総面積七十万平方メートルにも及ぶ、広い広いこの境内を、焦らず、ゆっくり、朝の清澄な大気によって肺を満たしながらゆく。彼の一日はそのようにして幕開ける。昭和三十六年以降、ほとんど毎日繰り返されたことだった。
東、西、南それぞれにある手舎場に、毎月初日取替えて掲示される明治天皇、昭憲皇太后両陛下の御製、御歌を読むと、神々しさに祓い浄められて、聖人にでもなれたような気になる。ぐるっと巡ると一時間半位はかかるが、厳寒でも汗ばむ。帰ってシャワーにかかると心身爽快この上もない。(『百味箪笥』14頁)
健康にも修養にも、よほど優れた習慣だったに違いない。
私自身体験したからよくわかる。
つい先日、前回の記事の余勢を駆って参拝したのだ。五円玉を賽銭箱に投じつつ、もったいなくも御行跡の数々を話の種にさせていただき申したと、そのことについて深い感謝の念を捧げた。
以下、わずかながら点景披露。
ずらりと並んだ葡萄酒の樽。
ブルゴーニュをはじめとし、いずれも一流どころから奉献された品である。
すぐ隣の説明書きには、「明治天皇は断髪、洋装をはじめ、衣食住の様々な分野において西欧文化を積極的に取り入れられました。食文化においても率先して洋食をお召し上がりになり、西洋酒としては特に葡萄酒をお好みになられました」と記されていた。
八年間近侍した壬生基義――「七卿落ち」で有名な、壬生基修の長男――の回顧によると、大抵陛下は酒に対して「計り知ることが出来ぬほどお強く」、やがて酔いがまわってくると「天地を飲んでしまふやうな、御高笑いを遊ばされた」そうである。
だからであろうか、御下賜品にも屡々酒があてられたのは。
伊藤博文もその栄誉に浴した一人であった。例の三国干渉の後、遼東還付条約を取り纏めた労をねぎらう目的で、葡萄酒が贈られているという。
至る処に菊の御紋。
菊花展も開かれている。
尊き色たる紫色の幕の下、多種多彩な菊の花弁がさても網膜に鮮やかだった。
みるからに堅牢な門である。
そりゃそうだろう、奥にあるのは宝物殿だ。
例のくたびれきった『孫子』七冊も、未だここに保管されているのだろうか? 胸の高鳴りを禁じ得なかった。
底に沈みて
もみぢ葉の
うかぶもさむし
庭の池水
(御製)
まだそこまで――魚が底で冬眠するほど――冷え込んでいるわけではないが。
それでもしっとりとしたこの雰囲気は、なかなか歌に合うものだ。
蒼天に翩翻とひるがえる日章旗ほど、仰いで嬉しきものはない。
老廃物の混ざりまくった血液が、たちまちのうちに濾過されるような清々しさに包まれた。千年後、二千年後もこの極東の天地には、この旗がはためいていて欲しいと願う。願わずにはいられないのだ。
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