穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

挑発には挑発を ―英国貴族と労働者―

「戦争は富める者をいっそう富ませ、貧しき者をより貧しく、唯一の資本たる健康な肉体さえ損なわしめた。金欲亡者がぶくぶく肥り、我が世の春を謳歌する蔭、祖国のために義務を尽した勇士らが、路傍で痩せこけ朽ちてゆく。諸君! こんな不条理が許されていい…

清冽な大気を求めて ―一万二千フィートの空の舌触り―

山形県東村山郡作谷沢村の議会に於いて、男子二十五歳未満、女子二十歳未満の結婚をこれより断然禁止する旨、決定された。 昭和五年のことである。 (昭和初期の山形市街) ――はて、当時の地方自治体に、こんな強権あったのか? とも、 ――なんとまあ、無意味…

遺恨三百 ―歳月経ても薄まらず―

憎悪は続く。 怨みは消えない。 復讐は永久に快事であろう。 幕末維新の騒擾がどういう性質のものだったかは、東征の軍旅が関ヶ原を通過した際、薩摩藩士の発揮したはしゃぎっぷりによくわかる。 「いよいよ二百余年前の仇討ができる」と喜び勇み、一行の中…

魂叫

貧は罪の母という。 その象徴たる事件があった。 姉による、弟妹どもの抹殺である。 (『江戸府内 絵本風俗往来』より、子供の盆歌) 主犯――長女の年齢は、事件当時十七歳。この長女が 「水遊びをしに行こう」 との口実で十歳になる弟と、十二歳の次女、二歳…

アンダマンの原始缶詰

またぞろ例の「竹博士」が喜びそうな話を聴いた。 そこは遥かなインド洋、ベンガル湾南東部。インド亜大陸本土から隔つること実に1300㎞東の彼方。翠玉を溶き流しでもしたかのように澄んだ海に囲まれて、アンダマン諸島は存在している。 「世界で最も孤立し…

濠洲小話 ―ファースト・フリート―

見方によってはアメリカ独立戦争こそが、オーストラリアの産婆役であったと言える。 (Wikipediaより、レキシントンの戦い) 一七七五年四月十九日、開戦の号砲が鳴る以前。イギリスからは毎年およそ千人前後の囚人が、北米大陸に送り込まれる「流れ」があっ…

ユートピアの支え

二十世紀初頭、排外的民族主義の骨頂はオーストラリアに見出せた。 白濠主義をいっている。 有色人種を叩き出し、かつ侵入を防遏し、彼の地を以って白人の楽土たらしめること。この至上命題を達成すべく、どれほどの知恵が絞られたのか。それについては以前…

黄金週間戦利品 ―掘り出し物はいいものだ―

久々に身の裡に慄えが走った。 まずはこれを見て欲しい。 昭和十一年刊行、『刀談片々』見返しに記されていた墨痕だ。 謹呈 自著 本阿弥光遜(花押) と読める。 日本刀で本阿弥といえば、少しその道を齧った者ならすぐにピンと来るだろう。 室町から続く研…

北アルプス VS 南アルプス

南アルプスは欠点だらけだ――。 そんな誹謗中傷に、思いもかけず遭ってしまった。 甲州人として悲しまずにはいられない。 往昔の日本山岳会に、小暮理太郎という人がいた。 群馬の生んだ偉大な登山家、齢六つで赤城山を征して以来、山の魅力に憑かれた男。 地…

去勢夜話 ―第二天使ケルビムの聲―

藿香。 鶏卵の黄身ふたつぶん。 生クリーム一合五勺。 それから砂糖を小さじ半。 これらは牛肉のスープと合わせることでジェニーリンド・ドリンクと呼ばれ、十九世紀の声楽家らが喉の調子を保つため、愛飲していたものである。 最初にレシピを確立したのはス…

夢路紀行抄 ―プランテーション―

夢を見た。 久方ぶりの夢である。 私は農場で働いていた。 いや、これを農場と呼んでいいのかどうか。 世話しているのは桃でも葡萄でも小麦でもなく、カマキリの卵なのである。 (Wikipediaより、オオカマキリの卵鞘) 畝に根を張る、なんだかよくわからない…

英国紳士とダウジング ―アイルランドに於ける検証―

イギリス人は検証好きな生物だ。 産業革命を成就せしめただけあって、原理の解明をこよなく愛す。 神秘的な何がしかに直面しても、手放しに感動したりせず、疑惑のまなざしを先行せしめ、それが本当に理解を超えた代物か、納得いくまで試そうとする。 エマー…

夢と現の境界 ―第十五號患者の記録―

お見舞いとして贈られた汁気たっぷりなフルーツを、 「それは銅で出来ている!」 と、顔じゅうを口にして絶叫し、一指も触れずに突っ返す。 (たわわに実った甲州葡萄) 曲がり角に突き当るたび、その蔭に、ドリルを構えて待ち伏せしている医者の姿を幻視し…

ダンボール以前 ―流通小話―

四十五億五千万ボードフィート。 我々にとって身近な単位に置き換えるなら、一〇七三万六八〇四立方メートル。 学校に併設されている二十五メートルプールの規模は、およそ四二〇立方メートルが一般的と聞き及ぶ。するとこれを収容するには、ざっと二万五千…

プッチ神父とトーマス・エジソン ―発明王の生命哲学―

あれは結構好きだった。 ホワイトスネイクがスポーツ・マックスに説いて聴かせていた話。 地球上でどれほどの死と、どれほどの生が循環しようと、「魂」の総量は常に一定、増えてもなければ減ってもいない。 永遠の均整を保ち続けているのだと、そんな趣意の…

