その日、鮎川義介は例の空気銃を携えて、小鳥撃ちに興ずべく牛込の自宅を後にした。
大正から昭和へと、元号が移り変わったばかりの話だ。
当時の東京は、今のようなコンクリートジャングルではない。藪も多く残されていて、野鳥のさえずりはずっと身近にありふれていた。
いったん中央線国分寺駅を目指し、そこから真っ直ぐ南下すると、すぐにホオジロと遭遇できた。肩慣らしに数匹撃つうち、いつの間にか大国魂神社のそばまで来ている自分に気付く。
ふと視線を上に向けると、はたせるかな、ひときわ高い梢の上に丸々ふとったムクドリが羽を休めているではないか。
神域云々など思慮の外。トンボを追って知らず深山へと入り込んでゆく子供のように、標的以外目に入らない。素早く発射体制を整えるや、気息を整えトリガーを引き、見事命中、射落とした。
が、不幸はそこから始まった。絶息したムクドリは大地ではなく、なにやら粗末なトタン屋根の上に落ちたのである。めいっぱい手を伸ばしても、ちょっと届きそうにない。そこで鮎川は仕方なく、建物の戸をぐわらりと開け、中にいた男に経緯を話し、
――迷惑料は払わせてもらう、屋根の鳥を取ってきてはくれまいか。
礼を尽くして依頼した。
ところがどっこい、男はにわかに気色ばみ、
「お前は何を言っとるんだ、警察だぞ、ここは」
大変な剣幕で怒鳴りつけるからたまらない。
騒ぎを聞きつけ二三人のお巡りが応援とばかりに寄って来て、鮎川義介を包囲する。
これはムクドリではないか、禁鳥だ、おまけに神社の境内で鳥を打つなど、ふらちな男だととがめられた。その外、人のいる街道で鳥を打ったこと、免許状をもっていないこと、警察を侮辱したこと等々……いろんなことを数え立てて、なんでも六つか七つかの罪に当たるというんだ。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』266頁)
たたみかけられたといっていい。
列挙された罪状のうち「警官を侮辱した」の一条にかけては、おそらく自分の身の上を述べたことに由るだろう。
「おれは久原財閥――日産の名は未だメジャーでなきゆえに、こちらの名乗りを用いたであろう――の鮎川だ」
素直にありのままを告白しても、正気で受け止めてもらえなかったに違いない。
現に、
「そんなたいした経歴の人がこんなことをやるわけがない」
と撥ねつけられてしまったという。それどころか、
「おのれ、本官を愚弄するか」
と逆上されて、却って罪を増す始末。
で、
「しばらくここで頭を冷やせ」
そう突き放され、斯くて日産コンツェルンの創業者が場末のブタ箱にぶち込まれるという滑稽劇のにわか興行と相成るわけだ。
牢の中には先客が居て、頭から毛布をかぶってゴソゴソと不得要領にうごめく様は、どう見てもチンパンジー以外のなにものでもない。漂ってくる酒臭さから、酔って暴れてしょっぴかれたということは容易に想像のつくことだった。
さしもの鮎川も、こんなところに長居したがる趣味はない。
至急脱出の策を講じた。
幸いに、と言うべきか。当時政権を担当していた第一次若槻内閣の司法大臣江木翼と、鮎川は懇意な仲である。
檻の中からなだめ賺して頼み入り、なんとか執事に連絡をつけると、更にその執事から、前述の江木司法大臣へと一報が飛ぶ。
はたして効果は覿面だった。電話のベルがけたたましく叫喚するのと、鮎川が解放されるのと、二つの間にほとんどタイムラグがない。
足音も慌ただしく鍵を開けに来た巡査の顔は、まるで雷にでも打たれたかのようだった。
権力というものの旨味について、これほど見事に表現した事例も稀であろう。
(Wikipediaより、江木翼)
そのまま鮎川は奥の部屋へと招き入れられ、座布団を敷かれるやら茶を出されるやら、精いっぱいのもてなしを受ける。
が、最低限のケジメというのは警察の方でもつけねばならない。必死に機嫌をとりもちつつも、その一方で、所持していた空気銃や二十羽あまりの
――当時の調書が見つかれば、さぞや面白いと思うのだが。
かと言って鮎川に恨む気配はまるでなく、むしろ一連の記憶を茶にして楽しんでいた風がある。
このあたり、流石の雅量と言うべきか。
(鮎川義介作、『ある田園風景』)
それから二十年弱を経て、戦犯容疑をおっかぶせられ巣鴨の獄にぶち込まれたとき、鮎川が詠んだ歌である。
初回と違い、二度目は随分と長引いた。
結果は変わらず、容疑が晴れての無罪放免に終わるとはいえ、二十ヶ月の拘引は相当骨身にこたえたらしい。
こちらは昭和二十二年元旦の作。この日、入所以来初めて食事に日本米が供された。
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