穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

酒の肴の禁酒本 ―長尾半平の警告―

 

 

銚子の口には狐がすむよ
コンが重なりゃだまされる

 


 福島県のとある地方に古くから伝わる俚謡である。


 一献、二献と酒量の単位を表す「献」と、狐の鳴き声たる「コン」をかけたわけだ。
 悪い出来ではない。私はこれを、昭和五年の小雑誌、『禁酒之日本』八月号中に見出した。

 

 

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 むろん、今更言うまでもなく、私は大の愛酒家である。


 憂いを掃うこのありがたき玉帚を手放すなど考えられない。


 だがしかし、己と反対側の立場から書かれた文章を読むというのも、たまにはいい刺激になるものだ。


 それに何より、酒を攻撃する文章を、酒を片手に読むというのはなにやら背徳的な悦びがこみ上げて来て快い。肴として、実に上等なものがある。


 たとえば灘の名酒の一つ、「白鹿」に向けられた批難の激しさときたらどうであろう。命の雫といっていいこの飲み物に、禁酒家たちは「シタタカ毒水」とルビを打ち、醸造主たる辰馬吉右衛門「不生産的事業主」とこき下ろした。

 

 

Hakushika Memorial Museum02st3200

 (Wikipediaより、白鹿記念酒造博物館)

 


 あまつ吉右衛門が事業を拡大するために、130万円の工費を投じて前浜町の一角に4500坪の大酒造蔵を建てようとすると、彼らはほとんど発狂同然の様を呈し、「世をあげて操短、減給、解雇、罷業、怠業等々深刻なる不景気風が吹きまくってゐるこの秋に、その不景気の一大原因たる酒を造る蔵を建てようとはなにごとぞ」と口角泡を飛ばさんばかりにわめき散らして、吉右衛門主宰の宴会に出席した人々を「亡国連合軍」と罵倒するに至っては、とても素面では読めない下りではないか。

 


 対立者の人格否定すら厭わぬ攻撃性は、なにやら昨今のヴィーガンに相通ずるものがある。

 


 もっとも、総ての記事がこんな調子なわけではないのだ。いいことを言っている奴もいる。


 衆議院議員長尾半平がこの八月号の巻頭言として寄稿した、「美名の下に暗影あり」という小稿など、非常な名文といっていい。

 

 

Nagao Hanpei

 (Wikipediaより、長尾半平)

 


 長尾はまず乃木希典の自決に触れ、その後群発した見るに堪えない醜状の数々を報告している。なんでも将軍の墓標に近き青山通りの小店には、当節乃木せんべいとか乃木まんじゅうとかいった品々が並び、この聖将の威光を借りて金儲けを企んだ輩が少なくなかったと。


 ――一連の事実から読み取れるように。


 兎に角よき名のあるところには、また必ず好ましからざる暗い影が伴うて、却ってその徳を傷つけることがあるものだ。我々が展開している禁酒運動にもどうやらその翳りが忍び寄りつつある、共産主義マルキシズムなど、危険思想の隠れ蓑にされぬよう、大いに警戒せねばならない――要約すればこんなところか。


 流石に後藤新平に見込まれて、鉄道省に引き抜かれただけはあり、よく事理に通じた忠言である。


 しかしながら同じ八月号の巻末に、「禁煙水」などという見るからに怪しげな広告が掲載されているのはどういうことか?

 

 

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「如何なるタバコ好きも禁酒水で二分間全く煙草嫌になる」と記してあるが、おやおや商品名は禁「煙」水ではなかったか。


 だいたい二分間だけ嫌煙家になったところで意味はなかろう。三分後にはもうケロリとしてまたぞろ紫煙をくゆらせているようではなにがなにやら分からない。


 それともこれは、効果が出るまで二分を要するという意味か?


 だとすればまことに都合のいい、そんな魔法の液体が、現代に伝わっていないのは如何にも不自然に思われる。畢竟「水素水」などと同様、ただの水を高価で売りつけるための方便ではなかったか。

 


 長尾の危惧が、さっそく現実になった形である。

 


 これ以外にも『禁酒之日本』を捲っていると、ソヴィエト連邦をして帝政ロシア時代と比べ、酒の害を根絶した点理想的な国家になったと讃美する記述に屡々出くわす。


 コミンテルンの公式発表を真に受ける、この連中のあどけなさよ。


 ソ連人民が如何に密造酒の製造に熱心で、場合によっては工業用アルコールを蒸留してまで酔いを求めたということに、彼らはとんと無知だった。それでこのような写真を載せて、

 

 

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「酒を飲まぬソヴエットでは、体育が盛んで、かうして婦人までが団体的に体操や競技をする」


 と浮かれているのだから幸せなものだ。どうもこの連中は酒の害を除こうとして、もっと悪質な「酔い」を引き込んでしまったようである。

 

 

 

 

  


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年俸一ドルの外交官 ―鮎川義介とスタインハート―


 鮎川義介訪独の旅から帰還して、そう日を置かぬうちのことである。


 駐ソ米国大使の首がすげ変った。


 新たにやって来たのはローレンス・アドルフ・スタインハートなる男。フランクリン・ルーズベルトとは大学に於ける同窓で、聞くところによると年に一ドルの給料でこの大役を請け負ったそうな。