紅葉館の霹靂 ―伊藤博文、大激怒―

「望月ッッ」 その日、紅葉館に雷が落ちた。 紅葉館――東京・芝区に存在していた超高級料亭である。 「金色夜叉」の作者たる文豪・尾崎紅葉が、ペンネームの元ネタとした建物だ。 (Wikipediaより、紅葉館) 隅々まで職人の心配りが行き届いた純和風の邸内。…

「誠意」の氾濫 ―南洋諸島覚え書き―

最初の世界大戦で、日本は「勝ち組」に身を置いていた。 戦後行われるパイの切り分け作業にも、当然参加する資格を有す。各国の思惑交錯し、智略謀略張り巡らされ、次の大戦への種子がまんべんなく振り撒かれたヴェルサイユ会議が終結したとき。極東の島国の…

ゴム鞠たれ、潤滑油たれ ―三井の木鐸・有賀長文―

面接に於ける常套句と言われれば、大抵がまず「潤滑油」を思い出す。 あまりに多用されすぎて、大喜利のネタと化しているのもまま見受けられるほどである。 人と人との間を取り持ち、彼らの心を蕩かして個々の障壁を取り払い、渾然一体と成すことで、組織と…

天才、才能を語る ―盲目の箏曲家・今井慶松―

その少年は四歳で光を失った。 両眼失明という過酷な現実。あまりにも巨大な運命の重石が、小さなその背にいきなり振り落ちて来たわけである。 もしも私が、同じ境遇に置かれたならばどうだろう。果たして耐えることができただろうか。いや、考えるまでもな…

愚行欲求、脱線讃歌 ―自由な国の民のサガ―

エマーソン曰く、自由な国の民というは自己の自由を実感するため、意識的にせよ無意識的にせよ、時折わざと間違ったことを仕出かしたがる生物だとか。 正直なるほどと頷かされた。 ウィリアム・バロウズ――例の「薬中作家」(ジャンキーライター)その人も、…

英国印象私的撰集 ―エマーソンの眼、日本人の眼―

イギリスは、誰から見てもイギリスらしい。 前回にて示した如く、びっくりするほど多いのだ。十九世紀中盤に彼の地を歩いたエマーソンの見解と、二十世紀初頭にかけて訪英した日本人の旅行記に、符合する部分が凄いほど――。 たとえばエマーソンの時代、こう…

物狂おしきこの季節 ―杉花粉への憎悪が滾る―

鼻が詰まって頭がうまく回らない。 味を感じる機能の方も、低下の一途をたどるばかりだ。 ストレスはどんどん蓄積される。杉への殺意が抑え難くなってきた。春――この忌々しい、呪いの季節もいよいよ盛りというわけだ。 杉を地上に創造したのは悪魔の仕業と言…

包囲された都市のめし ―普仏戦争地獄変―

戦争の惨禍を蒙るのは、なにも人間ばかりではない。 物言わぬ動物も同様である。 以前私は、ハーゲンベック動物園の悲劇に触れた。欧州大戦末期に於いて、飢餓に苦しむハンブルクの住民は、かつてあれほど秋波を送った堀の向こうの動物たちを、もはや可憐な…

聖なる炎よ ―帝政ロシアのカルトども―

広い広い、際涯もないロシアの大地に出現した怪僧は、なにもラスプーチンばかりではない。 女帝エリザヴェータの治下に於いてもフィリポンと名乗る精神的一大畸形が登場し、怒涛の如く吐き出す鬼論で人心を幻惑、天下を聳動させている。 (Wikipediaより、女…

イレズミ瑣談 ―文化爛熟、江戸時代―

ドラゴンボールがいい例だ。 あるいはジョジョのいくつかと、らんま1/2も新装版はそう(・・)であったか。 これら少年漫画の単行本は、その背表紙が一枚絵になっている。優れた趣向といっていい。全部集めて書棚に並べ、完成したの(・)を眺めていると…

事を成すには ―大久保・伊藤、権勢の道―

――それにしても。 と、前回の流れを引き継いで、思わずにはいられない。 それにしても春畝公伊藤博文閣下とは、なんと豊富な逸話の持ち手であるだろう。 ひょっとすると「元勲」と呼ばれる面子の中でも最多なのではなかろうか。これはそのまま人間的襟度とい…

火事場の伊藤 ―紅炎迫る議事堂で―

最初はまず、臭いであった。 鼻を刺す――どころではない。「鼻の奥を抉られるような」厭(い)やな臭いがしたのだと、当日警備を担当していた橋口某は物語る。 警備といっても、民間企業の「雇われ」ではない。 彼の所属を闡明すると、「議院内派出所詰警部」…

真渓涙骨私的撰集 ―「千樹桃花千樹柳」―

涙骨の本は二冊ばかり持っている。 昭和七年『人生目録』と昭和十六年『凡人調』がすなわちそれ(・・)だ。 見ての通り、『人生目録』には函がない。 裸本で売りに出されていた。 まあその分、安価に買えたことを思えば文句の言えた義理ではないが。 構成は…

旅に出ます。 ―エルデの王となるために―

ついに。 ついに、 ついに! ついに!! ついにこの日がやって来た。 令和四年二月二十五日、『エルデンリング』の発売日である。 本日ただいまより暫くの間、私は音信不通になるだろう。エルデの王となるために、持てる力のありったけを注ぎたいのだ。脇目…

伊藤博文、訣別の宴 ―「万死は夙昔の志」―

初代韓国統監職を拝命し、渡航を間近に控えたある日。 伊藤博文はその邸宅に家門一同を呼び集め、ささやかながら内々の宴を催した。 祝福のため、壮行のため――そんな景気のいい性質ではない。 ――二度と再び現世で見(まみ)えることはなかろう。 だから最後…