穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

動物愛護先駆譚 ―松井茂という男―


 明治・大正の日本にも、動物愛護の動きはあった。


 特に高名な旗頭として、松井茂・小河滋次郎の両法学士が挙げられる。


 わけても前者は動物を虐待して平然たる者は人間に対しても残虐を敢えてして平然たる者」「動物虐待を見過ごす社会は問題児を大量生産する社会」との所見に基き、新聞に盛んな投書を行い、欧米すなわち先進諸国の実情を伝え、大衆の意識を刺激して、立ち上がらせんと努力した。活発というか、意欲に満ちた人である。

 

 

MATSUI Shigeru

Wikipediaより、松井茂)

 


 こころみに「投書」の中身をひろってみると、

 


〇英国では一八〇九年ロード・エアースキン氏(Lord, Erskine)が上院に於て動物愛護の事を述べた時は寧ろ嘲笑に附せられたが、一八二二年マーチン氏(Martin)が之を唱ふるや、議員の多数に歓迎せられ、マーチン・アクトとして其法令が発布され、一八二四年、世界に率先して動物虐待防止会を組織し、越えて一八四〇年には皇室的の名称を冠することを許された。

 


 一八〇九年といえばナポレオン戦争の真っ最中だ。


 コルシカの人食い鬼を相手に、存亡を賭け、がっぷり四つに取っ組み合ってる状態で、更にこの上、物言わぬ獣へと割いてやるだけのリソースは、いかな大英帝国といえど持ち合わせが無かったか。

 

 

 


 我が身の安全が確保され、心に余裕があってこそ、他の誰かに優しくしてやる気にもなる。


 世間一般の「善人」とはそういうものだし、たぶんそれでいいのだろう。

 


〇ベルフ(Bergh)氏が米国領事館書記官として露国在職中、同国の動物の残忍な取り扱ひを受けて居るのを見て惻隠の情を起し、帰途ロンドンに立寄りて、動物虐待防止事業を視察し、帰来防止事業を初めて米国に企て(時に一八六六年)、続いて児童保護会を組織(一八七五年)して、斯会の鼻祖と仰がれるやうになった事を考へても、動物を虐待する露国民の中から、パルチザンの如き兇暴の徒の輩出したのは決して偶然でなく、又動物愛護と児童保護とは根本義に於て離るべからざる関係にある事が判る。

 


 引き合いに出されたロシア人こそいい面の皮であったろうが、なにぶん尼港事件が起きてからあまり時を措かないうちに草された文ゆえ、いかんせん。


 ニコラエフスクに滞在していた邦人を、軍民問わず皆殺しにされたショックは大きかったということだ。

 

 

Nikolayevsk Incident-3

Wikipediaより、廃墟となったニコラエフスク

 


 もう何点か抽出したい部位がある。

 


〇ドイツでは一八三七年、初めてシュトゥットガルトに、一八四一年にはミュンヘンに於て之が創設せられ今や各州に亘って居る。我邦では東京、横浜、神戸の如き外国人の多く居る場所で而も外国人の注意の下に貧弱なる動物愛護が行はれて居るに過ぎない。


奥州辺では馬の子を我子のやうに可愛がって育て上げ、やがて伯楽に売り渡す日になるや、家族一同村境まで見送り、愛馬が伯楽に曳かれて行く後姿を見ては、泣いて別れを惜むさうだ。所が曳かれ行く馬は、無情な伯楽に怒鳴られ、鞭れるので、初めて人間の怖ろしさを知り、段々と警戒の色を浮べて、それが東京に着く迄には、怒りっぽく後足を挙げて蹴るやうになるといふ。

 


 ああ、これについては聞き覚えがある。


 確か明治十年代であっただろうか、中央から役人が来た。


 南部馬の皮の質の調査のためだ。良好ならば背嚢・鞄・靴等の、軍需品の原料供給源として設定する気でいたらしい。お国の大事というわけである。ところがこの目的がひとたび漏れるや、たちまちのうちに収拾のつかぬ騒ぎになった。


「この人非人、鬼、外道っ」


 耳から蒸気を噴かんばかり――と言うべきか。


 岩手県の農民という農民が、逆上して叫んだのである。

 


