およそ七秒。
紀州
特殊な器具は用いない。ごくありふれた包丁一本のみを頼りに、十秒未満でくるくると、柿の皮を剥きあげる。
ひとえに神技といっていい。
人間の手は、指先は、これほど精緻に動き得るのか。
機械顔負け、残像さえも伴いかねない俊敏ぶりに、見物に来た誰しもが息を忘れて見入ったという。
――わたしゃ四郷の柿仕の娘、着物ぬがれて
大正・昭和の昔時に於いて近畿地方で口ずさまれた上の里謡の「柿仕」とは、まさにこうした早業を体得済みな村人どもを指したろう。
見物客には、ジャーナリストの影もある。
新聞に、雑誌に、はたまたラジオの台本に。――彼らが走らせたペンにより、四郷村の勇名は徐々に
過去に幾度か触れてきた、下田将美なぞもまた、そうした宣伝者の
『大阪毎日新聞』の禄に与るこの記者は、まず四郷村の沿革を――この地に於ける串柿作りが今に始まったことでない、遠く寛永、江戸時代開幕初期にまで遡り得る伝統産業であるのを明かし、更に続けて、
「歴史が古いだけにその製造方法も組織も大分現代ばなれがしてゐる。秋になって満山の柿の木が累々と実を結ぶとどの家でも柿もぎに忙はしい。もがれた柿は山のやうに積上げられる。柿は皮をむいて干されるのであるが、柿むきは全村の共同作業となってゐる。息子も娘も庖丁一本もって集る、大勢の柿むきは今日は誰の家、明日は誰の家と順々に各戸を尋ねて柿むきにかゝる。
昔はかうした柿むきの人達にはもともと村の共同作業であるのだから、仕事の合間に餅でも馳走してやればいゝことになってゐたさうであるが、今日ではさすがにこの長閑な風習は続かず柿いくつで何銭といふ賃金制が多くなってきた」
斯くの如き情景を、その紙上にて書き表したものだった。
文明はやはり、人の性根を
ちなみに今更感が強いが、そも串柿とは何ぞやというと、正月祝いの飾り物。
鏡餅に添える目的の品であり、かっ喰らうにはあまり向かないとのことだ。
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