稚子にせよ、女官にせよ。
明治大帝の印象を、近侍した多くが「倹素」と答える。
無用の費えを厭わせ給い、自制の上にも自制を重ね、浮華に流るる軽々しさを毫もお見せになられなかったと。
夏の暑さがどれほど過酷であろうとも、
冬の寒波が如何に熾烈であろうとも、
それを理由に玉体を大東京から動かすということはなく、むしろ転地を勧める重臣どもを相手どり、
「お前たちは、わしに避寒をせい、避暑をせいと勧めるが、一寸した出張にも金がかゝって困る困ると言ふではないか。わしが避暑避寒をするとなると、どの位金がかゝるか分からぬ。無駄の費をせずとも、我慢すれば東京に結構居られるよ」
日頃の愚痴を逆手にとっての、それは見事な切り返しを見舞うことさえあったとか。
「わしの地方巡幸も大分金がかゝるやうだから、これからは侍従長を東本願寺、内大臣を西本願寺の法主にしようと思う。そして二人を地方巡幸の時につれて歩くんだ。さぞお賽銭が上がることだらうなァ」
こんな戯言を披露して、周囲をわっと賑わわせるひょうきんさも備えておられた。
至尊のみにゆるされる、気宇壮大なジョークであろう。
「使えるものは使えるだけ使え」
みだりに捨てるな、一見廃物だったとしても、角度を変えて眺めてみれば新たな利用の道がある、と。
まるで草深い田舎の農夫が言うような、そういう訓戒を直に受けた者もいる。
日野西資博のことである。
明治十九年、齢十七の砌に出仕し、以来崩御に至るまで二十七年付き従った彼は言う。大帝陛下の近辺はおよそこんな具合であったと。
御机の上の御硯箱は鹿児島産で、竹を二つ割りにして中を黒塗にせられた御麁末なものであるが、御在世中何十年となく御使用遊ばされた。
御墨の如きは、磨り減らし遊ばされて、手に墨汁のつくまで御用ひになり、御筆も穂先の磨り切れたのを厭はせ給ふ御様子もなく、永く永く御使ひになった。
各省から奏上する重要書類其の他を御入れになる御座所に在る御箱は、御ワイシャツや御襦袢を入れた白ボールの空箱を御内儀から御持ちになって、御代用遊ばされた。
御座所の如きも一見何等の御飾りとてなく、御床間に美術画をおかけになる事があるが、それも美術奨励のための御買上品で、御装飾の為ではなかった。(昭和二年『明治大帝』510頁)
この極まった物持ちは、どこか徳川家康を彷彿とする。
(Wikipediaより、明治宮殿)
そのころの宮中に「奏上袋」というのがあった。
各省から提出される書類中、特に陛下直々の御親裁を必要とする重要書類を封入したものであり、透視を防ぐ配慮から、二重構造に誂えてあったものを指す。
封切られ、役目を終えた奏上袋を、しかし陛下は屑籠へと放らなかった。
ナイフを更に各辺に入れ、これを解体、無駄なく無理なく展開するを常とした。
で、露わになったその裏面にすらすらと、筆の穂先を滑らせる。
和歌をしたためておいでであった。
明治大帝が御一代に詠まれたる御製たるや膨大で、都合九万三千三十二首にも及ぶとされる。
その結構な割合が、こうして用済みとなった紙片の上に書きつけられたものだった。
紙一枚だにおろそかにせぬ、いよいよ家康公に似る。
(明治天皇御宸筆。
詠水石契久歌
さゝれ石のいはほと
ならんすゑまでも五十
秋のかはのみつはに
吾良慈
と読めばいいのか)
歌といえば。――
土井晩翠の歌がある。あの「荒城の月」の作詞者が、明治節を言祝ぐために特に綴った長歌が。
表題からは外れるが、折角なので最後に付記しておくことにする。
「王宮なほかつ道踏み得べし」
西なる大帝ローマの昔
二千の春秋はなれて遠く
東にあれます 明治天皇
「民罪あらば天津神
われを咎めよ」の
あゝ鳶とんで天にいたり
淵には魚の躍る見る、
明治の御代を統べたまふ。
かくして東海波のこなた
世界の地図におぼろげの
影のみかすかとどめたる
ピグミイの邦 旭日にめざめ
光芒ひとしく
燦然として列強の
中、一流の名を得たり。
允文允武 百代の
鑑 今よりふり返り
仰ぎまつるも尊しや、
霜に
盛りもよしや明治節
西の都に渇仰の
桃山の陵、とこしへに、
月雪花のそれぞれに
流るる風の香は絶えず。
帝領やがて一億の
民数へんも遠からじ、
大和島根の岸よする
あら波あらび狂ふとも
偉霊とこしへ
人あに長く迷はんや。
言葉によらず霊により
いましし昔憐みの
高き御心あとくみて
つくせ未来のわかき子ら。
民政つねに尊皇の
大義に叶ひ、平等の
理想四民の幸を
自由の聲を高め行き
愛と平和の光にて
内と外とを照すとき、
明治天皇 在天の
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