穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

言葉は霊だ ―国字尊重の弁士たち―


『雄弁と文章』『新雄弁道』『勧誘と処世』『交渉応対 座談術』――。


 神保町を駈けずり廻り、あがない積んだ大日本帝国時代の演説指南書。

 

 

 


 甚だしく日焼けして甘い香りすら仄かに漂うページを捲り、ざっと通読した限り。どの「流派」にも等しく伝わる「鉄則」の如きものがある。


 濫りに外語を使うんじゃない、ということだ。


 日本人を相手にするなら、ちゃんと日本語で、滞りなく意味が浸透するよう話せ。耳慣れぬ横文字を滅多矢鱈に振り回されて、それで誰が気持ちいい? 喋っている当人は、まあ、てめえの語学力の高さ――それも大抵、錯覚でしかないのだが――を思う存分アピールできて自己陶酔にも耽れるだろうが、客はただただ置いてけぼりを食うだけだ。


 どうしようもなく場はシラけ、次に控える弁者たちにも迷惑は等しく降りかかる。


 堪ったものではないだろう。満員電車にシラミだらけの格好で乗り込まれるにやや近い。だから伊藤痴遊の如き、

 


学者とか、思想家とか、いはれる人達は、よく英語などを使ふが、この位不心得な事はない。而も、さういふ者に限って、同時に訳をつける。即ち一つ事を二度云ふわけになって、愚もまた甚だしい、と云ふべきである。
 これは、英語が出来る、といふ事を、衒ふものである。それなら全部、英語でやるのがよいではないか。日本語の話の中に、英語を使って、それに訳をつけるなら、始めから訳語で云ふがよい。
 勿論、事柄によっては、外国語を用ひなければ、都合の悪い場合もあらうが、さういふ場合の外に、無闇に、外国語を使ふ事は、誠に厭味のあるものである

 


 こんな具合いに、言葉を飾らず、辟易も露わに言ってのけたものだった。

 

 いったい当時の「一流どころ」の人々は、国語に臨むに真剣なこと、息を忘れるほどである。

 

 

Chiyu Ito

Wikipediaより、伊藤痴遊)

 


 鶴見祐輔は「言葉は霊だ」と喝破した。

 


「同じ言葉を使ってゐる人間と人間とすら、本当に了解し合ってゐないのだ。ましてや、風俗習慣を異にする外国人の言葉が、我々に解らうやうはない。言葉は器械ではない。言葉は霊だ

 


 と、この国際派の自由主義者が、実に意外なことを説く。


 おそらくはエマーソンの影響だろう。かの「コンコードの聖人」も、その箴言

 


「国民の精神はその国語に伝わる。国語は民族の記念碑である」

 


 このような一句を収めたものだ。


 米沢市名誉市民第一号、建築家にして文化勲章受章者の、伊東忠太も類似のことを述べている。国語は国民思想の交換、連結、結合の機関で、国民の神聖なる徽章でもあり、至宝でもある。不足な点は適当に外語を以て補充するのは差し支へないが、ゆゑなく旧来の成語を捨て外国語を濫用するのは、即ち自らおのれを侮辱するもので、以ての外の妄挙であると。


 靖国神社遊就館明治神宮築地本願寺の設計は、こういう精神のうねりの中から浮上してきたものだった。

 

 

 


 福澤諭吉頼山陽を評するに、その才覚を全面的に認めつつ、しかしながらただ一点、

 


頼山陽が色々の書物を集めて日本外史を綴りたるは甚だよし。しかるに右の引書は大概仮名文なるに、業に之を漢文に翻訳したるは何故なる哉。唐人計りに日本の歴史を見せる積り歟、又は己が漢学の上手を人に自慢する積り歟。何分日本人の為めに漢文は不便利なり。兎角儒者には此癖多く、ややもすれば日本人一般に分らぬ書を著述することあり」

 


 急所に向けて毒針をぐりぐり捩じり込むような、痛棒を食らわせるのを忘れなかった。


 日本で最初に演説をやった――更に言うなら日本社会に「演説」の概念を新たに加えた人物は、よくそのにも到達していたようだった。

 

 

頼山陽旧家)

 


 田中館秀三に至ってはバルト三国を激賞している。


 そう、バルト三国――エストニア、ラトヴィア、リトアニア第一次世界大戦終結後、ロシア革命を奇貨として、宿望たる「独立」を遂げた北欧の国。これらの地域で特筆すべき思想上の傾向は、「実に愛国主義、尚武主義」であるのだと。


 国民精神作興のため、嘗ての世では公用語として認められてすらいなかった母国語復権目指して取り組み、努力すること尋常一様でないのだと、感激に筆をふるわせながら書き綴ってくれている。

