穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

庚申川柳私的撰集 ―「不祥の子」にさせぬべく―


「きのと うし」「ひのえ とら」「ひのと う」「つちのえ たつ」「つちのと み」――。


 あるいは漢字で、あるいは仮名で。カレンダーの数字のそばに、小さく書かれた幾文字か。


 古き時代の暦の名残り。十干十二支の組み合わせは、実に多くの迷信を生んだ。

 

 

カレンダー (29075955928)

Wikipediaより、カレンダー)

 


 就中、有名なのは丙午ひのえうま庚申こうしんだろう。両方とも新たな命の誕生と関係している――主に悪い方向で。


 丙午の年に生まれた女は男を喰い殺すサガを持ち、庚申の夜に仕込まれた子は、やがて泥棒に育つというのだ。避けるべき日、不吉な符合というわけである。


 現代でこそ一笑に付すべき愚論だが、夜の闇がなお深かった江戸時代、人々はそう簡単に畏れの念を振りほどけない。俗信に生活を束縛される大衆は、想像以上に多かった。


 だからこういう川柳が発生もする。

 


庚申は せざるを入れて 四猿なり


庚申を うるさく思ふ あら所帯


盗人の 子が出来ようと 姑いひ

 

 

Miyata tenjinjinja03

Wikipediaより、庚申塔

 


 庚申の夜に寄り集まって酒を呑んだり雑談したり、あるいは念仏を唱えたりする。一晩中、東の空が白みだすまで一睡もせずそれを続ける。――「庚申講」の風習である。


 ひょっとするとこれとても、不祥の子を作らせまいとの配慮から考案・維持され来ったものではないか。つまりは相互監視のためのもの。そう推測する向きもある。


 あながち根も葉もない理屈ではない。


 禍は未萌に摘むがよし。


 いつの時代も、予防に勝る対策はないのだ。

 


「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうとする心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする、運命を二元的に見、神と悪魔とにする時には、神に向っては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向っては調伏しやうとする」

 


 生方敏郎『謎の人生』で説いたところが、なんとはなしに思い出された。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、往来の子供あそび)

 


 けれどもやっぱり愛のリビドーは強烈と見え、

 


新所帯 七ナ庚申も するつもり


こらへ性 なく盗人を はらむなり

 


 禁忌と知りつつ、我慢しきれなかった奴らを揶揄するこんな句まで存在するから面白い。

 


あらうこと 庚申の夜に 瘡をしょひ

 


 これなどは旦那の我慢がぶっちぎれたが、女房は然らず、信仰を盾に拒まれたため、そのあたりの色街へ憂さを晴らしに出向いた結果、みごと梅毒に感染し、一生ものの手傷を負った馬鹿野郎をあげつらったものだろう。


 不運にもほどがあるとしか言いようがない。


 十七文字の背後には、実に広大な景色・事情が横たわっているわけである。

 

 

 

 

 


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江戸の当時の蕩児たち ―『色道禁秘抄』を繙いて―


 玉鎮丹、如意丹、人馬丹、陰陽丹、士腎丹、蝋丸、長命丸、鸞命丹、地黄丹、帆柱丸。


 以上掲げた名前はすべて、江戸時代に製造・販売・流通していた春薬である。


 左様、春薬。


 現代的な呼び方に敢えて変換するならば、媚薬とか催淫剤とかいったあたりが相応しかろう。まあ要するに「いもりの黒焼き」の親戚めいた存在だ。

 

 

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(黒焼きの製法)

 


 ――支那伝来の薬方にて調合せしうんたらかんたら。


 こんな具合の触れ込みで世の助平どもを釣り上げるのがならわし・・・・だった。


 人はとにかく煩瑣を厭う。面倒な手続きなど踏みたくないし、立ち塞がる険路を見ては馬鹿正直に乗り越えるより、何処かにそれを回避する抜け穴・裏道・隠し通路はないものかと期待する。そういう心の姿勢こそ「智者のふるまい」と看做す手合いも多かろう。


