いかけ、庭まで下りてこれを回収したそうである。しかもその一部始終を目撃し、思わず失笑した小姓に対して、


「その方らは笑うかもしれないが、わしはこれで天下を取ったのだ」


 と言い返したとか。


 徳川家康岩崎弥太郎。一見何の関連性もなさそうだが、この二人の精神の底にはよく似た波長が流れていたようである。

 

 

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 せっかく家康について触れたのだ。


 私が個人的に日本史上最大の英雄と信奉している彼について、もう少しばかり語りたい。


 ――おれは家康を尊敬している。


 そう言うと、多くの人が怪訝そうな顔をする。真田丸の放映以後はよりその傾向が顕著になったようだ。


 由来、信長秀吉に引き比べ、家康は世間の人気を向けられ難いというのがまず一般的な理解だが、私はこれに軽々に頷くことは出来ない。
 というのも、昭和五年に刊行された下村海南の随筆集、『飴ん棒』の語るところを信ずるならば、小石川の旧水戸藩邸跡に建設された東京砲兵工廠では四月十七日が訪れると、職工たちは


「権現様の日が来た」


 と口々に言い、一斉に仕事を休むシキタリだったそうなのである。


 彼らは皆、家康の命日に当たるこの日に仕事をした場合、決まって誰かしら大怪我を追うとごく自然に信じていた。


 陸軍もこれには手を焼いて、なだめ、すかし、時には脅し、八方手を尽して迷信の打破に努めたが、ついに如何とも為し能わず、不承不承休日と認めたといういわくつき。関東でこの種の所謂「祟り」を為すのは平将門の専売特許と思いきや、家康公も一枚噛んでおられたとは、全く以って意外の至りだ。

 

 

Taira no Masakado 01

 (Wikipediaより、平将門

 


 ――ここまで書いて気が付いた。私は家康公が江戸の民草から敬意を以って仰がれていたという実例を示したかったのだが、これは果たしてそういう方向性の話だろうか?


 まあ、日本に於いて神とは祟るものである。
 細かいことは気にせずに、話を進めることにしよう。


 しばらくの間、「権現様の日」の権威は誰にも脅かされることなく平和な時が続いたが、ある年どうしてもこの四月十七日に職工どもを動員せねばならない事態が生じてしまった。


 忝くも久邇宮殿下が、ここ東京砲兵工廠で戦車の無線操縦を御覧に入れることになったのである。このときばかりは職工連も、「権現様の日」を冒すことを余儀なくされた。――主に陸軍軍人たちが、下手なことを言おうものなら首に縄をつけてでも職場へ引き摺って行きかねない気勢を示したために。


 ところがいざ実演の日が訪れて、「舞台裏」で最終チェックを行ってみると、こはいかに。昨日まであれほど調子のよかった戦車がにわかに一転、ピクリとも動いてくれぬではないか。


 蒼白になる永山少佐以下陸軍人に対し、「それみたことか」と意地の悪い視線を投げつけるのは休日に駆り出された職工一同。「権現様の日」だ、戦車が祟りに遭ったのだ。……

 


 御覧に入れる時間は刻々切迫する、一同気が気でない。その内永山少佐が発振機のバルブを取替へるとナーンのことだ、タンクはガタンゴトンと勢ひよく動き出す。やっと愁眉を開いた一同「権現様も科学の力には負けたネ」……(『飴ん棒』10頁)

 


 なんともはや、上手くオチがついたではないか。久能山に眠る家康も、この光景には思わず苦笑しただろう。

 

 

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 東京砲兵工廠跡地は、現在後楽園東京ドームなどのレジャー施設が立ち並び、連日無数の人でにぎわっている。
 むろん、四月十七日に職員が一斉に仕事を休むこともない。

 

 

評伝岩崎弥太郎―日本海運界の暴れん坊

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匣の中の娘たち

 