皮をとるために育てるのぢゃない。たとひ死んでも皮を剥ぐやうなことは情として出来ない。死んだわが子の皮を剥ぐ奴があるものかと、ひどくどなられて役人連中、面目を失して退却した話が残ってゐる。その位にみんな馬を可愛がる。競売に出るときは家族の者多数つきそひでついて行く。売れる前夜まで馬の横にねる。随所に塩原多助馬わかれの場が実演される。

 


 こういう記述が、昭和三年の『経済風土記に載っている。

 

 

岩手県、久慈の馬市)

 


 ほぼ一揆寸前の眺めであった。


 威圧によって「官」の意向を曲げさせた形であるゆえに、そう取られてもやむなしだろう。


 天高く馬肥ゆる地の誇りと看做してやるべきか。


 こういう「お国柄」と対面するのは、何につけ悪い心地ではない。

 

 

 

 

 


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サイケデリック・ホライズン ―トリップする未開民族―


 大正時代の人間が、いったいどうして、どうやって、どんな経路でこんな知識を仕入れたのだろう。


 度々思うが、今回のはひとしお・・・・である。


 クスリに関することどもだ。


 もちろん「麻」のつく方である。


 柴田桂太が書いていた、ベニテングダケでトリップするロシア人の姿について――。

 

 

2006-10-25 Amanita muscaria crop

Wikipediaより、ベニテングダケ

 


 大正十一年に草された『嗜好品』なる小稿だ。なんでも「之を使用するのは北緯六十度以北のシベリアに住する東部ヤク、サモエード、ツングース、ヤクート、カムチャダールの諸族である」と。


 用法はまず十二分に乾燥させて、幻覚作用を強めたあとにアサマブドウの果汁をふりかけ、掻っ喰らう。「食後忽ち昂奮発揚の状態を呈し、放歌、笑謔、未来を語り、秘密を暴き、空間の観念を失ひ屡々過大の筋力を現はす」がゆえ、祭事にもよく利用されたそうである。


 そんなまさか、毒キノコだぜ――と思ったが。よく考えたら不凍液を蒸留して酒代わりにあおる・・・のが抑々そもそもロシアでなかったか。


 いっときの酔いを得られるのなら、失明の危機もなんのそのな連中である。


 酩酊感の強化のためにビールに殺虫剤をかけ、アフターシェーブローションを一気飲みする彼らなら。あるいはベニテングダケの毒性程度、むしろ可愛い、初心者向けの方やもしれぬ。

 

 

 


 他にもある。


 柴田桂太が披露した、ニッチな麻薬の知識は、だ。


 驚いたことにこの理学士は、ペイヨーテまで知っていた。


 三千年の昔からメキシコ人が愛用してきた、一種の幻覚サボテンだ。土人は之を搗砕き、水に和して飲用し、或は其侭食するのであるが、すると二三日間は全く知覚を失ひ、覚醒の後は放歌し、絶叫し、狂噪する。

 医学的には脈拍の遅緩、瞳孔の散大、色彩絢爛たる幻覚の出現、時間観念の消滅、嘔吐眩暈頭痛等が主要なる症状である」


 説明も実に正確だ。


 ウィリアム・バロウズの体験記とも一致する。

 

 

Lophophora williamsii ies

Wikipediaより、ペイヨーテ)

 


 だがしかし、繰り言になるが、大正時代の環境でペイヨーテの知識など、いったいどうして仕入れたのだろう?


 ネットやテレビは言うまでもなく、ラジオさえも未だ日本には入っていない状況で。情報収集の手段など、極めて限定されているのに。その環境下で柴田はしかも、現代人たる筆者わたしにとってまったく未知の麻薬クスリのことまで書いている。


「ハイチ島や南米アマゾン及びオリノコ河流域の印度種族インディアンに用ゐられてゐるコホバ(Cohoba)又はニヲポ(Niopo)も興味ある嗜好品で、其種子即ち豆を取って粉末となし、Y形の煙管で両鼻孔に吸入するのである。之を吸収すると忽ち泥酔に陥り、放歌乱舞狂態百出、見るに堪へない。彼等はそれを神霊の憑移ったものと信じて居る


 これも確かに実在している品らしい。


 アナデナンテラ・ペレグリナという植物が、どうもそう・・であるようだ。ざっと調べてみたところ、成分に於いてアヤワスカと同じものを幾らか含む。LSDを遥かに超える幻覚作用を持つクスリと、だ。そりゃあ見るに堪えなくもなろう。柴田の記した概要に、何一つとして訂正すべき箇所はない。

 

 百年前に、よくぞここまで。思わず敬服したくなる。

 

