ロンドン海軍軍縮会議を取りまとめ、帰国した若槻礼次郎。
全権の任をあっぱれ見事果たしたと、当初に於ける彼の人気は相当以上のものがあり、全国何処へ行こうとも、歓迎されざる場所はなかった。
(Wikipediaより、若槻礼次郎)
就中、その郷里たる島根にあっては、彼の
──若槻はようやってくれたわい。
手放しの賞讃を惜しまぬという、狂奔に近い気味を呈していたそうな。
そういう熱っぽい空気の中で、いちまいの紙切れが見つかっている。
なんのことはない、ただの給与の受取証だ。ものの一円五十銭ぽっち、小学校の代用教員の月給の。
普通なら誰も見向きもしない、当事者以外の世人には反故紙同然の紙片だが。しかし其処に記されている姓名が、「奥村礼次郎」とあっては話が違う。
まさにまさしくこの「奥村」こそ、若槻礼次郎の嘗ての名字。明治十九年、叔父の家へと養子に引き取られるまでの、いわゆる旧姓なのである。
つまりこの給与明細は、若槻が世間に出たばかり、少壮時代も少壮の、大谷村小学校奉職時代のモノであるということに必然としてなるわけだ。

(雲州そろばん、製造中)
他の雑多な書類に紛れ、たまたま同地の村役場にて、保存されていたらしい。
発見の報が伝わるや、たちまち大騒ぎになった。
鼎の沸くが如しといっても、決して過言にあたるまい。
──すわ、将来の国宝ぞ。
と、超特急で有頂天まで祭り上げられ、丁重極まる保護・管理策が講じられたそうである。
(Wikipediaより、島根県庁)
もっともこの明細が、本当に国宝となることはなかった。
当の軍縮条約が、ほどなくケチをつけられまくって五年か六年を経ぬうちに反古と化してはむべなるかな。
こもごも思い合わせてみると、およそ政治家の毀誉褒貶ほど儚いものは世にはない。
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