 アニメ魍魎の匣を視聴したときの衝撃は、今でもはっきり思い起こせる。


 なにしろのっけから箱詰めにされた美少女の生首が登場するのだ。ましてやその生首の眼がくるくる動き、唇を開いて声さえ発する――生きているとあっては、度肝を抜かれぬわけにはいかぬ。

 


 めくるめくほど濃密な、幻想狂気の世界であった。

 


 この「匣の中の娘」が、まんざら創作の中だけの存在でないと知ったのは最近のこと。それは地方巡業の見世物小屋の花形で、一般に「ハコビク」と呼び習わされていたという。

 

 

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 見世物小屋といえば、河童のミイラだとかろくろ首とか太さが子供の腕ほどもあるエジプト産の白ミミズ――正体は豚の大腸に鰻を詰め込んだもの――だとか、そうした日常の風景ではまずお目にかかることのできない妙ちくりんな代物をずらりと並べ、見物料を客からせしめる商売である。


ダレン・シャンシルク・ド・フリークをイメージすれば、まず間違いはないだろう。


 今でこそほぼ絶滅したといって差し支えのない見世物小屋だが、PCどころかテレビすらない大正・昭和のあの時代には随分な盛況を誇ったもので、数えきれないほどの無智で純朴な田舎者が目を丸くして「見世物」たちの一挙一動に感嘆していたものである。


 彼らの期待に応えるべく、興行主の方も日夜研鑽を怠らなかった。

 もっと奇抜な見世物を!

 もっと驚異的な芸を!

 もっと、もっと人心を沸き立たせる何かを! 、と――そうした追求の過程で生まれ落ちた「新商品」のうちの一つに、「ハコビク」も含まれていたのである。

 

 

Japanese sideshow01

 (Wikipediaより、見世物小屋

 


 ハコビク――女性を意味する俗語たる「びく」と「箱」とをくっつけた、直截な名であるだろう。


 初出は、大正の半ばあたりであったらしい。


 高さ10センチ、縦横60センチ程度の板の上に座布団を敷き、更にその上に髪を乱した女の生首が飾られてある。
 しかも驚くべきことに、この生首は生きているのだ。
 見物客と視線が合おうものならば、


 ――生首だけでも情けは同じ、見染めたお客さんがあるわいな。


 などと歌ってにこりと笑い、相手の心胆を寒からしめた。


 その仕掛けというのは単純至極で、板が地面に置かれているのがポイントである。


 そう、実は板にも座布団にも穴が空けられていて、生首娘の胴体以下は、地下に掘り下げらた空間に収納されているに過ぎないのだ。


 誰でも思いつきそうなネタではあるが、実際にやるとなると女優の苦労は尋常一様なものでない。特に冬の地下はたいへんな寒さで、穴の中に湯たんぽや火鉢を入れておいても危うく凍えかけたという。

 

 

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 生理現象も無視できない。見世物小屋の興行は朝から晩まで、ほぼ一日中続くこととて珍しくない。
 その間、一度も用を足さないでいるのは生物として不可能だ。しかし生首だけで生きていると客に対して触れ込んだ手前、ちょっとお花を摘みにと穴の中から這い出すこともこれまた出来ない。


 結局小用だけは穴の中でも済ませられるように設えたのだが、「大」の方はそうもいかず、女優の忍耐力に100パーセント委ねる以外なかったそうな。

 


 斯くの如き「生首娘」が出現以来、改良に改良を重ねられ、元号「昭和」と改められた丁度その頃、誰かがこれをただ野晒しにしておくよりも、箱の中に入れた方がより客に与えるインパクトが強いと気付き、以後一般的な形式として広まった。


「ハコビク」の呼び名の誕生である。


 日本全国、至る処にこの「匣の中の娘」たちは姿を現し、悲愴なること真に迫った口ぶりで、憐れなる身の上話を狭い場所から奏で上げた。


 それが大いにウケたのだから、なんとも狂気的な光景だ。


 しかしながらこの狂気に「幻想」の二文字を附すべきか否かについては、大いに疑問の余地が残ろう。

 

 

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

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