ちょっと意外な感覚だ。
柴五郎におよそこの種の政治色は存在しないと勝手に思い込んでいた。
(Wikipediaより、柴五郎)
会津藩士の生き残り、『ある明治人の記録』にて世上に名高いこの人は、実に大正十三年春、とある右傾団体の発足に手を貸している。
手を貸していたどころではない、中核メンバー、旗頭の一角として積極的に活動していたらしいのだ。
団体の名は恢弘會。
「明治天皇の御遺徳を顕揚し今上陛下の聖旨を奉體して国民精神を作興し時弊を矯正し以て国体の清華を発揮せんこと」を目的に、同年四月三日を期して、九段偕行社に会場を借り、爆誕した団体である。
(Wikipediaより、九段坂)
場所が場所であるだけに陸軍色の強いのは自ずと察しがつけようが、事実この時、旗頭の役を担った七将星中、陸:海比率は五:二。
すなわち一戸兵衛、柴五郎、仁田原重行、由比光衛、立花小一郎の五人の陸軍軍人と。
加藤定吉、黒井悌次郎の二人の海軍軍人から成っていた。
差し当たっての実践的な目標は、「来る五月の総選挙に際して全国の在郷軍人と連絡をとり陸海軍出身の候補者を出来得るかぎり援助するは勿論、大々的に軍人の候補者を立てゝ大いに各派と争はんとする」ところにこそあったとか。
日一日と殺気を孕んで加速する、あの時代の雰囲気にこの上なく相応しい、そんな団体だったろう。

まあ、咢堂尾崎行雄とて三国干渉の昔時には、
「万死を以て僅かに取り得た土地を還附し、如何なる戦功も外交官の失策によって之を烏有に帰せしむる先例を作るに於ては、将来忠勇義烈なる軍人と雖も、誰か復た国難に殉ずるを喜ぶ者があらうか」
いっぱしの帝国主義者みたような、こんな言辞を弄んでは心臓を高鳴らせていたものだった。
およそ晩年の姿からその人物の一切を測り知らんとするなどと到底無理ということだ。
ちなみに筆者が「恢弘會」の三文字に一番最初に触れたのは、海軍有終會の機関誌『有終』紙上に於いてこそ。
昭和十八年八月号に転載された陸軍大佐飯島正義の『ドイツ事情』が興味の出発点であり、追究の前奏曲だった。

思えば随分遠大なポロロッカをしたことだ。
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