帝政時代のドイツに於いて、大学生とは一種特権階級だった。
「学問の自由」の金看板をいいことに、彼らはときに国家の法の支配からさえ逸脱せんと試みた。

無法者を気取ろうというのではない。
社会的動物の一員として、むろん秩序は尊重している。尊重するが、だがしかし。その安定は、あくまで「自治」を前提として齎されるべきとする。
自分たちの問題は、これことごとく自分たちの手によってカタを付けるが本願だった。
「ドイツに於て大学生の幅の利く事は市に依っては陸軍士官以上で大学
明治三十年代に留学生の身であった、山口小太郎の述懐である。
(Wikipediaより、イェーナ市)
筆者は以前、ビスマスクの小伝なぞを紐解いた際、そこで初めて「学生牢」の記述に
──なんで大学の敷地内に監獄があるんだ。
と、小首をかしげたものであったが──若き日の鉄血宰相殿は、そこの常連だったらしい──、この山口の想痕に触れ、そのあたりの背景が鮮明になった感覚である。
更にまた、ごく生真面目な研究以外に学生どもが精を出すべきこととして、
「又大学生間には各出身の郷里に依てサクソニアとかプロシャとか呼ぶ学生組合があって団結し、各組合には一定の制服がある。此国の学生はビールと決闘との学生だけあって唱歌の会、決闘の会、風紀の会、と云った風に種々の社会団体があり折に触れ時に際し機会ある毎に飲み会をやる。
従って月謝の安い割には学費が要るのでどうしても一ヶ月三百マルク以下では学生生活を享楽することが出来ない、中にも一番金費ひの荒いのが米国の学生で普通五、六百マルクを費ひ露国学生の六十マルクは殆ど例外とされて居る」
斯様な要素が存在したと、山口は書いてくれている。
どこか──と言うより思いきりサークル活動を髣髴せずにはいられない、これはそうした景色であろう。
もっともすべては帝政時代、一次大戦以前の事情にとどまって、共和制へと移行してから後の事情は分からない。
あの惨憺たる敗戦国の悲況っぷりだ、何もかも昔通りとは断じて行くまい、さぞ著しい変化を余儀なくされただろうが──。

(ベルリンの「囚人カフェ」。その名の通り、囚人服の店員による接客が売り。今で云うコンカフェみたいなところだろうか。見様によっては時勢に対する痛烈な皮肉のようにも取れる)
幸か不幸か、山口は、その「変化後のドイツ」の姿を遂に知ることなく逝った。大正六年一月二十三日に、一次大戦未だ酣なるうちに、この人物は死んでいる。
ドイツが無制限潜水艦作戦を発表し、合衆国参戦の巨大な因を為したのは、それからほとんど一週間後のことだった。
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