穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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乃木将軍の膝元へ


 春の終わりも近いころ、乃木神社を訪れた。

 

 

 


 これまで散々ネタにさせてもらった手前、参拝し、礼を言わねば義理を欠く。そういう意識に背を押されてのことだった。

 

 

 


 むしろ遅すぎたほどである。


 心中密かに詫びながら、鳥居をくぐり境内へ。

 

 

 


 立地は良い。地下鉄乃木坂駅から一分、迷いようのない場所に在る。

 

 

 


真宗に山寺なし」という、俚諺めいたフレーズを連想せずにはいられない。福澤諭吉先生が講釈なさってくれていた、

 


真宗の寺院は全国到る処、都邑の中央に建立して人の湊合に便利ならざるはなし。自然に成りたる位置か将た故意に謀りたるものか知らざれども、兎に角にも真宗に山寺なしと云ふ程の次第にして、他宗寺院のことさらに幽清の地を撰び城外の寒山に孤立するが如きものに比すれば同日の論にあらず。是亦真宗勧化に力を副へたる一原因なるべし

 


 と。


 商売を繁盛させるのに、立地条件は途轍もなく重要だ。たとえそれが布教の類、神社仏閣であろうとも――。

 

 

 


 福澤諭吉まなこには、それがはっきりと視えていた。時勢に超越せる叡智。一万円の肖像は、やはり彼しか有り得ない。

 


「文明開化の進歩するに従ひ、金の権力は次第に増長して、黄金多ければ交も深かるべし、黄金少なければ智者も愚視せらるべし、黄金は以て愚を智にし、非を理にし、曲を直にして、其向ふ所に敵を見ず。人間万事金銭の世の中と為るべきは必然の勢にして、既に十数年来の事相を見ても其勢の赴く所を卜すに足るべし」

 


 究極の「はまり役」だろう。カネというものの効能を、ここまで強く認識していた福澤を措いて、いったい誰が。――誰に務められるというのだ。

 

 

乃木神社の「さざれ石」)

 

(せっかくなので。靖国神社の「さざれ石」)

 


 身は浄域にあろうとも、思慮は濁世の謀知の上にばかりある。

 

 

 


 賽銭投げても清くはなれぬ、私はつくづく、俗物だ。

 

 

 

 

 


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腹に詰まりし九キロの


 もうじき二十二歳を迎える未婚の娘の下腹部が、どうも最近、膨らみ気味だ。


 月経も停止しているらしい。


(孕んだか)


 両親は、造作もなく合点した。


 事実、珍しい話ではない。


 ここは大分、東国東ひがしくにさき郡に属する、とある山村、某農家。

 

 

(国東半島の山々)

 


 開発から取り残された草深い田舎のことである。中央より吹く文化の風も、昭和の御代の人倫も、両子山の錯綜せる溶岩台地に阻まれて国東半島ことごとくには届かない。だからこういう、上古以来の夜這い・野合の習俗が、なお生々しく息づく土地が保存されていたりする。


 それゆえ家族も特に騒がす、自然の流れに任せていたが。――どうもだんだん、様子が変だ。


 十月十日を経ようとも、一向に分娩が起こらない。ほんの毛ほどの気配さえ、感ぜられないのは何故だ。


 不思議がっている間にも、腹は肥大するばかり。昭和五年の夏からは、起きて野良に出ることさえも不能になった。


「こいつはどうも、ただごとではない」


 のんきな里人の心にも、漸く異様の感が増す。


 冬の農閑期を利用して、一家は山から這い出した。


 訪問先は、九州大学附属病院外科である。

 

 

Kunisaki Peninsula STS068-253-7

Wikipediaより、国東半島航空写真。「日本の秘境100選」にも選ばれた)

 


 娘は幸運だったといえる。なにしろ当時の病院長、赤岩八郎医学博士に直接診療される機会を持ったのだから。


 いや、本当にツイていたのは赤岩医師の方やも知れぬ。


(妊娠にあらず!)