 


三箇国を通じて著しいのは、国語、国字問題である。ロシア帝国時代には各民族固有の言葉を公語として認められることさへできなかった。
 そこでこの問題は、バルト諸国の国民精神の作興を意味し、何れの国も『祖国のために』のスローガンをもって、国語国字の純化を叫んでゐる」


リガで市内電車の停留所掲示の町名は露、独及びラトヴィアの三箇国語で書かれてあったのを、ラトヴィア語だけに改めた。ところが都会在住者の多数は、それだけで要領を得ないから、結果として町名掲示板を撤去したのと同じことになってしまった。しかし暫時の不便は国語国字といふ重大問題の前には忍ばねばならぬとされる

 


 上記を以って「他山の石」とせんとした、そういう田中館秀三が、ハングルだの簡体字だのが氾濫し、駅の電光掲示板にすら侵入を許した現代日本社会のザマを目の当たりにしたならば、果たしてどれほど憤慨するか。

 

 

Riga skyline

Wikipediaより、ラトヴィア首都リガ)

 


 怒髪天を衝かんばかりに違いない。いとも容易く想像のつくことである。ニヒリスティックなルーマニアの文筆家、エミール・シオランが示した通り、『国語』こそがヒトの『祖国』であるなら、祖国防衛の大任のため、我々はもっと慎重に、注意深くなるべきだ。


 それでこそ先人に面目も立つ。戦争は平時にも進行すると、「平和戦」の所在を暴き、油断するなと掻き口説いた先人に――。

 

 

 

 

 


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黄河にて


 日本に於いて黄砂が観測されるのは、三月から五月にかけてが通常であり、わけてもだいたい四月を目処にピークがやってくるという。


 が、それはあくまで海を隔てた、この島国に限った常識はなし


 黄砂の供給源である大陸本土に至っては、だいぶ事情を異にする。

 

 

China dust storms

Wikipediaより、黄砂にかすむ京都市街)

 


 早や一月から黄塵万丈、濛々として視界を塞ぎ、その状態がおよそ半年、七月まで持続するから大変だ。日本式の気構えで悠長に臨もうものならば、たちまち白眼を剥かされる。


「昭和十三年度のおれたちが、つまりはそれ・・の生き証人よ」


 と、満鉄社員金子茂は紙面を通じて物語る。


 この人もまた日高明義と同様に、日中戦争の勃発に伴い山海関を南に征ったひとりであった。


 以降、専ら、黄河に勤務する。


 そういう彼の日記帳を捲ってみると、

 


一月二十五日
 夜明前よりの大風で宿営車の戸ががたがたする。明るくなって見ると誰の頭も蒲団もなにもかも、内も外も砂だらけで仕事もへちまもあったものでない。手拭で口をむし塵除眼鏡をかけて暫く座ったが、息苦しくて仕様がなく外に出た。三四四粁の大黄河へ行って見たが、兵隊さんは豪い。砂の涙を流しつゝやっぱり仕事をしてゐる。午後は風が止んだが、内の掃除が大変なものであった。

 


 あの微粒子に虐め抜かれている様が素朴な筆で簡潔に、だがなればこそ、これ以上ない生々しさを伴って書かれているのにぶっつかる。


 翌日もやはり、黄砂が舞った。

 

 

 


 その翌日も、翌々日も――十日ばかりもこの環境に置かれると、

 


二月六日
 今日も風があって砂が埃る。あんまり目を擦ったので目が悪くなり衛生兵に薬を貰う。

 


 粘膜がまず、変調を来さずにいられない。


 花粉症の苦しみに若干似るのではないか。きっと彼の眼球も、充血して兎みたいに真っ赤になっていただろう。


 慰問袋に目薬でも突っ込めば、存外歓迎されたか知らん。――この内地からの心尽くしの贈答品の分配に、満鉄社員も与っていたのは別の手記から明らかだ。


 とまれかくまれ、金子の日記を、もう少しばかり見てみよう。

 


二月十日
 今日も風がある。明日は木橋の開通で忙がしい。砂埃が立ったが皆元気なものであった。あんまり砂を吸込んだのか晩方胸が痛かった。

 


木橋について一言したい。

 

 もともとこの付近には黄河を跨ぐ鉄橋が、「東洋一」とも称される立派な橋が架けられて、此岸と彼岸を接続し、交通の便を図るのに年来重きをなしていた。

 

 

滔滔黄河 - Surging Stream of the Yellow River - 2012.07 - panoramio

Wikipediaより、滔々たる黄河の流れ)

 


