この世のどんな悪疫よりも
共産主義のことである。
マルクス教と言い換えてもよい。
イタリアでも、ポルトガルでもアカのカルトは跳梁し、社会を喰い荒らしていたが。とりわけ無惨であったのは、なんといってもハンガリーであったろう。
分類上、中欧となる彼の地では、革命により二重帝国を解消してからものの半年も経たないうちに再度革命が勃発し――どんな因果の間違いだろう、ふと気が付けば狂人が、国の牛耳を執っていた。
シベリアの丸太小屋にでも永遠に隔離しておかるべき、その男の名はベラ・クン若しくはクン・ベーラ。
三十代前半という若輩の身でありながら、乱世のみが許容する非常手段で独裁権を確保した、この人物がいの一番にやったのは、開催中の議会に向けて己が兵士を雪崩れ込ませることだった。
「…欧州大戦後ハンガリーが百三十三日の例のベラ・クンの為めに過激派の天下になった時には先づ第一に過激派がこの議会を占領し、国粋党の議員を悉く会議中に所謂一網打尽につかまへて地下室に投じ、次いで議会の玄関に並べて一斉射撃で銃殺し、」――このあたり、理想国家建設のため是非々々協力してくれと、甘言を弄し知識人を呼び集め、まとめて殺したポル・ポトの手口を思わせる。アカのやることはいつも同じだ――「然も最も有力なる人物はダニューブ河の橋の上から生き乍ら
以上、大正十五年の紀行文、『欧米議会見聞記』からの抜粋である。
(ドナウ川、エルジェーベト橋)
著者の横尾惣三郎は、後に武州の一角に「農民講道館」なる教育施設を
世間的な知名度はあまり高くないのだが、少なくとも文章を追ってみる限り、その脳力は雄渾で、闇夜にはためく紫電の如く鮮やかな知性の発揮の跡が
そういう横尾のハンガリー観を、もうしばらく紹介したい。
「何しろこの百三十三日の過激派の政治は乱暴のもので資本家の財産は勿論ブタペストの商店の商品はどしどし掠奪し、家屋は労働者がぐんぐん入り込んで立派の部屋に乱暴の生活をし、殆んど其暴状は言語に絶し、僅に百三十三日の過激派の天下のために受けた損害の方がハンガリーとしては欧州大戦の損害より大きかったと云はれ、ベラ・クンがロシアに逃亡した時に貨車数台に金銀財宝を積んで行ったと云はれる位。此の反動の為に従って今日は左党の勢力が全く衰へて保守党の勢力が非常に強くなって居る」
煎じ詰めるに、ベインが支配した際のゴッサムシティみたいなザマになったのだ。
人間世界の悲惨と言っておく以外、どうにもこうにも術がない。
(ドナウ川の船着き場)
「すべての戦争を終わらせる戦争」の直後にこれとは、笑わせる。
欧州戦後史を紐解いてゆけばゆくほどに、このフレーズの白々しさが際立ってきて仕方ない。爆笑ものだ。片腹痛いぞ、ウィルソン。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