 彼の長いキャリアをしても仰天するより他にない、極めて稀な症例に、こうして際会できたのだから。


 赤子ではない。


 糞である。


 結腸に糞がみっちり詰まり、妊婦の如く腹を隆起させているのだ。

 

 

 


 つまり「便秘」が、娘の病みの正体だった。それもこれまで、見たことも聞いたこともない、極めて重篤なる便秘。


「下剤では、とても無理ですな」


 いつ腸が破れて死ぬとも知れぬ、まさに瀬戸際。切開しかない、手術をしようということになり、ほどなく手筈が整った。


 やがて取り出された糞塊の規模、驚くなかれ「重さ九キロ」


 常人ならば六キロですら死亡例があるというのに、これほどまでに溜め込んだのは前代未聞、ほぼ人体の神秘に近く、「従来でも大人の腕位になったのは医学の文献上にも見えてゐるが斯くの如く大きなのは全く世界でも例がない」、これまで無事であったのがほとんど奇蹟のようである――と、赤岩をして唸らせている。

 

 

University pennant

Wikipediaより、九州大学校旗)

 


 月の物が来なかったのも、自ずと理由が明かされた。腸の膨らみに子宮・卵巣が圧迫されて、とても正常まともに機能し得なくなっていたのが原因だ。


 田舎の娘は丈夫というが、彼女のケースは更にその中にあってさえ、非常に特殊な「例外」だったに違いない。

 

 

 

 

 


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動物園に巡る死は


 日本で初めてゾウの解剖をやったのは、帝大農科大学教授、田中宏こそである。


 明治二十六年の幕が開いて早々だった。新年いきなり、上野動物園に於いてはその「花形」を失った。寄生虫症の悪化によって、ゾウが一頭、死んだのである。石油缶に湯を注ぎ、藁を被せて湯たんぽ代わりにしてやったりもしたのだが、今やすべては無為だった。

 

 

(上野公園前)

 


 動物園では悲しみつつも、


「せめて学術参考に」


 と、愛獣の死を最大限活かすべく、解剖の手筈を整える。


 なにぶん日本で最初の試みであるということで、見学希望は引きも切らずであったとか。


 そして、当日。


 衆人環視の只中で、田中宏は汗みどろになっていた。


 たいへんな悪戦苦闘だったのだ。


(よもや、これほど――)


 ゾウの皮膚は厚い。

 

 

 


 当たりどころ次第だが、散弾程度の威力なら、肉に喰い込ませもせずに弾いてしまうこともある。


 厚くて堅いその皮膚に、用意してきた刃物では、文字通りまるで歯が立たず。――至急ノコギリを調達するなど、円滑とは程遠い、名状し難きすったもんだを伴いながらの作業であったということだ。


 現にその場に居合わせた、黒川義太郎園長による回顧だから疑いはない。


 で、サンザ苦労し摘出した内臓ハラワタを目の当たりにした一同は、それが「余り大きく珍しいので是非保存しやうと園丁が蒸気ポンプで半日掛りで漸く腸を膨らませ、天井に吊して乾燥させたのだが何時の間にか鼠に食べられて仕舞い」、こぞって臍を噛んだとか。


 忌々しき雑食性よ。


 ネズミというのはこれだから――。

 

 

Brown Rat (Rattus norvegicus)

Wikipediaより、ドブネズミ)

 


 とまれ、それはさておき、だ。


 黒川の説明に則れば、上野動物園で飼育している動物のうち、だいたい百五十匹前後が年ごとに死んで逝くと云う。


 業といっていい。生きものを飼っている以上、避けようのない結末である。


 しかしとりわけ強烈だった「死に様」は、やはり大正十二年、九月一日の大震災に於いてこそ突発した諸相であった。


 黒川義太郎は物語る、

 


「…あの震災で池の大鯉百匹が白腹を見せて浮き上り、それから二三日経ってカンガルーが三頭ばたばた斃れて仕舞ひました、よく調べて見ますと地震に余程驚いたと見えて柵の中を駈け廻り夢中になって柵に頭をぶっ附けて脳を毀したのが死の原因です」

 


 この悲劇を受け、動物園では以後というもの、動物に与える飼料について、特にカルシウムの量に気を遣うようになったとか。

 

