まさか旧幕臣の自意識が、この男の脳内に片鱗たりとてあったわけでもなかろうが――。
とまれかくまれ、福澤諭吉は家康につき、よく触れる。
それも大抵、好意的な書き方である。
ある場面では「古今無比の英雄」と褒めそやしさえしたものだ。権現様が基礎固めして成し遂げられた江戸徳川の天下泰平――三世紀近い長期間の大半を「善政」が占めていればこそ、潜在的な国力涵養も行われ、いざ明治維新となった際、日本社会はあれほどの、目を見張るばかりに長足の国運進歩を叶えることが出来たのだ、とも。
(福澤諭吉)
さて、そういう男の両眼に、三方ヶ原の戦いは、いったい
敗れたりも敗れたり、徳川家康、生涯無二の大敗北。甲府盆地から這い出してきた猛獣軍団・武田信玄とその麾下に、挑みかかってコテンパンにぶちのめされた、あの一戦の顛末は?
意外や意外、
「あれでよかった」
と、これまた大いに肯定してのけているのだ。
百パーセント敗北すると理解しながら、それでも敢えて打って出た、あの瞬間の家康公の決断を――。
…若しも徳川にして和を強国に求めて一たび其膝を屈せんか、祖先以来養成したる三河の士風忽ち沮喪して自立の気象を失ひ、四隣の敵国は其為すに足らざるを知りて軽侮凌辱交も至るも之を防ぐに力なくして、仮令ひ三方ヶ原の失敗を免るゝも戦国競争の間に徳川の国家を維持して自から衛るの見込は到底、覚束なかりしことならん。
(Wikipediaより、三方ヶ原古戦場)
戦って敗れたのであれば、まだしも面目は施せる。
だがしかし、戦いもせず敗けたが最後、家康は二度と将として世間に顔を向けられなくなる。つまるところは廃人同然、再起不能の身に堕ちる。戦国とはそういう時代、ぬきさしならぬ殺気が常に天地を沸かしていた頃だ。
そういう世では、
そのあたりの消息を、家康は百も承知であった。
よく知り抜いていればこそ、「予め必敗を期して戦に決し、予期の如く失敗して其将士をしてますます敵愾の心を起さしめ、却て敗軍の勝利を収めたるのみ」であるのだと、福澤諭吉は確信籠めて書いている。
現在でもなお、かなり根強く支持されている「
(三州名産・八丁味噌)
もっとも当の家康の身にしてみれば、「予期の敗北」とは言い条、陣を破られ、手回りさえも木っ端微塵に粉砕されて逃げまどい、挙句の果てに「戦国最強」の聞こえも高い武田勢から何処々々までも追いまくられる恐怖のほどは到底冷静に受け止められる域でなく。
――もうだめだ。
と、絶望に駆られた瞬間が幾度もあったに違いない。寸前暗黒の感である。あられもない痴態を演じ後世に笑話の種を提供したのも、余儀なき運びだったろう。
過酷どころの騒ぎではない修羅の巷の只中へ、繰り言になるがそういう場所だと重々承知した上で、我と我が身を突き飛ばしたる権現様の意志力は、もはや勇気などという通り一遍な表現程度に収まらず。
狂気としか呼びようのない、人間性の深淵を窺わせるものだった。
思い返せば「世間は所詮、感情八分に道理二分」と称しては、理屈の通る間口の狭さをあげつらっていた福澤である。
日常すべての挙措発言に意を凝らし、一瞬たりとも気随気儘にふるまわず、君主としての自分自身を末期の時まで維持し抜いた家康という人物は、ある意味に於いて福澤の理想だったのではあるまいか。
少なくとも、「自由は不自由の中に在り」。この言葉の体現を権現様に見ていたとして、さまで不思議はないだろう。
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