穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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もっと輸血を


 どうも昭和六年らしい。


 わがくに売血事業の嚆矢は、そのとしの十月、――神無月の下旬にこそ見出せる。


 飯島博と平石貞市、両医学博士の主唱によって創立された「日本輸血普及会」が、どうも発端であるようだ。採血量はグラム単位を基準とし、百グラムにつき十円の価値で取引された。


 西暦にして1931年。諸列強と比較して、これははっきり「後発組」に所属する。

 

 

(『Bloodborne』)

 


 そもそも日本の医学者は輸血技術の研究にだいぶ遅れをとっていた。理由は単純、「医」の本宗と仰いだドイツがこの方面を大して重視せなんだからだ。


 早くから輸血に着目したのは、むしろ米仏の学会だった。世界大戦が勃発するや、彼らはそれを実地に応用。その結果として負傷兵の生還率に、連合側と同盟側とでえげつないほどの差異が出た。

 

 それで漸く日独も己が迂闊を自覚して、ギャップを埋めんとシャカリキになったわけだった。

 

 結局ここでも、戦争が技術の発展・普及を後押ししたと言い得よう。

 

 

 


「輸血法とは、人より人に血を移し入るゝ事を謂ふので、若し之が為、何等の危険を来すことなく、実行し得るものとすれば、病気、出血等の場合に極めて有効の処置でなくてはならぬ事は、学者以外の人にも、頭に浮ぶことであるのに、近来に至るまで、殊にドイツに於ては、危険なるものとして実行せられなかった。然るに…(中略)…連合国側に於て出血等の際、此輸血法の実施により、瀕死の兵卒を救ひ得たる報告は極めて多く、又実際上の経験よりしても、大した危険のないことが明らかになった

 


 上は大正十年度、陸軍二等軍医正・後藤七郎による講述である。


 遡ること二年前、すなわち大正八年に、後藤は日本人にして初めて輸血を実行し、成功させた男でもある。


 当時の輸血の実景も、彼に詳しい。

 


「輸血法の方法としては給血者及受血者の血管を繋ぎ合はせて、直接に注射してもく、又両者の血管の間に、銀管の類を嵌めて連結して行うても可い。或ひは又血液を給血者の血管から、一定容量容器に納めて、之に一定量クエン酸ソーダを混じて凝結せしめないやうにして置き、之を受血者の血管の中に注射するといふ間接の方法もあり、之が最も便利である」

 


 冷蔵保存の未熟な時代の工夫であった。

 

 

 


 後藤の成功から十余年を経て、日本社会もいよいよ以って金銭で血を売り買いする領域まで「成熟」したらしかった。


 更にそこから一年を経て、昭和七年、再度廻りし神無月。


 日本輸血普及会、創立一周年を記念しての会合で、平石貞市は今日に至るまでの成績を取り纏めて発表してくれている。まず、この一年で、会に登録した給血者は五十名に達したと。そのうち七名のみが女性で、あとは全員、男であると。

 


「そして大半は専門学校以上の苦学生です。是等の給血者が一ヶ年の内約七十回輸血しました。申込みの一等多いのは帝大病院ですが、その他聖路加病院、赤十字病院、軍医学校等皆一流病院ばかりです、始めたばかりの事業としてはまだ良い方でせうがニューヨークなどで一ヶ年に五千回も輸血してゐるのと比べますと日本の輸血はもっともっと進まなければならないと思ってゐます。実際輸血によって死ぬ人がどの位助かるか知れないのです」

 

 

 嘉すべき志であったろう。

 

 

Japanese Imperial Army Medical School

Wikipediaより、陸軍軍医学校

 

 

 血の交換は尊い行為だ。文明世界に生きるなら、一度くらいはその輪の中に参じておいて損はない。


 記憶が甦ってくる。


 初めて献血に行った時、チューブに通う己が血の、意外な熱さに心底ハッとしたものだ。


「内なるものを自覚せず、失ってそれに気付く。滑稽だが、それは啓蒙の本質でもある。自らの血を舐め、その甘さに驚くように」。なるほどアレは刺激的な体験だった。

 

 

 

 

 


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