「会ってみるといい。なかなか面白い野郎だぜ」


 とすすめてきたのが松岡洋右。これが契機きっかけとなって鮎川義介とスタインハートは、奉天にて二時間ばかりの会談を行うことになる。

 

 

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Wikipediaより、ローレンス・スタインハート)

 


 その間、鮎川にとって特に印象深かったのは、


「おれは、おやじからうけついだ財産をこれからロシアに行って全部使ってやろうと思っている」


 というスタインハートの大見得だった。


 アメリカにはこういう「型」の男がいる。伝統として存在している。


 最近では第45代大統領、ドナルド・トランプがそうであるし、カリフォルニア州知事時代のアーノルド・シュワルツェネッガーもまた同じ。後に鮎川が水力発電関連で接触する、テネシー川流域開発公社のデビット・リリエンソールに至っても、やはり年俸一ドルでアメリ原子力委員会の委員長職を引き受けた。


 一連の「型」の人物を、鮎川は「ダラー・エ・マン」と呼んでエライものだと感心している。


 世の中金を使わなければどんな仕事もろくろくできん、外交また然りだろうとかねがね松岡を突っついてきた鮎川だ。


 ――こうでなけりゃあならん。


 と、大いに意に添うものがあったのだろう。

 


 これに比べると日本では貧乏なのが外交官になるもんだから、おかみの機密費だけでは気のきいた仕事はできっこない。それどころか、近ごろはその機密費の上前をはねて、やめたときの貯えにするという殊勝なのも珍しくないとのこと。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』163頁)

 

 

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松岡洋右鮎川義介

 


 こうした所謂「政治とカネ」の話柄については、若い頃から興味が強く、聞き耳を立てていた鮎川だ。


 特に総選挙の裏側で財閥が如何に暗躍したかは造詣が深い。


 なにしろ義兄に当たる木村九寿弥太三菱の総番頭を務めている。三菱が政党に選挙費用を融通する際、その業務を一手に担っていたのがこの九寿弥太ときているのだから、裏面の消息が筒抜けだったのも頷けよう。


 かつての大日本帝国で二大政党といえば政友会民政党で、前者を三井が、後者を三菱が支援していた。


 三井の側でその衝に当たっていたのがかの有名な団琢磨。木村と団は総選挙の開かれるたび一席設けて話し合い、両者同額の金を出すべく打ち合わせ、いつしかそれが一種のシキタリと化したらしい。


 鮎川が聞き出したとき、その額は五百万円に上っていた。


 当時の五百万円は、現在の貨幣価値に換算しておよそ二五〇億円に相当する。


 これだけの金が選挙のたびに政友・民政両党にそれぞれ流れ込むわけだから、財閥が政界に対して比類なき影響力を獲得するのも無理はなかろう。彼らとて、慈善事業で金を投げているわけではないのだ。見返りを期待する下心あってのことである。

 

 

Dan Takuma

 (Wikipediaより、団琢磨

 

 
 斯くの如き政界の現状を誰より嘆き、嘆く以上に憎悪して、血涙を流さんばかりになっていたのが尾崎行雄という男。彼はほとんど当たり散らすような剣幕で、


「政党の首班たる者は、ぜひとも汚職の訓練を積まねばならない」


 ということを、あらゆる場所で、表現を変えつつ人々の耳に吹き込んだ。


 皮肉であろう。

 

 咢堂らしい、あく・・の強い皮肉であった。

 


 政党の首領は、嫌でも応でも、資金を作らねばならぬ。実業に従事せざる政治家が、資金を得る道は、腐敗するより外にはない。政権及び党力を濫すれば、資金は作れるが、清廉潔白の道を踏んでは、作れない。而して金力がなければ、首領の地位を保つことは、絶対に出来ない。
 是れ如何なる清廉潔白の士と雖も、党首となれば腐敗せざるを得ざる所以である。(中略)金力が主として口をきく以上、立憲政治ほど、有害な制度はない。(『咢堂漫談』324頁)

 


 もし尾崎行雄が「ダラー・エ・マン」のことを知ったら、やはり手を打って喜びを露にしたことだろう。そしてお得意の毒舌で、日本が如何に遅れているかをさんざんにあげつらったに違いないのだ。

 

 

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 ローレンス・スタインハートは駐ソ大使に着任したが、そのほとんど直後に独ソ戦が勃発。遭難を避けるべく、モスクワからの脱出を余儀なくされる。


 おそらくは、「おやじからうけついだ財産」を使い果たす暇もなかったろう。


 その後はトルコ大使、チェコスロバキア大使、カナダ大使と所在を転々とするうちに、1950年3月28日、乗っていた飛行機が爆発・墜落して死亡した。彼の墓石は、アーリントン墓地の第30セクションに今もある。

 

 

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悪夢到来

 

 目を開き、枕から離れた瞬間異変を感じた。


 頭が痛い。


 鉄のたがでも嵌められて、きりきりと締め上げられているかのような痛みが走る。


 さてこそコロナか、インフルか――と嫌な想像が駆け巡り、大いに背筋を冷たくさせたが、そう間を置かずに違うと分かった。


 目が痒く、涙が溢れ、鼻水が溜まり、とどめに連発するくしゃみ――間違いない、花粉症の症状だ。

 

 

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 暖冬で飛散が早いと聞いてはいたが、まさかバレンタイン前から始まるとは。


