昭和のはじめに編まれたらしい。
まるで先を争うように若者どもが山に押し寄せ、次から次へと木の下闇に呑み込まれ、さんざん平地を騒がせたあと変わり果てた姿で
呆れかえるほど積み上げられた「前例」により、山中異界の容易ならなさ、恐ろしさは知れ渡っているはずなのに、それでも挑戦者の波が絶えない。あとからあとから、むしろ加速の趣きすらある。そんな狂騒のご時世が――。
このあたりで今一度、
「山は遭難がないと箔がつかないやうである。蔵王なども昭和七、八年頃から遭難がいくつも続いたので、忽ち有名になり、また冬山としての魅力ももつやうになって来たやうである。夏の休みには峨々が何百人といふ人であふれたりしたのも、遭難が人を招んだやうなものといへよう、刈田から賽の磧へ降りてくると、吹く風に揺らぎながら幾本もの塔婆が、クラストした雪原に淋しく立ってゐる。仙台二中生が遭難したときのものだ。あそこへ来ると、何となく体の引締まるのを覚える」
中川善之助の発言を見返しておくべきだろう。
言葉も出来た。
「アルチュウ」である。
アルコール中毒の略ではない。
アルプス中毒を縮めたものだ。
何かに取り憑かれでもしたかのように山へ山へと突っ込みたがる、未踏ルートを開拓せんと反り立つ
中野克明――政治家・中野正剛の長男も、やはりそういうアルチュウ患者のひとりだったようである。
あり続けたというべきか。
昭和六年、前穂高で死んでいる。
滑落だった。
享年、ものの十七に過ぎない。
報せを聞いて父親は、
「あいつも男だ。当然覚悟の上だろう」
ひどく素っ気ない態度をとった。
もっとも多分に、最初だけは、だ。
いざ上野駅にて倅の亡骸と対面するや、正剛はもう、見かけ上の平静さすら保てなかった。
みるみる涙をあふれさせ、全身で慟哭したという。
なんとなくだが、三河武士を彷彿とする情景だった。詳細な名を掲げるならば安藤直次。あの老臣も大坂夏ノ陣の最中に於いて嫡子の戦死を伝えられ、「侍ならば当然のこと」と凄んだ挙句、死体のそばを通った際に部下から収容を提案されても、
「犬にでも喰わせておけ」
と怒鳴りつけたものだった。
戦闘が終わってから、はじめて泣いた。
いろいろ思い合わせてみると、このころはまだ、政界にも武士道気質がいくぶん遺っていたらしい。
世には流されないでしまふ涙もある。笑ひに転ずる涙もある。人よ、涙はただ頬に流れるものと思ふか? 涙はまた内部に向って流れることを知らないか?
よし涙は外に流れずとても、洞窟の天井から落ちる雫のやうに、心の中にしたたるならばそれで十分だ。
ふと、生田春月の感性に
新年の門出には沈鬱すぎる内容かもしれないが、――ああ、いや、なあに、厭世を趣味として弄ぶ私のような男には、むしろこれこそ相応か。
どんな一年になるのやら、胸が高鳴って仕方ない。
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