 が、昭和十二年十一月中旬、国民党軍は撤退がてら、この大建築を爆破して日本軍の追撃を僅かなりとも遅らせようと試みた。


 珍しいことではない。インフラの破壊は、戦争となれば何処の国でも行使する焦土戦術の一環である。


 この作戦は、確かに一定の功を奏した。十トンを超す爆薬により橋は瓦礫と化し去って、どう見ても取り返しがつかぬ状態。日本軍は新たな橋を架けるべく、大工事を余儀なくされる。


 その計画に満鉄もまた駆り出され、一方ならぬ貢献をした。


 彼らの努力は幸にして実を結び、昭和十三年二月十一日、スケジュール通り仮設橋たる「木橋」の開通式となっている。


 金子も胸を撫で下したろう。


 しかし当日、彼の心臓は安堵どころの騒ぎではない、予想だにせぬ展開に早鐘を打つ破目になる。

 


二月十一日
 天の与か風はなく上天気である。軍鉄合同で紀元節の式を終り引続き開通式をやる。午後宴会が始まる。久しく見たことがなかったが今日は済南から来た日本人の女にお酌してもらふ。皆相当メートルがあがったやうであったが自分もたしかにその方であった。宴のなかばに大連の僕の四男の勲キトクスグカヘレとの電報が無電にきて渡された。兵隊さんにどうするかと尋ねられたが、今の場合死んでも仕方ないと思ひ、キンムノツゴウカヘレヌと無電により変電した。

 

 

Dairen Oohiroba

Wikipediaより、大連大広場)

 


 断腸の思いだったに違いない。


 極端な論法を用いれば、職務遂行の大義の為に金子茂は我が子を見捨てた。七つまでは神のうち」と、そういう言葉で夭折を諦観せねばならぬほど子供の命が失くなりやすい時代背景を勘案しても、易々と下せる判断ではない。


 奥歯を軋らせ、眼窩は窪み、熱病の如く黒ずんでいたことだろう。


 だが、紛れもなく、彼は選んだ。円は閉じた。


 ところが二日後、事態は更に四次元的な、嘘のような転回をする。


「金子君、帰れ」


 べつに何の申請もしていないにも拘らず、会社の方から「子供に会いに行ってやれ」と許可を送り付けてきたのだ。

 


二月十三日
 大連元所属より天津鉄道事務所へ電報が来たであろう。鉄道事務所より子供のキトクで一時帰還してよいと無電を通じて言ってきたので夕方の貨物列車に乗り込んだ。

 

 

Mantetsu Honsha

Wikipediaより、大連の南満洲鉄道本社)

 


 以降、暫く記述は途絶える。


 そしておよそ一週間後、

 


二月二十日
 午前〇時十五分大連病院にて四男勲死す

 


 持ち直すことはなかったようだ。


 しかしそれでも、最後まで側に居てやれた。


 金子茂が黄河駅に復帰するのはこれより更に半月後、三月四日のことである。


 その日の日記帳に曰く、

 


 天津にて京山線より津浦線に乗換へる。なんと客の多いこと、南満で見たことのないほど客車を連結してゐるのに身動きができない。徳県でだいぶん客が降りて楽になった。停車中工務区へ走り南満帰りの遅かったあいさつをして来た。禹城のホームに十修理班の中村君がゐた。内地の同じ土佐から来てゐて五年も会ったことがなく、あれやこれやの話が停車中に出来るものでないから明日、黄河へ来てもらふことを約して別れた。黄河に着いた時は日が暮れてゐた。宿営車の者は大半留守中に済南や徳県に引き上げて保線専用になってゐて楽であった。夜中、死んだ子供のことが浮かんできて仕様がない。

 


 聲が聴こえる。


 心の奥底、ずっとずっと暗い場所、人間性の深淵で、煮詰まる業の低吟が。

 

 

 


 どうは本より虚無なり、終も無く、始も無し。陰陽気構へて尤霊起る。起るをば生となづけ、帰るをば死と称す。――


 浮世はときに、一個の劇であるらしい。

 

 

 

 

 


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あゝ満鉄


 日高明義は満鉄社員だ。


 実に筆まめな男でもある。


 連日連夜、どれほど多忙な業務の中に在ろうとも、僅かな時間の隙間を見つけて日記に心象こころを綴り続けた。


 それは昭和十二年七月七日、盧溝橋に銃声木霊し、大陸全土が戦火の坩堝と化して以降も変わらない。

 

 

 


 日中戦争の勃発に伴い、「特殊輸送」の名の下に、満鉄社員も大々的に動員された。祖国の軍旅を補佐し円滑ならしめんがため、多くの社員が長城を越え大陸本土に馳せ向い、言語を絶した苦闘に直面したものだ。


