およそ人の手が織り成す中で、難癖ほど製造容易な品はない。
理屈など、捏ねようと思えばいくらでも捏ねくり回せてしまうのだ。
――御一新から間もなき時分、度重なる出仕要請をあくまで拒否し、「野の人」たるに拘った、町人主義とも称すべき福澤諭吉の姿勢に対し、明治政府部内では次第に意趣を募らせる、とある一派が存在していた。
この連中の心境をざっくり打ち割って述べるなら、
――あの野郎、お高くとまって澄ましやがって。
どこどこまでも低劣な僻み根性の枠を出ない。
政府の権威を
「福澤は旧幕の遺臣を以って自ら居り、明治政府に対して不平を懐いてゐるのであらう、その証拠にはこの維新中興の御代に福澤塾を旧幕時代の年号に因むで慶應義塾と称してゐるではないか、甚だ不都合である」
こんな馬鹿げた鳴き声さえも敢えて発するまで至る。
「むろん福澤先生は、こんな非難には一向取り合わなかったが――」
と、註を入れたのは石河幹明。
戦前に於ける『福澤諭吉全集』の編纂者として、我々はこの名を見出せる。
(慶應義塾発祥地記念碑)
「後に『慶應義塾紀事』を書かれるとき、当時のことを思出されて一寸一言せられた」
石河の云う、福澤諭吉の「一寸一言せられた」部分を以下に引く。
「…前年冬芝新銭座に買入れたる地面あるを以て、之に塾舎を新築して其功を竣りたるは戊辰四月の事にして、其前は塾の名称さへあらざれば今より何か名を附けんとして、人にも物にも差支へなき其時の年号に取りて慶應義塾と名づけたり。蓋し明治元年に慶應の文字は不都合なるに似たれども、改元の布告は同年九月の事にして、本塾の竣工は四月なるを以て未だ明治の名を知らざりし時なればなり」
斯くも懇切丁寧に時系列、あるいは因果の流れを整理したのは、塾名に関して当時さんざん難癖をなすりつけられた、暗い記憶が働いていたわけである。
喬木風多く出る杭は打たれる。
福澤ほどの巨樹ともなれば、小人の妬心もそりゃあ殺到しただろう。
「結局人間世界は盲者千人又千人の世界にして、我意の所在を察し我意の如くに進退運動する者とてはあるべからず。恰も不具廃疾病人の群集なれば、人間交際の要訣は病人の看護なりと最初より覚悟するの外あるべからず」。彼の箴言の因って来たる淵源を、垣間見るの感だった。
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