 

(『ゴーストリコン ワイルドランズ』より)

 


 …ちょっとそそっかし過ぎるだろうか? 疑念がむくりと頭を擡げ、いいや否、否、さにあらずと即座に自答し押し戻す。


 仰ぎみる対象が多いというのは、人生にとり大なる幸福ではないか。


 これぐらいで丁度いいのだ。少なくとも、わたくし一個に限っては。そのように己を説き伏せた。

 

 

 

 

 


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教室で学ぶ社会性


 明治の終わりも近いころ。東京高等師範学校附属小学校尋常科にて、とある教師が生徒の知識を試すべく、こんな問いを投げかけた。


 曰く、


「地球上で一番大きな魚は何か、諸君は答えられるかね」


 たちまち挙手するやつがいる。


 指名されるなり黄色い声を張り上げて、自信たっぷりに少年は言った、


「はい先生、クジラです」


 と。

 

 

 


「それで宜しい」


 教師は鷹揚に頷いた。正解を得て、少年は鼻高々だ。円満な空気が教室に満ちた。


「先生、間違っておられます」


 ところがその円満に、横槍がぶすりと入れられる。


 同調圧力を跳ね除けて、自己の信じる「正しい知識」を呈しにいった、うら若き一人の勇者によって――。


「クジラは哺乳類であり、魚とは別な種族です」


 勇者の名は、石川欣一

 

 当代屈指の動物学者、「ジラフ」を「キリン」と名付けた男、石川千代松の長男である。

 

 

Chiyomatsu Ishikawa

Wikipediaより、石川千代松)

 

 

 そういうことは、むろん教師も知っている。反射的に、


(しまった)


 と思った。


 おそらく千代松直々に、家庭で薫陶を受けたのだろう。クジラが魚類にあらずというのは、きっと正しいに違いない。


(が、迂闊に認め、頷けば)


 失うものが多過ぎる。自己の権威は当然として、なにより先に挙手し答えた少年の不名誉たるやどうだろう。赤っ恥もいいところであるまいか。下手に感情が転がれば、


 ――おのれ余計な差し出口。


 と、欣一に対し意趣を抱いて、その挙句、喧嘩口論に発展せぬとも限らない。


(つまりは面倒事になる)


 冗談じゃない、ならせて堪るか、わざわい未萌みぼうのうちに摘む。


 摘み取るため、事態を丸く収めるために、教師は咄嗟に頓智を出した。咄嗟であろう。幼い欣一の眼には、教師が裏で爪繰った算盤珠のすべてが視えず、


「そうだ石川の言う通り、クジラは魚類・・に属さない。けれども、クジラがサカナだと言ったのも同時に正しく成り立つのである」


 一拍置いて語りはじめた教師の言に、黙って首をかしげることしか叶わなかった。


「つまりは同じサカナでも、表す文字が違うのだ。メの下に有と書く方のサカナであれば、当然クジラも含まれる。牛蒡だの大根だのもサカナと言うから、この意味でクジラもサカナといって差し支えない。しかし鯛やヒラメのような魚類とは違うのであるから、石川の言うのも正しいわけだ」

 

 

 


 屁理屈としか言いようのない、こんな言葉遊びでも、人の師たるの威厳を以って壇上から堂々と、歯切れよく説き聞かせられてしまった場合、真実以上の真実として立派に生徒を納得させるものらしい。


 欣一はまんまと煙に巻かれた。


「あの頃は俺も無邪気でね」


 巻かれたと自覚した時は、既に欣一、少年ではない。


 いっぱしのジャーナリストとして浮世の辛酸、表裏をさんざん味わった、苦労人の面魂になっていた。


「要するに学術的な知識では俺の方が勝っていた。しかしながらそれ以外、世間知の部分の働きで、俺は先生に圧倒された。教師も生徒も、個性が躍如としていたよ、あの頃の学校って場所にはね――」


 世間の事情、人情の機微をからりと諷す、毒を含めど嫌味ではない石川欣一の筆鋒は、そのような環境に育まれ、研磨されたものだった。

 

 

School building of the Higher Normal School built in 1887

Wikipediaより、東京高等師範学校)

 


「迂遠に似たれども風俗を移易するは学校の教に如くものなし、美なるものを長ぜしむれば悪なるもの自ら消ゆべし」庄内藩士・白井重行が嘗て上申した如く。教育は蓋し国の大事で、教師の役目は頗る重い。

