中江兆民は奇行で知られた。
とある酒宴の席上で、酩酊のあまりにわかに
その兆民の語録の中に、
「ミゼラブルといふ言葉の標本は、板垣の顔である」
という短評がある。
短いながらも、これほど板垣の本質を鋭く穿ったものはない。
板垣退助の絶頂期、一個人としての黄金時代は幕末維新の騒擾に、もっと言うなら戊辰戦争の砲煙にこそあったろう。彼の生命がもっとも溌溂とした期間であって、それゆえ一旦そこを過ぎてしまってからは、どういう立場、どういう仕事に就いていようと、その輪郭には憂愁の翳が付き纏い、なにやら常に夕暮れなずむ黄昏時の丘にでも佇んでいるようだった。
本人もおそらく薄々は、そういう自分を自覚していたのでないか。
「あからさまに不機嫌そうな閻魔顔をしていても、ひとたび話頭を戊辰の役に転ずれば、たちまち地蔵顔になり、得々として語りはじめた」
とは、彼に親炙した者の、よく目撃したところであった。
ハナシというのはそれ自体、一個のいきものなのだろう。
語られるたび成長し、どんどん尾鰭が付いてゆく。
板垣の場合も、ご多分に漏れず
曰く、――会津は東北の大藩である。
藩祖保科正之以来、二百数十年の永きに亙り、彼の地を統治し続けた。
仕置は概ね的を射て、まず仁政といってよく、家中の空気も引き締まり、士風凛然、侍どもの精悍なる顔つきは傍から見ても一種偉観を呈していたということだ。
実際彼らはよく戦った。
一所懸命の体現だった。
「よき敵ござんなれ」の期待に背かないように、熾烈な抵抗で以ってして、殺到する官軍を迎えてくれたものである。
(白虎隊の墓)
が、それ以外はどうだろう。
会津の百姓、町人は、「皆な手を袖にして傍観し、何れも我が持物を失はざらんとして逃げ隠れてゐる。中には少しの賃金を与ゆれば、欣然として官軍の用を為す者も少くない」状態だからたまらない。
この現象を前にして、板垣は閉口を通り越し、腹の底から戦慄したそうである。
その戦慄は、
(こいつらは、たとえ相手が外夷でも、ちょっと飴をしゃぶらされればやっぱりこうして節操なしに、御主人御主人可愛がってと尾を振りまくるのではないか?)
国防上の危惧、不安。大袈裟な言い方をするならば、時代正義に裏打ちされたものだった。
以下、本人の語り口を引かせてもらうと、
「…斯る状態では会津藩が落城したのも無理からぬことである。これを広く日本に押広げて考へれば、又たその通りである。若し、一旦外国と事あるに際して、今日の儘にして置かば、国を衛る者は僅かに国民の幾百万分の一にも過ぎまい。それではとても一国の独立を維持することは、出来様筈はない。
そこで予は高知に帰るや否や、兎に角総ての人民から兵を採ることを原則とした。所謂る士の常職を解いて、総ての者の力に依って国を衛るといふことの必要なるを知り、此に於て初めて自由民権の已むべからざる所以を悟った。即ち大なる責任を負担せしむるには、先づそれに相応する丈の権利を与へねばならぬ。一般に政権を分配することは、国民と共に国を衛る所以である。これが予が今日ある所以である」
つまるところは国民皆兵。
啓蒙を得て板垣は凱旋したというわけだ。
(在りし日の若松城)
戦利品というのなら、これほどみごとな戦利品もないだろう。
分配で揉めることもない。結構至極そのものである。
結構すぎて牽強付会を疑われるのも、やはり順当、不可避の流れであったろう。
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