 破壊された線路の修理に赴いて、伏兵による機銃掃射を浴びるなぞはザラであり。


 食糧の欠乏、資材の払底、衛生不良、言語不通――ありとあらゆる悪条件がのべつ幕なしに彼らの身を打ちすえて。開戦から二年弱、昭和十四年四月の段階で既にもう、殉職した満鉄社員は五百名を突破するの惨状だった。


 日高明義の日記にも、鬼の炮烙で煎られるような極限状態の辛酸が、「一睡もせず且つ激務」とか「暖かい飯でも食ひたいがそれもできず」とかいった言葉によって如実に表現されている。

 

 

(満鉄社員の墓標)

 


 そういう窮境下にあって、

 


八月十一日(晴)
 昼頃から腹がチクチク痛みだした。ビオフェルミンを飲み懐炉を入れる。夜になって寸時良いやうだが多忙のため寝る暇がない。午前二時まで起こされてゐる。総站に来てから丁度十日目、毎日睡眠不足のため目は充血し痛む。小便の色は白くなることがない。満鉄社員の首に百円の懸賞がかゝったといふ話だ。首は惜しくないが少し安いと大笑ひした。
 駄句一句 百円の首を並べて夕涼み

 


 まだこれだけの気勢を張れるということは、尋常一様の器量ではない。


 肝っ玉が練られているにも程がある。どうすればこんな人間性形成つくれるか、ほとんど想像の外だった。


 やはり教育が違うのか。よほど指導に宜しきを得た結果であろう。幼少期から入念に研磨されたと見るべきだ。満鉄は社員採用に、単に才覚のみならず、人品もまたしっかりと考慮に入れていたらしい。

 

 

The mark of South Manchuria Railway

Wikipediaより、満鉄社章)

 


 ところが精神より先に、肉体の方が参りはじめた。日高の腹痛、小康は得ても根治に至らず、折に触れては悪化して、ために屡々下痢となり、肛門が荒れ、遂には痔をも病んでいる。


 それでも日記を書くのを止めない。


 一種の執念すら見える。

 


八月十七日(火) 晴
 昨夜来の痔病が大分痛むので北寧医院救護班にて治療をうく。入院をすゝめられたが輸送が終るまでは頑張らねばならんので薬を貰って帰る。乗務員の任業時間東站豊台間百四十粁であるが単線運転のため輻輳してゐるので片道十二時間くらゐより甚しきは二十四、五時間を費すので疲労と空腹に困ってゐる。

 


 なんという男であったろう。


 願ってもない大義名分、医師の勧めに従えば、殺人的な激務から一時なりとも解放される。デスゾーンで酸素ボンベにありつくような福音にも拘らず、しかし日高は、敢えてそれを選ばない。


 いったい何が彼をそうまでさせるのか。


 責任、義務感、連帯意識、滅私奉公、不惜身命? ……そういう紋切り型の言葉では、なにやら、こう、徒に上っ滑りするばかりであって、核心に喰い込めている気がしない。


 日本人が名実ともに日本人をやってくれていた瀬戸際と、うまく言語化できないが、しかしそういう実感だけが切々として胸を圧す。

 

 

 


 しかし十日後、すなわち八月二十七日、早朝厠に赴いて用を足すなり、さしもの日高も蒼褪めた。


 便に混じって大量の血がぶちまけられていたからである。


(これはまずい)


 と、便壺を満たす夥しさに俄然危機感を煽られて、その日のうちに病院を訪ね、みっちり検査を受けている。


 診断が下った。


 病名、大腸カタル。有無を言わさず入院である。「当分入院し下剤をかけられた」と、病床にてなおも書く。

 


八月二十八日(土)
 朝七時厠へ行く。血便出る。昨日からの下剤のため歩行困難となった。


八月二十九日(日) 晴
 石川君の見舞をうく。元気がないので話をすれば疲れる。総站待機の社員多数病院附近の仮宿舎に入ってゐる。元気な姿を見ると羨ましい。


八月三十日(月) 晴
 無風快晴誠によい天気だ。寝てゐるのが惜しい気がする。北寧医院も今日から開始するらしい。


八月三十一日(火) 雨
 朝から雨で鬱陶しい。今日は下剤を止めて初めてみる便通である、余り良くない。食物が支那料理のためであらう。腸の悪いのに支那料理は誠に苦手だが致し方がない。恐る恐る少しづつ食べることにする。