 

Fighting red kangaroos 1

Wikipediaより、カンガルーの喧嘩)

 


 同じ過ちは繰り返さない、失敗からは学ばねば。


 賢い姿勢であったろう。


 さてこそ万物の霊長だった。

 

 

 

 

 


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愛だの恋だのよく飽きもせず、満足いくまでやりゃいいさ


 古い『読売新聞』にラブホテルの雛形めいたモノを見付けた。


 昭和六年三月十二日である、記事が紙面に載ったのは――。

 


「最近『円宿ホテル』といふのが多数現はれ安っぽいコンクリートまがひのアパートにベッドを置いて、ホテル営業を表看板とし待合ともカフェーともつかぬつれ込み客専門の宿をして盛んにエロ時代を謳歌してゐるものがあるので警視庁保安部風紀係では取締の必要を認め、管下各署からの調査意見書を二十日迄に集めることになりこの旨十一日通牒した」

 

 

JTSPC Tobacco and Yomiuri Shimbun board

Wikipediaより、読売新聞ホーロー看板)

 


 嘗てフェミニズムの権威、スウェーデンの誇る思想家、エレン・ケイ女史はいみじくも言った、性の問題は生命の問題である。又社会の幸福の問題である。これに比してはあらゆる他の問題も殆ど意味をなさない位価値に乏しいのであると。 

 

 学者が自己の専門分野を誇るのは本能的な習性ならいだが、それにつけても大胆だ。


 上田保も大ベストセラー、『趣味の法律』のさ中にて、聖書の言葉――「産めよ、増えよ、地に満ちよ」――を引用し、

 


「それはその初め天地創造の朝、神が人間に向って仰せられた言葉であった。人間は神から言ひ付かった色々な難しい外の命令は決して守らうとはなかったが、たゞ此の言葉だけは、何が気に入ったのか、極めて正直に極めて忠実に守り過ぎるほど守って来た

 


 と、小気味よく茶にしていたものだ。

 

 

(『ハチワンダイバー』より、谷生サンのありがたいお言葉)

 


 ならばしかして「円宿」という発明あるいは工夫にも、一定の価値は宿るのだろう。

 

 少なくともエログロナンセンス時代精神に呼応する、暗く微笑む退廃趣味者、当時の大衆諸君にとっては実にありがたいものだった。


 一度生まれたものは、そう簡単には死なない。


 当局が如何に規制しようと、ボロい儲けがある限り、商人どもは法の編み目の抜け途を執念かけて見つけだす。無ければ無いで強引に綻ばせてでも突破する。


 円宿もまた生命いのちを繋ぎ、ラブホテルへの系譜を為した。グレーゾーンを攻める悦楽。これはこれで、見応えのある「出し物」だ。

 

 

 

 

 


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敗戦国のみじめさよ ―そしてハーケンクロイツへ―


『読売新聞』は幸運だった。


 大正十年、彼らは期するところあり、ちょっと特殊な展覧会を開催ひらくことに決めている。


 特殊とは、むろん出展される品。


 第一次世界大戦中に帝政ドイツが刷り出したプロパガンダ・ポスターである。戦意高揚、スパイ警戒、エトセトラ。偉大なる勝利に至らんと智慧の限りを振り絞り、作製された掲示物。センセーショナルな「張り紙」の、同社が蒐集・保管するありったけ・・・・・を世間の耳目に晒さんと、そういうことを企画した。


 彼らの視角に基けば、今の日本に何より欠けているものは、宣伝戦の心得だからだ。

 

 

プロパガンダに余念のないチャップリン

 


 仕掛けるにせよ、邀撃にせよ、技術的に拙劣すぎる。ここは一番、よき「教師役」を得るべきである。それにはやはり、ドイツに如くはないだろう――。

 