 不老不死を望むにしても、深山幽谷の奥に隠れて欲念を断ち、過酷な修行に骨身を削っていつか神仙に至るなど、そんな気長な手段なんぞは御免蒙る。


 それよりもっと手っ取り早く、例えば一粒口の中へと投じるだけで、あとは昼寝をしていても自動で身体が変異する――そうだ、お伽噺の「蓬莱の薬」の如きはないか。そちらの方へ思慮が向く。

 

 

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(『東方Project』より、蓬莱人・藤原妹紅

 


 人間ほど、手前勝手な物の見方をするものはない。或人が、人間の先祖は、人類学者の言ふやうに、猿ではなくてSelfish(我儘)といふ魚であらうと言ったが、此批評は、人間の本能性を巧く言ひ現はしたものである。(昭和九年『実経済の話』)

 


 武藤山治がぼやきたがるのもむべなるかなだ。「春薬」なぞ、そういう我儘横着の最たる顕れであるだろう。女を口説き、その気にさせる手間を省いてとにかく寝所に連れ込みたいのだ。


 永遠の生を希い、水銀を飲んだ始皇帝よろしく。


 下半身の満足をやたらに急いだ阿呆どもの顛末は、大抵ロクなものでなかった。天保年間の医者の随筆、『杏林内省録』が物語る。

 


…今時舶来の蝋丸を求めて淫を貪ぼる輩あるより、和製の春薬も亦多く之を用ひて病を起すものあり。余は都鄙にて数人を療せしに、亀頭腫れて膿を含み、或は亀頭の皮破けて膿汁出て、また黴毒を患へし人は再び旧毒を呼び出し、瘡痕開けて膿血を出だす。女子も亦然り。故に娼妓の輩、春薬を辞する由。男女とも陰所熱して痛痒堪え難く、手も放たざる等のことあり…

 


 読むだに股間に痛みの走る文章である。

 

 

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藤子・F・不二雄「テレパ椎」より)

 


 娼妓と同じく、蕩児の中でも気合の入った連中は、やはり春薬なぞに頼ろうとする「素人ども」をせせら笑った。ケツの青いガキめらが、大人しく傾城の爪先で嬲られておればよいものを、分を弁えず一丁前の男ヅラして組み伏せようと焦るから、負わんでもいい火傷を負うと。


 では、玄人ならどうするか。


 俳仙堂こと西村定雅に答えを聞こう。


 本邦に於ける性心理学の魁として、その筋では知らぬ者なき豪傑だ。


 彼はまず、

 


 ――古来薬剤女悦の薬を論ずれども、総じて効なし。

 


 と、曲解の余地なくバッサリ切り捨て、女と共にめくるめく世界へ行きたいならば、何はともあれまず第一に親嘴くちすいを専らにせよ」――キスがいいと言っている。


 更に続けてそのやり方も、

 


 ――平生の通りは宜からず、男の口にて女の口を塞ぎ、呼吸を止む可し。上へ脱出もれでる気、下肚へ降りて陰具の機化早くひらく理なり。

 


 と、圧倒的な――湿った音が今にも耳に響かんばかりの――生々しさで指南している。


 当然我が身で実証済みのことなのだろう。


 実証済み、どころではない。


 この西村定雅、実をいうと唇どころか全身くまなく舐めしゃぶられた途轍もない経験を持つ。


 つまりはこういう次第であった。

 


 問に曰く、先年、寺町五条辺の富豪の孀婦やもめ、高給にて男妾を抱へるに、一人として一月も勤むること能はず、逃げ去りしと聞く、如何なる事乎。
 答へて曰く、余も昔、此の如き孀婦に出会し、ほぼ堪へざる事を知る。数回御するは格別、其の暇には探宮を好み、親嘴にて足らず、顔一ぱい、周身からだぢうまでねぶり、或ひはつめり、(中略)人目なければ白昼も抱き付く故、初めの内は我を愛するの余りと思へど、後にはうるさく成りて、強淫のそれがしかぶとを脱いで逃げたる也。寺町の孀婦も必ず此の類ならん。其の上、陰中必ず冷なる者にて、快楽少し。(『色道禁秘抄』)

