穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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薩州豆腐怪奇譚 ―矢野龍渓の神秘趣味―

 

 朝起きて、顔を洗い、身支度を済ませて戸外に出ると、前の通りのあちこちに豆腐の山が出来ていた。


 何を言っているのか分からないと思うが、これが事実の全部だから仕方ない。江戸時代、薩摩藩の一隅で観測された現象だ。「東北地方地獄変」「江戸時代の化石燃料」でお馴染みの、橘南渓その人が西遊記に記録している。

 

 

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 ――狐狸がたぶらかしよるんじゃろ。


 どうせ正体は馬糞か何かだ。迂闊に口に入れてみよ、ほどなく真の姿を暴露して、悶え苦しむこちらの姿を密かに眺めて嗤い転げる。そういう心算つもりに相違ない。


 ――誰がその手に乗るものか。


 むかしばなしで訓育された人々は、当然に用心深かった。


 しばらくの間は触れる者とてなかったが、しかし陽が沖天に差し昇り、更に傾き茜色を帯びはじめても、まぼろしが一向に消えてくれない。


 人々はだんだん焦れだした。


 この異常を、いつまでも放置してはいけない気持ちになってきた。


 ――こなくそ、ままよ。


 もとより「泣こかい飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」と、果敢な行動を尊ぶ土地だ。一の太刀がはずれたら体を敵の刀にぶちつけて死ね示現流の教えにもある。

 

 

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薬丸自顕流の剣士たち)

 


 すなわちチェストの気合いを以って。そこかしこで二才にせどもが、豆腐と思しき物体を口の中に詰め込んだ。


(これは。……)


 何の変哲もない。


 素朴で優しい、ただの豆腐の味だった。


 喉の奥で別の物質に変化するようなこともない。そうと知れるや人々は、今更ながらにいそいそと、これを家に持って帰って口腹の足しにしてしまった。


 味噌汁にぶち込む以外にも、

 

 

あな掘いにゃ
豆腐しおけン
冷ヤ焼酎

なま豆腐
一丁で馬喰は
一升飲っ

 


 これらの方言歌が示す通り、焼酎の肴としても好適だから、まず間違いなくその方向でも消費つかわれたろう。


 翌朝には、街はすっかり元の姿を取り戻していた。

 

 

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 ――それにしても、ひっくるめれば百丁にも及ぶであろうこの夥しい量の豆腐は、いったい何処から来たものか。


 近郷の豆腐屋などを訊ねても、特に売り上げの大幅に増えた店もなく。出どころは完全に謎とされた。


 天から降ったか、地から湧いたか。奇妙としかいいようがない。


 理解を絶した、何が何だか分からなさ。――霧の中をあてどもなく彷徨うようなこの不定形の恐怖こそ、怪談の醍醐味であったろう。


 明治の傑士、矢野龍渓はいみじくも言った。

 


 凡そ普通の人事には、定まれる規則あり、如何に想像を逞くするも、遂に其の揆を一にするに終る、故に小説の如きも、其の舞台を人事に限るものは、その変化もまた限りあり、独り怪談に至ては、人事の拘束を受けず、人類の想像をして自由の働きを為さしむること、無限なるべき道理なり。(中略)然るに其の怪談すら、また千篇一律なるは、人類想像力の極めて狭小なるを歎息せしむるの外なし、余も怪談好きにて、和漢古今の物語を、随分に多く読みたる積りなれども、今に至るまで、之れこそ途方途轍もなき一大奇想なりと思ふものに出逢うたるを覚えず。
 怪談の中にても、幽霊亡魂に属するものは、其の趣味極めて低し、何となれば其の事たる本と人事の範囲内に於て、之が仕組をなすに過ぎざればなり、故に怪談中にては、之を最下とし、此の以外に於て、妖怪の働き如何を見るを要す。(大正四年『出たらめの記』227頁)

 


 まこと、卓見と呼ぶに足る。

 

 

Yano Ryukei

 (Wikipediaより、矢野龍渓

 


 そうだ、そうとも、そうだとも、怪談とは、怪異とは、ただひたすらに面妖で、人の条理で紐解くなど思いもよらず、どこどこまでも圧倒的に、理不尽に、運命を翻弄してくれたならそれでよい。

 私が宇宙的恐怖コズミックホラーを好む理由も、だいたいこのあたりの事情に根ざす。矢野龍渓はついにラヴクラフトを知ることなく死んだようだが、もしも彼と、彼の描き出した世界観に触れていたなら、あるいは掌を拍ち合わせて賞讃したのではないか。


 そんな風の想像も、一種小気味よいものだ。

 

 

 

 

 

 
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