「支那全体に、恋愛は三組以上あるだらうかと思ったのは果して僕だけの感想であらうか。文化が四千年も連続すると、その種族の肉体の細胞は、恋愛を要求する必要がなくなって来るのに相違ない。しかし、肉体が、何故に肉体であるかを證明するためには、飽くまで性欲が必要であるらしい」
横光利一、昭和三年の評論である。
約一ト月の上海滞在を終えて
いったい彼は大陸で何を見たというのであろう。どんな人情、風俗に触れ、接待された挙句の果てに斯かる所感を持ったのか。
大いなる謎と言わねばなるまい。
ただ、本能満足の技巧に関して、アチラ側では日本人の想像力の限界を、遥か凌駕しきった高みに到達し、窮め盡していたことは、ありとあらゆる支那通が、口を揃えて当時語っていたところ。
たぶん、おそらく、そのへんに、この謎を解く鍵というのは転がってるんじゃなかろうか。
「武器とは、生殖力を封塞する道具である。しかしながら、支那に於ては五分間に一万発の弾丸が飛ぶ機関銃の能力よりも、より多く生殖力が盛であると云ふことは、一体如何なることを示してゐるのであらうか。各列国の対支外交政策が、曾て一回たりとも成功なし得なったと云ふ事実は、あまりに武器の能力を信用し過ぎたお蔭であらう。然もなほ且つ武器の能力を信用しない限り、支那は何者をも圧して行くであらうとは。これにはいかなる審判が必要なのであらう」
漢民族の一大特徴、常軌を逸して強力な繁殖性の有り様を、上記の通りに横光は
このおそるべき能力を「雑草」に擬した者がいる。
彼の名前は浅香末起。大阪商科大学助教授、植民政策学という、現代人にはあまり耳慣れぬ学問の権威であったこの彼は、
「支那人は世界の雑草である。踏まれても蹴られてもその後から無限に民族的発展を続ける。若し人為的の制限がなかったならば世界は支那人の住居と化し去って居たであらう」
云々と、「抜き身」に過ぎる斯くの如き一節を、華僑に関する研究中に挿入していたものだった。
(Wikipediaより、大阪商科大学正門)
まあ、浅香に関して、これ以上は、今はいい。
再三、横光利一の上海土産を漁ってみると、
「マルキシズムが日本へ教へ込んだものは、いかに共同すべきであるかと云ふことよりも、いかに分裂すべきであるかと云ふことであり、マルキシズムが支那へ教へ込んだものは、いかに戦ふべきかと云ふことよりも、いかに殺人すべきかと云ふことである」
真理を穿つ、なんと見事な筆致であろう。
そうだ、これこそアカのアカたる所以といって良いはずだ。
内ゲバ。
総括。
リンチ。
粛清。
山岳ベース。
ああ、刺激性に富んだ言葉の数々が、巣をつつかれた蜂みたく、頭の中を乱舞する。
マルキシズムが支那に対して与えたところの啓蒙は、以後数十年を費やして、日本人の認知にも入念にねじり込まれたわけだった。
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