「ドイツが先に連合軍に四方より包囲せられながら、飽くまで奮闘し、能く五年間の苦戦に堪へ得たものは、畢竟此のポスターを最も巧に、且最も有効に利用した結果に外ならぬ。(中略)…仮令軍事上の準備が如何に行届いてあったにもせよ、戦時中士気の鼓舞や、敵愾心の激励を怠ったならば、ドイツはモット早く敗亡したに相違ない。然るにドイツは外に向って軍事的に奮闘したばかりでなく、内に対しても大に此宣伝に努めた。而してポスターは此の宣伝事業の最も大切なる機関として利用されたのである

 


 上がすなわち『読売』自身の筆による、開催理由に外ならぬ。


 さて、冒頭の「幸運」である。


 読売新聞社にとって極めて都合よろしきは、当時の東京市長の椅子に後藤新平が座っていたことだった。

 

 

Shimpei Gotō

Wikipediaより、後藤新平

 


 企画家であり、精気充実、行動力の塊めいた彼である。『読売』が申請書を提出するなり案の定、盲判を押す機械たるに飽き足らず、


「いいではないか、いい試みだ、是非とも協力させてくれ」


 顔をぐっと近付け、言った。


 打てば響くとはこのことか。

 


「活動するは我にあり、成否は天にあり、人生の目的は安楽境に達せんとするにあらずして、価値ありて正しく生涯を送るための努力にある、余念なく働くところにある」

 


 過去にこういう意志表明を行っているだけはある。


「戦時中、ドイツ人が必死こいて案出した代用品を、俺はコレクションしていてね――」


 この際そいつも陳列ならべてくれ、と。


 市長の熱気に『読売』担当者の方が、却ってたじろぐ始末であった。

 

 

(WWⅠ、開戦当時のベルリン)

 


 展覧会は大盛況裡に終わったらしい。

 


「戦時中極端なる物資欠乏に窮迫したるドイツは、種々の日用品を紙で製出し、之を代用した。カラー、ホワイトシャツは勿論、衣類もカーペットも窓掛も、乃至は食器類に至るまで、悉く紙で製して、之を用ゐて居た。後藤男の出品中には斯様な珍しいものがある。後藤男の出品は、産業方向に取っても大なる参考資料となったに相違ない。吾人は此機会に於て深く男の好意を謝するものである

 


 後日の紙面で、感謝のことばが述べられている。


 一方そのころ、当の敗戦ドイツでは――。


 炭酸水の泡みたく、不幸な事態が次から次へと湧いていた。

 

 

(ドイツ議事堂)

 


 某工場の有能技師がアルミニウムの使い方に妙を得た新機軸の飛行機翼を設計し、組み立ても済みいよいよ実証実験を行おうとした矢先。なんの事前連絡もなく「連合国の委員」を名乗る一団が急にぞろぞろやって来て、例の試作機を睨め上げるや、


「重大な協定違反だ」


 軍事に関わる、こんな危ない研究をお前たち敗戦国民がしてはならぬと通告、あるいは叱責し、一切の弁明を聞かずして、その場で爆破・解体処分を行った。


「あっちは最近、そういうことばかりだよ」


 と、東京帝大工学部教授・横田成年がやはり『読売新聞』記者を相手に物語ってくれている。


「だからこそ」


 と、更に横田は語を継ぐに、

 


今日のドイツ人は学術の研究よりも先づ如何にして我が身を保護するかを考へねばならぬ窮状である、日本に来る事を非常に喜んでゐるといふ事であるから此の際どしどし傭聘して戦時中に蓄へた優秀な研究に接すべきである

 


 第二次世界大戦後、ナチの優秀な科学者がアメリカにもソ連にも引く手数多だったという例の逸話を想起せずにはいられない、こんな意見を以ってした。

 

 

(『Call of Duty: WWII』より)

 


 先見の明があったのだろう。


 具眼者なりと称讃するに、些かの迷いも不要であった。

 

 

