時は明治二十六年、芝区愛宕町の一角に伝染病研究所が建設されつつあった際。同区の地元住民が巻き起こしたる猛烈な反対運動は、わが国に於ける
Not In My Backyardの頭文字から成立する概念だ。
「
つまりは横着の発露であろう。
この事態を受け、福澤諭吉の――伝染病研究所、ひいてはそこの所長たる北里柴三郎医学博士の、極めて有力な支援者だったこの人物の、掲げた意見が面白い。
まさに文明と野蛮の激突である。
「…区民が反対の苦情を聞くに、区内に是種の研究所を設けらるゝときは、伝染病の患者は陸続こゝに集まりて其危険恐る可きのみならず、之が為めに近傍の営業商売に容易ならざる影響を蒙るに至る可しと云ふに外ならず」
言わでもなことだが、『時事新報』を経営している福澤は、所信の披露に不都合はない。
今回もまた思う存分やっているのが目に浮かぶ。
(Wikipediaより、近代医科学記念館。伝染病研究所の外観を模す)
「伝染病の名を聞て、其性質の如何を究めず、又その消毒法の有効無効を問はずして、只管これを恐るゝは、畢竟無智無識の然らしむる所にして、教育に乏しき区民の情を察すれば、自ずから恕する可きに似たれども」
と、むしろ反対住民の低知能を憐れんでやる、悠揚迫らざる態度をみせつつ、しかしながら行を重ねてゆくにつれ、
「是等の反対者は何れも感情一偏に依頼して兎に角に其目的を達せんとするものなれば、之を処すること何分にも困難にして、当局者にしても多少の苦心なきを得ず」
本来の心境、ずっと奥にしまった筈のどうにもならぬ不快さが、徐々に筆先に
福澤諭吉は戦闘的な性格なのだ。
適塾時代は学友どもと、赤穂浪士の是非をめぐってディスカッションを楽しんでいた彼である。事前のクジの結果によって擁護側と批難側とを分かつなど、そのやり方は相当以上に本格的なものだった。
喧嘩を売られて黙っているほど腑抜けではない。「インテリゲンチャの肩書きほど、福澤に似合わぬものはない」――と、遥かな後年、小泉信三が微笑と共に語った所以はそこに在る。
「若しも一部分の人民の苦情の為めに従来の計画を変ずるに至るときは、其影響は各地方の衛生上に及びて無智の人民に口実を与へ、例へば現行のコレラ病予防の取締に就ても、石炭酸の臭気は病毒の媒介を為すものなりとか、又は
いやに具体的な危機予測である。
たぶん、おそらく、いや、きっと、草深い田舎の地方ではこういう類の迷信が、本当に行われていたのであろう。
なんといっても、鼠害対策にチフス菌を団子に包むご時勢である。
それを踏まえると、さして不思議とも思えない。
「一般の影響は兎も角として、差当り研究所の設置は一日も遅緩ならしむ可からざるの急要を認るものなり」
とどのつまりは、これこそ福澤の結論だった。
まさに名論卓説である。
この種の騒ぎにどう対応すべきかの、亀鑑と呼ぶに相応しかろう。思い起こせば戦後しばらく、一九六〇年代に内之浦や種子島にロケット発射施設を
政府は弱腰にも反対派の意見を聞き入れ、まるで無用な制限を施設に課さねばならなくなった。そうすることで辛うじて、彼らの機嫌を取り結んだ格好だった。
彼ら、というも運動の本体は漁民ではなく、どうせアカがバックについて色々吹き込んだ結果だろうが。おかげでわが国の宇宙開発技術の進歩がずいぶん遅れたものである。
ありがたいことに福澤は、こういう類の扇動者――「人間有益の事業を沮喪せしむる」輩を指すに、最適な言葉を案出してもくれている。
「国家の害物、獅子身中の蟲、文明世界のバチルス」というのだ。
蓋し至当な評価であろう。
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