九月一日(水) 晴
 同室の同病患者は頻りに便の相談してゐる。即ち「君の便は良いから乃公にもくれ、そして早く退院しようではないか」笑話ではあるが笑話としては聞き逃せない。何時までもこんなにしてゐては同僚に済まんといふ切実な気持だ。

 


 ああ、ちくしょう、日本人だ。


 あまりに日本的すぎる。しつこいようだがこれ以外、どんな感想も浮かばない。南満洲鉄道会社、当代きってのエリート集団。なるほど確かに大日本帝国の「上澄み」たるに相応しい。遡ること三十余年、日露戦争の最中に於いて発揮され、フランシス・マカラーを驚嘆せしめた異様なまでのあの意気を、彼らは確かに受け継いでいた。

 

 

 

 

 

 

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甲州人よ、何処へゆく


 この程度の記事、いつもなら、一回読んだらそれっきり、ここに取り上げるまでもなく、記憶の隅に放置だが――。


 同郷の不始末とあってはそうもいくまい。一定の注意を払う必要がある。明治十一年一月十一日の『朝野新聞』に、それは掲載されている。

 


 通三丁目の居酒屋児島秩方で、何だベランメイ、かう見えても、ベランメイ、山梨県下柳町の、ベランメイ、田中長吉様といふ二十八歳になる兄イだ。ベランメイ、酒を呑んでも、ベランメイ、銭が無いといふのを無理に払へといふ無法があるものか、ベランメイ、それでも是非払へといふなら、ベランメイ、己の着物でもふんどしでも、ベランメイ、取っておくがいゝ、ベランメイ、と大威張に威張った男、酒の代は驚く勿れ四銭六厘。

 


『朝野新聞』はこの件に、「ベランメイ代四銭六厘」なる見出しを付け世に出した。

 

 

武田神社にて撮影)

 


 真面目に突っ込むのも馬鹿々々しいが、そも、銭も持たずに飲み食いしようとするんじゃあない。本人以外の誰が見たって、それが一番の無理・無茶・無法だ。


 おまけに一文無しが露見してなお、恐れ入るでも逃げるでもなく、開き直って逆ギレかましてのける点、神経の調子がちょっとおかしい。「お里が知れる」の一言が、誰の脳裏にもぎるであろう。山梨県とはそういう場所か、相も変わらず山流しの地、人と猿との合の子で満たされている僻陬か――と、侮蔑の念がこみ上げたに相違なく。それに対して抗議の余地も無さそうなのが、また困る。


 つまるところは、ネガキャンの骨頂であったろう。


 厭なことをしてくれた、田中長吉という人は――。

 

 

武田神社の手水舎)

 


 だっちもねえこんいっちょしと、時空を超えてぶっさらえたらどれほど胸がすくことか。


 はんでめためたごっちょでごいす、甲州人にはもっとこう、マシというか明るい話題でニュースになってもらいたい。


 このこと、筆者わたし自身にも、固く戒めるとしよう。

 

 

 

 

 


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意外録


 原書に触れろと、大学で教授に訓戒された。


古事記』でも『徒然草』でも『五輪書』でもなんでもいい。教科書で名ばかり暗記して知った気になっている名著、学生の身である内に、それらを可能な限り読め。自分の瞳と感性で、独立の評価をててみろ、と。


 正直教授の顔つきも朧と化して久しいが、この言葉だけは今でもはっきり思い出す。


 なるほど、と頷かされる局面が屡々あったからだろう。


 たとえば石川啄木が、

 


「小生は日本の現状に満足せず。と同時に、浅層軽薄なる所謂非愛国者の徒にも加担する能はず候。在来の倫理思想を排する者は、更に一層深大なる倫理思想を有する者なかる可らず。而して現在の日本を愛する能はざる者は、また更に一層真に日本を愛する者なからざる可らず

 


 こんなことを言う人間だとは、実際その著を開くまで完全に想像の埒外だった。

 

 

Takuboku Ishikawa

Wikipediaより、石川啄木

 

 

 伊藤博文の遭難を、

 


「新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり」


「公今や亡焉なし。吾人は茲に事新しく公の功労を数ふる程に公を軽視する能はず。公を知らざる者は日本人にあらず。然り。公は嘗て其八方美人的と決断なきとを以て、一部の批評家より批難せられき。然れども明治の日本の今日ある、誰か公の一貫したる穏和なる進歩主義に負ふ所、その最も多きに居るを否むものぞ

 


 こうまで烈しく痛惜するとは、まさか夢にも。


 山芋が鰻に変化かわるのを見てしまったほどの驚きである。


 似たような衝撃を、明治三十七年五月の山路愛山も味わったらしい。


 日露戦争真っ只中のこの時期に、彼は思うところあり、日本を離れ韓半島を旅行した。

 