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春畝を偲ぶ ―伊藤博文、その巨影―


 偉人が語る偉人伝ほど興味深いモノはない。


「評するも人、評せらるるも人」の感慨をとっくり味わえるからだ。


 福澤諭吉は『時事新報』の記事上で、伊藤博文を取り扱うに国中稀に見る所の政治家という、きらびやかな言を用いた。「政治上の技倆を云へば多年間政府の局に当りて自から内外の事情に通じ、或は失敗もし或は成功もしたる其間に、あらゆる政界の辛酸苦楽を嘗め盡して今日に至りしことなれば、事の経験熟練の点に於ては容易に匹敵するものを見ず。殊に日本の憲法制定に参して最も力あるの一事は内外人の共に認むる所にして、其功労は永久歴史上に滅すべからず云々と。

 

 

 


 べた褒めである。


 満艦飾といっていい。


 まるで鳴りやまぬ喝采だ。


 明治十四年の政変で拗れたとされる両者の仲も、とどのつまりは「時」が癒したらしかった。少なくとも福澤諭吉の態度には、軟化というか、幾らかの歩み寄りが見て取れる。


 民本主義の提唱者、大正デモクラシーという巨大なうねり・・・の導き手、言わずと知れた吉野作造その人も、こと伊藤公に関しては、福澤諭吉と同じ立場に立っていた。


 共に語るに足る器量うつわ、維新政府発足以来おそらくは、最高の資質の持ち主と――。

 


一代の政治的天才伊藤公はあの頃から段々自由主義の政治家となり掛けて居た。憲法創設の当初、彼は所謂超然内閣論を固執し、議会に対しては飽くまで高圧手段を以て臨んだ。それにも拘らず日清戦争後になると彼の態度は段々変って来た。此処に彼の偉い所がある。普通平凡の政治家は、一度通った道を万代不易と思ひ迷ふて遂に時勢の取り残す所となり、古い頑迷思想で盲想するを常とするものだが、独り伊藤公のみは一歩先んじて時勢を指導するの態度に出でんとしたのは――仮令未だ十分徹底はしなかったとはいへ――我々の常に敬服して措かざる所である」

 

 

Yoshino Sakuzo 01

Wikipediaより、吉野作造

 


 星新一も見逃せぬ。


 ショートショートの雄として、おそらくは向こう百年ずっと誰にも越せぬ高みにたたずむこの人は、ノンフィクションも実は能くした。


 その著『明治の人物誌』中で伊藤公を語るに際し、星新一はこれこの通り、

 


「私は、世の中には短く要約できないものはないという意見の持ち主だが、伊藤博文にはそれが適用できない。こんな人間が存在したのか、である」

 


 見ように依っては「兜を脱いだ」、脱帽とも取れなくもない、異様な告白をやっているのだ。


 更に読み進めてゆくと、

 


「明治期の日本という、どこへ暴走するかわからないしろものを、彼は巧みにハンドルをあやつり、ブレーキをかけ、安全運転をやってのけた。みごとなものである。それにしても、こんなにも描きにくい人間は、めったにいない。
 しかし、政治家はこうあるべきなのだろう。波乱万丈の人物は書くほうも読者も楽しいが、そんなのに政治をやられた場合、大衆はおおかた好ましい状態ではないのだ」

 


 福澤、吉野、前二者と、やはり同趣旨の太鼓判が押してあるのが見出せる。


 伊藤博文、鍍金にあらず。真に一流の人物だ。

 

 

 


大日本帝国皇帝陛下
 神聖叡武遠く東洋の平和を慮り、重臣大勲位侯爵伊藤博文を統監として弊邦政務の指導啓発に任ぜしむ、而して今春着任以来画策せる施政の改善により、従来の弊政を一掃し、面目を一新したるは、朕の深く欣ぶ所なり、尚将来益々弊邦を扶植誘掖して其効果を収めしめんことを」

 


 おっと、しまった、変なのを紛れ込ませちまった。


 これは明治三十九年、韓国皇帝・高宗が明治大帝に宛てた親書だ。


 然り、高宗。ジョージ・ケナン「朝鮮王は朝鮮人独特の陰謀性を持っている上に、赤子の如く無神経で、ボーア人の如く執拗で、支那人の如く蒙昧で、そうしてホッテントット人の如く虚栄心に満ちた男だ。伊藤公のような公正を尊ぶ文明流の政治家は、きっとこの無節操な利巧者に篭絡されるに違いない」と危惧された、まあ札付きの彼である。

