穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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藩政小話 ―南部盛岡馬市場―


 毎年八月晩夏のみぎりに達すると、南部盛岡城下の街は俄かに騒がしさを増して、士農工商のべつなく誰も彼もが気忙しそうに動き出す。


 江戸から客が来るためだ。


「将軍家用馬買上」のため、白河関をくぐり抜け、日本列島の上半身をはるばると、公儀役人の一団が――。

 

 

江戸城桜田二重櫓)

 


 南部藩にしてみれば、これほど名誉なことはない。


 わが郷里たる甲斐国にも類似の噺は伝わっている。将軍様の膳部に添える箸の用材、柿であったか、ともかくそれを献上したということで、誇らしげに語る古老が昭和初期まで何処ぞの村に居たはずだ。


将軍くぼう様ご愛用」のブレンドは、それほどまでに強いのである。


 ましてや乗馬のりうまともなれば、両刀に勝るとも劣らない、武士にとっての表道具。箸とは文字通り「重み」が違う。それだけに客を迎える南部人の緊張は、一方ならぬものだった。


 領内各地隅々より良馬がこぞって集められ、じっくり検分された後、特に優れた数頭のみを公儀役人が買い上げる。選に漏れた数多の馬は、しかし決して骨折り損にはなり得ない。


 公儀役人とは別に、これを狙って全国各地の馬商どもが集結しているからである。将軍家用馬候補として出す以上、性質の優良は保証済み。皆、大安心で買ってゆく。たちまちにして完売御礼。一連の流れを誰はともなく「日市」と呼んで、彼の地に於ける馬市の嚆矢たるべき枠組だった。

 

 

 


 元禄以降、将軍家用馬買上の儀は多少改定を加えられ、調達先も変更されて、公儀役人が毎年八月、南部城下を訪れる風も廃れたが。馬商どもは相も変わらず時期になると集結し、「日市」を開いて交易に華を咲かせ続けた。


 習慣の根強さを能く物語っているだろう。


 一度成立してしまったら、そう易々と消え去らぬ。当初の目的すら超えて、変形しながら生き残る。「日市」も確かに生き残り、南部馬の勇名を六十余州に轟かせるのに計り知れない貢献をした。


 が、あながち功績ばかりではない。


 問題も生んだ。そのあたりの機微につき、久方ぶりに『農業事物起原集成』を捲ってみると、

 


「盛岡では桜馬場で馬商が日市を開き各藩牧の二歳牡馬を集め其の中から本丸へ献上の馬、藩牧、民政種馬及び藩主乗用馬等を選び、次に上駒として二十五頭、差替として十五頭を抜き、残りを一般に払下げたものである。従って良馬産出を奨励し、里馬(民有馬匹)の生産が頗る多く、二歳以上の牡馬は良馬蕃殖に妨害があると云ふので放牧を禁止されたから、使役に供するものゝ外は無用といふので所々に棄て、或は河川に投じたり山に屠ると云ふ残酷な有様であった

 


 ざっとこのように述べている。

 

「馬は血統がすべて」という根本義に則って、出来の悪いのは片っ端から殺処分して顧みなかったわけだろう。屍骸の処理もロクにせず、そこいらじゅうに放置した。


 領民どもの現出せしめた酸鼻極まる情景に、むしろ藩当局の方が驚き、おぞけをふるい、とりいそぎ「棄馬厳禁の制札を各地に建て同時に里馬二歳の牡の販売方法を案出して領内各代官所在地に馬市場を設け糶駒せりごまを開始したのが今日の産馬組合の起源である」とも。

 

 

Japanese Crest Nanbu Turu

Wikipediaより、南部氏家紋)

 


 してみると明治の初年にみられたような、馬を家族の一員として可愛がる南部人の情け深さは決して自然発生的の代物でなく。指導に宜しきを得た結果、百数十年の歳月をかけ、ゆっくりじっくり丁寧に涵養されたものだった。

 

 南部藩の手並みや見事。人間という厄介至極なケダモノを、よくぞここまで撫育した。藩政史の白眉として、これは讃えられていい。

 

 

 

 

 


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