初期も初期の
江ノ島が沈んじまっただの、富士が崩れ落ちただの。
大正十二年九月一日の大震災は、地震というより天地創造の再開として海外諸国に伝えられた感がある。
「九月二日夕刊に九月一日東京、横浜大地震大海嘯で全滅死者百万と云ふ簡単なニューヨーク電報が掲げられてあったのでどきっと驚く、まさか全滅と云ふ事はあるまいと思って後報を待って居ると、三日の朝刊には東京殆ど全滅、横浜全滅、鎌倉、小田原、国府津、静岡、甲府其他六都市全滅、江の島大島は海底に沈み、富士山は半壊し、鎌倉、小田原、伊東は全くの砂原となった、死者五十万とある。次の電報を掲せた新聞を見ると、東京は今尚ほ盛んに焼けつゝあると云ふ」
上は当節、ベルリンに身を置いていた、小泉英一の説くところ。
誤報もここまで極まれば、一種愛嬌に近かろう。
余震の
その死に方も様々で、政府庁舎の崩壊に閣僚ごと巻き込まれ、みんな仲良く圧死したとか、いやいや暗殺されたのだ、名状しがたいこの混沌を好機と視、乗じんとする不届き者がおったのだとか、もはやさながら異国の空にて虚報同士が取っ組み合いを演じている有り様で、とても手のつけようがない。
関東圏に家族友人知己一同を置いたまま外遊の途に上ってしまった邦人たちこそいい面の皮であったろう。
連日連夜、大使館にはその種の手合いが青い顔して詰めかけて、
「ひどい事になりましたね、まさか新聞に書かれた通り、百パーセントそのままってことはありますまいが」
そうした意味の譫言を、無意味にリピートしていただとか。
小泉英一自身もむろん、「群れ」の例外たりえなく。
「昨日までドイツ人の生活の悲惨に対し日本人は常に慰めて居たが今や道に逢ふドイツ人から日本人に対して同情し、見舞を云はれる立場になった」
有為転変の理不尽さ、惨酷性を象徴するモノとして、上の一文は珍重したい。
(ドイツ人の子供たち)
不壊不動はついに痴人の儚き夢か、明日の保証など本当は誰にも出来やせぬ。我らの生はことごとく、薄氷の上に野晒しだ。
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