岡田三郎助の留学当時、パリの街は未だ城壁に囲われていた。
若き洋画家の繊細なる魂に、花の都は文字通り、城郭都市の重厚さで以って臨んだ。
(Wikipediaより、ティエールの城壁)
きっとヨーロッパ随一の「芸術の街」で修行中、この異邦人を見舞った刺戟は、むろんのこと望ましい、良性なものばかりではない。
神経を鉋で削られて、その上に塩を撒かれるような、不快な思いも随分とした。
わけてもいちばん辛かったのが「声かけ」である。
たまたま街を歩いていると、これまで会ったこともない、顔も名前もぜんぜん知らぬただの通りすがりから、すれ違いざま
「支那人!」
と、侮蔑を籠めて吐き捨てられる。
これが効くのだ。
実際に喰らわねば分からないほど、深く心を傷つけるのだ。
一度、パンテオンの近傍を散歩していた場合など、持っていた寒竹のステッキを危うく奪い取られかけ、身を躱しざま何しやがんだこの毛唐――と、大和魂が火の玉みたく昂揚するのを否が応でも感じたという。
(パンテオン内観)
狼藉者は斬り捨て御免といったような塩梅に、よほどぶん殴ってやりたくて腕がシクシク疼いたと。
そうして強張った表情筋をパリジャンどもはいよいよ馬鹿にし、指差して、
「チンチンシノア」
滑稽な身振りすらまじえつつ、囃し立てては、げらげら笑った。
嘲笑はすべてを殺す。「笑いものにされる」という事象ほど、日本男児のプライドに致命的なことはない。
その證明に、
「どこにでもクズというのは居るものだ」
本来穏和で、誰からも慕われた岡田までもが、実に烈しいことを言う。
「教養のない人間の言動などゝいふものは矢張世界中どこへ行っても変りがない。異国人の姿を見れば何んか一言他人の心を痛めるやうな軽侮を口にして不幸な満足感を得ようとするやうな事が彼等の間ではまるで本能のやうに残されてゐる」
と。
(Wikipediaより、岡田三郎助)
あまりにそういう経験が度重なったものだから、とうとう岡田三郎助、反撃手段を血眼になって模索して、執念の果て、「これは」と思えるある一法を生み落とす。
すなわち「支那人」と叫んだ相手めがけて、「ユダヤ人」とすかさず叫び返すのだ。
果たして効果は抜群だった。「そうすると立ち所に閉口して其人は逃げて行くのであった。其狼狽ぶりや困憊ぶりは真にてき面なもので大変効果が多かった。私が支那人でないやうに、恐らく其人もユダヤ人ではなかったのだらうがお互いにそんな事には一言の弁解もせずいきなり腹を立てたり閉口したりする処はをかしい訳である。兎に角しかし、かうして見ると支那人といふ名称にまつはった不吉な臭ひは同じやうにユダヤ人といふ言葉の中にも含まれてゐる訳であろう」、――再び本人の談である。
なかなか以ってえげつない。
パリオリンピックが近付くにつれ、記憶の底から、ふと浮上した話であった。
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