季節の変わり目の影響だろうか、鈍い頭痛が離れない。
ここ二・三日、意識の一部に靄がかかっているようだ。脳液が米研ぎ水にでも
思考を文章に編みなおすのが難しい。埒もないところで変に躓く。書いては消してを繰り返す。停滞の泥濘に嵌り込む。キーボードをぶん殴りたくなる。
よろしくない流れであった。全く以って面白からぬ悪循環だ。脱するために、虫干しでもしてみよう。蒐集しておきながら使いどころに恵まれず、いたずらに埃を被らせてしまった幾多の知識。ラストエリクサーみたいに死蔵されている
最初は詩からいってみよう。最近あまり使っていなかったタグだ。丁度「自由党一つとせ節」たらいう、妙ちくりんなやつがある。
一つとせ 人の上には人はない、権利に二重がないからは、此同権よ。
二つとせ 二つともないこの命、自由の為には惜みゃせぬ。
三つとせ 民権自由の世の中に、まだ目の醒めない馬鹿がある。
四つとせ よせばよいのに狐等が、
五つとせ イツ迄待っても開かねば、腕で押すより外はない。
六つとせ 昔思へばアメリカが、独立したるも蓆旗。
七つとせ ナンボお前が威張っても、天下は天下の天下なり。
八つとせ 大和男児の本領を、発揮するのは此時ぞ。
九つとせ コゝらで血の雨降らさねば、自由の土台は固まらぬ。
十つとせ 所々に網を張り、民権守るが自由党。
板垣退助が岐阜で刺された前後から、とみに口ずさまれるに至ったらしい。
(岐阜、大垣城址)
全体的に野卑な雰囲気、如何にも不平不満の害毒を血中に飽和させている壮士輩が好みそうなフレーズだ。
六行目のあたりなど、ワシントンがもし聞けば失笑するのではないか。
自由について論ずるならば、
利害得失を異にする四千万の民をして悉く同一の施政に満足せしめんこと、到底一政府の下に為し能はざる所なれば、大概の事は兎角互に堪忍して徐々改善の法を講ずるの外ある可らず。自由は不自由の間に在り。相互に自家の不自由を堪忍してこそ社会全体の大自由をも得らる可きことなれば、政府が既に立憲と改まりたる上は、不自由ながら古風なる圧政独断の慣手段は容易に施す可らず。人民に於ても亦、その身の私に多少の不自由不愉快を感じても、世安の為めには枉げて公法に従はざる可らず。元来国家保安の責は独り政府のみならず人民も亦共に之に任ずるの義務あればなり。
やはり福澤諭吉の記述こそ。こちらの方が明らかに、何百倍も格調高い。
自由は不自由の間に在り。このフレーズを福澤は殊更好んでいたようで、彼の書きものの随所に於いて見出せる。
なんなら書幅の関防印にも具している。もっともそちらは「自由在不自由中」――「間」が「中」に、一文字異なっているものの、まあ大意に於いては変わりない。
ほかでもない、「自由」という日本語を――少なくとも近代的な意味の「自由」を――発明した男による解釈である。
文句のつけようのないことだった。
(福澤諭吉)
「だから僕はお袋を解剖して貰ったよ。特志解剖と云ふ奴だ。君大学では解剖を恐ろしく喜ぶものだね。三十円呉れたぜ」
「三十円? そいつは儲けたな」
「うん大儲をしたよ。どうせ火葬にするんだからな」
「それは大きにそうだ。新時代だね」
大衆小説の一節。
なんでこれを抜き書こうと思ったか、自分でもよくわからない。
「欠伸をするのなら、向ふをむいてやって貰いたいね、儂は昔から他人の口の中と、馬糞を踏んだ靴の底は見ないことにきめて居るのだからね」
同じく大衆小説の一節。
これを抜き書いた理由はわかる。どことなく荒木飛呂彦を感じる言い回しだったからだ。
「達者な身体の人の所へへっぽこ医者がやってくると、君の顔色が悪いとか脈が早いとかいって達者なものを病気にすることがある。浜口君や井上君は日本の健全な経済状態を今日のやうな不景気にした人である」
「浜口などゝいふ政治も何もわからん小僧に馬鹿らしくて質問を致しますなんていはれるかい」
いつか浜口雄幸の記事を書こうと思ってストックしていた評論である。
困ったことに、その「いつか」がいつまで経っても来ないのだ。
もし来たなら、そのときまた拾い上げよう。
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