 鼻が詰まると頭の回転が鈍くなり、読書の上にも障りが出てくる。文章を文章として認識できず、文字同士の接着が薄れ、ばらばらになって紙面の上を好き勝手に乱歩している感じがするのだ。何を言っているのかわからないかもしれないが、それこそ花粉の影響である。


 めしを喰うように本を読む私にとって、これほど辛いことはない。


 春をして地獄の季節と、一年のうちで最悪の時期と嫌忌する所以はここに在るのだ。総飛散量が少なめなのがせめてもの救いか。早く来た分だけ、早く過ぎ去ってくれればよいのだが。

 

 

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鮎川義介のヒトラー評・後編 ―「今以て推服するところである」―

 

 鮎川義介はドイツに着くやいなやの素早さで、駐ドイツ特命全権大使来栖三郎ヒトラーとの会見を願い出ていた。


 ところが来栖の返事は芳しくなく、「成否は請け合えないが、なんとか手を尽くしてみよう」と言われたっきり待てども待てども音沙汰がない。


(無理があったか)


 繰り言になるが、このとき既に第二次世界大戦がはじまっている。


 ヒトラーの近辺がのびやかであった筈もなく、スケジュール表は数週間先までギチギチに詰まっていたとしても何ら不思議ではないだろう。そうした事情を想像する脳力を持っていたから、鮎川はべつに腹も立てない。


(まあ、仕方ない)


 潔く見切りをつけて、ぶらりとスイスに旅行した。

 

 

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 この永世中立国を足掛かりにイタリアへと南下して、更にここから隙を窺い、こっそりアメリ渡航する計画を練っていたときのことである。長らく連絡のなかった来栖から、だしぬけにヒトラーと逢えるぞ」との報せが舞い込んだのは――。


 こうなればアメリカ云々どころではない。風をくらってドイツに戻った。


 そして、1940年3月5日。折しも猛烈な吹雪に見舞われたベルリンで、鮎川はヒトラーと小一時間の会談を行う。


 場所は、総統官邸である。


 鮎川の言をそのまま借りれば、この官邸は「ドイツの他の建物がゴテゴテしているのと違って、日本式の簡素美を打ち出したスカっとしたものであった(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』172頁)


 鮎川はこの建物が、独裁確立後のヒトラーにより大幅に手を加えられ、以前とはまるで別種の趣に改造されたと知っている。
 そのため本人に逢う以前、未だ廊下を歩いている時分から、


ヒトラーとはただのドイツ種子たねではないらしい)


 と、ひどく良好な第一印象を抱いたという。これはむしろ、東洋的な感性に基き創られたものではあるまいか――。

 

 

Bundesarchiv Bild 146-1988-092-32, Berlin, Neue Reichskanzlei

 (Wikipediaより、総統官邸)

 


 鮎川義介の精神は、「簡明素朴」を愛するように出来ている。


 絵は、最低限の線で描くがよし。着色も無用、ごてごて顔料を塗りたくられた油絵よりも、墨絵の方が品がよく、見ていて胸が清くなる。


 この感性は食道楽にも反映されて、やたらと手を加えて出来上がる、こってりした支那料理や西洋料理に生涯好感を抱いていない。ただ、洋食では、牛肉をそのまま野焼きにしたステーキだけは称讃した。


 自然の持ち味をなるたけ崩さぬようにしなくば下品に堕すると言い放ち、酒粕をあぶったものを好物とした鮎川義介。そんな彼の感性は、ヒトラーのセンスにどこか共鳴するものを覚えた。


 白く染まる窓外を横目に、鮎川の鼓動は次第次第に高まっていった。

 

 

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 その部屋に居合わせた人物は五名


 ヒトラー、鮎川は当然として、侍従が一人にベルリン大学日本語教授シャール・シュミットの顔もある。一橋商大でドイツ語を教えた経歴を持つシュミット教授は、通訳として場に臨んでいた。


 誰か他にもう一人、何者かが居合わせた筈だがこの「誰か」に関して鮎川の記憶は曖昧である。


 あるいはヒトラーの印象の強烈さに、覆い隠されてしまったのかもしれない。鮎川はまず、方々に於ける工場見学につき各界からたいへんなもてなしを受け、その間少しも不快な思いをしなかったことへの謝辞を述べた。


 事前に立てた予想では、これに関連してヒトラーも大豆の話を持ち出すものとし、密かに身構えていたのである。


 ところがヒトラーは鷹揚にこれを受けるのみで、大豆の「だ」の字も口に出さない。


(どういうわけだろう)


 ここで一つ鮎川は、威力偵察を試みた。敢えて自分から大豆の件を切り出して、


「自分は満洲の農業部門には直接関係ないけれども、大豆を少々お土産として用意している。ところが望み手が多過ぎてどう配分したらよいか迷っている、総統の意見を伺いたい」


 この質問でヒトラーを揺らし、本音を引き出そうとしたのである。
 しかしながらヒトラーは、ここでも鮎川の予測を超えてきた。


「そんなことは問題じゃない」


 と、取り合う気配を見せないのである。
 やがて話が国の経済に及ぶに至って、初めて彼は語調を高めた。

 


「国民の経済がよくなければよい政治は行えない、即ち経済が政治をリードするという一般の通説には自分は承服できない、否その逆が真理だと信じている。即ち、政治が国民の経済を左右する、平たく言えば正しい政治を布けば経済は自らよくなるものだ(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』173頁)

 


 この持論を聴くに及んで鮎川は、


(これはいよいよ東洋的だ)


