ちょっと人力車めいている。
自転車タクシーとかいった風変わりな代物が第二次世界大戦下、ヴィシー政府のフランスの地に
まあ、八割方、名から察しはつくであろうが、自転車に少々手を加え、後から荷車を連結せしめ、一人か二人、客を運べるようにした、ただそれだけのモノである。
ガソリン不足で自動車が「置き物」へと凋落すれば、勢い代替品として、こんな工夫も凝らさなければならなかったと、貧しさゆえの産物と、左様に看做して可であろう。
なんといっても、一九四一年、リヨンに於ける一般庶民の生活事情たるやどうだ、
「もう一ヶ月以上一塊の石炭も貰へず、瓦斯は一日に暖い飯がやっと一度食へる位しか使へぬ位だから、夏でも入浴などは思ひもよらない。燈火管制の規則よりも電気制限の為に、商店などは御化けの出さうな暗さにしてある」
斯くの如き窮乏を余儀なくされていたのだと、『第五フランス通信』中で瀧澤敬一が述べている。

(元々は武蔵野女子学院の図書館に収められていた模様。それがめぐりめぐった挙句、神保町で三百円で陳列されていたとこを、

石炭に於いて既に然り、いわんや
燃料なくんば、せっかくのエンジンも単なる金属の塊である。機械力を取り上げられたフランス人は必然として動物力の、人力の──己が五体の活用に勤しまざるを得なんだと、詰まるところは、そうした次第。
べつに珍しい現象でもない。
関東大震災直後、焼け野と化した東京市でもバスの代用品として、馬車が復活、いっときながらも幅を利かせていたものだ。
人間世界に、たまによくあることである。

(震災後、銀座街頭の乗合馬車)
自動車タクシーを駆使しては、食糧求めて街から田舎へ、物々交換の資材を持って出かけてゆく連中を、瀧澤は屡々目撃している。
「従来虐められて居た百姓は生産者の強みで威張り出し、一円や二円のはした金には目も呉れず、中々得難い必需品や嗜好品を持ってくれば、バタ卵チーズを売る、薯を渡すと云ふ。村の商人職人も意地が悪くなって居て、卵かバタの引換でないと、靴やバケツの修繕も承知しない。食欲以外には交換すべき一物をも持たぬ国民の大部分は、悲鳴をあげつつ仆れるより外にない」
なにやらすっごく見覚えのある阿鼻叫喚の地獄相。
戦時となればどこの国の民衆も、やることは似たり寄ったりだ。
自転車繋がりでいまひとつ、敢えて触れておくならば、田中館愛橘の学生時代、友人たち──広田理太郎、和田義睦、沢井廉の都合三名──とかたらって、帝大内に「自転車会」を立ち上げた
「此頃の自転車は足踏の回転を鎖引で拡大する様な構造のないもので前輪は大きく後輪は小さくて、之に乗ると一時馬に乗った様なものであった。此会は一台の自転車を買ふ資金を出し合て之を購入し、大学内を乗廻して運動の一種としたものである。ゴムタイヤ抔は大の贅沢物で、我々の買入れたのは無論鉄輪の頑強なものであった」
以上はすなわち、その回顧。
卒業久しく、「博士」の肩書、ずいぶん馴染み、一廉の人物となって以後の愛橘により齎されたモノである。

(東京帝国大学生ら)
自転車タクシーは二十一世紀現下でも一部に残存、改良を重ねられながら、運用されているそうだ。
環境にやさしい、二酸化炭素を排出しない、エコロジーであるとかなんとか云うことで、そちら側から専ら評価が高いとか。
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