穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

青年犬養、老境木堂 ―「出鱈目は書の極意也」―

「この命知らずの大馬鹿者め!」 戦場から生還した教え子に、師は特大の雷を落とした。 教師の名は福澤諭吉。 生徒は犬養毅であった。 (犬養毅) 明治十年、西南の地に戦の火蓋が切られるや、新聞各社はほとんど競うようにして自慢の記者を現地に派遣、刺激…

世に混沌のあらんことを

第一次世界大戦は悲惨であった。 人類の歴史を一挙に二百五十年跳躍させる代償に、ドイツだけでも二百五十万人近い国民が、犠牲となって散華した。 いい若いものが、大勢死んだ。 その「若いもの」の死体から、まだ瑞々しい二個の睾丸(タマ)を切り取って、…

お国の大事だ、金を出せ ―債鬼・後藤象二郎―

新政府には金(カネ)がない。 草創期も草創期、成立直後の現実だった。 およそ天地の狭間に於いて、これほどみじめなことがあろうか。国家の舵を握る機関が無一文に等しいなどと、羽を毟られた鶏よりもなおひどい。まったく諷してやる気も起きないみすぼら…

ルサンチマン 対 男の世界

大阪の街の風物詩、中学連合運動会から優勝旗が消えたのは大正四年以後である。 市岡中学の一強体制、同校が頂点に君臨すること六年連続に到達したのが直接的な原因だった。 (Wikipediaより、府立市岡高等学校。市岡中を前身とする) 「常勝」という言葉ほ…

夢路紀行抄 ―クリーニング―

夢を見た。 清掃作業の夢である。 最初は確か、スケルトンの処理だった。 骨の怪物、生者を狙う死霊の一種、バラバラになったその残骸を拾い集めて、作業台の上に載せ、槌を思い切り振り下ろす。どんなに優れた考古学者でも復元不能な、粉末状に成り果てるま…

勲を立てよ若駒よ ―軍馬補充五十年―

ドイツ、百十五万五千頭。 ロシア、百二十万一千頭。 イギリス、七十六万八千頭。 フランス、九十万頭。 イタリア、三十六万六千頭。 アメリカ、二十七万頭。 以上の数字は各国が、第一次世界大戦に於いて投入したる馬匹の数だ。 合わせてざっと四百六十六万…

ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ! ドゥーチェ! ―ムッソリーニ1939―

ムッソリーニは本気であった。 周囲がちょっとヒクぐらい、万国博に賭けていた。 一九三九年、サンフランシスコで開催予定のこの祭典に、ドゥーチェは己が領土たるイタリア半島が誇る美を、あらん限り注入しようと努力した。 フィレンツェ市所蔵、ボッティチ…

続・外から視た日本人 ―『モンタヌス日本誌』私的撰集―

ジャン・クラッセは日本に関する大著を編んだ。 しかしながら彼自身は、生涯日本の土を踏んだことはなかったらしい。 かつて布教に訪れたスペイン・ポルトガル両国の宣教師たち、彼らの残した膨大な年報・日誌・紀行文等を材料に、『日本西教史』を完成させ…

外から視た日本人 ―『日本西教史』私的撰集―

極東に浮かぶ島国という、地理的事情が無性に浪漫を掻き立てるのか。ヨーロッパの天地に於いて日本国とは永いこと、半ば異界めくような興味と好奇の対象だった。 需要に応える格好で、近代以前、西洋人によって編まれた日本の事情を伝える書物は数多い。 『…

富士と山梨

霊峰富士は、ある日とつぜん出現(あらわ)れた。 まるで太閤が若いころ、墨俣で演じた奇術の如く。それはほんの一夜のうちに忽然と聳え立っていたのだと、そういう俗伝が山梨県の各所にはある。 特に郡内、都留のあたりにこそ多い。 地名の由来と、往々にし…

山中暦日あり ―富士五湖今昔物語―

山中湖には鯉がいる。 そりゃもうわんさか棲んでいる。 自慢なのは数ばかりでない。 体格もいい。二貫三貫はザラである。どいつもこいつもでっぷり肥えて、下手をすると五貫に達するやつもいる。 「そりゃちょっと話に色を着けすぎだろう」 永田秀次郎が茶々…

日本民家園探訪記

驚いた。 川崎に、押しも押されぬ首都圏に、人口百四十五万の都市に、 まさかこんな和やかな、藁ぶき屋根の家並みがあるとは。 意外千万そのものである。 ここは日本民家園、生田緑地の一角を占める「古民家の野外博物館」。北は奥州・岩手から南は鹿児島・…

日露戦争士気くらべ

ロシアの兵士は昔から、味方の負傷を喜んだ。 近場のやつが血煙あげてぶっ倒れれば、そいつを後送するために、きっと人手が割かれるからだ。ああ願わくば我こそが、光輝あふるるその任にあずかり賜らんことを。なんといっても合法的に前線を離れるチャンスで…

水のほとりの旧き神

一説に曰く、大津(おおづ)は大水(おおず)であるという。 現今でこそ熊本県菊池郡大津町として人口三万五千人、天高くして地は干され、交通四通八達し、道の駅には特産物たるサツマイモの加工品がずらりと並び、駅前にでんと鎮座するイオンモールが日々の…

つれづれ撰集 ―意識の靄を掃うため―

季節の変わり目の影響だろうか、鈍い頭痛が離れない。 ここ二・三日、意識の一部に靄がかかっているようだ。脳液が米研ぎ水にでも化(な)ったのかと疑いたくなる。わかり易く、不調であった。 思考を文章に編みなおすのが難しい。埒もないところで変に躓く…

