穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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原点にして頂点


 脱税、脱法、密輸、密造――ひっくるめて暗黒産業


 裏街道を邁進し、社会に毒を流し込み、他者の人生を磨り潰してでも金を掴み取らんと欲す、得てしてそういう輩ほど、上辺ばかりは美しく繕っているものである。


 そういうことを、福澤諭吉が書いている。


 酒屋の事例、密造酒を例にとって、だ。

 


政府の法を犯さんと企る程の者は、必ず大胆にして然かも才智ある人物なれば、検査官の来るあるも一見分明なる帳簿を示し、難問に答弁すること甚だ快活にして、毫も疑ふ可きの痕を現さゞるが故に、往々其陰悪を掩ふに足る者多く、之に反して質朴正直の酒家翁は先づ官員の名を聞きて恐縮の心を生じ、偶ま詰問せらることあれば訥弁口吃して言ふ能はず、帳簿疎漏にして分明ならず、器物狼藉にして秩序を失ふ等、吏員の目を以て之を一見すれば、是ぞ怪しき者ならんとて、益々なじり責れば益々狼狽して、遂に些少の手落の為に罪に陥る者なきに非ず。之を要するに正者禍を蒙りて不正者は罪を免かるゝものと云ふ可し

 


 明治十六年六月二十二日、『時事新報』を媒介として発表した所見であった。

 

 

櫻正宗、火入れの段階)

 


 正直一途な朴訥漢が疑われ、胸ぐらを取られる一方で、譎詐奸謀をめぐらす山師は狡猾ゆえの如才なさを発揮して、「お上」が打った法の網目をするりするりと抜けてゆく。


 抜けた向こうで、相も変わらず甘い汁を吸いまくる。


 美徳の不幸と悪徳の栄えを目の当たりにするの思いだ。


 他人の功を掏り取る手管に関してばかり要領の良さを発揮する、煮ても焼いても喰えないような下衆下根、面の皮にタイヤゴムでも詰めてるみたくふてぶてしい野郎には、筆者わたくし自身不幸にも、数次にわたって遭遇してきたものである。


 ゆえに上掲の論については納得しか覚えない。


 実態に即した報道だろうと違和感なく受け入れられる。

 

 

(『ナポレオン~覇道進撃~』より、大奈翁のありがたいお言葉)

 


 尾崎咢堂、武藤山治小泉信三小林一三石山賢吉、そして波多野承五郎――。


 ふと気がつけば、ずいぶん多くの慶應義塾出身者の書きもの・・・・に目を通してきたものである。


 だがしかし、彼らの中のひとりたりとも。


 ただのひとりも、こと言論に関しては、ついに校祖に及ばない。


 自分一個の私的裁定に過ぎないが、福澤諭吉が頂点だ。彼以上の名論卓説の担い手は、少なくとも慶應系には絶無であろう。

 

 

 


「世間普通、国家の為、世教の為、私利を後にし公利を先にするなど云ふは、悉皆偽徳の口実、不祥の言なり


「政治家は互に智愚を争ふて互に倒さんとし、経済家は互に巧拙を競ふて互に自ら利せんとし、商売工業固より他の利益を空うして自から実するを求るの外なし。或は時として他を利するが如きあるも、所謂与へて取るの利にして、間接極度の場合には唯一片の自利主義あるのみ


猜疑は人生に免かれざる性質のみか、人事多年の経験に於て軽信の為めに誤るの事例も少なからざるが故に、人を見るにも僅に一朝夕の挙動を抵当にして之を信ずる者はあるべからず

 

 

 無限の魅力を感じずにはいられない。


 ともすれば性悪説にすら映る、徹底的に甘えを排し、乾ききった理性のもと揮われた、シビアで鋭利な福澤諭吉の筆鋒こそが、私にとっては何よりこよなく、たまらなく――…。

 

 

 

 

 


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