正岡子規とて身体が自由に動いた頃は遊里にふざけ散らしたものだ。
況や犬養に於いてをや。
明治十年代半ば、犬養毅は特に招かれ、東北地方の日刊紙、『秋田日報』の主筆として活動していた時期がある。「才気煥発、筆鋒峻峭、ふるゝ者みな破砕せり」とて衆の威望を
(秋田のなまはげ)
それと同時に土地の名歌妓・お鐵にめちゃくちゃ入れあげて、交情熱烈大紅蓮であったのも、蓋し有名な
明治の青年たちにとり、艶彩迷酒の歓楽はほとんど通過儀礼の一種。酒で腸を焼き鉄拵えにするのと一般、
よって犬養木堂の、やがて大日本帝国の首相にまで登り詰めるこの人物の秋田時代の行状も、不真面目なりと責められるには及ばない。後ろめたさを感じる必要性もなく、大いにやったようだった。
(秋田の女性)
斯くて結ばれた両者の仲は甚だ深く、また固く。
昵懇と呼ぶに些かの躊躇も挟むに及ばないもので、最大の試練、時の流れに対してすらも二人の絆はよく耐えた。
それを示す佳話がある。
犬養毅が秋田を去って十数年後が、すなわち舞台背景だ。
中央で声価を稼ぎまくった犬養は、もはや一介の書生にあらず、堂々たる政客に羽化変身を遂げており。
在野大政党の領袖として東北地方を行脚演説する途上、自然な流れで秋田に入り、主筆時代の旧交を大いに温め合っている。
もちろん嘗ての「想いもの」たるお鐵とも、顔を合わせる機会をもった。
その席上で、犬養は
極めて私的なその
憶昔曼陀羅坊中選
阿鐵才色名最顕
満城少年競豪奢
不愛千金買一眄
吾會一見如舊知
為吾慇懃慰客思
尚記旭川春雨夜
又記池亭別離時
雲山重々路萬千
幻華在目十四年
如今相見先恐問且答
不禁為汝靑衫濕
世に立つ上でひどく大事な「情味」の部分に触れられる、好個のエピソードであった。
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