 官邸の造作から受けた印象を一段と濃くした。アドルフ・ヒトラーとは何者か、鮎川が真に理解したのはこのときだという。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-B24543, Hauptquartier Heeresgruppe Süd, Lagebesprechung

 (Wikipediaより、作戦指揮を行うヒトラー

 


 次いでヒトラーは、鮎川が永遠に記憶する発言をした。

 


「自分は同志と旗挙げしてから僅々二十年だが、今ドイツ国内の政治(経済を含めた)に関する限り何でも日本に引けをとらないが、唯ひとつ絶対に敵わないものがある。それは日本の皇室だ。これはドイツだけでない、世界のどの国もが絶対に真似ができない。どんなに傑出したルーラーが出ても、一代や二代であれは作れるものじゃない。五百年や千年の伝統を必要とする、言わば日本の皇室は日本だけがもつ至宝である。誠にもって羨しい」と繰り返し繰り返しいうんだ。(174頁)

 


 偶然か計算か、いずれにせよヒトラー日本人の勘所を完璧に衝いた。


 鮎川が一大感動を発したのは言うまでもない。政治の第一は道路だという原理についても、彼の口から直接学んだ。


 戦後、鮎川は道路計画調査会を立ち上げて、幹線道路網設備案・全国道路整備計画等々と画期的な仕事を次々こなし、日本道路建設の基礎を築き上げるに至るのだが、その「根」はまさにこの瞬間、ヒトラーから受けた啓発にある


 ヒトラーのセンスは鮎川義介を憑代に、日本の道路上に受け継がれたというわけだ。

 


 後世ヒットラーに対してはもとより色々の批判はあるが、彼の政治哲学に関しては今以て私の推服するところである。(175頁)

 


 斯くの如き一文で、鮎川はヒットラー総統」と題された、一連の小稿を閉じている。

 

 

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 さりげなく書かれているが、これはとんでもないことだ。


 現代社会に於いてすら、アドルフ・ヒトラーは偉大だった」などと公言すれば、社会的制裁は免れまい。ましてやこれが記されたのは、昭和三十八年三月のこと。敗戦から20年も経ておらず、この時期のヒトラーの扱いときたらもはや人間のそれですらない。


 彼をして人格を備えた一個の人間と認めるだけの心の余裕が、まだ人々に無かった時代だ。


 狂人、悪魔、血を好む鬼、人の皮を被った獣――そのあたりがまあ妥当なところで、ややもすればこのとき植えつけられたイメージを、未だに信じている者がいる。


 そのような環境下にあって、あからさまなヒトラー擁護を展開する。


 凄まじい胆力としかいいようがない。


 ましてや鮎川義介と言えば、戦犯容疑を受けて巣鴨収容所に拘置――当人はこれを「拉致」と呼んだが――された男だ。


 そのような目に遭わされてなお、己の心を枉げようとしない。「壮」と感じたモノを誰憚りなく「壮」と言う。なんと清々しき漢であろうか。

 

 

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(家族写真。この二日後に巣鴨に「拉致」)

 


 鮎川義介昭和四十二年二月十三日、胆嚢炎の手術から合併症を惹き起こし、急性肺炎で死亡した。


 享年、86歳


 大往生といっていい。


 しかしながら彼だけは、あと三十年も生かしておいて、思う存分仕事をさせてみたかったものだ。


 鮎川自身もそのつもりで満々だった。

 


 私はこの十一月六日で七十九回目の誕生日を迎えたが、近頃とても命が惜しくなってきた。還暦までは時間のたつのは別段気にもならなかったし、若いときは時間などはただみたいに感じていた。これは私だけに限ったことではない。なんとなく長生きしたいのは万人の通有観である。
 ところが、私の長生きしたいのは「なんとなく」ではない。いわくがある。それは気力と体力の下り坂は幸いにゆるやかであり、智力の方は、まだ峠を越していないので、この調子をくずさずに、その期間に世のためになる仕事を精いっぱいやってみたい欲望に駆られているからである。(83~84頁)

 


 事実、鮎川の頭脳は衰弱する肉体とは裏腹に、少しも鋭敏さを曇らせなかった。


 それにもまして、この情熱の滾りようときたらどうであろう。なんと若々しいことか。鮎川義介という人物は、いくつになっても体の何処かに少年の心を残していたのではなかろうか――それこそ臨終の刹那まで。


 つくづく以って、その早世が惜しまれる。

 

 

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鮎川義介のヒトラー評・前編 ―重工業王、ドイツへ渡る―

 

 鮎川義介に関しては、わずかなれども以前に触れた。


「正三角形をフリーハンドで描けなければ、絵を描く資格がない」と変なことを言い出して、事実そのためにのべ三万枚もの紙を使った人物である。

 

 

 


 奇妙人といってよく、しかしこの奇妙人こそ、あの日産コンツェルンを一代にて築き上げた戦前日本の重工業王に他ならない。


 ――その鮎川が。


 ドイツ第三帝国総統、アドルフ・ヒトラーに面会したのは1940年3月5日のことだった。

 

 

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『百味箪笥 鮎川義介随筆集』より、晩年の鮎川義介

 


 順を追い、事のあらましから述べるとしよう。


 当時の鮎川の肩書は、満州重工業開発株式会社初代総裁。東条英機岸信介松岡洋右などと組み、どこどこまでも曠野の広がる彼の地を以って一大工業地帯に変ぜしめんと日夜精力的に働いていた時分であった。


