穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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庚申川柳私的撰集 ―「不祥の子」にさせぬべく―


「きのと うし」「ひのえ とら」「ひのと う」「つちのえ たつ」「つちのと み」――。


 あるいは漢字で、あるいは仮名で。カレンダーの数字のそばに、小さく書かれた幾文字か。


 古き時代の暦の名残り。十干十二支の組み合わせは、実に多くの迷信を生んだ。

 

 

カレンダー (29075955928)

Wikipediaより、カレンダー)

 


 就中、有名なのは丙午ひのえうま庚申こうしんだろう。両方とも新たな命の誕生と関係している――主に悪い方向で。


 丙午の年に生まれた女は男を喰い殺すサガを持ち、庚申の夜に仕込まれた子は、やがて泥棒に育つというのだ。避けるべき日、不吉な符合というわけである。


 現代でこそ一笑に付すべき愚論だが、夜の闇がなお深かった江戸時代、人々はそう簡単に畏れの念を振りほどけない。俗信に生活を束縛される大衆は、想像以上に多かった。


 だからこういう川柳が発生もする。

 


庚申は せざるを入れて 四猿なり


庚申を うるさく思ふ あら所帯


盗人の 子が出来ようと 姑いひ

 

 

Miyata tenjinjinja03

Wikipediaより、庚申塔

 


 庚申の夜に寄り集まって酒を呑んだり雑談したり、あるいは念仏を唱えたりする。一晩中、東の空が白みだすまで一睡もせずそれを続ける。――「庚申講」の風習である。


 ひょっとするとこれとても、不祥の子を作らせまいとの配慮から考案・維持され来ったものではないか。つまりは相互監視のためのもの。そう推測する向きもある。


 あながち根も葉もない理屈ではない。


 禍は未萌に摘むがよし。


 いつの時代も、予防に勝る対策はないのだ。

 


「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうとする心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする、運命を二元的に見、神と悪魔とにする時には、神に向っては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向っては調伏しやうとする」

 


 生方敏郎『謎の人生』で説いたところが、なんとはなしに思い出された。

 

 

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(『江戸府内 絵本風俗往来』より、往来の子供あそび)

 


 けれどもやっぱり愛のリビドーは強烈と見え、

 


新所帯 七ナ庚申も するつもり


こらへ性 なく盗人を はらむなり

 


 禁忌と知りつつ、我慢しきれなかった奴らを揶揄するこんな句まで存在するから面白い。

 


あらうこと 庚申の夜に 瘡をしょひ

 


 これなどは旦那の我慢がぶっちぎれたが、女房は然らず、信仰を盾に拒まれたため、そのあたりの色街へ憂さを晴らしに出向いた結果、みごと梅毒に感染し、一生ものの手傷を負った馬鹿野郎をあげつらったものだろう。


 不運にもほどがあるとしか言いようがない。


 十七文字の背後には、実に広大な景色・事情が横たわっているわけである。

 

 

 

 

 


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