 

 

(李王家博物館)

 


 これだけ媚びた感謝状を送っておいて、その裏側ではハーグ密使事件のような陰謀回しに齷齪していたわけだから、ケナンの予想は過たず的を射ていたわけだろう。


 そりゃあ伊藤博文自身、

 


詭言妄語些かの信義なきは韓国上下の常なり、今回の事件に付韓国を合併すべしとの論あるも合併の必要はなし、合併は却て厄介を増すばかり何の効なし、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべきなり」

 


 朝鮮人に半ば愛想を尽かしたのもむべなるかなだ。


 顔をメタクソに潰された上、そのうえ更に安重根の大馬鹿野郎にたったひとつの生命いのちまで無惨に奪われるのだから、馬鹿々々しいにも程がある。伊藤公にしてみれば、やってられない話であろう。

 

 

Ito before death

Wikipediaより、暗殺直前の伊藤)

 


 接触するものすべてに厄が降りかかる。活きた大凶そのものだ。つくづくあの民族と関わるべきではないらしい。

 

 

 

 

 


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「幻華在目十四年」 ―秋田小町と犬養毅―


 正岡子規とて身体が自由に動いた頃は遊里にふざけ散らしたものだ。

 

 況や犬養に於いてをや。


 明治十年代半ば、犬養毅は特に招かれ、東北地方の日刊紙、『秋田日報』の主筆として活動していた時期がある。「才気煥発、筆鋒峻峭、ふるゝ者みな破砕せり」とて衆の威望をあつめたものだ。

 

 

(秋田のなまはげ

 


 それと同時に土地の名歌妓・お鐵にめちゃくちゃ入れあげて、交情熱烈大紅蓮であったのも、蓋し有名な逸話はなしであろう。


 明治の青年たちにとり、艶彩迷酒の歓楽はほとんど通過儀礼の一種。酒で腸を焼き鉄拵えにするのと一般、娼妓おんなの肌に触れてこそ、志は磨かれる――と、大真面目に主張したとて誰も不審に思わない、大仰な倫理問題を惹起せずに赦される、そんな雰囲気、空気であった。


 よって犬養木堂の、やがて大日本帝国の首相にまで登り詰めるこの人物の秋田時代の行状も、不真面目なりと責められるには及ばない。後ろめたさを感じる必要性もなく、大いにやったようだった。

 

 

(秋田の女性)

 


 斯くて結ばれた両者の仲は甚だ深く、また固く。


 昵懇と呼ぶに些かの躊躇も挟むに及ばないもので、最大の試練、時の流れに対してすらも二人の絆はよく耐えた。


 それを示す佳話がある。


 犬養毅が秋田を去って十数年後が、すなわち舞台背景だ。


 中央で声価を稼ぎまくった犬養は、もはや一介の書生にあらず、堂々たる政客に羽化変身を遂げており。


 在野大政党の領袖として東北地方を行脚演説する途上、自然な流れで秋田に入り、主筆時代の旧交を大いに温め合っている。

 

 

The Akita Sakigake, headquarters 04

Wikipediaより、秋田魁新報社

 


 もちろん嘗ての「想いもの」たるお鐵とも、顔を合わせる機会をもった。


 その席上で、犬養は漢詩うたを詠んでいる。


 極めて私的なその漢詩うたを、他人の寝所をこっそり覗き見るような後ろめたさを覚えつつ、しかし、やっぱり、それでも敢えて、以下に掲げて置きたく思う。

 

 

憶昔曼陀羅坊中選
阿鐵才色名最顕
満城少年競豪奢
不愛千金買一眄

 

吾會一見如舊知
為吾慇懃慰客思
尚記旭川春雨夜
又記池亭別離時

 

雲山重々路萬千
幻華在目十四年
如今相見先恐問且答
不禁為汝靑衫濕

 

 

Inukai Tsuyoshi

Wikipediaより、犬養毅

 

 

 犬養毅人間性


 世に立つ上でひどく大事な「情味」の部分に触れられる、好個のエピソードであった。

 

 

 

 

 


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