穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

井上円了のうたごころ

「妖怪博士」「化物先生」「幽霊の問屋」――。 これらの渾名はいずれも井上円了に冠せられたものであり、明治の中ごろには既に相当広く人口に膾炙していたらしく、円了が地方を巡遊すると、決まってその極彩色の看板に誘引された奴がいて、妖怪の説明やら怪談…

井上円了の見た明治日本 ―川のない島、伊豆大島―

明治四十四年発行、『日本周遊奇談』を読んでいる。 「妖怪博士」、井上円了の著した本だ。 東洋大学の前身に当たる「哲学館」を創設した男でもある。 本書は円了の口述を人をして筆記させたものだけあって、非常に平易で読みやすい。 現代文を読み進めるの…

アミアンのピーター ―Peter of Amiens―

またの名を、「隠者ピエール」。 なにやらダークソウルにでも登場しそうな名乗りだが、歴とした実在の人物である。 ある意味で、中世ヨーロッパ屈指の弁舌家といっていい。 なにしろ彼は、あの(・・)十字軍の先導者だ。 およそ200年にも及ぶ、聖地奪還を大…

夢路紀行抄 ―八面玲瓏―

夢を見た。 富士を仰ぐ夢である。 確か、借りていたDVDの返却期限を勘違いしていたのが事のはじまりだったと思う。てっきり明日だと思い込んでいたのが、今日だったのだ。 あと六時間もすれば、延滞料として余計に金をとられてしまう。 (これはいかぬ) と…

デモステネスの大雄弁 ―下・その最期―

デモステネスとは、いったい何者なのだろうか。 崩れ落ちんとする前時代の社稷を支えたいが一心で、物狂いしたように叫びまわり駈けまわり、あくまでも新体制を拒絶する――。 狂瀾を既倒に廻らさんと憑かれたように足掻いてのける、この種の保守的情熱の持ち…

デモステネスの大雄弁 ―中・信念編―

他の一切を犠牲にし、我が身の骨すら縮めるような、これらおそるべき修練の跡から後世の批評家たちの中にはデモステネスを天才と認めず、ただひたすらな努力の人と論断した者とて少なくない。 だが、才能とは持続する情熱のことを言うであろう。 その観測に…

デモステネスの大雄弁 ―上・修練編―

ギリシャ文学の研究がホメロスを抜きにしては成り立たぬように、当時の雄弁を語る上で、どうしても避けて通れぬ名前がある。 デモステネスがそれである。 (Wikipediaより、デモステネスの胸像) この男がアテネの生んだ最大の雄弁家であることは間違いない…

夢路紀行抄 ―焼け跡―

よほど現状に不満があるのか、夢の私は学生時代に戻っている率が非常に高い。 今日の夢もそうだった。といっても、正確には半々だが。 修学旅行生として荷造りをし、バスに乗り込んだところまではよかったのだが、座った席はどういうわけだか運転席。子供の…

わらべうたに顕れたる幼さゆえの残酷さ ―生田春月の童心論―

蝙蝠こ蝙蝠こ汝(にし)が草履(ぢょうり)はくそ草履俺が草履は金(かね)草履(ぢょうり)欲しけりゃ呉れべえや およそ一世紀前、明治・大正の昔。 鄙びた地方の子供たちは、こう歌いつつ下駄や草履といった履物を蝙蝠めがけて蹴り飛ばしていたという。 歌…

教祖みなこれ雄弁家 ―oratory―

「雄弁」を意味する英単語を捜索すると、「oratory(オラトリ―)」に行き当たる。 ラテン語の「Oratoria(オラトリア)」から派生し来った英単語だ。 更にこの「Oratoria」を遡ると、その淵源が「orare(オラレ)」という、やはりラテン語にあることが判明す…

春月による「自然愛」分析

感傷の詩人・生田春月は自然愛の源を大きく二つに分けている。厭離の心と、人間憎悪だ。 厭離の心は、人間憎悪の心では決してない。けれど、自然愛は、人間憎悪の反動である場合もある。例へば、バイロンの如きである。そして、西洋の詩人には、この方がむし…

「いよいよ敗戦国らしくなってきた」 ―二つの「戦後」を見た男たち―

大東亜戦争の激化につれて上野動物園で飼育されていた猛獣たちが殺処分を受けたことは、土家由岐夫の『かわいそうなぞう』等によって有名だが、同様の事態は欧州大戦当時のドイツに於いても起きていた。 貴族院勅選議員、大阪商工会議所会頭、稲畑勝太郎がそ…

神秘なるかな隠れ里 ―霧中衆・風波村―

デンマークの文芸史家、ゲーオア・ブランデスはその名著『ロシア印象記』に於いて、ロシア人の放浪好みな性癖に触れ、その淵源を、この国の自然のあまりにも雄大な単調さにこそ見出した。「茫漠とした曠野に断えず彼方へ彼方へと人を誘う魅力がある。限りな…

医療教会垂涎の逸材、小酒井不木

医者にして哲学者たるものは神に等しい。 ヒポクラテスのこの言葉を引用し、小酒井不木は医師のみならずあらゆる学者・研究者はなべて哲学を備えねばならぬと力説した。そうであってこそ学問の発達は促され、人類全体の幸福が増進される結果にも繋がるのだと…

夢路紀行抄 ―軟体動物―

夢を見た。 山の中の夢である。 ふと気が付けば私は独り登山に勤しんでおり、強烈な斜度の鎖場を、滑落の恐怖と闘いながらひいこら喘いで攻めていた。 やっとの思いでそこを越えると、千古斧鉞を加えざる老樹の緑のその中に、ひどく不似合いなものがある。 …