 

 

 

 

 

 

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絶不調 ―ドン底にて呻吟す―


 困った。


 何も浮かばない。


 文章の書き方そのものを忘れてしまったかのようだ。


 くしゃみと一緒にありとあらゆるアイディアが、飛沫しぶきとなって排出された感がある。


 花粉の迷惑、極まれり。もはや立派な公害である。解決のため、官民挙げてもっと真剣になるべきだ。……ここまでの段にしてみても、たったこの、これ、百五十文字を書くまでに十五分以上かけてしまった。話にならない生産性の低さであろう。

 

 

 


 スランプの見本みたいな状態だ。


 こういう場合、しかし捗らないからといってキーボードから離れると、病状はますます悪化する。体験に徴して明である。腕を覆うさびつき・・・・は、いよいよ以ってのっぴきならぬ深みまで、骨の髄まで喰い込み、侵す。

 

 冗談ではない。たかだか杉の生殖活動、嫌味ったらしい薄い黄色い微粒子ごときにこれ以上、我が習慣を掻き乱されてなるものか。無理矢理にでもなにごとかを書くべきだ。


 書けないという苦痛自体をネタにしてでも、とにかく筆を動かすのが吉である。


 そう思ったとき、宮島だった。

 

 左様、宮島幹之助

 

 

Miyajima Mikinosuke

Wikipediaより、宮島幹之助)

 


 伝染病研究所技師、つまり北里柴三郎の腹心と呼べる医学士である。本邦寄生虫学の草分け的存在である彼の名が、ふっと脳裏に去来したのだ。


 大正十年前後であったか、科学に対する一般の興味を振興せしむ――つまりは啓蒙活動の一環として、宮島は新聞に筆を執り、肩の凝らない随筆めいた小篇をいくらか寄せたことがある。


 その中に、「蚤と蚊」というごくごく身近な吸血虫を主題に据えた品があり、これがことさら濃い印象を私の中に残してくれたものだった。


 あの害虫どもはなかなか死なない。存外なしぶとさを発揮して、あくまで現世にしがみつき、退治んとする人間を手こずらせることしょっちゅうという。

 


除虫菊を燻しても蚊は五分位で斃れるが、そは一時的の麻酔で、真に殺すまでには八時間も其煙の中に置かねばならぬ。故に除虫菊の蚊やり線香を用ひて麻酔せしめ、動けなくなった蚊はこれを掃き集めて、一緒に潰して了はなければ、やがて又生き還る」


「最も人畜に害が少く蚊を殺す方法は、石炭酸と樟脳を等分に混ぜ、温めて能く溶かし、室の容積千立方尺に対し、此混合液三十匁を浅い皿に入れ、下からランプで熱することである。すると液は蒸発して白い煙が立つ。之で燻せば蚊は間もなく死滅する。但し煙を火に触れしめぬやう注意しなければならぬ」

 

 

 


蚤は案外抵抗力が強く、薬品などで一時死んだ様に見へても、或る時間の後には、再び蘇生して、活発に運動もすれば、又吸血もする。試みに蚤を水中に入れると、容易に死なず、アルコールでも、蚤を殺す力は無い。昇汞水、石炭酸、ホルマリン、石灰乳等の可なり濃厚な液でも、蚤に対しては効力が頗る薄い」


「ペストの流行に際し、厳重な消毒法を幾回も行った病家に、モルモットを放って蚤の有無を調べると、消毒前と大差なく、多数の蚤の生存を見る」

 


 この不死性が、いま欲しい。


 これぐらいの復活力を、せめて文章能力に宿らしめたいものである。


 洟をかみつつ、大真面目に考えた。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―第二世代―

 


 夢を見た。


 想定外な夢である。


涼宮ハルヒ』シリーズの主要登場人物二名、キョン朝比奈みくるとが、何故か結婚し、子供をこさえ、その成長した長男が鶴屋さんの娘相手にラブコメってる――まあ、大筋はこんな具合いか。


 自分の無意識を問い詰めたくなったのは久々だ。


 率直に意味が分からない。なんでいまさら、『涼宮ハルヒ』?