 

 

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 どう考えても日本人の変態性は、一朝一夕で形成されたものでない。


 もっと遥かに根深いものだ。その確信が、これでますます強まった。

 

 

 

 

 


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男装の麗人、その魅力 ―HENTAI文化は江戸以来―


 文政九年のことである。


 江戸は上野の山下で、世にも珍奇な見世物が興行される運びとなった。


 女力士と盲力士の対決である。


 互いに十一人の選手を出して、最終的な勝ち星を争う。

 

 

Tamura Jinja, Takamatsu 05

Wikipediaより、土俵)

 


 土俵の神聖もへったくれもない話だが、実のところあの領域が女人禁制となったのは、もっぱら維新の影響に負うところが頗る大で、徳川三百年の治世に於いてはその点いたって緩やかだった。


 明和と天明の二回にわたりピークがあって、江戸はおろか大坂でも盛んな取り組みが見られたという。


 ただ、その相手が男衆――それも盲人揃いというのは初めてのこと。


 おまけに女側の力士というのも、酌婦あがりが結構な数を占めていたりと、一風変わったチョイスであった。


 果然、江戸っ子どもの好奇心に火がついた。

 


 ――泰平に伴ふ人心の弛廃、倫常の頽廃、奢侈享楽の発達云々。

 


 と、儒者どもはまたぞろ物堅いことをぶつぶつ言ったが、むろん焼け石に水である。


 一度燃え上がってしまったからには、行くところまで行ききって、灰にならねばおさまらぬ。勢いとはそういうものだ。興行は大繁盛を呈したという。

 

 

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(上野公園にて撮影)

 

 そもそもからして日本人の男には、闘う女、強い女――翻っては戦仕立ての女性の姿、それ自体が好きで好きでたまらぬという変態的な偏りがある。


 そうでなければ江戸時代初期、女歌舞伎がああまで流行った説明がつかない。


 女優に男の格好を――大小二本を腰にぶち込みまでさせて、舞台の上で踊らせる。あるいは茶屋の娘を相手に戯れちらす遊冶郎の真似事をする。出雲阿国に端を発するこの催しは、ほとんど爆発的な勢で以って当時の世に広まった。


 男装の麗人なる概念にみるみる鉄腸を蕩かされ、ついには大事な社稷さえも台無しにして惜しまない阿呆どもの有り様を、『京童』の著者・中川喜雲は以下のように描いている。

 


…あるは父母の養をかへり見ず、あるは子持が悋気もいとはず、来る日も来ぬ夜も、心はこゝに置いて、倉の銭箱をたゝく。限りある宝に尽きなき戯れを好み、親をしのび、妻をはかれども、あこぎが浦にひく網の目もしげければ顕はるゝ…

 

 

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(『Fate/Extra CCC』より、暴君ネロことネロ・クラウディウス

 

 儒官どもの総元締め、林家開祖・林道春その人さえも出雲国淫婦九二者、始為之、列国都鄙皆習之、其風愈々盛、愈乱、不可勝数挙、闔国入干淫坊酒肆之中」云々と、女歌舞伎の流行により日々頽廃に傾く風儀を慨したほどだ。


 結局寛永六年に禁令が布かれる運びとなるが、これほど人気の商売である、そうやすやすと絶滅できるわけがない。


 案の定、湯女がその後釜をちゃっかり継いだ。


 享保五年に成立をみた随筆集『洞房語園』にそのあたり詳しい。曰く、

 


寛永の頃流行りし女歌舞伎の真似などして、玉ぶちの編笠に裏附の袴、木太刀の大小をさし、小唄うたひ、台詞など云ふ。その立振舞美ごとにて風体至ってゆゝしく見えしとなり…

