募金という行為について、もっとも納得のいく説明を聞いた。
明治二十四年十月二十八日、日本が揺れた。本州のほぼ真ン中あたり、濃尾平野で地震が発生。放出されたエネルギーは、マグニチュードにして8.0、内陸地殻内地震としては日本史上最大規模のものである。
一般には「濃尾地震」の名で知られる震災を受け、福澤は云う。
蓋し義捐金なるものは政府の臨時支出金などゝは全く性質を異にし、其起因する所を尋れば、同胞の兄弟姉妹が不慮の災厄に遭ふて難渋するの有様、如何にも気の毒なりとて、之を憐むの余り、取敢へず応分の資材を恵与して聊か自から我心を慰むるものにして、其目的は実際被害者の窮苦を救ふよりも、寧ろ先方の者が恩恵を蒙りて悦ぶ様子を見聞して、己も亦共に之を悦び、其情を以て情に接するの間に、云ふ可からざる楽を致すに在ることなれば、救助を授る者とは、成丈け接近して相互の感情に隔なからしむることを甚だ肝要なりとす。
天啓だった。
ただの難癖、野次の類であるならば、これまでの人生でいくらでも見た。
募金箱ほど嫌味ったらしいものはない、あんなのにどういう験もあるものか、一般庶民の小遣いをちまちませびって集めるよりも、一パーセントの金持ちどもから一気にごそっとむしり取れ、俺は一円も出さねえぞ、と、斜に構えて財布の紐を固くして、しかのみならずそれを行う人々を偽善者どもめと横目で蔑み冷笑して憚らない輩というのは、実に屡々――特に中高、学生時代――目撃したるところであるが、流石に福澤はそういう低劣な次元の住人ではない。
かといって手放しに募金行為を賞賛しているのともまた違う、つまり募金の目的とは自己満足にあるわけだから、その満足がより深まるように計らってやるのが経世家としての道である、と。非常に実際的な内容を説いているのだ。
私はこういう、濁世を濁世のまま受け容れて、その上であれこれ施策を練る福澤の態度が身悶えするほど大好きだ。
ジョン・モーリーがウッドロウ・ウィルソンを批判するに、
――一体自分は、地面の中へ根を下ろしていない理想主義を抱いているような男は嫌いだ。
との口吻を用いた気持ちと、これはどこかで繋がっている。
また福澤は、同じく濃尾地震に関連し、画期的な提言をしている。
…就ては今日の即案に、死傷者の手当には海陸軍の軍医看病卒を派出し、又は家屋、田園、道路、橋梁等の破損を脩るには工兵を用ひ、臨時に軍事上の活動を施して大いに功を奏することもある可し。
いっそ未来視を疑いたくなる。
おそるべき先見の明だった。
――もし「一人にして一代なり」という言葉どおりに、明治を代表さするに足る個人をさがすということになると、伊藤博文でも大隈重信でもなく、どうしても福澤諭吉でないと、すわりが悪い。
ずっと後年、昭和の御代に、木村毅をして上の如く言わしめたのも、蓋し納得。
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