直江兼続の血脈はとうに絶えたとされている。
如何にも嫡流は然りである。
が、庶子ともなるとわからない。
(Wikipediaより、直江兼続像)
そのころ越後の片隅に、直江兼続の後胤を自負する郷士ありと聞く。
誰から聞いたか。
最後の元老、西園寺公望その人である。
慶長四年、明治の御代が

(王政復古通告の国書)
話が若干、大仕掛けに赴くが、西園寺がまだ十八歳の青年で、鎮撫総督などという大仰な役目を仰せつかって、北陸道を進んでいた日の思い出だ。征旅のさなか、宿とした豪家の主人から、
「何を隠そう我が家は、直江山城守兼続の後裔なりとの伝承を、代々奉じておりまして──」
との「家系伝説」を聞いたのである。
主人の名前は笠松謙蔵。
隠そうとしても隠しきれない訛りと共に物語られる、この謙蔵の一字一句に当時の西園寺公望は、
「それは面白い」
「ほう、それで?」
と、額を寄せ、手を拍たんばかりの
若者の心は敏感だ。何かにつけて物事に感じやすく出来ている。
(Wikipediaより、西園寺公望、明治前)
あるいは新日本の誕生を賭けた
とまれ西園寺が感奮した証拠には、話の礼にと筆を執り、白紙を展べて同行者ともども「寄せ書き」し、墨痕を残したことだった。早い話が揮毫した。どうもちょっとした即興詩を書き綴った模様だが、その詳細な内容まではわからない。
笠松家ではこれを軸者に仕立て直して、家宝と戴き、珍重している。
やがて笠松謙蔵は自由民権運動に心とらわれ、没頭し、ために大いに家産を蕩尽、社稷の傾く憂き目に遭うが、如何に貧苦に喘ごうと、この軸物を手放そうとはしなかった。

(明治ようかん)
さても見上げた犠牲心、志士たる者、そうでなくては──と、手放しに褒めていいのか、どうか。
直江兼続が自刃せんとした際に、前田慶次が諫止するべく放ったとされるあのセリフ──「心せわしき大将かな」の方こそが、むしろ、いっそう、より相応しく感ぜられて仕方ない。
信念に殉ぜんとするひたむきさ。直江状をはじめとし、先祖が示した劇的性格の熱血は、三百年を経ようとも、子孫の身体にしっかりと伝わっていたようである。
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