 


 この湯女があまりにウケるものだから、ついには「本場」吉原の店が態々お抱えの遊び女を裏でこっそり風呂屋に託し、客をとらせた例もある。


 公娼が私娼に態々化けたわけだから、なにがなんだかわからない、顛倒現象も甚だしいと言わねばならない。

 

 

Yoshiwara circa 1872

Wikipediaより、明治五年頃の吉原)

 


 現代日本社会にも、「女騎士」というフレーズに異様な興味と昂奮とを示してのける野郎衆が一定数存在している。


 なにか、こう、DNAの流れというか、受け継がれる血のさざめきを感じはすまいか。

 

 少なくとも私に於いては、過去と現在は地続きなのだと、ほとほと納得させられた。

 

 

 

 

 


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正月惚けの治療薬 ―川柳渉猟私的撰集―


 思考がどこか惚けている。


 正月気分で緩んだネジが、未だに二つか三つほど、締まりきっていない感じだ。


 しゃちほこばった文章は、角膜の上をつるつる滑って逃げてゆく。

 

 

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 こういう時には川柳がいい。


 するりと脳に浸潤し、複雑な皴を無理なく伸ばす。そういう効果をもっている。


 現に私はそのようにして、その心地を味わった。


 で、久々の渉猟の成果というか、特に効験があったのを以下に陳列させてもらおう。


 四面四角と揶揄されがちな日本人の、貴重なユーモアの精髄である。楽しんでいただければ幸いだ。

 


朝めしを 母のうしろへ 喰ひに出る

 


 まさしく帰省中の私である。


 滞在中、ついに一度も、母より先に寝床から這い出すことは叶わなかった。


 これ以外にも、

 


母親は 息子の嘘を 足してやり


賽銭を 別に母親 足してやり

 


 身につまされる句は多い。

 

 

Typical saisenbako

Wikipediaより、一般的な賽銭箱)

 


近所には ゐるなと母は 三両かし

 


 守るべきは世間体。


 なんという世知辛さであるだろう。人情の限界を見る思いだ。

 


母親は すぐせんぶりを 飲めと云ふ

 


 せんぶり、どくだみ、げんのしょうこ。


 田舎の古老は、だいたいこの三つのどれかを勧めてくる。

 


もう父に 猪口をさゝれる 年になり


大あくび 棚のお神酒を 見つけ出し


足音に 銚子をかくす けちな酒

 

 

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女房の 留守もなかなか おつなもの

 


 現在・過去・未来を貫く真理であろう。


 かといって、ずっと留守にされてもそれはそれで困るわけだが。


 あくまでも「息抜き」の範疇に収まってくれ。横着なれど、これまた変わらぬ願いであろう。

 


お袋の やうだとかげで けちをつけ

 


Gears of Warにもこんなセリフがあった気がする。

 


若旦那 向ふまかせの 利子で借り

 


 坊ちゃん育ちの甘っちょろさよ。


 こんな奴を放置してみよ、遠からず家財を蕩尽し、先祖の霊を哭かせよう。


 だから、

 


若旦那 みんなで賢い ものにする

 


 こういう措置が必要になる。

 

 

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(『絵本江戸風俗往来』より、油屋)

 


コリャだまれ 月見が家で なぜ出来ぬ

 


 月見にかこつけ、色街に繰り出そうとしたのであろう。


 捕まえたのは女房か、それとも彼の母親か。女性なのはほぼほぼ間違いなさそうだ。

 


身上の かたぶくまでの 月を見る

 


 こちらはどうも、脱出に成功したらしい。

 


傾城に 女房面談 する気なり

 


 容易ならぬ修羅場の気配。

 

 

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姑の 日向ぼっこは 内を向き


順をよく 死ぬのを姑 くやしがり


姑の 気に入る嫁は 世が早し

 


