咸臨丸の航海は次から次へと不便続出、安気に暮らせた日こそ少ない、冒険というか、苦行であったが。わけても特に苦労したのは、水に関することだった――。
当の乗組士官たる、幕臣・鈴藤勇次郎はそんな風に回顧する。
左様、鈴藤勇次郎。
江川太郎左衛門に兵事を学んだこの武士は、また絵心にも恵まれた。むしろそちらで聞こえた名前とすら言える。後には切手のデザインにも使われた『咸臨丸難航図』の描き手は、誰あろうこの鈴藤である。
(Wikipediaより、咸臨丸を描く切手)
絵だけではない。
文章でもまた、咸臨丸を伝えてくれた。『航亜日記』がそれである。亜は、
前置きが過ぎた。
そろそろ水の話に戻ろう。
『航亜日記』の記述から、そのあたりにつき、以下、拾う。
「…皇国の人の食は多量の水を用ゆる故、水桶に鍵を卸し、銘々勝手につかふ事を禁ず。併呑料の水は分量を定め、洗物は総て海水を用ゆ。尤も用意の水多けれども、陸地と違ひ、若し万一の事もあれば多分の貯なくして叶はざれば故、着船迄は水多くして甚不自由をなせり、右の如く艱難を経る故病人多く、殊に水夫の病む者別して多し。又薬用にも外国に於ては水薬散薬丸薬を用ゆれども本邦の医師は多く煎薬を用ゆれば、薬用の水も多分なること知るべし。総て斯の如く不便なる事のみ多く、諸事不都合なる事言語の能く述る所にあらず。然れども無事にサンフランシスコ港に到着せしは以て大幸といふべし」
(日本の豊富な水資源)
なお、咸臨丸には若かりし日の福澤諭吉も乗っている。
当然『福翁自伝』の中に、そのエピソードを織り込んだ。
やはり水に触れている。
「…途中で水が乏しくなったので
同じ体験を語るにも、福澤の方により滑稽味が強いのは、これはもう両者の性格上の差異としか説明する術がない。秋風に舞う紅葉が如く、福澤諭吉は軽妙洒脱な語り口を常とした。
ちなみに「甲比丹ブルック」、一銭斬りの信長みたく不良水夫の即銃殺を
(Wikipediaより、『咸臨丸難航図』)
咸臨丸を降りてから、鈴藤はやがて病をわずらい、ついに恢復していない。
家族を連れて郷里に還り、そこで幕府の瓦解を聞いた。
慶應四年、自害している。
享年四十三歳だった。健康さえゆるしたならば榎本武揚と合流し、官軍相手に決戦していたことだろう。
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