 

朝鮮半島、長寿山)

 


 十日ばかりの短い旅だが、この経験は彼のそれまでの認識を決定的に塗り替えてしまう威力があった。


 本人の紀行文に曰く、

 


「僕の韓国に来らざるや韓人の猶ほ自ら振ひ、自らつよむるの余地あるを信ぜり。足一たび韓国を履みて後は此信仰は一変せり。韓人の自ら振作するを待つは殆んど枯木の芽を出すを待つに異ならず。如かず、日本は隣人の義務として独り其為すべき所を為さんのみ」

 


 と。
 およそ十年ほど以前、福澤諭吉が既に示してくれていた、

 


朝鮮は腐儒の巣窟、上に磊落果断の士人なくして国民は奴隷の境遇に在り、上下共に文明の何物たるを解せざる者のみにして、稀に人物と称する学者あるも、唯能く支那の文字を解するのみにして共に時事を語るに足らず。其国質を概評すれば知字の野蛮国とも名く可きものなれば、其の改革の方法手段を談ずるに、すべて日本の先例を以て標準を定む可らず。我輩の所見を以てすれば、唯日本国の力を以て彼等の開進を促がし、従はざれば之に次ぐに鞭撻を以てして、脅迫教育の主義に依るの外なきを信ずるものなり。力を以て文明を脅迫するとは、外見或は穏ならざるに似たれども、一時の方便にして、他に誘導の道なしとすれば外見の如何を顧るに遑あらず。我本心に愧る所なき限りは断じて行ふ可きのみ」

 


 この方針の正しさを、今更ながらに実感したというわけだ――それこそ骨髄に滲みるまで。

 

 

(昭和初期、慶應義塾大学病院

 


 帰国してさまで間をおかず、明治三十七年七月日露戦争実記 第十九號』に寄せた稿の冒頭あたまにも、

 


「外国にては我日本がにわかに強国になりたりとて恰も瓢箪より駒の出でし不思議の手品の如く思ひ遽かに日本を研究するものあり。さりながら急ごしらえの歴史論、肯綮に中らぬこと多し。
 抑も日本の今ある決して不思議に非ず。大化の昔、隋唐の制度を輸入して律令を定めたる時より日本は唯人真似を以て満足したるに非ず、朝鮮の如き奴隷的模倣者に非ざることは令の文を一読したるものゝ直ちに看取せざるを得ざる所なるべし。何事も外国の真似をしたりと云はれし其時代にさへ、日本人は外国の文物を生呑せずして全く自国流に同化したる迹の著しきあり」

 


 半島旅行の影響が、あからさまに見て取れる。


 原書・現物に触れるのは、やはり大事であるようだ。

 

 

 

 

 


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第二次大戦ひろい読み


 一九四一年、レンドリース法、議会を通過。


 この一報が電波に乗って日本国に伝わるや、日頃「米国通」を以って任ずる一部の言論人たちに、尋常ならざる波紋が起きた。


 震撼したといっていい。


 就中、鶴見祐輔に至っては、同年五月に寄稿したルーズヴェルト大統領の独裁的地位」なる小稿中で、


「今度武器貸与法が上下両院を通過したので、ルーズヴェルト大統領の地位は、ヒトラースターリンと並ぶ独裁的なものになってしまった

 

 まずこのように、最大級の脅威判定を行っているほどである。「勿論米国においては、民衆輿論の制約があり、これを代表する議会と、更にその外に超然たる大審院潜在的威力がある。しかし近代米国の政治組織の変遷を注視してゐるものは誰しも一様に、米国憲法制定当時の厳格なる三権分立法が急角度をもって、行政権偏重へと移行しつゝあることを、気付かずには居なかったであらう」と。(太平洋協会編『現代アメリカの分析』)

 

 

President Franklin D. Roosevelt-1941

Wikipediaより、レンドリース法案に署名するルーズヴェルト

 


 かつてルーズヴェルト自身の口から飛び出した、


独裁者を亡ぼすためには、独裁者を必要とする


 との、ある種啖呵が、いよいよ以って現実味を帯びてきたと言うわけだ。


 ところでちょっと視点を移して、レンドリース法の恩恵に浴す英軍の、ある志願兵の頭の中身を覗いてみると、


ファシズムと戦うために志願した軍隊はファシストだらけだった


 との想痕が発見みつかるから面白い。


「悪者だ、ナチだ、ファシストだ、といって教わってきたものがそのまんま、眼の前にある。状況を把握し、戦闘意欲に燃えているはずのこの連中のなかに」。――こういう記述が、戦後になって出版された『You,You,and You』なる書籍の中にあるそうだ。本の副題は『The people out of step with World War Ⅱ』。どういう趣旨に基いて編纂された代物か、単語の並びを一瞥すれば凡そ察しがつくだろう。