 嫁姑戦争の熾烈さよ。

 


胸ぐらの 外に女房は 手を知らず


あの女房 すんでに俺が もつところ


女房は そばから医者へ いひつける

 


「ああやっぱり、この人ったらいくら私が言ってやっても悪い癖が抜けないんですから、自業自得ですよ私があんなに止めたのに、この前だって――」

 

 

 

 

 

 

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本間雅晴、アフガンを説く ―九十年の時を超え―


 アリストテレスはいみじくも言った。


 未来を見透したいのなら、過去を深く学ぶべし、と。


 政体循環論の如き、悠久の時のスケールで人間世界を貫く哲理を求めんとしたこの男らしい口吻である。


 幸いに、と言っていいのか。


 過去を知るのは大好きだ。


 大日本帝国時代の刊行書籍を、去年はずいぶん紐解けた。


 今年もそのことに鋭意努めてゆきたく思う。


 さしあたり、まずはアフガニスタンだ。

 

 

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(カブールの眺め)

 


 今も昔も、日本とは縁遠い国である。


 昭和二十年以前に於いて、彼の地の事情を広く江湖に伝えんとした物好きが、いったい幾人いただろう? 極めて少数なのは疑いがない。ひょっとすると、片手の指で数えられるほどではないか。


 だが、ゼロではない。


 あちらの政府に招かれて、官公庁の施設設計に携わった近藤正造技師がいる。

 

 そして更にもう一人。


 この正月に、私は本間雅晴を見出した。


 最終階級陸軍中将大東亜戦争開戦と共にフィリピン攻略作戦を指揮し、マッカーサーを敗走させた名将である。

 


ここアフガニスタンは有名な地震国で、時として激震のために一城一村を悉く破滅し去ることすらある。加ふるに沙漠性の流砂はしばしば谷を埋め丘を削るので、桑滄の変が常でない。さうしたわけもあらう、アフガニスタンの建築物は、王城や要塞をはじめ、すべて土積みか干乾煉瓦を積んで、これに簡単な屋根をかけ、木扉を附けるだけのものである。故に「三日にして家を成す」とは事実で、その住民にとって、家はテントと大差がない。(昭和五年『世界地理風俗体系 西アジア篇』210頁)

 

 

Honma Masaharu

Wikipediaより、本間雅晴

 


 アフガニスタンは結構な期間、イギリスの保護国に甘んじていた過去を持つ。


 そして本間雅晴は、陸軍きっての英国通で知られた男。


 観戦武官として英陸軍に配属し、欧州大戦の各地戦場を駈けたことすらその経歴には含まれるのだ。


 ならばちっとも不思議ではない、彼の地に対するこの凄まじい通暁ぶりも。――

 


 アフガン人は概括的にいへば体格がよく、容貌も立派で、皮膚の色は往々白晢人種に似るものがある。性質は粗暴で少年時代から血腥いことに慣れてゐる関係上死を怖れず、随って攻撃力は強いが、一旦頽勢に向ふと持久力がなく、志気俄に沮喪する傾向がある。また裏切り易い点があって容易に信用が置けず、復讐の気分が旺盛で、且つ命を顧みず、残虐なことを敢てする風があり、些細なことで恐るべき罪を犯すことは他国にあまり例を見ない。(201頁)

 


 昨年度、タリバン相手に正規軍が晒した無様。


 敗北に次ぐ敗北、後退に次ぐ後退。


 武器弾薬に軍用車両、ヘリコプターに至るまで、ピカピカのままごっそり置き捨てさえもした、土崩としか言いようのないあの瓦解ぶりを思うとき、如上の記述は九十年の埃を払っていきいきと、我らの脳に躍り込む。

 

 

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1920年代、アフガニスタン正規軍。足下ひとつに着目しても、裸足に木靴にカールしたのに、甚だしく統一を欠く。)

 