 そんな鮎川義介にとって、ABCD包囲網ほど迷惑だったものはない。否、迷惑を通り越して死活問題ですらある。なんとなれば鮎川が、満州の重工業化に使っている機械資材は、そのほどんどをアメリカに仰いでいたからだ。


 そのアメリカとの通商が切られた。


 手を打たなければ、いずれ満業は干上がってしまう。


 そう考えていた矢先、新京駐箚のドイツ公使、ワグネルから打診があった。


「それならば我々が新たな活路になりましょう」


 是非とも一度、本国を訪問してみて下さい――そのようにすすめてくるのである。


 この提案に、鮎川は乗った。

 

 

Manchukuo Hsinking avenue

 (Wikipediaより、新京の街並み)

 


 で、1939年の暮れごろに、彼の地の土を踏むわけである。


 行って早々、鮎川は驚きに目を白黒させねばならなかった。彼を待ち受けていたものは、まるで国賓を迎えるような、下にもおかぬ手厚い歓待だったからだ。


 重要機密に指定されているはずの軍需工場、特に航空機の最新工場も鮎川が行けばたちどころに総てのカーテンを取り払い、隅から隅まで観覧に具した。その噂を聞きつけて、三菱商事の某技師が同行を哀願して来たほどである。


 彼はメッサーシュミットの工場を一目見るべく命を受け、もう半年も現地に滞在している人物で、その間絶えず交渉を続けてきたものの、いつも門前払いを喰らわされてばかりいる。ほとんどヤケになりかけていたとき、鮎川が来た。


 地獄に垂れ下がる蜘蛛の糸を発見したカンダタならば、あるいは彼の心境に共感できたかもしれない。


「どうか私を随員に」
「よかろう」


 鮎川は、二つ返事で受け入れた。何食わぬ顔で連れて行ったところ、既に彼と顔見知りになっていた門番が、こいつめ性懲りもなくまた来たかと彼をつまみ出そうとした。
 その挙動を制止して、鮎川は案内役の主任航空大佐をかえりみ、


「ドイツがこの方面の技術に如何に進歩しているかを充分日本に知らせた方が、日独提携の上に大いにプラスになるからどうか聴き入れてやって欲しい」


 という意味のことを懇々と説いた。
 この航空大佐は物の分かった人物で、即座に彼の同行を許してくれた。

 

 

Bundesarchiv Bild 101I-662-6659-37, Flugzeug Messerschmitt Me 109

 (Wikipediaより、メッサーシュミット Bf109)

 


 極楽に紛れ込んだ僧侶のような顔をして、工場内を穴のあくほどつぶさに眺め、


「おかげで半年の苦労が報われました」


 と両手を合わせ、まるで神でも拝むような格好で鮎川に礼を言ったこの技師の名は、残念ながら伝わっていない。

 


 鮎川がこれほどの特別待遇を受けたのには、むろんのことわけがある。

 


 ドイツは当時、大豆を求めること熱烈で、ほとんど喉から手が出んばかりであった。


 大豆は油脂の原料になるし、あぶらを絞ったその粕が、鶏や牛の飼料にもなる。まこと貴いこの作物が、しかしドイツの周囲では、ルーマニアから年十万トンを僅かに産するに過ぎぬのだ。


 そこで満州が浮上してくる。


 彼の地が豊かな大豆の産地であることは、夙に知られたことだった。


 ドイツとしてはこの満州から、なるたけ多くの大豆を輸入したい。


 今、満州に巨大な影響力を保有する、鮎川義介がやって来た。ドイツ人としては是非ともこの男から、大豆に関して色よい返事を引き出したい。その願望が人から人へと伝わるうちに次第に潤色されてゆき、終いには鮎川義介と言えば、大豆の一万トンや二万トン程度、その気になればいつでもポケットから取り出せる、一個の巨人であるかのように印象されるに至ったらしい。

 

 

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 何処の工場を訪ねても、見学の後の会食の席で必ず豆の話になった。


 ドイツ人が大豆を求める熱烈ぶりは、さながら「男が美人を欲しがるような風情」であって、その供給元と目されている鮎川に媚態を尽くすのも無理はない。


 実像と風聞のあまりの乖離になにやらくすぐったい感じもしたが、この誤解はまず以って好都合と言えたので、鮎川も敢えて解こうとしなかった。このあたり、流石に彼はチャッカリしている。


 鮎川が記憶している限り、彼の背後に大豆を見なかったドイツ人は一人しかいない。――アドルフ・ヒトラー、ただ一人しか。

 

 

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ヒトラーとメタクサス ―「平和的解決」を望んだ人々―

 

 前回までの流れを汲んで、もう少しギリシャ・イタリア戦争を眺めたい。


 初戦に於いて、ギリシャは確かに勝利した。


 それもただの勝ちではない、快勝だ。雪崩れ込んで来たイタリア軍を国境外へ叩き出し、更にアルバニア南部までをも占領する大戦果。


 しかしながらギリシャの首相、イオアニス・メタクサは知っていた。自分たちは、既に限界に達したのだと。

 

 

Ioannis Metaxas 1937

Wikipediaより、 イオアニス・メタクサス首相)

 