戦い続ける歓びを ―身体が闘争を求めた男、小酒井不木―

「闘争を喜ぶのは人間の本性であります。人間の筋肉や骨格の如きも、みな、闘争に役立つやうに作られて居ります。闘争のない所に人間はなく、又人間の進化もありません。 闘争には、勝利と敗北が付随します。さうして、勝利は嬉しいものであり敗北は厭なもの…

夢路紀行抄 ―浮気者―

夢を見た。 父親が死ぬ夢である。 風邪をこじらせぽっくり逝ってしまったと電話口で知らされて、慌てて帰省してみれば、なんたることか私を出迎えてくれたのは、馴染み深いキジトラ柄の愛猫ではなく、すわ狼かと見紛わんばかりの精悍な顔つきをした柴犬だっ…

共産主義者七変化

1901年、日本最初の社会主義政党、社会民主党が幸徳秋水らの手によって組織され、当局から即座に禁止処分を食らった際の出来事だ。同じ社会主義者の某から、幸徳は奇妙な注意を受けた。 「君も頓馬なことをしたな。社会民主党などと名付ければ、禁止されるこ…

「数え唄」撰集

一にいづめられ 二に睨められ 三にさばかれ 四に叱られて 五にごきはぎ洗ひすすぎさせられて 六にろくなもの被せられないで 七に質屋にちょとはせさせて 八にはづかれ 九にくどかれて 十にところをほったてられた 青森県は弘前に歌い継がれる数え唄。「津軽…

英国新聞協会会員、楚人冠

杉村楚人冠とイギリス新聞界との関わりは深い。 なにせこの男、イギリス新聞記者協会の在外会員という肩書まで持っているのだ。 だから日本に居ながらも英国事情に巨細に通じ、彼の地のマスコミ界隈に於いてある種の廓清運動が始まった時も、その報せはちゃ…

夢路紀行抄 ―ドラッグストアのウィッチャーゲラルト―

夢を見た。『ウィッチャー3』の主人公、リヴィアのゲラルトが日本の市街でラグビー選手に化けていた吸血鬼と死闘を繰り広げる夢である。 やがて角を切り落とされた吸血鬼は――どういうわけかこの吸血鬼には額から、角が一本、それも瘤だらけで血管の浮き出た…

日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―後編・下―

やや話は脇道に逸れるが、この杉山の観測とよく似たモノを抱いていた人物を思い出したので触れておきたい。 「日本資本主義の父」、渋沢栄一その人である。 (Wikipediaより、渋沢栄一) 上記の異名をとるだけあって、渋沢は大日本帝国の資本主義的能力を極…

日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―後編・上―

長州人で「桂」と聞くとどうしても、桂小五郎――木戸孝允――の名前の方がまず浮かぶ。 (Wikipediaより、木戸孝允) 晦渋な顔をした男である。 このイメージが先行するあまり、ともすればもう一人の「桂」の方とごっちゃになって、太郎(・・)を小五郎(・・…

日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―中編―

「軍備は無論装飾である、但し美術的に於てでなく、威力的に於て装飾である」 明治三十四年刊行の、橋亭主人著『兵営百話』に於ける一節である。 模範的といっていい。少なくとも近代国家に於て、「軍」とは斯くの如き位置付けを受けるべきものだ。 伊藤博文…

日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―前編―

裏面に杉山茂丸の策動があったとされる事件・政変の類はまったく枚挙にいとまがないが、わけても特に大規模であり有名なのは、やはり児玉源太郎・桂太郎と手を組んで、日本の前途を、やがて対露戦争へと至らしめるべく導いてのけた政治劇の一幕だろう。 満洲…

怪傑杉山茂丸翁

ここのところ幾日か、「其日庵」杉山茂丸について書こうとして、しかしそのたびにモニタの前で途方に暮れるというのを繰り返してきた。 貌が多すぎるのだ、この男には。 正しく「怪傑」の呼び名が相応しい。 その所為で、どこから手を着ければよいものやらと…

海南、楚人冠、紀州人

下村海南の随筆には杉村楚人冠が、楚人冠の随筆には海南が、それぞれしばしば登場し、発見者の私をして「おっ」と瞠若たらしめる。 前者の例を引くと、 昨年(筆者註、昭和九年)のことと思ふ、同人杉村楚人冠翁が十和田湖から八幡平を探勝して田尻湖へでも…

奴隷騎士哀歌

「私は求める。常に何ものかを求めずにはいられない。しかし、本当に私の求めてゐる最後のものは、表現することによってのみ、即ち生きることによってのみ、近づくことが出来るのだ」「私は求める最後のものへと近づいてゆく。しかし、その最後のものはつひ…

明治三十一年の台湾旅行 ―下村海南の見た景色―

下村海南がはじめて台湾の土を踏んだのは、明治三十一年、彼が二十四歳の折。 東京帝大を卒業し、逓信省に入りたての頃であり、本人の言を借りるなら、「別に会社を訪問するでもなし、取調らべるといふでなし、いやせねばならぬといふではなし。一逓信属とし…

戦前の男女共学校

大日本帝国時代の学制といえば、「男女七つにして席を同じゅうせず」との儒教道徳を遵奉して、性別により学び舎はおろかその教科内容まで劃然と区別されていたというのがまず一般的な認識だが、何にでも例外はつきものとみえ、所謂「今風」な男女共学校とい…