起きてはならないことが起きてしまった。
死者の安息が破られたのだ。
墓荒らし――真っ当な神経の持ち主ならば誰もが顔をしかめるだろう、嫌悪すべきその所業。
それが明治十二年、京洛の地で起きてしまった。
場所も場所だが、「被害者」はもっと問題である。
――よりにもよって。
としか言いようがない。荒らされたのは、木戸孝允の墓だったのだ。
(高瀬川の流れ)
言わずと知れた長州の巨魁、西郷・大久保と相並び、維新三傑と呼ばれた男。
華やかな呼び名と裏腹に、その晩年は極めて憂愁の色が濃い。べつに誰かが彼を迫害したのでもなく、彼の内部にいつからか巣食った気鬱の病がいよいよ悪化、骨髄にまで喰い込んで、ただもう一途にこの人物を暗所に暗所に追い込んでいった印象だ。
これは千万言を費やすよりも、当時に於ける彼の試作を一読すればたちどころに諒解される。
木戸の號が「松菊」であることを踏まえると、三・四行目の趣がいよいよ深くなってくる。
「人間行路難」とは、使い古された字句ではあるが、まさに赤心の吐露だったろう。
そういう男だ。
しかし既に人生を
そういう星を背負ったのだと、諦めるしかないのだろうか。
(長州・萩の夏みかん)
仰天したのは長州閥の方々である。彼らにとって本件は国家の威信に関わりかねない大問題に他ならず、警察への圧力は尋常一様のものでなかった。
必死の捜査が展開されて、翌年三月にはみごと犯人を
民俗学者・中山太郎の調べによると、「それは墓守の非人であって、盗んだものは錫製の三宝と徳利の外に、遺骸に着せてあった絹の衣服であった」そうな。
動機のほども単なる生活難に基くもので、なにからなにまで陰惨なる雰囲気に包まれきった事件であった。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