かつて、ロシア人の眼に、瀬戸内海は「河」と映った。
明治三十七、八年役、日露戦争のさなかに生まれた、割と有名な巷説である。

投降し、捕虜となったロシア兵らを御用船にて移送中、この内海へと舳先が入りかけたとき。
彼らの一人がさも感じ入った面持ちで、
「これはなかなか、大きな河だ」
と、声を放ったそうである。
「島国たる日本にも、この規模の河があったとは。もうし、よければこの河の名を、我らに教えてくれまいか」
皮肉でないのは口ぶりからも、目の色からも明白だった。
微かな毒気も含んでいない。
滔々たるヴォルガの流れやエニセイ川を領土に抱える大陸国家の基準では、かかる錯誤も已むを得まいと納得するほか無いだろう。
「戦争も平和も共に文化の案内者である」。エマーソンの箴言の、意味するところをしみじみと感じるばかりのことだった。
(Wikipediaより、エニセイ川)
……しかし、にしても、やっぱりこれは、この扱いはどうだろう。
瀬戸内海を地中海に擬えた、石橋五郎があまり気の毒なようである。
「瀬戸内海が神武の東征といふ赫奕たる交通の歴史を有することは、地中海航海のパイオニアたるフェニキア人を有することと似てゐる。平安朝や戦国時代における瀬戸内海の海賊の跋扈は、ローマ時代や中世における地中海の海賊と類似する」
上の気焔をくだんのロシア人捕虜に、もしも浴びせかけたなら、果たして彼はどういう風に反応したことだろう。

この想像には、少なからざる苦痛が伴う。強いて行うようなモノではなさそうだ。
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