 民主的な軍隊なぞ、もとより有り得るはずもない。


 ごくありきたりな幻滅と言えばそれまでだが、ルーズヴェルトの啖呵と並立させてみた場合、平凡さはたちまち消え失せ、なにやら深い寓意性すら帯びてくるから妙だった。

 

 

 

 

 昭和二十年、雑誌『キング』の五月号は六月号との合併だった。


 もっとも当時『キング』という表題は敵性言語であるゆえに、『富士』と改題されてはいたが、そのあたりは、まあ、今は措く。


 とにかくその合併号に「十人一殺」なる題の、名前からして物騒な気に満ち満ちている記事がある。


 だが、内容は、更に輪をかけてぶっ飛んでいた。

 


 近頃一般国民の気構へとして、「敵が若しわが本土に上陸すれば、一人十殺直ちにこれを撃滅すれば、皇国は必勝である」といふやうな、一人十殺論が旺んに唱へられてゐる。
 無論心構へとしては、一人十殺の気魄を持たねばならぬことは当然であるが、記者は空疎な必勝観念が国民を誤ったやうに、確算なき一人十殺論が、多くの国民を謂れなき安易感の上に睡らし、この期に及んでもなほ戦争を甘く見る弊に陥らせはしないかを畏れるのである。

 


 読むだに首がヒヤッとする提言だ。

 

 

Fuji formally King

Wikipediaより、『キング』改め『富士』)

 


 こんなことを書いて、例えば徹底抗戦論者のような、既にヒステリーを発しつつある壮士気取りの目に留まったらどうなるか。


 ――腰抜けめ、臆病風に吹かれたか。


 と、罵倒だけで済めば御の字、悪くすれば講談社の建物に爆弾でも投げつけられるのではないか。


 ――敢闘精神を挫くやつ、さては通敵しおったか。いくらで国を売りおった。


 こうした具合いの「言いがかり」をつけられて。


 なんにせよ、度胸のいいことだった。


 もっとよくなる。記事は更にこう続く。

 


 一人十殺を文字通り解釈すれば、神々の戦ひ給ふ姿であると言はれた、硫黄島の善戦健闘を以てしても、あの戦勢下に於ては、一人十殺は容易ではないのである。それを考へても、如何に本土で戦ふ利を数へるにしろ、訓練と装備の段違ひの一般国民が一人十殺をやればよいといっても、それは出来ない相談である

 


 最終的な結論は「十人一殺が現実的な目標として相応しい。十人一殺が実現できれば必勝だ」と、あらぬ方角へ跳ねてはいるが、見え見えの擬装であったろう。剥ぎ取るは容易、記者の本音は透かし見るように明らかだ。


 ――とても勝てない。


 本土決戦などやれるものか、我らの希望は既に潰えた。恐ろしすぎるその現実を、しかしそろそろ直視すべき頃合いだ。そういう意味を籠めている。

 

 

 


 にしても、よくコレが検閲を通ったものだ。


 五月号なら、既に東京は焼け野原だろう。


 検閲官の方々も情勢の行く末を察知して、自分の任務の虚しさをもはや誤魔化しようもなく感じていたのではないか。


 この時期に書かれた文章は、どうもそういう、ヤケッパチの気配が強い。痛ましさというか、満腔の同情を抜きにして目を通すことの出来ないものだ。

 

 

(昭和二十年九月八日、東京に進駐する米軍)

 

 

一、さりげなくしゃべること、噂を広めようとむきになりすぎるとバレる。


二、バラす内容がヤバいものであればあるほど、堂々としゃべること。


三、同じ場所で同じ噂を言わないこと。当たる噂は自然に広まる。


四、自分も噂を聞いただけ、という振りをすること。すぐにバレるような出所を明らかにしてはいけない。

 


 元戦略情報局OSS――CIAの前身機関――工作員、エリザベス・P・マクドナルド指南、「風説流布の要諦」。

 

 

 

 

 


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ひいばあちゃんの知恵袋・後編


 頭は冷えた。


 再開しよう。

 


鋸屑おがくずを濡らして固く搾り、箱に入れて、伊勢海老をその中に埋め、暗いところにおくと、一週間くらゐは、生きたまま保たせることができます。新年など、かうしておくと重宝です。

 