玲瓏透徹、甲斐の湧水

人間、一生涯に一度ぐらいは自分の故郷を旅人の眼で観るべきだ。 いつも通る道沿いの、風景に過ぎなかったホテルに泊まり、ガイドブックでも片手にしつつじっくり歩いてみるがいい。 きっと新しい発見がある。そう嘯いたやつがいた。 正月、初詣を済ませるな…

山は踏みたし命は惜しし ―東西熊害物語―

不運な男がいた。 銃を携え、狩り場に進み出、首尾よく獲物を発見し、急所めがけて引き金を落とす。 何百回と繰り返してきた動作であった。 ところがこの日、山脈みたいに隆々と盛りあがった筋肉を持つ熊を向こうに回したる、この瞬間のみに限って銃は彼を裏…

濃尾地震と福澤諭吉 ―「明治」を代表する個人―

募金という行為について、もっとも納得のいく説明を聞いた。 例によって例の如く、福澤諭吉からである。 明治二十四年十月二十八日、日本が揺れた。本州のほぼ真ン中あたり、濃尾平野で地震が発生。放出されたエネルギーは、マグニチュードにして8.0、内陸地…

虎と山伏、猫科の怨み

虎は獅子より先に来た。 上野動物園の話をしている。 百獣の王の来園は二十世紀突入後――西暦一九〇二年、元号にして明治三十五年まで待たなければならなかったが、虎はそれより十五年も先駈けて、この地であくびをかいている。 (Wikipediaより、上野動物園…

才子たち ―森有礼と石田三成―

英国籍の商船が、荷降ろし中に誤って石油樽を海に落とした。 当時の世界に、ドラム缶は未登場。ネリー・ブライがそれをデザインするまでは、もう十三年を待たねばならない。 (Wikipediaより、ネリー・ブライ) 落下着水の衝撃に、ドラム缶なら堪えたろう。…

明治のNIMBY ―伝染病研究所が芝区に与えた波紋について―

時は明治二十六年、芝区愛宕町の一角に伝染病研究所が建設されつつあった際。同区の地元住民が巻き起こしたる猛烈な反対運動は、わが国に於けるNIMBY(ニンビー)の嚆矢と言い得るか。 (芝公園増上寺) NIMBY。 Not In My Backyardの頭文字から成立する概念…

風去りてのち ―品川霊場古松之怪―

東京を尋常ならざる風雨が見舞った。 明治十三年十月三日のことである。 季節柄から考えて、おそらく台風だったのだろう。 瓦は飛び、溝は溢れ、街のとっ散らかりようは二目と見られぬまでだった。 品川区の霊場たる東海寺では、樹齢百年をゆう(・・)に超…

日本人と禁酒法 ―「高貴な実験」を眺めた人々―

禁酒論者の言辞はまさに「画餅」の標本そのものである。 一九二〇年一月十七日、合衆国にて「十八番目の改正」が効力を発揮するより以前。清教徒的潔癖さから酔いを齎す飲料を憎み、その廃絶を念願し、日夜運動に余念のなかった人々は、酒がどれほど心と体を…

ある汁粉屋の死 ―浅草観音老木之怪―

北村某は汁粉屋である。 立地はいい。浅草観音の裏手に於いて、客に甘味を出していた。 店の敷地に榎の枝が伸びている。 根元は塀の向こう側、寺の境内こそである。 樹齢は古い。幹は苔むし、うろ(・・)となり、それでも季節のめぐりに合わせて艶やかな葉…

九州の熊、月の輪の呪詛 ―古狩人の置き土産―

天性の狩人と呼ぶに足る。 猪の下顎、つるりと綺麗に白骨化したその部位を、所蔵すること二百以上、特に形の優れたやつは座敷の欄間にずらりと架けて雰囲気作りのインテリアにする、そういう家に生まれ育った影響か。 久連子村の平盛さんは、ほとんど物心つ…

赤い国へ ―鶴見祐輔、ソヴィエトに立つ―

革命直後のペテルブルグでとみに流行った「遊び」がある。 凍結したネヴァ河の上で行う「遊び」だ。 それはまず、氷を切って下の流れを露出させることから始まる。 (冬のネヴァ河) これだけ聞くとワカサギでも釣るみたいだが、しかし穴の規模はずっと大き…

おひざもとの蓆旗

――あのころの江戸は酷かった。 遠い目をして老爺は語る。 彰義隊の潰滅直後、「明治」と改元されてなお、人心いまだ落ち着かず、荒れに荒れたる百万都市の有り様を。 その追憶を、落ち窪んだ眼窩の底に満たし、言う。 私の十五六の時分ですから、今から六十…

同時代人の二・二六批判

序文に惹かれた。 表紙をめくって三秒で、魂をガッチリ絡めとられた。 所謂二・二六事件は例に依って支配階級の打倒、財閥勦滅の叫聲を天下に漲らせたのである。彼等は壮語して国家改造の重任に当らんと云ひ、所謂愛国的熱情を以て挺身せりと自負してゐるの…

鶴見と笠間 ―一高生たち―

言葉は霊だ(・・・・・)と鶴見祐輔は喝破した。 外国語の修得は、 単語を暗記し、 文法を飲み込み、 発音をわきまえ、 言語野に回路を作れても、 それだけではまだ不十分。 いや、学校のテストで合格点を取ることだけが目的ならば、それで十分「足る」だろ…

桃色遊戯と紅血代価

オランダで日本人が殺された。 明治十八年のことである。 被害者の名は桜田親義、その身上は、一介の観光客にあらずして、留学生ともビジネスマンともまた違う。 公使であった。 現地に於ける外交上の窓口であり、「日本の顔」と称してもあながち誇張にはあ…