 そりゃあ学生時代には熟読した――友人たちと示し合わせて、図書室に要望を出してまで――ものであったが。遠い昔の沙汰である。読書の趣味も、あれからずいぶん変化した。

 

 

 


 熱中した事実からして、ほぼ忘れかけていたというのに。


 鶴屋さんに至っては、目が覚めてから「そういやこんなキャラ居たなあ」と改めて懐かしさを感じるほどであったというのに。


 前日味わった刺激のうちの、いったいどれ・・が引き金となり、かかる記憶を呼び起こしたか、さっぱり見当がつかないのである。


「想定外」と軒先にぶら下げたのはその為だ。


 合理的な解釈は、どうにも下す術がない。


 それでも考えるのならば――ああ、きっと花粉の所為だろう。

 

 

 


 花粉の所為で酸欠気味の脳みそがバグった結果の産物と、無理矢理納得しておこう。


 実際問題、今年は特にひどい気がする。既に何箱、ティッシュ箱を空にしたやら。詰まり過ぎて逆流したはなみずが脳液に混ざったのかと思うほど、思考が鈍くて仕方ない。これだから春は厭なのだ。


 日本の山を杉だらけにした連中が、残らず地獄に堕ちますように。


 牛頭馬頭羅卒に差し入れをしたくなるほどに、私の憎悪は滾りっぱなしな状態だ。

 

 

 

 

 


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開花は近し


 水戸学はまったく過激一途だ。


 掘り下げれば掘り下げるほど、この連中には話が通じぬ――「勤王の志士」を言葉によって説得するなど芋を鰻に変化かえる以上に不可能なこと、夢物語の類であるに違いないとの認識ばかりが深化する。


 碩学として聞こえの高い藤田東湖その人でさえ、

 


「交易を許して其間に武備を整へんといふは、臆病者の口実にて我一代に事なきやうにと願ふ心より出たる説なるべし」

 


 と、もう明らかに開国論者を人間扱いしていない。

 

 

藤田東湖

Wikipediaより、藤田東湖

 


 いったい武士の世にあって、「臆病者」とはそういう意味を含有する語句である。人非人か、さもなければ非国民。面と向かって言ったが最後、相手が抜き打ちに切りかけて来ても一切苦情は洩らせない。まこと烈しき言葉であった。


 そういうものを使った以上、これはもはや批評ではなく、罵倒であろう。


 罵倒・・は更にこう続く。

 


「夷狡を近付け交易を許さんには、人の心いよいよ弛み、いつとて武備の整ふ時や有るべき。門外に佇める盗人を引入て親しみながら盗人を防ぐ事を心せよといふに均し。しかのみならず、彼大胆狡黠なる夷人、是彼と術を盡し、邪教をもて人を懐けん事、鏡に懸けたる如し。人心は弛み、武備は怠り、邪教は広まりたらんには、臍を噛むも及ぶまじきわざならずや」

 


 なにやらここまで来るともう、西洋人を褒めちぎり、日本人を貶しつけているような、一種倒錯の感すら匂う。


 これがたとえば、草深い田舎の禰宜どのが酒に泥酔した挙句、口走ったうわごと・・・・ならばまだ愛嬌も見出せようが。一藩の方針を左右した堂々たる政論ときては、寒心するより他にない。

 

 

水戸藩小石川邸と後楽園(文久3年)、『御上京道記』、Koishikawa residence of Mito Domain in 1863

Wikipediaより、水戸藩小石川邸)

 


外国へ渡る事は必停止し給ふべき事なり。漁民の外国に漂着したる者を救はざるは情なきやうなれども、国の安危にはかへ難ければ、豫て漁民等にも告諭し、外国に漂ひたる者は死するに斉しく思はすべし。彼夷人が漁民抔送り来る事は、仁愛の心より起れるのみにあらず。是を口実にして、神国に因を求め、年頃の望を遂げんとする術なり」

 


 なんと、棄民宣言だ。


 これをいったい、どういう表情かおで聴けばいいのか。


 村田保藤川三渓が激怒するのは疑いがない。こんなことを言っているから日本人は海国民の自覚を欠いて、遠洋漁業は甚だしく未成熟なままなのだ、と。

 

 

 


 以上はすべて東湖の代表的著作、常陸帯』からの引用である。


 文字の暴力とはこうしたものか。


 額の上を金槌でガンガンどやしつけられた気分だ。


 ただでさえ花粉の飛散の所為により、頭が重くて仕方ないのに、この追撃はたまらない。


 これはたぶん、今この時期に読むべき書ではなかったのだろう。


 春には、駄目だ。読書にも時機というものがある。花の季節――そういえば坪谷善四郎に、桜樹に因んだ美談があった。


 坪谷善四郎水哉と號す。


 明治三十四年から大正十一年に至るまで、東京市会議員を務めた人物である。


 ある日のテーブルスピーチで、彼は次の如く語った。

 