 国民性の特徴としてはその先祖や、その戦闘力に対して強い誇りを有して、他人種を軽蔑する点が目立っているが、また頗る親切な一面もあり、客人や旅行者等には部落の客舎を無代で提供したりする。その他ナナワイと称する一種特異な習慣があって、窮鳥懐に入って救助を求めるの時は、それが敵であっても身命財産を賭して庇護するの侠気があるが、その庇護といふのは自分の家限りのもので、足一度屋外に踏み出せば夫子自身第一にかれの頭に刃を加へるやもしれぬ。(201~202頁)

 


 重々しくも事理が明晰でわかりよい、巌の如き風格が、本間の文章には漂っている。


 昭和七年以降、暫くの間、陸軍省の新聞班長を務めたと聞くが、蓋し的を射た人選だろう。

 


 復讐心が盛であるから、身体に傷を受けたり、財産に損害を蒙ったり、また他人から侮辱されたときには必ず復讐しなければ已まぬ。これをバダルと称へ、自分の血族縁者が殺害せられたときは必ず仇を殺す。これをキサースといふ。(202頁)

 

 

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(「死人の籠」。罪人を閉じ込め、餓死せしめ、骨になるまで放置する。)

 


 なんにせよ、新年早々、いい出逢いをした。実に喜ばしきめぐり合わせだ。幸先のよさにおのずから、心中湧き立つものを覚える。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―今年最後の夢模様―


 夢を見た。


「今日でよかった」、心の底からそう思わされる夢である。


 私は山の中にいた。


 雪が積もっている。膝の上までゆうに没する。完全な冬山の景である。

 

 

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 いとも容易く人を呑み込む山中異界。斯くの如き危険地帯をなにゆえ進んでいるかというと、理由はすべて己自身の迂闊さにある。


 麓の世界で馬鹿をやった。血気に逸って新撰組に切り込んで、しかも返り討ちに遭い、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。


 近藤勇に幾度か太刀を浴びせたものの、猫の毛一本ほどしか減らぬ彼のHPゲージを目の当たりにして、ああこりゃ駄目だといっぺんに気組みが挫けてしまった。


 せめて相手を退かせていたなら仲間内の評判もよく、俺のところで庇ってやるよ、しばらく息を殺してろと声をかけてもくれただろうが。こうも無様を晒した以上、期待するだけ愚かだろう。


 結果、こうしてただ独り、銀世界を掻きわけている。

 

 

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 平地に身の置き所がない以上、頼れるのは山以外に有り得ない。


 少なからぬ歩数を重ねた。


 そうするうちに十人足らずの幼童と、それを率いる初老の紳士にかち合った。


 訊けば地元の小学生と、校長先生であるという。


 これも何かの縁でしょうと頷き合って、同道することにした。


 先頭には私が立った。いちばんの男盛りである以上、当然の判断であったろう。臍下丹田を意識してラッセルに勤しむ。

 

 

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 やがて開けた場所に出た。


 窪地があって、その真ン中に巨大な繭が鎮座している。


 七色に発光しているあたり、どう見てもこの世の存在ではない。


「どうです皆さん、これがドクターマリオの繭ですよ」


 と、校長が生徒らに説明していた。


 ゴジラキングギドラにも殴り負けない、日本が誇る怪獣なのだと。


 イタリアの配管工が、どこをどう取り間違えてこのような生態になったのだろうか。カオスの極みといっていい。もしこの夢が一日ズレて、つまりは明日、令和四年一月一日の初夢だったりしたならば、それこそ私は名状し難い珍奇な表情かおを作る破目になったろう。


 理解不能意味不明の反動として、明日はこう、何というか分かり易い、富士の裾野で鷹狩り装束の家康公に手ずから茄子をいただくような、とびきりの吉夢を見てみたい。

 


