序文に惹かれた。
表紙をめくって三秒で、魂をガッチリ絡めとられた。
所謂二・二六事件は例に依って支配階級の打倒、財閥勦滅の叫聲を天下に漲らせたのである。彼等は壮語して国家改造の重任に当らんと云ひ、所謂愛国的熱情を以て挺身せりと自負してゐるのである。其の動機心境の如何を問はず我等は此の如き
なんという大胆さであったろう。
青年将校の暴発に対し、ここまで遠慮会釈なき、ほとんど啖呵を切るような、決然たる批判を加えてのけた戦前本は初めてだ。
「そりゃ単に、お前さんの見識が狭く浅く偏りきっている所為だよ」と言われてしまえばそこまでである。正直私に抗弁の余地はなくなるわけだが、神保町を歩くにあたって私は滅多に同行者を伴わない。一人でゆき、一人で漁る。古本屋の店頭で、私は独り、晴天の霹靂に総身を貫かれたような、神経回路を真っ白に灼熱させる衝撃を、一切水を差されることなく味わうことが可能であった。
本書の題は『財界驍将伝』。
経済資料社編、昭和十一年十二月一日刊行。
その名の通り、当時の主立つ財界人らの経歴・性向・趣味・哲学等々につき取り纏めたものである。
序文は更に、こう続く。
財閥及び財界人を攻撃する者は、尽く其の富を目して強盗的蓄積の如く断ずるのが常だ。それが共産主義者にせよ、所謂愛国運動者にせよ、財閥の存在を以て社会悪化の元兇となし人心破壊の原動力となすことは等しい。(中略)然らば財閥の存在は根本的に否定せられねばならぬのである乎。我等は此の嗤ふべき小児病的理論の流行に対し常に深憂を禁ずることが出来ないのである。
激語も激語、白刃をひっさげた壮士輩らが乱入してこないのが、むしろ不思議なほどだった。
見事としかいいようがない。これぞ命懸けの言論である。
立ち読みで済ますという選択は、塵も残さず私の脳から吹き飛んだ。
功臣とは軍人官僚の独占物ではない。国民は銃剣と官位の威力に幻惑されてはならないのである。真に国家の繁栄に努力し、而も国富の原動力を保持する事業家の存在を呪詛するが如きは、実に臣道の破壊、道義の否定を是認するものと云はねばならないのである。
嬉々として財布の紐を緩めた。
目下、後悔は訪れていない。
それにつけても思い出すのは福澤諭吉先生である。
慶應義塾創設者、万札の
就中、『財界驍将伝』の編者らと色濃く気脈を通ずる部位は、身を護るための一策として慈善事業を推奨している――もちろん富豪らに対し――点だろう。
福澤は言う、「人情の浮世には道理の行はれざる処甚だ広く、貧富相対して苦楽の異なるを見れば、其由て来る所の原因をば問わずして、先づ之を羨むこそ人情の常なれば、富者の身を以て其間に処すること決して易からず。貧者の情を慰めて不平なからしめんとするには、唯恵与の一法あるのみ」と。
含むところのある慈善、百パーセントの同情に由らぬ慈善など、そんなもの真の慈善と呼べぬと世間に蔓延る道徳家どもは眠たい理屈を捏ねるだろうが、一切耳を貸すなかれ。
所詮暇を持て余したる局外漢の戯言だ――「有心の恵は恵にして恵に非ずとて道徳家の忌む所なれども、有心無心は微妙の問題にして、今日の忙しき俗世界に論ず可き限りに非ず」と、福澤のフォローはこんな細かい部分にまで及んでいる。
嘆息したくなるほどに行き届いた処置だった。
金持ちの慈善は貧乏人の嫉妬を避けて我と我が身を全うするのが目的の、
それで十分ではないか。
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