春の終わりも近いころ、乃木神社を訪れた。
これまで散々ネタにさせてもらった手前、参拝し、礼を言わねば義理を欠く。そういう意識に背を押されてのことだった。
むしろ遅すぎたほどである。
心中密かに詫びながら、鳥居をくぐり境内へ。
立地は良い。地下鉄乃木坂駅から一分、迷いようのない場所に在る。
「真宗に山寺なし」という、俚諺めいたフレーズを連想せずにはいられない。福澤諭吉先生が講釈なさってくれていた、
「真宗の寺院は全国到る処、都邑の中央に建立して人の湊合に便利ならざるはなし。自然に成りたる位置か将た故意に謀りたるものか知らざれども、兎に角にも真宗に山寺なしと云ふ程の次第にして、他宗寺院の
と。
商売を繁盛させるのに、立地条件は途轍もなく重要だ。たとえそれが布教の類、神社仏閣であろうとも――。
福澤諭吉の
「文明開化の進歩するに従ひ、金の権力は次第に増長して、黄金多ければ交も深かるべし、黄金少なければ智者も愚視せらるべし、黄金は以て愚を智にし、非を理にし、曲を直にして、其向ふ所に敵を見ず。人間万事金銭の世の中と為るべきは必然の勢にして、既に十数年来の事相を見ても其勢の赴く所を卜すに足るべし」
究極の「はまり役」だろう。カネというものの効能を、ここまで強く認識していた福澤を措いて、いったい誰が。――誰に務められるというのだ。
(乃木神社の「さざれ石」)
(せっかくなので。靖国神社の「さざれ石」)
身は浄域にあろうとも、思慮は濁世の謀知の上にばかりある。
賽銭投げても清くはなれぬ、私はつくづく、俗物だ。
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