 徳川家康が晩年、駿河の府中城に隠居所を定めた時、此地には富士の山がある。之は三国無双の名山で、何時見ても飽かぬ。良い鷹が居る。自分は放鷹を好むから、良い鷹の居るところがよい。良い茄子がある。時候が温かいから早く出来る上に、味も良いと言ったので、一富士二鷹三茄子の話が出来たと言ふ事だ。
 徳川時代、今の清水市なる下清水村で出来た茄子を、府中城代から江戸の幕府に献上していた。今日でも久能には促成の苺が出来る。(昭和三年『随筆東海道』20~21頁)

 


 波多野承五郎もこのようなことを書いている。決して突飛な願いではなかろう。

 

 

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 では、ここまでお付き合いくださった心優しい皆様方の夢の中にも富士の裾野と徳川家康、日本史に冠たるこの大英雄大威霊が出現あらわれることを祈願して、本年度の締めとする。


 良いお年を。

 

 

 

 

 


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福澤諭吉の居合術 ―老いてますます盛んなり―


 福澤諭吉が居合の達者であったのは、こんにちではもう随分と人口に膾炙された話であろう。


 さる剣客がその刀勢を目の当たりにし、腰の落ち着きぶりといい、裂かれる大気の断末魔といい、「もしあれほどの勢いで斬りかけられたら、例え受け止めたとしても、受け太刀ごと両断されるに違いない」と嘆息混じりに語ったと。

 

 

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中山博道範士による試刀の図)

 


 これは紛れもなく事実であった。福澤の書簡を手繰ってみると、


 還暦過ぎの老躯を以って、


 刀身二尺四寸九分・目方三百十匁の太刀を、


 雄叫びと共に抜き放ち、踏み込みして宙を斬り、鞘に納める一連の動作を、


 一日千回から千二百回、しかも一度も休みを挟まず――「午前八時半から午後一時までに終り休息なし」――、ぶっ通しで繰り返し、


「今朝更に腰痛を覚へず、年中慣れたるが故ならんと子供等へ誇り居り候」――翌日少しの筋肉痛をも覚えなかったと自慢する様子が折々にて見出せる。


 常人ならばバットの素振り百回でさえ息が上がろう。


 それをバットよりも重い刀で、素振りよりも精確さを求められる抜刀術を、千二百回。


 なかなか並の器量ではない。


 一万円に描かれた、あの肖像の眼光の、深みというかただならなさにも納得だ。掏摸を瞬息で投げ飛ばして制圧した藤公といい、前歴が侍の政治家ないし論客は、風格というか、やはり特殊な華がある。

 

 

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 幸運にも、小泉信三


 幼少の一時期、福澤邸で母子共に養われていたこの人物が、福澤の居合を直に見ている。


 以下、昭和四十一年の『座談おぼえ書き』から抜粋しよう。

 


 私は十歳前後の小児のとき、福澤が庭で居合を抜くところを見て憶えている。三田の慶応義塾の丘は、今は福澤在世の当時とスッカリ様子が変ってしまっているが、福澤の晩年、即ち十九世紀末、二十世紀始めの頃、福澤の居邸は三田の東南隅を占めていた。その丘の麓に下ったところにはほぼテニスコートほどの芝の平地があり、福澤の家ではこれを「ガーデン」と称していた。そのガーデンで居合を抜くのを見たのである。
 少し前屈みながら、肩幅の広い福澤が、浴衣、たすきがけ、跣足で(草履ばきであったか?)立ち、かけ声とともに刀を抜き、踏み込み踏み込み、また鞘におさめる。同じことを幾たびも繰り返す。

 

 

慶應義塾構内の福澤諭吉邸

Wikipediaより、慶應義塾構内の福澤諭吉邸)

 


 この思い出を論拠とし、「福澤がスポーツマンであったとは誰れもいわないが、スポーツをやれば相当のところまで行けた人ではなかったか」小泉信三は推察している。


 子供の目にもわかるほど、動作がいちいちなめらかで、堂に入っていたのであろう。


 福澤諭吉、やはり日本人が亀鑑とするに足る人物だ。

 

 

 

 

 

 

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