穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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英霊への報恩を ―日露戦争四方山話―


 胆は練れているはずだった。


 間宮英宗は臨済宗の僧である。禅という、かつてこの国の武士の気骨を養う上で大功のあった道を踏み、三十路の半ばを過ぎた今ではもはや重心も定まりきって、浮世のどんな颶風に遭おうと決して折れも歪みもせずに直ぐさま平衡を取り戻す、そういう柳の如き精神性を獲得したと密かに自負するところがあった。


 その自負が、試されるべきときが来た。――明治三十七年、鉄の暴風吹き荒れる、屍山血河を歩むという形で以って。


 日露戦争に従軍したのだ。

 

 

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(東鶏冠山敵堡塁爆破の様子。明治三十七年十一月二十六日撮影)

 


 神職と異なり、仏教徒には徴兵上の優遇措置など存在しない。国家が必要としたならば、否応なく銃を手に取り戎衣を纏って戦地へ征くが義務である。


 それも尋常一様の戦場ではない。間宮英宗が叩き込まれたのは第三軍、よりにもよって悪夢の、烈火の、旅順要塞の攻め手であった。

 


…見ますと云ふと、胴体の半分無いのがあれば、片腕片足の取れたのもある頭が千切れて皮だけで引っ付いて居るのもあれば、靴の中に足の肉が一杯詰まって棄てられたのもある。それを焼くと云ふと丸で腐れ魚の黒焦のやうなもので誰の息子か何処の若旦那か分ったものじゃない。恐らく地獄の絵にもこんな惨酷な絵はありますまい。(昭和二年発行『人生八面観』940頁)

 


 現代戦の洗礼は、言語を絶して酷烈だった。

 

 さしもの不動心をしてさえも、底の底まで戦慄せずにはいられぬほどに。


 が、腥風満ちる鉄血界のさ中にあって、それでもなお死者の霊を慰むるため、

 

 

萬骨の
荼毘の煙や
胡地の月

 


 涼やか至極な、こういう詩を詠めたのは、やはり禅の賜物だったか。

 

 都合七ヶ月に及ぶ時日と、五万九千名もの死傷者。


 気の遠くなる犠牲を代価に、明治三十八年一月一日、旅順要塞は漸く陥落ちた。


 その間、攻撃を指揮する乃木希典に対しては、本国の自称軍事通からその無能を叱責し、辞職と切腹を勧告する意味の手紙が来る日も来る日もひっきりなしに舞い込んで、その紙屑の山たるや、総計二千四百通にも上ったという。

 

 

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(池田牛歩「旅順要塞陥落」)

 


 旅順の地に散華した数多の英霊――。


 その中には、当時に於ける鐘紡総裁・武藤山治の弟の名も含まれていた。


 この弟の戦死がやがて、武藤をしてある種の政治活動に没頭させる、起爆剤の役目を果たす。


 大正十三年新緑の候の講演で、武藤は以下の如くに吼えたのだ。

 


 日露戦争の時、旅順の二〇三高地に於て、私の弟が戦死致しました。その当時私の弟は上等兵でありましたが、私の弟の遺族に賜りました恩給金は、一年僅かに五十七円であることを聞きまして、私は非常に驚いたのであります。

 


 一年五十七円ならば、ひと月当たりの割り振りは四円と七十五銭の計算。


 大正元年に於ける一円を現代の貨幣価値に換算すると、ざっと四千円相当と物の本でいつか見た。


 すると四円七十五銭は、我々の感覚に於ける一万九千円ということになる。


(なんということだ)


 これでは武藤ならずとも、眩暈を覚えたくなるだろう。


 むろん弟の遺族については、武藤自身が責任をもって扶養する。


 しかし鐘紡総裁を身内に持たない、それ以外の人々はいったいどうなる? 大黒柱を、働き手を喪った家庭に対して、月一万九千円の支給で以ってどう生計を立てろと言うのだ? それを思うと、武藤の胃の腑はキリキリと、引き絞られるように痛むのだった。

 

 

203 Meter Hill

Wikipediaより、二〇三高地

 


 日露戦争の当時出征を命ぜられて戦死し、又は負傷して廃兵となったものゝ総数は十万の多きに達しました。而して是等戦死者の遺族又は廃兵の家族、その主人が戦死し又は廃兵となったため生活困難に陥る者が多きを占めて居りました。
 諸君、私は国のため義務として出征を命ぜられて戦死したる者の遺族、負傷して廃兵となった者の家族を、生活困難に陥らしめ、これを恬として顧みざる我国のやうな国家が果して永く国家として存在し得るものなるや否やを疑ふに至りました。

 


 正論である。


 一字一句、何処にも反論の余地がない。


 しかも武藤の素晴らしさは、この日本が「永く国家として存在し得るものなるや否やを疑ふに至」ったところで、かと言って日本を見棄ててどこか別の住みよいところへ引っ越そうという発想を、塵ほどにも持ち合わせていなかった一点にこそ見出せる。


 むしろ祖国の前途に暗雲が立ちこめれば立ちこめるほど、力の限り奮闘してこれを晴らしてくれようずと血を熱くする性質だった。

 

 

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靖国神社にて、玉串を捧げる武藤山治

 


 こういう型の実業家は、明治・大正を盛りとし、以後時代を下るに従って減少してゆく観がある。令和三年の今となっては、もはや絶滅危惧種であろう。


 全身で国難にぶちあたる、武藤はまったく漢であった。

 


 世の中には不公平なことが沢山にあり、又悪いことが沢山にありますが、これほど正義に反する不公平なことはないと考へまして、東京に事務所を置き、足掛け四年間此事のために尽力いたしました。皆様の内には或は御存知の方もあらせらるゝことと考へますが、今日我国の軍事救護法なるものがあって、いさゝかながらも戦死者の遺族や廃兵の家族の中で生活困難に陥る者に対し、救護することが出来るやうになりましたのは、四年間の努力の結果であります。然しながら私は此事を諸君の前に御吹聴申上げるのではありません。私は此話を茲に申上げるのは四年間此問題のために尽力する間に、私は我国の衆議院の代議士及び貴族院に於ける貴族の多くが、如何に国家を思ふ念に乏しきかを痛切に感じたからであります。

 


 あるいはこの憤懣と失望が、後にみずから政界へと打って出る原動力ともなったのか。


 まあ、それはいい。


 算盤勘定を投げ捨てた粉骨砕身の運動は、上記の通り、大正六年、軍事救護法の制定によりまず一定の実を結ぶ。


 それより溯ること三年余、第二次西園寺内閣を葬って大正政変の引き金を引いた二個師団増設問題につき、実業之世界社編集局から意見を求められた際の彼の答えが面白い。

 


 不賛成。

 帝国の強弱は師団の数に非ずして士気の如何に在り。士気を維持するの道は廃兵及び戦死者遺族に対する国家の待遇を厚くするに在り。故に予は根本を忘れ其末に走りたる師団増設に反対す。

 

 

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 短いながらも抜群の切れ味、正宗の脇差にも匹敵しよう。


 武藤山治人間性がこれでもかと凝縮された、珍重すべきものである。

 

 

 

 

 


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