穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ハミガキ、エンピツ、子規の歌


「歯の健康」


 蓋し聴き慣れたフレーズである。


 口腔衛生用品なんぞの「売り文句」として日常的に耳にする。


 あまりに身近であり過ぎて、逆に注視しにくかったが――どうもこいつは相当以上に年季の入ったモノらしい。

 

 

 


 具体的には百五十年以上前。維新早々、明治五年の段階で、大衆の目に既に触れていたようだ。


 そのころ東京赤坂で輸入雑貨を扱っていた斎藤平兵衛なる者が、「独逸医方西洋歯磨」なる商品に関連し、こんな広告を出している。曰く、

 


「我国従来の歯磨は房州砂に色香を添、唯一朝の形容のみにて歯の健康にわるし。抑此歯みがきは西洋の医方にして、第一に歯の根をかため、くちげんぜうごかざるを薬方の効験とす」

 


 云々と。


「医学の本場はドイツ」という認識の、はしり・・・のようでもあったろう。


 この歯磨き粉は瓶詰めで、大・中・小の三種に分かれ、


 大が十三匁入り、


 中が十匁入り、


 小が五匁四分入りとの次第であった。

 

 

 

(viprpg『メビリナのホワイトデー』より)

 


 なお、ついでながら、せっかくなので、歯磨き絡みで付け足すと、明治二十九年度に正岡子規が詠んだ句に、

 


春風に こぼれて赤し 歯磨粉

 


 こんな一首が見出せる。


 当時、いまだに練り歯磨きは――少なくとも現代人が咄嗟に言われて想起する、チューブ入りの練り歯磨きは――未登場。歯磨き粉とは文字通り粉状の品ばかりであって、それは専ら、薄紅色になっていた。


「この句を味ふのには、それだけの予備知識を要する」――とは、森銑三がその大著、『明治東京逸文史』で言ったこと。歌は背景を踏まえて観賞むとまた格別な味がする。なんのことはない、史跡めぐりと同様だ。

 

 

 

 

 もうちょっと蛇足を加えたい。


 広告文で感心したのは、なんといっても真崎鉛筆それ・・である。


 本邦鉛筆工業の嚆矢たるの名誉を担ったこのメーカーは、明治二十八年に、

 


「真崎鉛筆は広島大本営の御用を蒙り尚従軍記者の御用を蒙れり、又先般貴族院御用を蒙り貴衆両院の賞讃を博し又逓信省より絶へず数十万本の御用を辱しつゝあり、是実に内国製品中第一等の証拠なり」

 


 折からの日清戦争勝鬨に乗じた、こんな広告を打っているのだ。


 流行りを上手く捉えたものといっていい。


 文章自体の質の方とて上々である。


 諭吉先生の教えに曰く、

 


広告文は達意を主とす。余計なる長口上は甚だ無用なり。他人に案文を依頼せぬ自筆の広告文の中には、時に由り文法にも適はぬ悪文もあるべしといへども其意味の分らぬ様の事は決してなきものなり。意味さへ分れば、其文法の可笑しき抔は、自ら其中に其人の率直淡白敢為の気象を示して、却て衆客の愛顧を引寄するものゆゑ、決して恐るゝには足らざるなり

 


 真崎鉛筆の広告は、まさに如上の「率直淡白敢為の気象を示」す類と、筆者わたしの目には映るのだ。

 

 

 


 宣伝術、広告法の秘訣に関し、福澤諭吉は更に続けて、

 


「唯広告文を認むるには一通り我思ふ儘を書き下したる後、今一度熟読して無用の字句を削り去るべし。六行のものは必ず五行にて済むものなり。一行にても少なければ夫れ丈の新聞広告代を省き得べし」

 


 自分自身新聞社を経営しながら、しかも当の新聞紙上でこういうことを――「冗長さは慎んで、なるたけ安く済ませ得るよう励もうぜ。新聞社へのショバ代は、一銭でも切り詰めろ」――言うから凄い。「三田の洋学先生」は、ほとほと自由な人だった。この精神はやはり新聞経営者でありながら「押し紙」事情を暴露した、武藤山治の血の中に、もっとも色濃く受け継がれたといっていい。


「人を祭るの要は其人の志を継ぐに在り」慶應義塾の、実に麗しき伝統だった。

 

 

 

 

 


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