人は一生、見栄を張る。
特に男は痩せ我慢の度合いを以って「男らしさ」のバロメーターにすらアテる。
予防接種で、あるいは虫歯治療の場に臨み、迫る注射の針先や、近付くドリルにしかし怯えをあらわさず、悲鳴を上げることもなく、涙なんぞに至っては一滴たりともこぼさなかったということを、秘かな誇りと胸奥に置く少年は決して少なくないはずだ。

結局男は、この少年の性情を死に至るまで手放せぬ。
梶井基次郎がその早すぎる晩年に病の床に就いた際、ことさら無神経そうに、のんきな患者を周囲に演じてみせたのも、同じ心理に基づいてのことだろう。
少なくとも正宗白鳥の心眼は、そのように彼を見通した。
「梶井氏は、重患に悩まされながら、いろいろな恐怖を忘れようとして、わざと『のんきな患者』らしく装ひ、自からおのれを晦まし、他人の目にも呑気らしく見られたがってゐたことが、私には想像される。病気についてのみでなく、人生の事多くはさうしたものである。人間は真実のみを見詰めるには堪へられないのだ。また真実の自己の姿を他人に見られたくない感じも強いのだ」
菊池寛と直木三十五の如く。──文士が死んだ文士仲間を意識しながら記したところの文章は、書き手本人にとってすら思いもかけず真理を衝いた気配があってことさら噛み締め甲斐がある。ハッと大きく息を呑まずにいられなくなる感覚だ。
「才を抱いて犬死にした」
云々と、ずいぶん手酷くやっつけている。
その辛辣も、だがしかし。角度を変えればあまりに早い梶井の死への悼みというか寂しさを誤魔化したいの一心で、敢えて烈しい表現を採ったと、そうは考えられまいか。
「真実の自己の姿を他人に見られたくない」本能は、白鳥もまた同様であるはずなのだ。
夏というのは実にこうした、生死の境の沙汰事に触れるに向いた時季だろう。
誰が言ったか、人は生命の絶頂に際して最も強く死を想い、得意の盛りに於いてこそ、手酷く他者を傷付けたがる生き物であるそうだから……。
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