 冷蔵技術の未熟な時代の工夫であった。


 人間にとっては重宝だろうが、伊勢海老にとってはどうだろう。狭っ苦しい箱の中、身動きもならず、鋸屑まみれで閉じ込められる心境は。「いっそ一思いに殺ってくれ」と懇願するのではないか。それに対して人間は、「やだよ、殺っちまったらお前、途端に腐り出すじゃあねえか、俺の迷惑も考えろ」と答えるわけで……。


 いかん、動物愛護団体の口吻みたくなってきた。


 ああ、そういえば、「海老を煮るのは動物虐待」と言い出したのは、この頃の合衆国が嚆矢だったか。

 

 

 

 

〇家畜を肥満せしむるには、亜麻仁油滓渣かすを以て飼養すれば最も宜しいので、西洋各国では非常に貴重しておりますが、我国では亜麻仁油の製造所がないから、随って滓渣を得ることが出来ません。然し若し亜麻仁三合に対し水一升の割合を以て二十分許りも煮沸し、殆ど半流動体の粘液として与ふれば、脂肪層を増加し、肉質を肥満し、乳牛ならば乳汁の分泌を増加し、又病畜ならば其の恢復期を早からしむるの効があります。

 

〇豚には粗製糖を日に百匁乃至二百匁づつ与へれば、大いに肥満するものです、一体豚は砂糖を好むものでありますから、糖分を含んだものなら何でもよく、就中牛乳の酸敗せるを、水を搾って粕だけ与へれば最も効顕があります。

 


 酸敗牛乳の搾り粕――。


 ヨーグルトの出来損ないみたようなのを想像してみる。


 何でも喰うのが家畜としての、豚の優れた点である。脱脂粉乳や砂糖で豚を肥やすのは、現代でも幅広く採られている手法だそうな。

 

 

(鹿児島の豚)

 


〇玉子の黄身を以て頭部を洗へば、毛髪を柔にし恰も絹の如き光沢が出ます、又頭垢ふけを去るのにも最も軽便なる方法であります、世間には白身の方が有効で、黄身は効の無いものと思っておる人もありますが、これは全く反対で、白身は左程効能のあるものではありません。

 


 これまた今でも実践者のいる知恵だった。


 もっとも卵の値が吊り上がり、一躍「高級品」の仲間入りを果たしつつある今日こんにちの事情、それを洗髪に具するなど、庶民感覚からすれば以ての外の贅沢行為、敷居の高さが百年前より上昇していかねないのが、なんともはや。

 

 

 


〇俎板なり皿なりに脂のついたのを取るには糠でこすって沸湯をかけると綺麗に取れます。


〇蛤の貝柱の容易にとれる様にするには、煮るとき米を七八粒入れるがよい、奇妙によく取れます。


〇玉子の殻を蔭干にし、後薬研で粉末にして、之れに米糠を混ぜ、洗粉に用ゆる、普通の洗粉よりはずっと上等です。

 


 米の力を引き出すことに余念がない。


 流石日本人、稲作の普及を以ってして「王化」と為した民族のすえなだけはある。

 

 

 


〇オリーブ油、糖蜜及びランプの油煙を等分に混じたるものを塗れば、古き色の剥げたる靴も、光沢を発し、新しい靴のようになります、此法は普通靴墨として用ゆるにも最も適しております。


〇樟脳、蓮、茴香、紅花を各々二匁づゝに、アルコールをたっぷり入れ、密封してしばらくおくと、各々の精分が滲出され、エキスができます。これを、肩が凝ったやうなときに、筆につけて塗りますと、凝りもれるものです。

 


 このあたりで、まあ、ざっと、並べるべきは並べ終わった。


 だがしかし、もののついでだ、せっかくなので最近やっていなかった、名歌の列挙もやらせてもらおう。

 


〇ちらす心かアレまあ憎い、春の夜中の仇あらし


〇すねた姿も常盤の松の、操たゞしき春のいろ


〇蚊帳を出てから又見る寝顔、かうも床しくなるものか


〇来るか来るかと待たせておいて、外へそれたか夏の雨

 

 

 


〇しのび足して閨の戸あけて、そっと立ちぎく虫のこゑ


〇末を思へば夜はしんしんと、こゝろ細さや秋の月


〇袖のうつり香まだ消えぬのに、かうもあひたくなるものか


〇諦めましたよどう諦めた、諦められぬと諦めた


〇ぬしは今頃さめてか寝てか、おもひ出してか忘れてか


〇末に添ふとはそりゃ知れたこと、今が逢はずに居られない

 

 

 


 すべて都々逸。艶冶な句を多く集めた。


 情緒纏綿、心に滲みる、歌い継がれるべきである。

 

 

 

 

 


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