 当時のギリシャの人口はおよそ580万人。ここから捻出可能な戦力は、無理に無理を重ねたところで23個師団が限界だろうと大屋久寿雄は推定している。実際1941年4月30日の敗戦までにギリシャが動員した兵数は43万人とされ、一個師団を構成する人数が1万から2万人の間である事実と突き合わせて考えれば、大屋の見立ては決して的外れなものでない。


 これではとても戦線を更に拡大し、イタリア本土を衝いてムッソリーニ「城下の盟」を結ばせることなど出来はしない。


 現状維持が精一杯で、それでさえも日を追うごとにみるみる国力が摩耗してゆき、あちこちから悲鳴が噴出しつつある始末。


 おまけに頭上のルーマニアに集結中のドイツ軍ときたらどうであろう。数の膨大さもさることながら、練度に至っては異常の一言。イタリア一国相手ですら窒息しかかっている現状に、更にあんなものまで降り落ちて来ればどうなるか、結果はあまりにも目に見えていた。

 

 

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 こうなってしまえば、メタクサス首相が選べる道は二つに一つ。すなわち、

 


 英国の更に積極的な援助を得て、徹底的交戦に運命を賭するか、イタリアに対する勝利の栄冠をせめてもの自己慰安として、空しく枢軸の軍門に降るか。ギリシャは今や二者択一の重大岐路に直面したのである。(『バルカン近東の戦時外交』207頁)

 


 総玉砕か降伏か。どちらを選んでも碌な未来が待っているとは思えない。


 それでもなお、メタクサスは選ばなければならなかった。彼は一国の安危を司る首相である。どんなに追い詰められようと、「最悪の中の最善」を追求すべく全霊を注ぐ義務がある。


 果たしてメタクサスが選んだのはどちらの道であったのか。


 それは1941年1月初頭チャーチルギリシャに援軍を送ろうと申し出た際、辞儀は丁寧に繕いつつもあくまでこれを峻拒したメタクサスの姿勢を見れば、おおよそ察しはつくだろう。

 


 彼はドイツを仲介者に立て、イタリアと和睦しようとしていた。

 


 むろん、その代償として連合から枢軸への寝返りを余儀なくされるが、事ここに至っては已むを得ない。


 ヒトラーとしても、このメタクサスの姿勢に否はなかった。それどころか諸手を挙げて歓迎したいほどである。

 


 昨日までは最も忠実な英国の走狗として立ち働いたギリシャが、自発的に英国を去って、枢軸の陣営に降ったといふ事実が国際政局に与へる印象が、如何程独・伊側にとって有利なものであったかは想像以上であろう。(214頁)

 


 戦端を開くよりも和睦の仲立ちをした方が、明らかに政略上の利益が大きい。ヒトラーの秤は正確だった。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-H1216-0500-002, Adolf Hitler

Wikipediaより、アドルフ・ヒトラー

 

 

 彼はギリシャ問題の平和的解決を熱烈に求めた。この点に於いて大屋久寿雄とデイヴィット・アーヴィングの観測は一致している。

 


 彼はギリシアに何の下心も持たなかったから、ギリシアが侵略者イタリアを追い出した以上、客人のイギリスも同じく出て行き、そうしてギリシアに対する“マリータ”作戦を取り消すことができるのを熱烈に希望した。彼はカナーリス提督を通じ、スペインとハンガリーの曖昧な外交通路を使って、ギリシアとイタリアの調停をしようと申し出た(『ヒトラーの戦争 1』368頁)

 


 しかしながら、ヒトラーの努力は結局のところ水泡に帰す。


 何故、彼は失敗したのか。


 その原因は、メタクサス首相の前触れなき死に見出せる。

 


 一月二十九日早朝、メタクサス首相は突然、大木の倒れるが如く突如として急逝したのである。公式には十数日以来疲労と尿毒症で病臥中であったが、突如やまいあらたまり急逝した、と発表されたが、時が時であり、環境が環境だったので、その日のうちにある種の疑惑がバルカン政界に電波の如く伝わった。(『バルカン近東の戦時外交』210頁)

 


 この「疑惑」とは、詰まることろ暗殺疑惑だ。


 誰がそれを、などというのは愚問に属する。彼が死に、ドイツの望む和平工作が頓挫すれば、一番喜ぶのは誰か、考えてもみるがいい。


 当然、いの一番に大英帝国の名が浮かぶ。

 

 

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 大屋久寿雄はこのあたりの機微を、「ドイツの欲するところが英国の好まざるところであるのは理の当然である」と表現している。


 更に大屋は先年11月に親独的なエジプト首脳部、ハッサン・サブリとサリフ陸相が相次いで急逝した一件に改めて触れ、枢軸側に寝返ろうとした人々がまるで呪いのように次々と死ぬこの現象の不自然さを指摘。「エジプトの場合とギリシャの場合と、その事情と言ひ環境と言ひ、あまりにも酷似してゐるのに、偶然の一致にしてはあまりの符合をただ不思議に思ふのである」と皮肉っぽく書いている。


 なお、メタクサス危篤の報を公使館から伝達されたドイツでは、その病状を見舞うべく、態々飛行機を仕立ててまで専門医をウィーンから派遣している。残念ながらこの医師が到着したとき、既にメタクサスは息を引き取っていたのだが、この一事からでもヒトラーが如何に彼を重要視していたかがわかるだろう。

 


 生前、メタクサスはギリシャを半ば独裁的に支配していた。

 