「曾て荒川堤に、江北村の村長が、多年苦心して黄桜、緋桜、八重桜などの珍種を夥しく集めまして、天下の奇観と称せられましたが、先年荒川放水路の工事の為に、堤を破壊するとき、其等の桜を移植するとて、大部分の木を枯らしましたが、幸に其頃紀州徳川家の御当主頼倫侯が、極めて多趣味の御方で、御自身が史跡名勝天然記念保存協会の設立を主唱せられ、後に同会の会長になられた方だけに、彼の荒川堤の桜の枝を、一々採って大磯の別荘の庭の普通の桜の台に、接ぎ木して保存せられた為に、彼の多数の珍種の桜も、保存せられてある筈です

 

 

Tokugawa Yorimichi

Wikipediaより、徳川頼倫)

 


 実に素晴らしい。


 貴族の存在意義とは何か、目の当たりにするの思いだ。


 こんな感じの、気分よく膝を叩いて読めるのがいい。


 春にはそれが一番だ。

 

 

 

 

 


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欲界の覇者・蛇足篇


 いったん海に出た以上、手ぶらじゃ港にゃ戻れねえ――。


 額の上にねじり鉢巻きでも結んでそうな、そういう頑固な漁師気質は、どうも日本の独占物ではないらしい。


 アメリカでもそうだった。


 少なくとも十九世紀、ニューイングランドの諸港に集った、捕鯨船のやつらは、だ。

 

 

セミクジラ)

 


 彼らが目指すはサンフランシスコ。クジラを獲りつつ、北極海を横切って、西海岸の都市へと向かう。ほぼ同時期の日本国では「桑港」の二文字で表記されたこの街こそが、鯨油取引の中心だった。


 航路の危険は折り紙つきだ。


 ガスが湧き、暗礁待ち伏せ、氷山さえも押し寄せる。北極海とはそういう海だ。そういう海でクジラを探す。毎年決まって一隻や二隻は海の藻屑だ。一八七六年に至っては、十二隻が沈没している。ライフジャケットなぞ雛形のまた雛形が漸く発明された段階。船員の運命に関しては、敢えて語るに及ばない、推して知るべしというものだ。


 既にハイリスクを負っている。


 相応のリターンを求めるは、感情的にも勘定的にもあらゆる面から自然であろう。


 待てど暮らせどクジラの姿が見当たりません、不運だったね残念無念また来週で済ませられる問題ではない。赤字は断固拒絶する。

 

 そういう場合、彼らは得てしてセイウチを獲った。


 鯨油の代わりにセイウチ油でタンクの中身を満たしていった。

 

 

(セイウチ)

 


 祥瑞専一が『あらすか物語』で伝えるところに依るならば、一八七〇年~一八八〇年の短期間中に十万頭のセイウチが、アメリ捕鯨船団により殺戮されたそうである。「一八七四年には、オンワード丸のごときは、一千頭を捕獲し、一八七七年には、マーキュリー丸は、二千頭と云ふ記録を示してゐる」。海が真っ赤に染まる数字だ。セイウチにとっても悪夢だが、北極圏の先住民族――エスキモーらにしてみても、この濫獲は災禍であった。


 なんとなれば、セイウチの肉は、この人たちの常食だったからである。


 それが絶滅間際となれば、勢い彼らの生活も、文字通り熱量を失って衰微するより他にない。


 斯様な犠牲を強いてまで、利益を求めるべきなのか? 文明国の看板に相応しい態度と言えるのか?


 そういう疑問は書生談議の材料たるに止まって、実際の現場では見向きもされない。


 金銭欲は愛国心を凌駕する。


 それが人間の常態だ。大日本帝国時代、三土忠造が早くも気付き、絶叫した真実である。


 愛国心に於いて既に然り。況や先住民の文化保護だの、動物愛護の精神だのに於いてをや。十九世紀のアメリカ人に、そういうものを求める方が無理だった。

 

 

Chuzo mituchi

Wikipediaより、三土忠造

 


 目下、セイウチの個体数は、ざっと二十五万頭。


 そのうち二十万頭がアラスカ附近――ベーリング海やチュクチ海等に棲息しているそうである。

 

 

 

 

 


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