初代韓国統監職を拝命し、渡航を間近に控えたある日。
伊藤博文はその邸宅に家門一同を呼び集め、ささやかながら内々の宴を催した。
祝福のため、壮行のため――そんな景気のいい性質ではない。
――二度と再び現世で
だから最後によくこの顔を見覚えておけ。そういう意図に基いた、訣別の宴であったのだ。
(朝鮮総督府)
身内の集まりということで、あれこれ取り繕う必要はない。
赤心を発露していい席だった。声にも顔にも悲愴感をみなぎらせ、伊藤はこんなことを喋ったという。
「予は少年時代より今日に至るまで既に五十余度も死地に臨んで居る。而も一身を邦家の為めに捧げて潔く犠牲たらんことを心に盟ってゐる。今日尚ほ我命の存するは実に予の幸運にして是天我をして更に君国の為に尽さしめんとするのである。世人は予を八方美人と称するも是れ予の心事を解せざるものにして自分には骨があり、胆がある。而して今や乃ち老躯を駆りて韓国に赴任す、予は自ら危地に入り険処に就くものたるを熟知してゐるのである。且又予既に老齢にして能く其の職に堪ふるや否やをも憂へてゐるが万死は予が
予の決心既に此の如し、敢て予の一身に就て心を労するなかれ、子供等はよく母親に孝養を尽せ」
この時期の半島がどういう場所か、伊藤は過不足なく理解していた。
(半島名物・洗濯者の群れ)
死線を潜ること五十余度に及ぶというのも、まんざら誇大広告でもないだろう。マダガスカル島の沖合で暴風雨に遭遇し、三日三晩生きた心地がしなかった経験さえも持っている。聞多と二人、長州藩の無謀の攘夷を止めるため、イギリスから急ぎ帰国の最中のことだ。
それで思い出した。この情景は、文久三年の夜に似ている。
生まれて初めて国外に出で、イギリスに密航するときも、あふれんばかりの悲愴な決意を以ってして、事に臨んだのが伊藤であった。
すめらみくにのためとこそ知れ
如上の歌は、その情念がありのまま形を成したものとして、高い知名度を誇っている。
四十余年を経てなおも、青春時代の面影がありありと浮かぶ。
伊藤はつくづく「老い」を知らない男であった。いつ何時でも地下百尺の捨て石になる意気込みが、彼に「老い」を寄せ付けなかった。なればこそ口悪の茅原華山も――シーメンス事件にかこつけて、山本権兵衛を「海賊の親玉」呼ばわりした――、春畝公に対しては、「政治の為めの政治家といふべき面影があった、奮い華想的精神があった、子孫の為めに美田を買はずとする気品があった」と一定の敬意を表したのだろう。
ついでながら茅原華山は安重根の馬鹿による伊藤博文暗殺事件が起きて後、全国に澎湃として巻き起こった韓国併合論に対する最も激烈な反対者であり、
――朝鮮を合併すれば、日本国民は朝鮮人を治むる費用を負担せねばならない、股を割って腹を養ふは愚なり、況や日本の股を割って朝鮮の腹を養ふに於てをや。
――朝鮮人は深く亡国の怨を懐いて、決して日本に心服しない、反って他日我国が外国と事あるに乗じて、日本の仇を為すかも知れない、御礼を言はないのみならず、反って日本に仇しやうとする朝鮮人の腹を養ふが為に日本人の股を割くは、更に愚の至りではないか。
このような言を盛んに製造、手当たり次第に発信し、結果として『萬朝報』に籍を失う一因ともなっている。(大正四年『孤独の悲哀』)
これらの危惧がいちいち的中――それもおそるべき精度でもって的を射たことに関しては、敢えていまさら詳述するにも及ぶまい。
(京城駅)
歌がある。
語り継がれるに足る歌を、春畝公は多く遺した。
その中から特に明治憲法制定時の漢詩を引いて、この稿の締めとさせていただく。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