 その彼が突然死んだことにより、発生した社会的混乱の大きさは察するに余りあるといっていい。


 その混乱につけ入るように、イギリスは1月初頭に拒絶された援軍を、ここぞとばかりに送り込んだ。旗幟は鮮明に示されたのだ。メタクサスの後任で、生前彼の親友でもあったアレクサンドロス・コリジスは、その就任に当たって


メタクサス首相の偉大な事業と公正な政策とを、ただそのまま、忠実に踏襲して行くつもりである」


 と宣言したそうであるが、この声明がどこまで守られたかは大いに疑問の余地があろう。

 

 

AlexandrosKoryzis--P02018.027

 (Wikipediaより、アレクサンドロス・コリジス)

 


 結局、ヒトラーの熱望した「平和的解決」は実現せず、ドイツは1941年4月6日、“マリータ”と名付けられたギリシャ攻撃作戦を発動。僅か24日にして、イタリアがあれほど攻めあぐんだギリシャを陥落させた。


 これを大局的に俯瞰して、「イギリスの一人勝ち」と判断したのは日本人では大屋久寿雄のみだったに違いない。

 


 ギリシャが平和的手段によって枢軸陣に抱き込まれることだけは、何としても妨害しなければならぬと英国は考へたであらう。(中略)事態は愈々全面戦争へと拡大して来たのであるが、英国はまかり間違っても、例へばノルウェー作戦の時の如くギリシャを徹底的に破壊するといふ目的だけは達成することであらう。(214~215頁)

 


 ギリシャは確かに敗北した。


 しかしながらその敗北は、「迫り来る邪悪なファシズムの大波」に最後の一兵まで抵抗した「民主主義への殉教」と華々しく彩られ、目には見えない巨大な利益をイギリスに与えた。

 

 

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 老獪、これに過ぐるものはない。

 


 進撃以来僅か十日、独・伊軍は破竹の勢ひで、ユーゴを席捲し、ギリシャを蹂躙してをり、英国派遣軍は早くも退却の準備を急いでゐるが、しかし、英国は敗退してもまた、ナルヴィクやダンケルクの時と同様、「我勝てり」と叫ぶであらう。最初から「破壊することが目的」だったのだから。(276頁)

 


 日本中がナチスドイツの快進撃に浮かれる中で、その熱狂にすこしも和せず、秋の湖水さながらに澄み切った観察眼を光らせて、この文章をしたためた大屋の器量も凄まじい。


 いつの時代も、人物というのは居るものだ。

 

 

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ムッソリーニの大誤算 ―ギリシャ・イタリア戦争の内幕―

 

 ギリシャ海運で栄えた国である。


 国内にこれといって見るべき産業を持たない彼の国が、それでも富を求めるならばそれ以外の選択肢はなかったろう。アサシンクリード オデッセイ』中で描かれたように、遥か紀元前の古代から優れた造船技術を有し、美しきこと翠玉を溶き流したかの如きエーゲ海を自由自在に漕ぎ廻った、先祖の伝統に忠実であるしか――。


 このあたりの事情は、実は現代でも変わらない。保有船舶量を眺めればたちどころに瞭然たるべきことである。2017年のデータになるが、ギリシャ保有船舶量は三億九百万トンと、二位日本の二億二千四百万トンに大きく差をつけ、世界一位の栄冠を恣にしているのだ。

 

 

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エーゲ海ギリシャの街並み)

 


 もっとも如何に多くの船を持っていたところで、航路の無事が確保されねば何にもならない。
 こと近世ヨーロッパに於いて、それはイギリスとの親善なしには絶対に成り立たないものだった。


 なにしろ大英帝国は、「七つの海を支配」するほど強大な海軍力を持っている。その機嫌を損ねたが最後、ギリシャの船など一隻も港から出られなくなり、虚しく船底をフナクイムシに喰わせる以外なくなるだろう。


 よって、「その外交は伝統的に英国依存であった(『バルカン近東の戦時外交』190頁)


 第二次世界大戦の火蓋が切られた瞬間もこの関係に変動はなく、必然として戦火を被らざるを得ない。


 案の定、1940年10月28日イタリアから最後通牒が叩きつけられる破目になる。


 この最後通牒でイタリアは、ギリシャが表向き中立を標榜しながらその裏で、イギリス海軍に根拠地提供の利便を与えたことを指摘しており、再三警告したにも拘らず依然改める風がないと猛烈に批難、この上は武力に訴えるほかないと自己正当化を試みている。


 ギリシャギリシャでこの最後通牒を事実無根の言いがかりと強弁、すべてイタリアの捏造だと主張したが、前述の対英関係を鑑みる限りまんざら有り得ないことでもなさそうである。


 まあ、いずれにせよ真実は歴史の闇の中である。確かなことはギリシャがこの最後通牒を蹴り飛ばし、その三時間後にはギリシャアルバニア国境に集結していたイタリア軍が侵攻を開始したということだ。

 

 

Benito Mussolini (primo piano)

 (Wikipediaより、ベニート・ムッソリーニ

 


 大方の予想を裏切って、ギリシャは実によく戦った。侵入してきたイタリア軍あっという間に叩き出し、しかもそれのみにとどまらず、アルバニアへ逆侵攻をかけ12月中旬までの間に同地の四分の一を占領するという大戦果。


