山中湖には鯉がいる。
そりゃもうわんさか棲んでいる。
自慢なのは数ばかりでない。
体格もいい。二貫三貫はザラである。どいつもこいつもでっぷり肥えて、下手をすると五貫に達するやつもいる。
「そりゃちょっと話に色を着けすぎだろう」
永田秀次郎が茶々を入れると、
「いいえ、誓って本当なのです。漁師に訊ねてごらんなさい。肉の厚さに槍が負け、撓んじまったなんて話をたんと聞かせてもらえます」
土地の長者はむきになり、眼を血走らせて言い張った。
永田が東京市長を退いて間もない時分、昭和八・九年ごろの情景である。
(永田秀次郎)
「槍?」
「左様。ここらで鯉を獲るのなら、釣り竿なんてとても使ってられません。なにしろデカブツばかりですから。槍投げ一発、影も見せずに仕留めちまうのが主流ってな寸法で」
「ふうむ。いったい何を食ったなら、そんな大物が育つのかね」
「沢エビでさあ」
機密保持とか、そういうコセコセした配慮は長者の
三歳の童子に至るまで、土地の者ならみんながみんな知っている。
湖の浅瀬、特に平野浜の一帯には薄紅い藻が生えている。水中森林さながらに、隈なくぎっしり生えている。
(Wikipediaより、山中湖港)
この藻の合間が、どうも沢エビたちにとり、理想的な生育環境であるらしい。一大住居と化している。人間世界に擬すならば、さしずめ団地かマンションか。空き部屋もなく入居している。で、この細やかな甲殻類を餌食にすべく、またぞろ多くの魚族らが
そうした魚族の筆頭が、すなわち鯉であったろう。土地の漁師は槍を携え船に乗り、狩りに熱中している彼らを更に背後から狩猟する。食物連鎖の、まるで縮図のようだった。
永田はここで、この槍投げの名人とも会っている。もう見るからに屈強な三十代の男であって、本業たる養蚕が手すきな時期にやおら槍をとるという。
(世が世なら、信玄麾下の猛将として大禄を食んでいただろう)
隆々たる筋骨、強調された肩幅が、ついそのような幻視をみせた。
鯉突けり
同時に詠んだ詩である。
その日、泊まったホテルにて、永田は夕餉に鯉の甘煮を喰っている。
(Wikipediaより、鯉こく)
――すべて、すべて、過ぎ去りし世の面影だ。
今日ではむろん、鯉を求めて鵜の目鷹の目光らせて、槍の穂先を上下している地元民なぞ存在しない。
それどころか鯉どもは、人が湖畔に立つだけでエサを撒いてくれると思い勝手にわらわら寄ってくる。
人と自然の和合が進んだ結果と受け止め喜ぶべきか、それとも鯉から往年の野気が消え失せて、だらしのない家畜と化したと嘆けばいいのか。
どちらにせよ、人間本位、自己本位な観点なのは変わらない。
(昭和初頭の富士吉田)
事が事、故郷にまつわる事案なだけに、ついこのような愚にもつかない想像まで生やしてしまう。蛇足の極みだ。永田が甘煮を喰ったところで後味よく切り上げればよかったものを。
蛇足ついでに、こんな話柄にも手を伸ばす。永田秀次郎の紀行文、その
なんでも代議士先生方の別荘、それも政友会系の代議士ばかりが所有者である別荘地の
(西湖いやしの里根場)
畢竟、時代のうねりに呑み込まれ、跡形もなく消滅した「村」なのだろう。
永田はここを自動車で、横目に見ながら通過した。
その際、運転手との間で、
「分裂したらどうするかい」
「なに、政友会は分裂しても、別荘地は分裂しませぬ」
このような会話が交わされている。
政友会が現に分裂に至るのは、昭和十四年以降のことだ。
しかしながらその兆候は、この段階でもう既に、見え隠れしていたのであろう。昭和の空気を仄かに嗅げるやりとりだった。
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