 この奇蹟に、全世界が目を見張ったものである。


 面白いのは不覚をとった当のイタリアの反応だ。同盟通信社の特派員・屋久寿雄は当時の国内情勢を、次のように書いている。

 


 イタリアのギリシャ作戦失敗が決定的なものとなった時、多くのイタリア人は当時のギリシャ駐在イタリア公使グラッツィを銃殺に附すべきであると激昂して叫んだ。一部ではグラッツィ公使の処刑説すら伝へられた。更にチャーノ外相が外相としての公職の傍ら、一航空少佐として前線に出動した事実を捉へて、彼の失脚であり、懲罰であるとする説も行はれた。(199頁)

 


 何故、斯くも凄まじき批難が外務省に寄せられたのか。


 それは開戦前この連中が、ギリシャには十分離間工作を施しており、イタリア軍が進撃すればそれだけでもう街道沿いのギリシャ人というギリシャ人は寝返りを打ち、美女に囲まれ美食と美酒でもてなされ、さながら赤絨毯の上を歩くような快適さで首都までたどり着けるだろうと宣伝していたからだという。

 


 グラッツィはイタリアの対ギリシャ政策決定といふ重大国策決定に際し、「イタリアにして断乎たる態度に出るならば、ギリシャは論なく、無抵抗でその要求の前に屈するであらう」と言ふやうな趣旨の報告のみを寄せてゐたと、イタリア人は憤慨するのである。更に或る者は一歩を進めて、「若しギリシャが不明にして抵抗の挙に出るやうなことがあれば、かねて工作懐柔してをいた反政府組織が即時蹶起して、クーデターを敢行し、以ってイタリアの作戦に協力する筈だから、何れにせよイタリアの要求貫徹はさして困難でない」といふやうな確信に満ちた報告もなされた、と言ふのである。(200~201頁)

 

 

Galeazzo Ciano01

 (Wikipediaより、外務大臣ガレアッツオ・チャーノ)

 


 もしこれが真実だとするならば、エマヌエーレ・グラッツィという人物は職務の重責に堪えかねてとうに精神を破綻させていたに違いない。


 輝かしき成果を次々と、しかもイタリアへの事前相談なく独断で打ち立ててゆくヒトラーに、かねてより忸怩たる思いを味わっていたムッソリーニである。


 狂人グラッツィの甘言は、たまらなく魅力的に聴こえただろう。今度こそはこの俺が、ヒトラーの鼻をあかしてやれると。


 実際イタリアのギリシャ侵攻はまったく彼一手で計画され、行われ、ドイツにさえも直前まで伏せられていたがために協調を欠くこと甚だしく、それどころか仰天したヒトラーが慌てて制止したにも拘らず、顧みる気配もなく独走したムッソリーニヒトラーは強烈な不快感を催したという。


 これはデイヴィット・アーヴィングの名著ヒトラーの戦争』にも該当する記述があることで、

 


 ムッソリーニきにすべて終わると楽観的だったが、ヒトラーのスタッフのだれひとりとして、このギリシア冒険を第一級の規模の戦略的誤謬だと思わない者はなかった。ヒトラーの副官のひとりは、ヒトラーが「すべてのドイツの連絡スタッフと大使館付武官をののしり、彼らは周辺の高級レストランに通じているが、世界で最悪のスパイだ」といったと記し、「これで彼の考えている多くの計画がおじゃんになる」とほのめかした。(『ヒトラーの戦争 1』335~336頁)

 

 

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 ムッソリーニがこのとき見せた楽観が、ともすれば外務省から齎されたご都合主義の塊めいた報告に支えられていたかと思うとほとんど噴飯ものである。


 ギリシャを侮り、戦争というほどのことも起こるまいとたか・・を括ったこの気分は、どうやら進撃している将校達にも共通したものだった。

 


 ロイター通信社のバルカン在勤記者で私が親しくしてゐたS君は、ギリシャ戦以来三ヶ月従軍もし、アテネ政界にもふれた男であるが、彼の説によると、捕虜になったイタリア軍下級将校は異口同音に「戦争ではなしに、無血進駐だと自分たちは聞かされてゐた」と称してゐるとのことであった。「命令不徹底のため或は第一線に於ては多少の抵抗があるかも知れないが、意に介する必要はない。第二線以後はアテネ政府の命令が徹底してゐる筈だから迅速な進駐が出来る筈である」とも聞かされた、とイタリア将兵は述懐してゐたとのことである。この情報は英国系のものであるから警戒を要するが一応の参考にはならう。(『バルカン近東の戦時外交』202頁)

 


 ところが蓋を開けてみればどうであろう、無血進駐どころかギリシャは死に物狂いの修羅と化し、国を挙げて総反撃してくる始末。


 イタリア人が怒り狂うのも無理はない。事前の触れ込みと現実との間に、天国と地獄にも匹敵する差があった。


 軽い気持ちでおっぱじめた戦争は、ついに独力では収集のつけようがなくなって、結局尻をドイツに拭ってもらう無様を晒す。


 外務大臣ガレアッツオ・チャーノはかつてアドルフ・ヒトラーを指し、「本物の狂人」と罵ったそうだがこの一件に関する限り、狂気に脳を犯されていたのは明らかにチャーノの方である。

 


 歴史は賢者・名君の独占物では決してなく、ときとしてとんでもない愚か者が、一切の自覚なきままにその梶棒を握るのだ。

 

 

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